形式:文庫
出版社:新潮社
形式:Kindle版
発表当時は私小説にしても開けっぴろげすぎる内容に論争もあったらしいが、それでも発表にはこぎつけられたという事実も含めて、当時は女性に比べて男性の力が強かったのだな、ということを思った。ここまでの自己開示は、当時の女性には世間体的に難しかったのではないだろうか。(2/2)
「重右衛門の最後」は実際の事件に取材しているそうだけど、作家の創作がかなり混じっているようだ。重右衛門の手下の娘の存在があまりに幻想的で、現実のこととは思われない。殺された重右衛門を一人で火葬し、その夜村中に復讐の火を放ち、その中で自分も焼け死ぬって、ドラマチック過ぎやせんか。としても、重右衛門の自滅的な死に様というのはなかなか印象深かった。ただ、いうほど因習村かな?とは思った。そこは描写力の問題かもしれない。
こんな事を考えていたのではないか?
解説がエグイです。
(アンビバレントな人物が、殺されたが、しかしその後みんなで墓立てたしオッケー、というのは、何もオッケーじゃないだろう)、世界に行動を起こさず情感的に見つめるのみの「文学青年」(福田)=「市民」=(マジョリティのみからなる)「国民」的感性の成立と同時にあることが問題なのだと思う。とりわけ、障害者を排除した村の光景を「ツルゲーネフのよう」と語ることのできる、西洋文化の取り込みがマイノリティ排除と重なっているところの問題。
だってそういう眼差しがなかったらやっぱり、弟子可愛くって男に取られそうでこっち妻いるしで、悶々、全部めちゃくちゃになっちゃった…の話と、悪い奴いるけれど話聞いたらなんかかわいそうで、悶々、そいつも殺されたし仇討ちで全部めちゃくちゃになっちゃった…、だよね その、色眼鏡を通じてリアルを映してる、というところに軸を置いて読むのならば「文学青年」の醜態を曝け出すような文学作品ということにもなるのかもしれない。
<重右衛門の最後>しばらく読んでても何の話に行き着くのか分からない流麗な風景描写に戸惑いつつ、たどり着いたゲスな村のエグいドロドロ話から連続放火事件(『つけびの村』を思い出した)が発生。エピソードのエグさは今読んでもなかなか刺激的だが、主人公の立ち位置が余計な感が否めず、取ってつけたような説教オチもなんだか流暢でない。 巻末の福田恒存の残酷かつ的確な花袋評価を読んだらようやく文学史上の位置付けなどが腑に落ちた。
すごく切実で、もう手に入らない青春、失ってしまった青春に焦ってジタバタしている様子が、人生の閉塞感を感じている私にグサグサ刺さって辛かったです。中年の危機小説。 重右衛門の最後は、塩山を訪ねる時の風景の描写が最高にいい。声に出して読んだ。
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