形式:単行本
出版社:青弓社
形式:Kindle版
・その場から「何か(気づきや学び)」を得なければならないという<意味の拘束>(P240-):自分もかなり心あたりがあった。生産性・効率性を求める企業文化においてより顕在化するという記述にも納得。一方で、非モテ研という場が「同質性」「相対化」「共同性」「語りが聞き届けられる」ことによって<意味の拘束>を多少弱める、という記述はいまいち腑に落ちなかった。その場の語りやすさや安心感、共感が大きくても、<意味>を求める意識はまた別にあるのでは?というのが個人的な感想。
・そもそも自分がなぜジェンダー論の中でも男性学におもしろさを感じているのか、いまいち言語化できていない節がある。(もちろん女性学は大学でちょっとだけかじったけれども。)生まれ持った属性で「生きづらさ」が生じるということ自体に多分興味があって、その中でも「性」という身近な属性に関する「生きづらさ」について学べるジェンダーやセクシュアリティに興味をもった、気がする。女性学は当事者意識ももちろんあった。男性学については、少なからず「より強くあること」を自分に課している節があって、そこへの共感?わかんないな。
この場で聴いたことは外部では話さない。こういうのは、一般の会話でも常識になって行って欲しい、本当に、喋る人だけが一生喋りつづけてるし、やっとの思いで自分が話し始めてもさえぎられるし、求めてもいないアドバイスされるし、一般論を持ち出して否定されるし、あとイチイチ「他の人には言わないでくださいね」って言わなくても、言うなよ!と思うけど、勝手に私のいない所でベラベラ喋られて、後でその人からこの話は本当か??って確認されたり、何勝手に他人に話てんねん!ってことは今まであり過ぎたので、マナーとして定着して欲しい
「進研ゼミの内面化」は刺さったし、世紀の発見・・!!ベネッセは昔からクソですね・・!!
「先回り奉仕」と(この奉仕に見合う返答・応答を要求する感情たる)「等価交換の原則」が刺さる。◆もう一つ。それは特に異性間の人間関係において、「負けたような気がする」ということ。惚れた方が負けとはよく言われるし、コメディのネタとしても存在する(「かぐや様は告らせたい」なんぞは典型)。ただ、人間関係が拗れる要素でもある。疲れて帰ってきたのに、なぜ私が食事の用意をしなければならないのか?。使っていない電気を消さない相方に対して、電気を消して回る自分が負けた気がしている。男女を問わず生み出されるこのギャップ。
先の先回り奉仕に対する応報を求める感情に近いものがある。小さいものや互いに先回り奉仕している関係性があれば応報感情は満たされるが、そうでないならば…。
「個人的な事柄は政治的な事柄である」というラディカルフェミニズムの有名な言葉を、男性である僕が実感できたのは初めてかもしれない。
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