形式:文庫
出版社:新潮社
形式:単行本
形式:その他
出版社:情報なし
妻が夫の浮気を知ったのは彼の日記を読んだからなのですが、夫は作品のネタ作りの為にわざと妻の目につく所に日記を置いておいたという説があるそうです。ホンマかいな。
追記です。妻からの執拗な追及に自らも病的な反応を示しながらも、異常をきたした妻を最後まで見放そうとしなかったのは妻を心から愛するが故だというにはあまりにも自分本位であり、人を憎むことを知らずに育てられた純粋なまでの妻を裏切り、なぜほかの女性と関係を結ぶに至ったのかが明らかにされないままでは、夫の立場は常に加害者であるに過ぎないのではないかと感じました。
追記です。著者の行動を悪意を持って眺めると、自らの稀有な経験を作品として世に出すために自分の妻を人身御供にしたのではないかという勘繰りに捕らわれ、そら恐ろしささえ覚えました。最初から最後まで延々と繰り返される精神の正常と異常を行き来する妻の存在に精神的な苦痛を強いられ、負の感情に足を引っ張られながらも最後まで読み切りましたが、メンタル的に影響を受けやすい人にはお勧めできない作品です。
「つらそうな表情は、私の願望に添えぬ詫びのきもちのあらわれのようにも思え、また彼女の意志に反して、何かあらぬ方向に引きずられて行く困惑の哀願とも受け取れた。それはまだ発作にははいっていないが、やがてはそこに行くことを避けることができない状態なのだ。滝の落ち口の手前のところのゆるやかな渦、たとえそのあたりに緑の草の生えた小さな島があったとしても、とどめることができぬ流れて行く水を、見ているようなものだ(472頁)」
私小説的なもののうさんくささ。ミホが病院でトシオにぶつける「こんな恥しらずの人!じぶんたち夫婦の恥を、得意になってべらべらしゃべるような夫が、どこの世界にあるものですか。(357頁)」自覚がある上で書いている。私生活の切り売りで何が悪いという開き直りと、「なにもかもがいやーになってきた」がつながってくる気がする。巻末の解説で、本作と記紀神話の狂いを結びつけようとしているが、この開き直りから疑問が残る。指詰めの場面(331頁〜)、「みんな気がへんになれ(477頁)」のトシオの全裸場面、作為とブレーキ。
精神疾患をある種もてあそんではいないか。昭和30年代だからしかたがないのかもしれない。しかし自身の愛欲の関係が発端にもかかわらず、責任回避のメンタリティと追い詰められたらしかたがないと開き直り、しまいに具合が悪くなりましたと避難所に駆け込もうとする人間性。何が悪いのかと開き直るより、何が悪いのかがあんまり良くわかっていないことの方が危険だ。
ラストで自由を手に入れたかと思いきや、浮気相手への手紙を回収してこいという悲惨な要求に縛られたまま終わる。この物語に終わりはないのだろう。
気になってた本ですがやっぱり読むのはやめた方が良さそう。
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