
自己紹介的なもの
Ⅰ
己の欲する所に従えども矩を踰えず、そんな自由な心で生きられたらどんなに幸せだろう。自由といっても幼子の様に好き勝手したいという訳ではない。libertyは悪くないが、政治臭が合わない。自然法爾、融通無碍というが理想に近い。自由への第一歩として、まずはあらゆる執着が不自由の源と理解し、時間空間を超えた視点から自分を俯瞰的に見て、再びまた俗に還ってくる一連の過程を大事にしたい。俗に還るのは馴れ合いの為ではない。調和を希求するからである。主客合一の瞬間が最も心地よいと確信しているからである。それが本を読みここに感想を書く理由である。
Ⅱ
人は掴み所のない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人はそんな曖昧模糊とした世界を切り取って言葉を当てがい、理解し確かめ合う。存在は命名により励起する。言葉は世界への働きかけである。無意識の意識化である。言葉の用い方は世界の見方・切り取り方であり、そこに人となりが顕れる。それら無数の重ね合わせで時代や社会の空気が醸成され、個に還ってくる。言葉の流れは双方向的である。
Ⅲ
何か手近にあるものを借りてきて利用して、破綻したらまた近くの別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応を繰り返して進化してきた。進化とは変化である。無常という事である。そんな歴史の記憶が刻まれた幾兆の細胞が人体を構成し、細胞間のコミュニケーションがこの動的複雑系を成立させている。免疫細胞は自他の弁別を司り、幾百億のこれらが血流リンパ流を介し常時くまなく巡回し続ける事で、個が全体として保たれ続けている。抗体はランダム性を内包し、あらゆる外部世界を想定し準備している。自他の境界は厳密ではなく、状況に応じて揺れ動くものである。免疫が弱ければ内憂外患に対応できないが、無害なものに反応してはアレルギーを生じ、過剰になれば自己免疫疾患を病む。細胞の事はどうにもならぬが、全体を統括する身体のあり方からして状況に応じた柔軟なバランス感覚が必要で、柔よく剛を制すというのはこの普遍的真理を会得する事である。肉体を預かるこの現身としては、時と場と前後の文脈を読み、今なすべき事を当然の事として自然体で行う事を理想の境地としたい。
Ⅳ
法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右され移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかし、思い込みや勘違い、時に悪意が紛れ込む事を免れない。平素の私の言動は、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に、自分でもよくわからぬままに同調したり忖度したりした結果である事を否定できない。多くの場合、私は私という役割を無難に演じているが、そこに関係性の力学は見出せても、行為する主体の輪郭を明確にする事はできない。人間の自由意志とは一体何なのだろう。私が私であるというのはただの思い込みに過ぎず、確かな実体などないのではないか。
Ⅴ
私は私自身をうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を持つと決める事で、初めて人は社会の参加者となれる。社会において主体の言動に価値があるかどうかは、正しいか間違いかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力で決まるのだ。近代社会は個々人に説明責任を要求する社会である。近代的価値観の中に生きる人間は、自分の言動を神や悪魔や空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持たなければならない。これは近代社会が勝手に敷いたルールではあるが、社会において現在最高神の地位にあるのはこのルールなのだ。法に規約に契約に、微に入り細に渡るルールの言語化制度化は、近代叡智の結晶であり、現代人はこれに敬意を払って生きなければならない。これは「社会は言語によって成り立つ」という強力な仮定から演繹された、人の行動原理に関する神学的解釈である。近代的個人は無意識に言語の万能性を信じている。そしてその信仰ゆえに苦しみ疲弊している。
Ⅵ
近代的個人を、啓蒙時代以降の「神を離れて理性的価値観を信奉している個人」と定義する。近代的個人の出発点には、デカルト的な我、即ち主体の実在への揺るぎない確信がある。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度をムダなく上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のお陰で、飢餓や感染症といった、嘗ては人の生活のすぐそばにあった不条理の多くは克服されるようになった。機械文明の発達で肉体的労苦も軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという点においては、対象世界の科学的合理的把握という方法が有効であった事は間違いない。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に実現可能レベルの夢を語り資金を集め、富を増やし分配する資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=貨幣と数字(利子)に割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。科学と資本主義がほどよく咬み合って今日の近代社会が築かれてきたのである。だがこの歯車は、一度動き始めると誰にも止められない怪物でもあった。
Ⅶ
現代文明は肉体的には快適である。しかし皆どこか生き辛さを抱えている。現代社会に蔓延るこの漠然とした不安の源は何なのだろう。私はこの難題を考えるにあたってはまず、デカルト的な我に帰る必要があると感じている。主体の実在ほど疑わしいものはない。にも関わらず、それを「ある」と盲信している所が近代の不幸なのではないか。主体と客体は本来同じものであって、単なる概念でしかない。それも、その方が整理しやすいという理由で便宜的に分けられたに過ぎない。近代人はその事をどこかにほっぽらかして忘れてしまい、まるで両者が別々のもの、しかも実在であるかのように取り扱ってきた。私はこれが過ちで詭弁で欺瞞であったと考え直したい。
Ⅷ
近代的個人は、神を捨てた代わりに心身二元論を奉じるようになった。その数多ある弊害の中で最も忌まわしいものがニヒリズムだと思う。近代人は主体と客体が別々のものだという思い込みがある為に、両者が一致する事がない。その結果自らが作り出した概念、錯覚に溺れやすくなっている。肥大した主体はやたらと他人の目を気にして承認欲求を満たしたがる一方で(臆病な自尊心)、簡単に客体に飲み込まれ少しの失敗少しの批判で立ち直れなくなるほど傷ついてしまう(尊大な羞恥心)。被害妄想を拗らせ陰謀論に傾きやすくなっている。心身の乖離に耐えられず美容整形に走る。とかく主客のバランスが悪いのが近代人である。合理的選択が賢いと信じるあまり、結婚や子育て、教育、葬式に至るまで何でもかんでも合理化してしまい、自分が人生で何がしたいのか、何を大切にしたいのかわからなくなっている。私達はコスパタイパと言いながら面倒を避け、ゲームやネットの中でちっぽけな自尊心を満たすうちに残酷に時が流れ、ただ老体が朽ちゆくのを眺めるばかりの人生になってはいないか。そしてそういう自他の人生を蔑み嗤っていないか。毎日炊事洗濯をして、家族ご近所同僚上司取引先とうまく付き合いをして、人生とは面倒なものである。だがちょっと待て。私が私の人生を面倒だと思うとはどういう事だ。例えば、たまった家事をこなしながら、それを面倒と感じているのが私なのか?それとも、既に今ここ、目の前でやっている家事作業という出来事そのものが私なのか?主客合一の観点からすれば、これはどちらも私なのであって、言語が主客を便宜的に分け、自意識という錯覚を生み出しているに過ぎない。cogitoとは、私という出来事に関する言語的解釈である。cogitoだけが私に他ならないと錯覚して生きるという事は、取りも直さず、その言語を生み出した社会的・歴史的・文化的・宗教的背景や文脈だけに縛られて生きるという事である。私が求める自由とは、その呪縛からの解放である。
Ⅸ
自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。現代社会は、合理的思考(=少数の物差しで対象を捉え、それで真理を把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度)を持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、時の止まった死物(ただの原子分子の塊でありデータであり金づるである)と見て自他の限界を狭めているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引き籠りや少子化の根本病理をここに見る。原始時代に還ればよいなどと言うつもりはない。合理の行き過ぎは結果的に自らを不自由にするという事が言いたいのだ。私は、近代の行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語ろうとする姿勢を持ち続けること、同時に言葉の限界を自覚することー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。
Ⅹ
自画像をどう描くかは、他者をどう捉えるかと同じである。逆もまた真。自らの存在基盤に連なる文脈を読む事で、他者と自分の関係性がはっきりし、自らの立ち位置がわかる事で、自ずと正しい生き方も見えてくる筈だ。ここからは自我の起源、私という存在の前提を巡る試論である。
Ⅺ
宇宙開闢から考えてみる。初期宇宙の自由に動き回る素粒子の系は、膨張と共に温度が下がり、原子核中性子電子の系へと変化した。ゆらぎ、自己相似、対称性の破れ、エントロピーの増大、関係性の力学といった大原則が今もこの宇宙を支配しているのは、宇宙がこの様な出自であるからだ。原子は分子となり宇宙空間に縞模様みたいな疎密が生じ、密な部分には星ができ、星の内部の核融合で金属などの重い原子ができ、星の寿命と共に爆発してばら撒かれ、その星屑同士がぶつかり合ってまた新たな系が生じ、そういう離散集合を繰り返す系の中にやがて太陽系というのができ、中心の恒星から数えた3番目の惑星に、どういう訳だか生命が誕生した。
Ⅻ
原初の生命はRNAだったのか、DNAだったのか、あるいは原核細胞だったのか。そんな事は知る由もない。何にせよ、境界があり、代謝を行い、自己複製する系として生命が誕生した。地球生命最初の創発として最も画期的だったのは、光合成というエネルギー代謝である。葉緑体と共生したシアノバクテリアが増殖し、地球は緑の星となった。長い年月とともに酸素濃度が上昇し、酸素の星になり、成層圏まで達した酸素はオゾン層を形成し、生命の陸上進出の条件を整えた。反応性の高い酸素はそれを上手に扱えない生命にとって猛毒である。原始生命の大半を占めていた嫌気性菌は存亡の危機に頻したが、それを打ち破る創発が起こる。ミトコンドリアの共生による酸素を利用したエネルギー代謝、即ち呼吸の獲得である。発酵ではグルコース1分子から2ATPしか獲得できなかったのが、呼吸は38ATPを獲得できるようになった。この巨大なエネルギー代謝系の獲得によって、細胞同士が協力連携し、より大きな個体を動かす系;多細胞生物が誕生した。
XⅢ
真核生物ドメインー動物界ー脊索動物門ー哺乳網ー霊長目ーヒト科ヒト族ホモサピエンス。人の自意識はこの進化の過程で芽生えてきた筈だ。多細胞生物から次の創発;性が誕生した。即ち体細胞系列と生殖細胞系列を切り離したのである。これにより個体の寿命という概念が生まれた。個体に寿命が生じたというのは一回限りという事である。その場その時代におけるオリジナルという事である。体細胞も生殖細胞もDNAが一緒くたになっている単細胞生物には、寿命という概念がない。遺伝的に均一なら(表現型のゆらぎはあるにせよ)自他の区別もない。個体にオリジナリティが生まれるというのは画期的創発だったのだ。ところで生命という複雑系に生じる創発現象は、自発的対称性の破れという宇宙開闢の時からの定め、あるいは力が作用した結果であるという認識も重要と思われる。自然は対称性を好む。だが一定期間経つと破られる。自意識も、この運動の一環で生じた創発現象なのではないか。
XⅣ
多細胞生物・特に性の誕生とその裏返しとしての個体の死と共に、原初の自意識が芽生えたのではないか。次の創発は社会である。原初的な社会・群れを、我々はアリやハチ、あるいは魚において眺めることができる。個体に多少のオリジナリティはあるし、群れへの忠誠、利他行動と一見思えるものも観察できる。だが彼らに人間的な意味での自意識があるかというとそれは違うだろう。群れや巣というのは、遺伝子存続のために分散型の共生をしているだけであって、これだけでは人間的な意味での自意識が芽生える必然性が足りない。「私」に直接連なる自意識誕生のために必要なもう一つの条件。それは哺乳だったのではないか。
XⅤ
哺乳類の仔は弱い状態で産まれてくる。母親には乳を与え仔を育てる使命がある。小さい仔をかわいい(ちいかわ)と思うのも愛情を持って育てるのも、哺乳類には自明の事である。他者・かよわい弱者への思いやり。これが哺乳類の、虫や魚の群れと決定的に違うところではないか。父親にも思いやりという想像力が必要だ。餌を取り敵と戦い、母子を守る事が、雄に与えられた生物学的な責務である。群れを作りそれを強力なリーダーが率いて互いに助け合えば、その目的はさらに達成されやすくなる。すると群れのそれぞれの個体には役割自覚が芽生える。仔を育てるという自然の掟が群れという社会性と結びつく時、人間的な意味での自我が芽生えるのではないか。他を思いやる想像力こそ自意識に必要な条件であり、自己意識は他者関係から反照的に構成されるのだ。性の誕生により、一回性の限りある体細胞系列(自)の幸せと、遺伝子の存続という生殖細胞系列(他)の幸せとが分離した。元来、生殖後に個体は死ぬ運命にあったが、哺乳類は育児の必要からすぐには死ななくなった。群れという社会性が個体の寿命をさらに延長した。その結果、個体内部で完結していた自他の分離が、個体の外部、社会的な場面でもありありと意識されるようになった。自意識が性や死の衝動と分かち難く結びついているのは、こうした事情があるからに違いない。発声に特化した人体の構造的特徴は言語を生み、人が語る自意識は、やがて文学と言われる様になった。
XⅥ
いまここにこうしてある現実とは上澄みである。何の上澄みであるか。歴史の上澄みであり、無意識の上澄みである。これまでの試論はその一番奥深いところ、生命史の記憶に眠る集合的無意識を探るための考察であった。ここからは一気にスケールを縮め、日本の歴史と私という事について考えてみたい。日本人という大きな主語でくくることに異論はあろうが、ここは私的な文章ゆえ、日本人としての私という意味でしかない。
XⅦ
日本の黎明期には稲作があった。集落を束ね、祀る存在として豪族がいて、天皇が、この豊葦原瑞穂国を纏め上げた。いかにフィクションとはいえ、国づくり神話に始まり万世一系の天皇が日本の歴史を貫いていて、現在も全国津々浦々に坐す無数の神々を祀る神社がそれぞれの地域や自然と共に鎮座している。まず、日本とはそういう国なのだ。それから仏教である。6世紀に伝来したとされる仏教に天皇家も帰依し、やはり現在に至るまで全国津々浦々に寺院が張り巡らされている。日本人は死んだら仏様になるというフィクションの中で生きてきた。このインド発祥の教えは東洋の中の日本という事を我々に思い起こさせる。諸行無常で諸法無我という感覚は日本人の無意識の中にあり、やたらめったら自己主張するのは愚かだと教えられる。次に武士である。武士だって元々はヒャッハーみたいな事をやっている下賤な集団だったに違いない。しかし彼らには貴族にはない草莽の強さ賢さがあり、それが鎌倉以降の武士の時代を形成した。たぶん平安から戦国まで、この国はだいぶカオスであり、しょっちゅう暴発する庶民のエネルギーを、さらに好戦的な武士や老獪な公家衆が力や権謀術数で押さえつけていたと思われる。現代の我々は、歴史の古層に刻み込まれてきた諸概念をあれこれ想像して語るほかないが、日本の歴史を古代から現代まで一直線に貫くのはやはり天皇の系譜であり、天皇の血筋を軸に、公家、武家、僧、農民、山家、河原者といった人々が連環して関わりながら歴史を紡いできたに違いないのだ。
XⅧ
現在の日本人に近いメンタリティとなったのは江戸時代以降であろう。二百六十余年という長きに渡って世界史上も稀な天下泰平の眠りを貪っていた事は、今も日本人を特殊な民族たらしめている。マンガやアニメの源流も江戸町人文化にある。一方で、この時代に武士は人の理想として観念化した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」この死の美学は、赤穂浪士の討ち入り事件によってさらに神格化され一般にも流布し、名誉の為に死ぬ事が日本男児の憧れとなった。幕末に尊皇攘夷運動と結びつき、それは忠君愛国、七生報国の思想となり、富国強兵から終戦まで、この国は死に狂いの理想主義を燃料にして突っ走った。外から俯瞰的に見れば、帝国主義という西洋の物語の最終章で、東洋を巻き込んだ最終局面において、神秘の国の武士道が、西洋史を終わらせるというトリックスター的役割を果たしたのである。これだからフィクションを侮ってはいけない。皆が名誉の為に死に、武士道と共に世界の歴史は一度そこで滅んだのだ。嘗てネイティブアメリカンに恐怖し、彼らの文化をあの手この手で破壊しながら太平洋に達した米白人は、今度は日本の歴史の古層に眠るbrutalityに恐怖し、2発の原爆というおよそ釣り合わない手段でそれを封じ込めたのだ。
XⅨ
戦後、死は忘れ去られた。日本人に名誉の死という概念はなくなり、合衆国大統領に傅く宦官のように飼い馴らされ、国防は外部委託される事になった。冷戦構造の中、反共核戦略の砦として、米国の不沈空母として、資本主義の見本市としての役割を担わされた戦後日本において、武士道的倫理は会社への滅私奉公に変質し、家庭も顧みずただがむしゃらに働くモーレツ社員は、エコノミックアニマルと呼ばれる様になった。日本はロンヤス体制の下で戦後の集大成の輝きを放っていた。駅のホームには吸殻が大量に落ちていて、新幹線はタバコの煙が蔓延していた。野菜は青臭く、トイレは陰翳礼讃の便所だった。暴力団、闇金、総会屋、エセ同和、カルト宗教、悪徳代議士、事務所が幅をきかせ、闇社会と表社会が渾然一体となっていた。安田講堂も市ヶ谷もあさま山荘も既に過去であり、反体制を気取るのが格好いいという風潮だけが痕跡的に残っていた。だがあくまでもポーズだけで、人々は真正面から行動する事に疲れていた。新聞TVには広告を通じて大金が集まり、文化と世論を支配していた。日本人は未だ欧米コンプが抜けきれず、彼ら彼女らの容姿や生活スタイルに憧れ、胴長短足で狭小住宅に住む自分達を恥じていた。まだ戦前世代が現役だった。団塊世代が中堅で団塊ジュニアは小学生だった。男は汗とタバコと整髪料の入り混じったにおいを放ち、虚勢を張って生きていた。女は化粧臭いか所帯染みてるかのどちらかだった。で、俺が生まれたってわけ。ファミコンやTDLは同級生だ。私が幼稚園を出る頃に昭和天皇が崩御し、美空ひばりが亡くなり、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が解体した。私の父はベルリンの壁の欠片をどこからか譲り受け、レジンの中に固めて永久保存していた。父は何かそういう、歴史の記憶を固定する事が好きだった。まもなくバブルが崩壊した。
XX
バブル崩壊とは、戦後の政官財が癒着した護送船団方式の崩壊であり、冷戦終結と共に訪れたグローバル資本主義への接続の為に必要な試練であった。そんなさ中に阪神大震災があり、オウムのテロがあり、酒鬼薔薇事件があり、数々の倒産劇があった。大人達が自信を失い、正しさがわからなくなり、倫理が崩壊していくのを感じた。街はサラ金の看板やピンクチラシで埋め尽くされ何だか殺伐としていた。そんな中で青春を過ごした私は、どこか大人達を軽蔑していた(今振り返れば、この当時の世紀末日本は、闇勢力や腐敗した面々と縁を切り、開かれた社会に移行する為に必要な蛹の時代だったと思えるのだが。これも曖昧や混沌を許容せず明瞭、清潔になっていく近代化という大きな歴史の一頁だったのかもしれない)。全てを斜めから見る癖がついてしまった私は、信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論に傾くようになった。文学や哲学は愚痴や屁理屈を並べている様にしか見えず敬遠していた。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で、人の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えている虚無的な若者だった。健康に恵まれながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困の必然的成行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕う事ばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合する事しかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。私の二十代はそれだけで終わってしまった。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。三十代の私は虚無からの脱却を求め彷徨っていた。彷徨い続けるうちに気づけば不惑が迫っていた。
XⅪ
私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。そして、ここで自己の内に生じた感覚を言語化し他者の視点を学ぶうちに、自分の理想や大切にしたいものの輪郭が、朧げながらわかるようになってきた。私という自意識が、いつも存在にまつわる不安を抱えており、存在の前提や根拠を確かめたがる習性がある事を自覚した。四十にしてようやく私は言葉を大事にする事を覚え始めた。そのうちに、どうも明瞭簡潔を求める近代の在り方が、私の特異性を毀損しているのではないかという思いが芽生え出した。何でも検索しわかったような気になってしまうネットの時代においては、人生も同様に薄っぺらく感じられる様になっているのではないか。文学はこのばかばかしさに抵抗できる唯一の試みなのではないか。人の言葉というのは究極的には自己言及である。それはそもそも宇宙の成り立ちが自己言及的で、時空が無限の自己相似であることに因るのかもしれない。初めに言葉ありきと聖書に書かれたがため西洋はそのように発展し、言語に基く価値観がこの世界を覆っているのかもしれない。しかし東洋では、肉体を離れて言葉はないことを古くから重要視してきたのである。東洋人たる私は、近代のコード的言語観を利用しながらも、それにどこか違和感を抱えながら生活している。私という肉体の現象は、今この瞬間も言語とは無関係に起きている。日本語話者の私は、それをあの四十七字の詩の中で眺め、追認する。言葉と共に有限の中の無限、虚しくも豊穣な生を見つめるのは愉快である。その感性さえあれば充分じゃないかと思いながら、まだその境地に達しきれてはいない。きっとここには、そんな私の堂々巡りの自己言及が刻まれていく事だろう。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならぬ
有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせす
ん
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