形式:単行本
出版社:青弓社
形式:Kindle版
(エジソンは)『報酬が多いことよりも労働が少ない方が幸せだと考える人間のいることを認めなかったのである。』
巻末で『和漢三才図会』の小野篁の例など日中の例を取り上げ切れなかったことに言及しているが、確かにアジア的な世界における夢の在り方をもっと知りたかったのはある。
ダリは自称無眠者(誇張して宣伝していた節あり)亜鉛板の上に置かれた椅子で休み、眠ったら手から鉄球が落ち音で目覚める。この時間が睡眠時間だったとか・・。無眠というか、マゾ?こんな生活じゃ時計が溶ける絵を描くわけだと妙に納得した。ダヴィンチも無眠者、エジソンも「眠る事は時間の浪費に過ぎない」として睡眠時間を切り詰めていた。一方、最近の有名な経営者等はしっかり睡眠を取る人の方が多い。いずれも成果を出している訳だから個人差としか言いようがない。そして今は、なるべく寝ましょうという文化の時代に生きているのだろう。
歴史上何度かのパラダイムシフト。古代、眠りと死は農耕の過程を象徴した寓話であり死と再生の循環の物語であったが、中世になりキリスト教の布教に伴い眠りは単なる肉体的生理現象となり、死とは切り離されていく。そして近代、産業革命以降労働を妨げる睡眠は邪魔者扱いされ、白熱球の発明により都市から夜が消え、闇は全近代的なものとして嫌われていく。キリスト教的抑圧と近代化による明るさ偏重と暗さへの偏見に対する闇からの復讐者としてのドラキュラ=不眠者=生ける屍。不眠は狂気を誘発する。人は《裸の事実》に耐えられない。
生ける死者の世界から抜けでるには、世界の発端・裸の事実との対峙、狂気の深淵を覗き込む必要がある/生には耐用年数も契約書も無い。希望通りの展開も無い/眠りが不眠の警戒解除・現前の回避ならば主体の分裂がおこっていることになるが、その際認識と意識・眠るものと眠らせるものは同一のためあいまい/睡眠願望は普遍的なものではない
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(エジソンは)『報酬が多いことよりも労働が少ない方が幸せだと考える人間のいることを認めなかったのである。』