〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学するの感想・レビュー(31)

j
最初、哲学者永井均の変節と敗北かと思った。「哲学者永井均」と仏教のつながりに強い違和感があった。香山リカと永井の対談も正直気持ち悪かった。永井の傲岸不遜ぶりについていけなかった。しかし本書を読むと永井は極めて慎重で、「あとがき」を除いて傲慢な感じがない。藤田一照と山下良道が、既存仏教(1.0)の機能不全と、近年の(上座部を基軸とした)「マインドフルネス」(2.0)への疑念、そして両者の不調和への危機感から、永井均という劇薬を注入したように見受けられた。藤田と山下の対話部分は退屈というのが本音だ。
★1 - コメント(0) - 3月22日

読んで、益々強く感じいったのは、永井哲学とハーディングの「頭のない方法」との類似性、親近性であった。それで、永井均、ハーディングで検索をかけると一件ヒット。驚愕の結果が。というほどでもないが、1992年に翻訳が刊行された、ホフスタッターの本「マインズ・アイ」の中にハーディングの On having no head が採録(抄訳かもしれないが)されていてその訳者がなんと永井均となっとんじゃがのう。京大の院生の論文で、このOn having no head とヴィトゲンシュタインの「論考」を対比して、
★2 - コメント(2) - 3月3日

「アップデートする仏教」の藤田一照氏、山下良道氏そして、哲学者の永井均氏の鼎談。 □瞑想について-<仏教「3.0>をめぐって/「自己ぎりの自己」と私/死と生をめぐって。 【メモ】 ●仏教2.0の問題点:日常的な自我が主役を演じている ●ミャンマーの瞑想の先生達には「自己」という考え方がそもそもない ●仏教2.0は有心のマインドフルネス、仏教3.0は無心のマインドフルネス
★7 - コメント(0) - 2月25日

「アップデートする仏教」を読んで、あまりの面白さに本書を購入。もったいなくも2日で読んでしまった。この世界は〈私〉と〈今〉しか存在しない。〈私〉と〈今〉は、何の説明も無く、ただ端的に存在しているのだ。う~ん、本書の面白さを説明できないな。とにかく、正法眼蔵の世界を説明できる言葉を得た、と言う感じ。しかも、悟りに繋がる瞑想法の理論的根拠も与えるんだ。これは思想と言うものでは無く、世界の構造の説明書だ。全ての思想や宗教の立脚点なんだ。私にとっては悟りを開く場所だが、誰かにとっては神と出会う場所だろう。
★19 - コメント(0) - 2月1日

敢えて不真面目な読み方をするなら、仏教をアップデートするのに重要なのはディオ的な精神、即ち「アイ・アム・ザ・ワールド」の世界観を掌握することにある。ディオはスタンド能力で時を止められる。この場合の時とは実存的連関としての物語で、いわば我執の根拠のこと。時を止める能力はマインドフルネス。そして時の停止とは全即無としての〈比類なき私〉体験。このディオを知るために『ジョジョ』を知る必要があるように、〈仏教3.0〉を知るのもまた相応の世界観を理解することが求められる。この理解の営みに哲学の論理攻めは頼もしい限り。
★12 - コメント(0) - 1月25日

☆☆☆ 「存在と時間」を読んでいたので哲学の話はわりあい分かりやすかったが、仏教3.0の話は「アップデートする仏教」を読んだことがある前提で書かれていると思われ、テーラワーダの用語が解説されていないのが少し不親切かなと思った。よく出てくるテーラワーダ(上座部)・ヴィパッサナー(内観)・サティ(気付き・マインドフルネス)など、簡単に訳語だけでもあればありがたかった。 1章瞑想について、2章「自己ぎりの自己」と<私>、3章死と生をめぐって。3章の生死の話は「存在と時間」に載っていなかった話で、面白く読めた。
★8 - コメント(2) - 2016年12月30日

誰に向けて書かれているのか、よくわからなかった。
★2 - コメント(0) - 2016年12月10日

内山老師の所が非常に面白かった。
★3 - コメント(0) - 2016年10月15日

次元の違いを感じた。私は「生きる上での、この苦悩をなんとかしたい」という単純かつ世間一般的な思いを抱いていて、そのアプローチの一つとして仏教を学び続けているけど、お三方の話は「そもそも、この苦悩はどこから始まるのか?」「その始まりにある『わたし』とは何か?」「死という概念すらない」という根源的なところまで遡り、さらにそこに哲学的に仏教的に切り込んでいる。その突き詰め具合、こだわり具合からして、もはや次元が違う。仏教をもっと学び坐禅も続けつつ永井さんの哲学的な切り込みが理解できるようにまた再読したい。
★24 - コメント(2) - 2016年10月10日

永井氏の著作は昔から貪るように読んでは自分なりに哲学してきたつもりなので、論の大半はすんなり理解できたと思う。今ひとつ分からないのは、気付きの結果として「慈悲」なるものが出現するという、山下氏辺りが前提のように語っている(ように見えるだけかもしれない)部分だ。世俗的な価値は映画に過ぎないから気に病むなというのなら、そこで悲劇が演じられていても気に病む必要は無いだろう。積極的に悪を為す必然性が消え去るのならば積極的に善をなす必然性も同様に消え去るのでは。果たしてその境地で他者への慈悲が残るのか疑問である。
★5 - コメント(0) - 2016年10月10日

今読んでいるみんな最新5件(5)

12/03:ビアスキ
12/01:qualia
11/14:
09/16:yohe

積読中のみんな最新5件(5)

01/10:f
01/09:かにむら
11/06:KJ
10/10:谷田犬郎

読みたいと思ったみんな最新5件(43)

03/02:dripdrop
02/15:三和音
02/08:Q
02/02:らっそ
02/01:のんまま
〈仏教3.0〉を哲学するの 評価:77 感想・レビュー:12
ログイン新規登録(無料)