切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)
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切支丹の里の感想・レビュー(58)

沈黙と言う不朽の名作の世界観を深める良本でした。ぜひ長崎に行ってみたいです。
★1 - コメント(1) - 1月17日

「沈黙」の方は映画化で脚光浴びていますが、その製作裏話的な「切支丹の里」、これもぜひ合わせて読んでみてほしいです。沈黙の各場面をいかに想起したか、実際の土地を訪ねて遠藤の考えたこと、最後には今ものこる「転び」の切支丹の末裔たちの村が出てきます。より沈黙の世界を感じることができる一冊です。
★1 - コメント(0) - 1月16日

『沈黙』を書く上でのベースとなった記録のようです。エッセイと小説が混ざったような印象を受けました。殉教を赦されず、「ころび」となった人々が隠れキリシタンとして信仰を守ってきたというのが興味深かったです。禁教令が故に弱い立場となった信仰者たち。殉教の強さを持てずにころびキリシタンとならざるをえなかった思いが悔い改めとしてマリア信仰へと繋がる。どちらも形こそ違えど、信仰には変わりなかったのではないでしょうか。独自の信仰を守るように生きてきた人々のあり方は周作先生の描く信仰者の姿と重なるようでした。
★91 - コメント(0) - 2016年9月27日

エッセイ半分、小説半分な感じ?沈黙を読んで、長崎へ旅し、この本に出会いました。この本を読むと、また沈黙を読んで、長崎に行きたくなります。今度は、五島や島原にも足を伸ばしたい。隠れは、すごく気になるので、勉強になりました。今度長崎に行くときは、この本をお供にします。
★43 - コメント(1) - 2016年9月4日

エッセイというよりは、『沈黙』を創作するための素材や副産物のような作品。「母なるもの」がよかった。隠れキリシタンがいまでも、異端であること。その人達が秘蔵しているマリアの絵。そして、自分の母との対峙。
★73 - コメント(2) - 2016年6月29日

MI6
十六番館 とら寿し 左の耳朶
- コメント(0) - 2015年11月1日

まだ読んでいないが小説「暗黙」の元ネタとなる記録。西洋人宣教師で棄教した者があったのは初めて知った。背信者、かくれ切支丹、「弱い」信仰者の視点に立つ
★3 - コメント(0) - 2015年10月7日

ann
思い出しながら、さっと再読。
★19 - コメント(0) - 2015年7月13日

『沈黙』から。前半は『沈黙』の取材紀行といった感じだが、かくれキリシタンにフォーカスした後半が興味深い。殉教できず(見かけ上)転んだ弱い人たちの信仰が「かくれ」であり、彼らがマリアを崇めるのは、厳しい父たる神が怖かったからだと著者は言う。途中突然一人称が「能勢」になる章があって混乱した。だれ?
★3 - コメント(0) - 2015年5月22日

キリスト教信仰の強者と弱者。禁教令が敷かれた日本だからこそだとは思うけれども、今でも信仰を持つ人の殆どが弱者なのではないだろうか。少なくとも自分は殉教者にはなれない。雲仙、島原、口之津を通って天草に行った事が有るので風景の想像がしやすかった。
★6 - コメント(0) - 2015年4月20日

長崎への旅行の友に。。
★3 - コメント(0) - 2015年4月12日

切支丹弾圧時代、拷問による恐怖心から棄教した者は転び者と呼ばれ、裏切り者として蔑まれた。そのような弱者と所謂殉教者との信仰心にはいか程の違いがあったのだろうか。かくれ切支丹となりマリア像に懺悔する転び者達を想像すると、或いは純粋に信仰という一点においては違いはなかったのでは、と思わずにはいられない。本書においても遠藤さんらしくその目はやはり弱者に向けられていて、遠藤さんは、「転んだっていい。弱者は悪ではない。本当の救いとは弱者にこそ向けられるものだ」と決して陽の目を見ない彼らに向けて仰っているに違いない。
★20 - コメント(0) - 2015年2月3日

立派な殉教者がいた反面で、転び者たちもいた。作者はそうした棄教したキリシタン達にスポットを当てることができるのは文学以外にはないと言う。そして実際に長崎の外海などの地方に住む、棄教を余儀無くさせられたキリシタンの末裔達が、カトリック教会に改宗しないで、先祖代々から伝わった信仰を続けている姿を作者は訪ね歩く。今尚隠れキリシタンとして生きている彼らの土着化した信仰形態は、遠藤周作さんの描くキリスト教の形そのものだな、と感じずにはおれなかった。
★2 - コメント(0) - 2014年10月5日

かなり昔(20代)に読んだ本だが、今また故郷長崎のことを思い出す機会が多く再読。以前呼んだ時は、ひっそりと暮らす「かくれ」の人たちの話に衝撃を受けつつ、きっとまだそういう人たちっているんだろうなという気がしたが、今回読んでみて、こういう人たちはもういないんじゃないかなと思った。長崎の街自体もずいぶん変わっているだろう。今回もやはり、読んだ後に著者の小説『沈黙』を読みたくなった。この小説も再読になるが、クリスチャンになった今の私にどういう風に読めるか楽しみ。
★2 - コメント(0) - 2014年8月23日

「芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ」と太宰治はいう。
- コメント(0) - 2014年4月11日

彼の代表作である沈黙の解説書、取扱説明書というイメージ。沈黙を読んでから読むと深みが増す。ただそれだけではなく、時代が時代ならば幸せに生きられた転び者やかくれ切支丹などの弱者に対する考察が素晴らしい。かくれ切支丹がキリスト自身でなくマリアに祈るのは、母なるものに対する回帰があるという考えには共感した。父は厳格、母は慈悲…無意識的な信仰をするどく指摘している。
★1 - コメント(0) - 2014年1月4日

汚物の中で逆さ吊りになり、頭に血が溜まる苦痛でイモムシのようにのたうちまわって絶命するか、信仰を棄て、コソコソと這いずり回りながら生きながらえるか。愛する同胞の処刑を目撃する切支丹にはこの二つ以外に何も与えられていない。その時点の彼には、目立った神の恩寵などというものはない。強者として死ぬか弱者として生きるか、ただそれだけである。勇者として、強度ある生を全うした彼に涙を流すと共に、裏切りの罪悪感に苛まれ、死んでいった同胞達に許しを請い続ける負け犬にも、我々は涙せねばならない
★2 - コメント(0) - 2012年11月27日

EM
もし禁教時代に生まれていたら、間違いなく転んでいたと思います。今でも、「かくれ」の末裔は存在するのでしょうか。かくれ=転んだ人々、という構図にはきがつきませんでした。
★1 - コメント(0) - 2011年8月29日

殉教できなかった弱き者たちへのシンパシー。その一方で,強き者たちの殉教に虚栄心や自己陶酔を見つけてしたり顔の近代合理主義に対する反発。苦しんだ者・苦しまなかった者がいたのではなく,苦しんだ者・彼らと同様に苦しむことができずに苦しんだ者がいた。
★4 - コメント(0) - 2010年1月18日

歴史旅行が大好きな私には、この上ないガイド本。  遠藤周作が、幼児洗礼を受けてしまったせいで、信仰について悩んだのは知っていたけれど、中学時代にあんな経験をしたとは知らなかった。 そりゃ、もう宗教しか救いようがない。  最近長崎を調べているが、「隠れ切支丹」と言う宗教(それは最早キリスト教ではない)があることに驚いた。
- コメント(1) - 2008年1月31日

ann
小説ではないが、エッセイのような短編のような。高校生のころから遠藤周作氏に心酔している私がいつも目につく場所においている本。
★4 - コメント(0) - --/--

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