二十世紀前半までは、世の中には美の貯金というものがありました。
アール・ヌーヴォーやアール・デコの時代は、巷に美しいものがあふれ、
見ていて心が豊かになるような無駄な良さ、必要ムダというものがあったのです。
だからそれで食いつないでいった。
ところが、戦争により、すべて使い果たし、多くの人が心の寄る辺を失ってしまいました。
本来なら、そこで失われし美意識の補充を始めなければいけなかった。
なのに、あろうことか、戦後日本人は空になった通帳にいきなり数字だけを入れ始めた。
その結果どうなったか。
数字が正義になってしまったのです。
テレビの視聴率もCDの売り上げも数字さえとれれば内容なんてどうでもいい。
週刊誌も読むに堪えない悪口雑言を書いたものだけが、売れてしまう。
ファッションだってプレタポルテが始まって以来、美しさよりも多量に売ることしか考えなくなった。
もはやそこに情報が入り込む隙間すらありません。
そんな世の中に生きていてもちっとも楽しくないでしょう?
人生はバラ色どころか、ドブねずみ色になってしまう。
凶悪な事件は増え、家族のつながりも薄いものとなり、
あなたがたの顔からも美しい微笑みが消えてしまう。
こんな悪しき状況と、そろそろ本気で訣別してみる必要があるのではないでしょうか。
美を取り戻す方法はいたって簡単です。
空になった預金通帳に美意識の貯金をすればいい。
もう一度昔の預金通帳を出し、十九世紀後半から二十世紀初頭までの残高をゆっくりと見直してみるのです。
そうやってあらゆる文化、文学、音楽、演劇、舞踏、美術、建築、インテリア、ファッション、
ありとあらゆるものをアール・ヌーヴォー、アール・デコの時代につなげていけば、
どれだけの日々の生活が潤うことでしょう。
もしもお金がなかったら、不安で生きていけないでしょう。
それと同じ。
心だって、美意識という確固たる預金がなければ、安定できずイライラしたり、
落ち込んだり、人を攻撃したり、傷つけたりしてしまう。
ハードとしてのお金だけでは心はひからびてしまうのです。
心を豊かにしたいのなら、このソフトのお金、すなわち美意識を蓄えていかなければ。
金持ち喧嘩せずっていうでしょう。
美の金持ちになれば、心も満たされ、豊かになれるはずです。
ただ、それを知識として知ってるだけじゃ何にもならない。
実際に手元に引き寄せて、生活の中に活用させていかなくては。
その手引書として、みなさんに本書を使ってもらえれば、私はとても幸せです。
2000年3月。
美輪明宏「天声美語」より
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