プリンと聞くと美味しそうなのに実際食べると微妙にイメージと違って、落雁を見ると美味しそうなのに実際口に入れるとぼしょぼしょした食感にがっかりして、たとえばジブリ作品の目玉焼き、あのとろ~りした目玉焼きを見て実際自分がつくって食べてみると、アニメーションのように艶々してないし味もうんまあ普通なわけで、やっぱりイメージと違っていて、多分そのイメージっていうのがファンタジーの中にあって、現実的に甘いとか、しょっぱいとか、そういうことをイメージしているのではなく、ただ『美味しそう』というイメージ、あくまでもイメージから脳の電気がビビビッてシナプスを経て流れ、快刺激が流れているのだと思うので、今味わった快刺激はウソの刺激、脳に騙された!って自分に疑いをもって、自分を疑えは自分の知覚したすべてを疑わなくてはならないので、デカルト!っておもって、デカルトを思えば世の中なにも信じられない神様って居るの居ないの居るのならどこなの、ああ生きるのって大変、クローン羊ていいの、そしたらクローン人間は駄目なのかなぜだ、いつか機械に人間が負ける日が来るのか、そもそもなぜ生きるのか命に意味があるのか、とか考えちゃうよねーって友達に話したら、こいつ超やべえって引かれるってわかっているから話さないけれどそんなことばかり考えているのって変、ではないはずだって、そういう抽象や概念を考えることってとても大切なわけでつまりは具象抽象両方必要って話だがしかし現在は具象や現実を慮る時代に移行しているのだから自分の思索はマイノリチィーなんだと思うと残念だけれどこの残念てマイノリチーであることではなくて、人に認めてもらえない悲しみの方で全然別なものなのであって、人に認められないのは淋しくなるのだから、もし友達と話すとしたら、ジブリ作品て見る、じゃあさ好きなのってどの作品、うーん自分はラピュタかな、といった会話、そのまま鼓膜を震わせ脳を経由して消えていく儚いくらいの存在感で、でも会話は他人と交流するためのツール、それが会話の重要性の高さなので仕方がないけれど、もし語れるのなら語りたいことがたくさんあるのです、自分は、思うこと考えること、そう思索、思索するのが好きなのです、話をしたいことは本当にたくさんあるのですよって、ここは自己紹介の欄、なのにこれって自己紹介と呼べるのかと考えれば、そもそも自己紹介って自分を他人に知ってもらうためのものなのだから、ああ、これも他人に自分を伝えるツールなわけで会話と同じ役割、だったら自分の思考を垂れ流すような言葉を表示させてしまえば自己紹介としての機能を成さないのではないかということに気がつくのでした、好きな食べ物はソフトクリームです、好きな季節は秋です、好きなジブリの作品はハウルの動く城です、そうそうこういうのが自己紹介、自己紹介なのでした。
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