11頁に<机に座っていた校長先生がこっちを見た>という記述がある。これが“校長先生”でなくて“男子高生”あたりであれば、文字通り“机に座っていた”可能性がある。この場合は“校長室の校長先生”であるから、“机(の前)に座っていた”のだと了解できるし、比喩的表現に「シネクドキ」というのもある。上位概念を下位概念で(またはその逆に)言い換える技法を使ったのだと。とはいえ、読者に多少とも混乱をもたらす言い方だよねぇ~。わたしなら、ここは<机に向かっていた>的な表現にしたいところなんだが、ま、ドウナンダロウ……
カピバラKSさん、ご賛同いただき嬉しいです。<扉を開けた小学生自身の視点でラノベ風に表現すると、机に座るという表現もアリなのかもしれません🧐>に同意します。わたしが不思議だった点は、この作者がまだお若いことです。実は、昔はこの「机に座る」は割合よく使われていた記憶が。「机」っていっても「座卓」などがあった時代の表現。もう「座卓」も「卓袱台」なぞも過去の遺物になっている時代ですから、今の作家が使うかなぁー、って。主人公の大時代的な言い回しに作者が感化されたのなら、それはありか、などと😉
【巨大教会を建設した、テレヴァンジェリストの先駆け・カリスマ派の伝道者マクファーソン】<ボクシング試合の会場でリバイバル集会を行い、試合中に「悪魔をノックアウトせよ」と/女優のような知名度を誇り、ルーズヴェルト大統領や喜劇俳優チャップリンとの親交もあったマクファーソンだが、後半生には失踪事件や不倫騒動や離婚調停、財政困難や法廷闘争で苦しむようになる。第二次大戦が勃発すると、それまでの平和主義を捨て、対独や対日の戦争に教会をあげて協力することを申し出たが、睡眠薬の大量服用により終戦前に亡くなった>と……
【信教の自由と国家への忠誠】「エホバの証人」の生徒が“国旗儀礼”を拒否し放校された事件の最高裁判決。<権利章典の真の目的は、いくつかの主題を政治論争の浮き沈みから引き離し、多数者や官憲の手の届かないところに置いて、それらを法の原理の下に司法が適用すべきものとして確立することであった。生命、自由、財産、言論の自由、出版の自由、礼拝と集会の自由といった基本的権利は、評決に付されてはならない>と。この、愛国心は強制によって育まれ得ないと断言した判決は、戦争の最中にあった1943年に出されている。嗚呼、アメリカ!
【ジェンダー・バイアスを入れないセクシャリティ研究は不十分、むしろきわめて危険だ】「ジェンダー・トラブル」竹村は、<逆に言えば、セクシャリティを射程に入れないジェンダー研究もまた不十分であり、危険なものです。フェミニズムは当初、女性解放運動(ウーマン・リブ)と呼ばれていました。そしてその前には参政権運動を中核とした女性運動がありました。それからもわかるように、フェミニズムは最初、社会的な権利獲得、社会的平等の主張に多くの注意を払ってきたのだと思います。社会的特権の配分という問題です>と。確かに、そうだ。⇒
<性の非対称性、生の社会的不平等がなぜ起こるかということを突き詰めない限り、性の非対称性は解消しても、心的偏見は残ります。いやおそらく解消されないでしょう。つまり、社会的な性の非対称性は、より個人的と言われている領域――密室の中、ベッドの中――の性配置と同延上をなす/エロスの行為、エロスの表現、エロスの幻想の中に、権力がどのように介入しているかを考えない限り、フェミニズムは中途半端に終わりますし、いつの間にか個人的な領域は侵すことができない聖域となって権力に回収され、フェミニズムは衰退>すると。うんうん。
そう……確かに、競ったり他者と比べたりしないで、ゆったり生きられればいいのでしょうが……つい、周りの人のことが気になってねぇ、これが……。そして、歳を取ったら、昔の自分なら出来たのに……と昔の自分と比べ……うーん……(歯切れが悪いアンサーでスミマセン)
>昔の自分なら出来たのに アハハ、それはもう。「どうしても競いたい」「そんでもって伸びたい」は若者におまかせして(^-^; 今はできなくても「昔はできたもんね」って満足納得いたしましょう。さっきのは、最近、一番病のせいで落ち着かない3歳児(職場の子)について20代の我が子に「どうしたもんかねぇ」と話したら、「負けないぞって頑張るのはいいことだ」って言われたのを思い出しての言で、決して我が身のことではございません…
別な作家の話になりますが、昔、夢枕獏に嵌ってたきっかけが、『キマイラ・吼』の文庫後書きに、著者自ら「これは傑作です」と太鼓判を押していたことでした。あれなんかも、自らを鼓舞するため「敢えて」そのように書いたのでしょうね、うん……
【成長の家:極右から自然志向のリベラルへ】<安倍政権の憲法解釈変更や安保関連法案の強行採決を批判。日本会議についても「時代錯誤的」と切り捨てた。/95年に約88万人だった信者数は半分以下に落ち込んだが、特徴的なのは女性信者の増加だ。同年の国内教師(講師)1万6000人の女性比率は66%だったが、現在は79%まで高まっている。親子三代にわたる“転向”を経て成長の家がたどり着いた生活提案型の布教スタイルは、女性に受け入れられているようだ>と。会員には「省資源、低炭素の生活法」の日常的実践を推奨。今後に要注目!
【教勢拡大を続ける、真如苑】<公称信者数は2022年で約91.7万人。/4半世紀前の1997年の約75.4万人から2割以上伸びている/信者も特徴的で、教団の公式回答では信者に占める女性比率は半分強とされているが、高齢化に悩む他教団と比べて、活動に熱心な若年層の女性の比率が圧倒的に高く、複数の有名女性タレントも信者だと言われている。/だが、弱点もある。創価学会や立正佼成会に較べると海外布教では後れを取っている。/少子高齢化で国内市場が先細りする中>、海外布教の成否が真如苑の持続的な成長を占う、と――。
【ロジャーズ講演を聴いて思ったこと】<心理臨床における学説や技法は、それを提唱したり用いる個人の特性と分かちがたく関連して効力を持つ、ということを痛切に感じさせられた。受容や共感という言葉を口にすることは、気恥ずかしくて憚られると考えてきたが、その理由が分かった。自分の器を考えると、それは理念でこそあれ、自分がそれほど容易に実現できるはずがないことを暗黙に実感していた/目前のクライエントが必要とする内容を自分の器と責任性に見合ってさりげなく自然に提供していけるように>、理論や技法の助けがいる、と。確かに。
【昔読んだ本の再読】恩師との語らいの中から――。<「自分はゆとりある青年期をおくれなかったから、その点欠けたところがあるという思いは今もあり、それを補いたい、とこころしている。ちょうど今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読み返している」と話された。私が高校生の夏休み、『ジャン・クリストフ』を1年、2年、3年と3回読み、同じ作品の読後感が自分の年齢の変化につれて変わることに驚いたことを申し上げると、深く頷かれ、「年を経るにつれて、人間はこころが広くそして深くなっていきたいものだ」と言われた>と……。
そうですねー、寅さんの「♪奮闘努力の甲斐もなくぅ~」の世界を傷だらけになりながらの修行が必要だそうで、うにさんが書いたように、やめとくのが正解でしょうかね。わたしはその修行から早々に脱落しましたが、息子は東京砂漠でチャレンジ続けているようです。ま、上手く呑んでくれれば――
そうなのかー。残念のような、負けずにやってみて、「なんてことないよ」って行って見たいような。でも東京は砂漠じゃないですよっ。今まで住んだ中で一番人情あって優しかったのは東京の某区。(いちばん意地悪だったのも東京の他の某区だけど) むしろ今札幌のマンションで、みんなドライやなーって思ってます(^-^;
【顕密体制:中世仏教の主流であった旧仏教、顕教と密教とを併せ学ぶ総合仏教を志す】<顕密体制論がそれ以前の研究に較べて大きく進展したのは、中世という場に即して、仏教の実態を明らかにしようとしたところにある/中世は決して近代的ではない。そこには近代の合理主義ではおかしいと思われるようなところがたくさんある。とりわけ密教とか神仏習合などには、非合理的で、ほとんどこじつけとしか考えようのない無理な議論がしばしばなされている。かつて新仏教が高く評価されたのは、反密教的であり、神祇不拝的であったから>だと。確かに。⇒
<中世仏教の研究は、狭い意味での新仏教よりも、顕密仏教をも含めて、より広い仏教の活動を研究対象とするようになっている。とりわけ顕著なのは、以前は否定的にしか見られなかった密教や神仏習合の研究が進められ、それらがきわめて重要な意味を持つことが明らかにされつつある/真言律とされる叡尊系の律宗教団が全国的に大きな活動を展開したことも明らかにされている。また、禅に関しても、栄西や円爾(えんに)ら、従来兼修禅と呼ばれて不純な禅として批判的に見られてきた同行が注目を浴びている>。中世理解の鍵は密教だと。その通りです。
【最終回……それに相応しい食べ物は何か?】<慶事には慶事の食べ物/悔み事、すなわち悔事(かいじと読んでください)にふさわしい食べ物もあってしかるべきではないか/食べているうちにだんだん悲しくなってくる食べ物。/週刊朝日休刊。青天の霹靂。まさに悔事。書きたいことはまだまだいっぱいあった。あれも書きたかった。これも書きたかった。/週刊朝日休刊によって心が深く傷ついているので、ナメコにさえ傷つく。「あれも食いたいこれも食いたい」は36年間続いた。サラリーマンでいえば36年勤続。それを辞めることになる>と……。⇒
【どんな献立になるのか】<もちろん、お赤飯は出てこない。尾頭つきの鯛も出てこないし千歳飴も出てこない。/とにもかくにも派手であってはならない。あくまで地味、控えめ。暗め。ゴハンは白いゴハンではなくボソボソの麦めし/問題は味噌汁の具である。悲しみを伴う具でなければならない/おかずはどうする?やっぱり目刺しでしょう。殺生の目刺し藁を抜きにけり 川端茅舎/お新香も暗くなくてはいけない。と言われても、“暗いお新香”はむずかしい。タクアンはむしろポリポリと明るい。ポリポリ、ダメ。グニャグニャするナスの古漬け>と……
【結婚生活には、修羅場もあるけど、幸福や希望もある】入籍後、16年経ち――。<相手と自分が、理解し合えると錯覚するから、喧嘩したり、戦争したりする。完全には分かり合えないからこそ、相手を理解する努力を重ねなくちゃいけないし、少しでも共感できたとき、そこに大きな喜びを感じる。/生身の人間同士が同じ屋根の下に暮らすというのは、決して楽ではないけれど、それでも幸せがあるから、続けていけるのだと思う。たとえば、一緒にぶっかけうどんを食べる幸せとか。そういう小さな幸せを手掛かりにして、日々を営んでいくのだろう>と。
【しろみちゃん、卵ですよ】<あまり溶かないのが好みです。人によってはよく溶いて、よくよくご飯にまぜこんで、お箸でつまめないような状態にしてすすりこむそうですが、あたしは、それはいやなんです。卵は溶きません。ご飯にはまぜません。しょうゆは、やや、多めのかけっぱなしです。まぜません。必然的に、白身が引きずられて、口の奥までずるりと入る。そのずるりが、あたしは嫌いじゃないのです。よく白身が嫌いという人がいますけど>と。我が家と同じ😍連れ合いがまぜまぜ派。あたしゃしろみ派。家内平和のため、よく溶いていまーす😉
【礼状が出せない😥】<気にしてるんです。書くべきなのはわかってますから。書かなくちゃ書かなくちゃという思いが、抜きがたいシミのようなかたちで心の中にかたまってしまうわけです。そんならさっさと書けばいいんですが、それができれば苦労はない。世話をした人々には、さぞや、恩知らずの礼儀知らずと思われわたっているだろうと思うと、身悶えします。ときどきふっと数年前の書いてない礼状を思い出しても、身悶え、するのです>と。で、思う。<毎日のごはんも。夫婦関係も。家族関係も。家事も育児も、何もかも一期一会、などと>と……
えぇっ。それは…イケマセン。大人になって「強くて賢い母」に挑むのを楽しみにしていたらしいんですが、高齢出産の母はさっさと弱ってしまい「この卑怯モノ~」という感じらしく、とても受けて立ちたくありません。さっさと白旗。
【「開場」が、どうも理解できなくて……】「第4章 振り返っちゃ駄目ですよ」の153頁。この回の依頼は、チケットが余ったからライブに同行してほしいというもの。ということで、ライブ会場の西武球場(ベルーナドーム)に。<開場はドームなのに壁面がなく、外の空気がそのまま吹き込んでくる。屋根があるだけの屋外>。「開場」とは、会場を開いて、人を入場させること。この表現だと、入り口だけが壁面がないように誤解されないか。<開場“したら”ドームなのに壁面がなく>的な記述のほうが良いのでは。あるいは<会場はドームなのに>か。
【苗字を失ったのが、研究者として痛い】キャリアを守るために、保活に奮闘する女性大学教員の思い。<研究者の実績を確認する手っ取り早い手段は、論文目録やデータベースでその人の書いてきた論文を確認することだ。いつどんな論文を書いたか、どんな雑誌に論文が載り、どんな学会で発表され、どんな論文に引用されたか、どんな評価を受けたか。その積み上げが研究者としてのキャリアになる。結婚で改姓すれば、改姓前の実績と改姓後の実績が断絶してしまう。所属する大学や学界の制度上、旧姓を使い続けられない場合もある>と。その通りですね。
子はお参りする場所がほしいということであれば、子どもの意思に任せたら、とわたしなら思います。ま、墓に納骨するにしても散骨するにしても、遺骨の最終の後始末は、死んだ者がやるわけにはいかないので。ですから死にゆく者は、お金はある程度残しておく。そのお金をどう使うかは貴方たち次第と言い渡し。ただ大人の知恵として、もし仏教式の葬儀をした場合は、戒名代を高額にすると後々金銭的に苦労するよ的なアドバイスなどはしたうえで。
なので私も「>キホン、その時気の済むようにしてもらえばいい」です。常識的な範囲でなら気の済むようにできるだけのモノは残せるといいけど、長生きし過ぎて残らなかったら、自分の懐と相談した上で自由にやってくれれば良し。そうか、「後々苦労する」もありなんですね。深いなぁ。。
【セクシャル・リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(性行為と生殖に関わる健康と自己決定権)】釈華は思う。<妊娠と中絶がしてみたい/私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう/出産にも耐えられないだろう/もちろん育児も無理である/でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから/だから妊娠と中絶はしてみたい/普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>と。さらにそのうえで、<殺すためにも孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?/それでやっとバランスが取れない?>とも……
【生きよ】釈華の物語は、“私はせむし(ハンチバック)の怪物だから”のフレーズで終わる。この“怪物”という表記に『空の怪物アグイー』を想起したが、その後には「エゼキエル書38-39」の引用。これも大江健三郎流だな。それにしても、こんな第三次世界大戦を予言しているなぞ巷間言われる書を持ってきた真意は?と思っていたら、ラスト、突如語り手が釈華から紗花に転じている。この展開に対するわたしの解釈は、「エゼキエル書16」への導き。聖句には、<わたしは血の中にいるあなたに言った、『生きよ、野の木のように育て』>と――。
ドラマ、見ています。夫と共に毎回毎回大号泣してしまうので(自分が立ち会った友人知人親族の葬儀をどうしても思い出してしまいます)、本当に少しずつしか見ることができないのですが(2,3週間に1回程のペース😅)、とっても良いドラマです。機会があれば是非ご覧になってみて下さい。わたしも本、読んでみます。
なつさん、コメントありがとうございます。そう、まだドラマのほうは見ていませんが、個性的な社長を演じているのが「ドクターⅩ」のフリーランス医者とくれば、確かに魅力ありますね。見たいです。ただ、彼女腰痛など抱えているようですから、シーズン2はどうなるのでしょうね。同じ腰痛持ちとして、恢復を願っています🙏 なつさんのほうは、本のほうをどうぞ😊
<それに対してプレミレニアリムズは、イエス・キリストが再臨した後に、ようやく地上の悪が克服されて、千年王国が実現する、と考える。人間の力で地上を良くすることはできない。人間にできるのは、霊感によって動かされ、回心することだけだ。原理主義は、武力を用いないので、平和的ではある。でも、主流のプロテスタントの共通了解には収まらない。科学や女性運動などに反対し、現代社会のもやもやに言葉を与えている/カーターが大統領になってから、福音派は大きな勢力になった。その中心の一つは原理主義だったかもしれない>と。そうか……
【白人】<ヨーロッパでは、ユダヤ人差別が行き渡っており、ユダヤ人とアーリア人を一緒にしない/アメリカでは、黒人や黄色人種と対立する概念が、白人なので、ユダヤ人は白人として扱われる。ユダヤ人にとって、アメリカは暮らしやすい/KKKは、黒人に加えて、ユダヤ人を標的にする。ユダヤ人は、KKKに加入できない/因みに、かつてフリーメーソンに、カトリックやユダヤ教徒は、入ることができなかった。日本のよくあるユダヤ陰謀論は、フリーメーソンとユダヤ人を結びつけていて、粗雑の極みと言うべきである>と。確かに、その通りだ。
【安心して想いを語ることができる場づくり】鬼頭史樹:<「認知症の人の多くは話すことができない」と思う人がいるかもしれません。これまで多くの人に出会ってきましたが、その中に「話すことができない人」はほとんどいませんでした。ただ、出会った当初「話さないと決めている人」は多かったように思います。認知症と診断されると、家族も含め周囲の人が本人の言動を「症状」とみなすことが多くなります。そのことによって、周りのだれにもまともに話を聴いてもらえない状況が常に>なった結果、「もう話さない」と決めてしまうと。確かに……⇒
<認知症の人に何かあったら周囲の責任という保護的な考え方は、「認知症の人は自分で自分の行動に対する責任を負えない」という偏見であるというだけでなく、本人を「社会的孤立」に追い込んでしまっているのです。人はだれでも、外出をすればそこにはリスクが伴います。転ぶかもしれませんし、交通事故にあうかもしれません。しかし、楽しみたいからそのリスクを負って出かけているはずです。この「あたりまえ」のことが認知症になると奪われてしまいます。この時に起きているのは本人の「リスクを負って行動する権利」の剥奪>だと。ええ。賛成!
【犯罪予防は、女性個々人の仕事ではない。女性嫌悪犯罪の解決は国家の仕事だ】女性対象の凶悪犯罪は年々増加しているというのに、裁判所は量刑を軽減――。<社会が安全を保障してくれないので、女性はバッグの中に護身用ツールを入れ、休みの日には護身術を習いに行く。だが、いくら頑張ってもブラジリアン柔術を習っても、身の安全が100%保障されるわけではない。犯罪者が凶器で脅してきたり、護身術の技術が通じないほど力の差があったら、どうしていいのか。それに、予期せぬ状況に置かれたら、人は何も考えられなくなってしまうのだ>!
【女性の性搾取を遊びや金儲けの手段として消費する国に、女性として生まれ――】<被害に遭わないために、また加害者を処罰するために、大変な努力を要求される。デジタル性犯罪の被害を受けたら、自ら被害者であることを訴え、立証しなければならない。加害者に相応の処罰を与えるには、被害者自ら証言する必要があるのだ。被害者がどれだけ「汗をかく」かによって、犯罪者の処罰が左右される。デジタル性犯罪に遭ったら、日常のすべてを犠牲にして被害の事実を訴えねばならない>のが、韓国の今の現実。そして、それはまた日本の哀しい現実だ――
【日本は、男女ともに有償労働時間が長い】<男性の有償労働時間が極端に長い反面、女性に無償労働が極端に偏っている。/男女ともに有償・無償をあわせた総労働時間が長く、時間的にはすでに限界まで労働している/日本社会における時間の枯渇は、経済状況の違いによる時間活用の仕方の違い、つまり富裕層は自由時間を購入することができるが、貧困層は逆に多くの事柄を自らなさなければならないために時間を多く奪われるといった格差をも生じさせている。そのような時間の不足から心身への負の影響があるのはいうまでもない>と。その通りですね。
【ケアは、男性社会の中で生き延びるための権利を主張してきた女性たちの、葛藤の歴史である】<ケアはわたしたちの社会に偏在している。だが、女性たちが歴史的に担わされてきたケアは、その価値を貶められ、人間らしい活動とも考えられてこなかった。女性にふさわしいとされたケアを担うがゆえに彼女たちは、人間的に価値ある活動や領域から排除され、あるいはそこにアクセスすることが叶わなかった。その歴史とそこでの葛藤から、フェミニストたちが紡ぎあげた思想が、ケアの倫理である>。だからこそ、この文脈を見失ってはならないわけですね。
【うわのそら。この言葉が今、最も自分の心の有り様を表している】<9月に母が他界してからというもの、不思議なくらい、哀しみも、歓びも、怒りも、あらゆる感情が靄に包まれ、どこか意識から離れたところで浮遊している感覚なのだ。厄介なのは、それらの感情が消えたわけではなく、確かに存在しているということ。そこに在るのに、手触りがない。得体の知れないものが渦巻いているのに、無意識のうちに知らんぷりしている自分がいる。/「上の空」を見上げると、太陽の光で無数の埃がきらきらと輝いている。胸が少しだけ、締めつけられた>と……
【ヤマザキ・マリさんは過酷な中、逞しく生きてこられたけれど、ふとした瞬間、心の穴のような虚無感を覚えることはあるのか?】とマリさんに問えば、「いやぁ、それはもちろんありますよ!富士山の風穴みたいなの。そういう時は、あぁ、また来たなと万遍なく浸る。今は俯瞰できるようになってきましたね。ウィルスじゃないけど、寂しさとは共生していくものだなって。だから避けないで受け入れる。辛い経験を積むことで、私は肌というか甲冑を分厚くしてきたんで。低気圧で心身が重たく感じる日は、あぁ、私は今地球と連動してるんだなぁ」って……
【男子を生まない女性は、皇太子妃の資格なしと言うのか】<もし、今後も「男系男子」に固執すれば、やがて皇后となられる皇太子妃は、どれほど優れたお方でも、その家系永続のためには、お子様が女子では駄目、必ず“男子を生まないと失格”となるわけだから、/そのような、人格と生理とを無視した、非情ともいうべきリスクの大きいポストに、進んで自ら就任される覚悟のお妃選びは、おそらく至難となり、昔のように、親の権威で娘に結婚を強いることも許されない現今、むしろこの点から、“皇統断絶”の危機は生じるであろう>と。ええ、ええ。
【皇室の祖神、天照大神は女神】<天照大神は、いうまでもなく皇室の御祖神であり、女神である。また日本神話の中の圧巻は、天照大神の弟のスサノヲの尊が、ヨミの国に神去られた母神(イザナミの尊)を慕って泣き続けられる叙述である。/過激な男女同権論に与するものではない。しかし国家にせよ、家庭にせよ、場合や事情によっては、男に代わって――あるいは男と並んで――女が表に建つ必要もあり、それがかえって望ましいことのあることをも理解している。もともと男女に、知能の優劣や、尊卑の差別等があるわけではないからである>と。そう!
【ヘロインをやらなければ自殺していた】<Cは憤慨、怒り、恨み、敵意というものをまったく見せない、例外的と言えるほど、まったく緩和そのもの人だ。そういうところを私は愛している。/敵愾心という正気の気構えすら身に付けなかったのはなぜだろう? あの人の幼児期のもろもろを参照しなければ解けない問題だ。怒りを露わにするには不安が大きすぎた。でも、怒った経験がなければ、なんの守りもなくて不安ではないのか?――で、不安に耐えきれなくなる。だから、早くも18歳で、ヘロインという極端な避難策にすがり、不安と手を切った>と。
【シモーヌ・ヴェーユ】<彼女の死は自殺だった――しかも、長年にわたって自死を企んでいた(餓死を願って)。私は「フェミニストにあらず」、と彼女は言った。もちろんだ。彼女がみずからを女として受け入れたことなんて一度もない。だから、自分を醜く見せたり(けっして醜くはなかった)、不格好な服装をしたり、いかなる性生活も受け入れられないことになったり、不潔でだらしなく、住んだ部屋はことごとく整頓できておらず、といったありさまになった。よしんば誰かと寝ることになったとしても、相手は女性しかありえなかっただろう>と――。
【中井久夫は何と戦っていたのか】斎藤:<大きな枠組みとしてまず、DSM的な標準化された精神医学に対する反発があったことは間違いないだろうと思います。ただ興味深いことに、そこから一気に反精神医学のほうに行くことはなかったんですね。薬物に関しても、あまり積極的な使用は推奨しないまでも、ご自身の治療には不可欠なものと位置づけられていましたし、精神分析的なものについてもフロイトはしばしば引用していますから決して反発だけではなかったと思います。閉鎖病棟や収容主義などに対する批判も実は意外なほど書かれていません>と。
【心を可能にする仕事】東畑:<端的に言えば環境を整え、自我をサポートする仕事です。危険な状況にあって、追い詰められ、混乱しているとき、人は自分のことを考えたり、感じたりすることはできません。そういうときに必要なのは、内面をどうこうするのではなく、環境にケアを配置することです。/ホームレス支援でまず必要なのは個室です。そうやって、とりあえず向こう半年くらいはこんなふうに暮らしていけるだろうという状態になって、初めて人は「俺、不安だったんだ」「私、傷ついていたんだ」と考え始めることができる>と。ええ。確かに。
【琵琶法師とは何だったのか】<盲目という身体の刻印ゆえに流離・遍歴の境涯を余儀なくされた琵琶法師は、しばしばベーシック・トラスト(原母子関係)の欠損という心理的な外傷を負う者たちだったろう。血縁や地縁の共同体を離れ、通常の意味でのペルソナの形成を阻害されるかれらにとって、母なる水土の女神は、失われた世界の代償でもある。/ハーンは、父の本国への帰還に伴って、4歳で母から引き離された。/母を奪われたという感覚、剥奪されたという喪失感が、ハーンのその後の遍歴の人生となり、かれの文学の基層を構成したように>、⇒
<流離・遍歴の境涯を生きた琵琶法師もまた、失われたもの代償として、未生以前の世界の人格神化された存在を職能の神として祀った/母なる水土の女神は、モノ語りの発生する原郷が人格神化された存在でもある。母体からの分離に、言葉の世界への組み入れの体験の原型がある以上、例えば、平家物語に頻出する慣用句、「あはれなり」は、人としてこの世に組み入れられてあることの根源的な矛盾とその哀感の表白である。琵琶法師の声とともに生成した平家物語は、たしかに人であることの哀しみの根源のようなものにふれているのである>と。確かに……
【家事は、面倒くさい】<そう信じてきたのは紛れもない私です。/家電メーカーのせいだったのでしょうか。私はただ無自覚に、宣伝文句に騙されていた被害者だったのでしょうか。いや、そうじゃない。もちろん影響は受けてきた/でも騙されたわけじゃない。私こそが、自分の時間をずうっと2つに分けてきたのです。「無駄な時間」と「役に立つ時間」と。「無駄な時間」っていうのは、そう、家事とかそういう「面倒くさいこと」をする時間です。評価もされず、お金にもならず、そういうことをする時間。「役に立つ時間」っていうのはその逆>だと。⇒
【面倒くさい世を味わい尽くす】<私はこれまでずっと、他人と差をつけて豊かになろうとしてきただけじゃなかった。その戦いに勝つために、つまりは他人より上に立つために、自分自身の時間も差別してきたんです。無駄な時間を疎ましく思い、排除しようとしてきた。だから頑張れば頑張るほど、自分の人生の一部を憎むことになった>と。そんな著者が、「節電チャレンジ」を通じ実践してきたのは、<日常の中の「無駄だ」「役に立たない」と思ってしまいそうなこと、そう「面倒くさい」と思っていたことを、心を込めて一生懸命やること>だと。同感。
【神になれなかった、コンプレックスの塊だった男】<この本を書くために、若い頃の隆法が書いた『太陽の法』の初版を読んでみた。そして、ちょっとびっくりしてしまった。今とはぜんぜん隆法の調子が違うからだ。初版を書いたころの隆法は卑屈で、謙虚で、自分の劣等感を隠そうとはしない、いじけた青年だ。1回目の東大受験に失敗したことや、失恋をしたこと、自分自身への嫌悪も赤裸々に告白している。はっきりいって、少し同情してしまう。この隆法に共感してファンになる人がいても不思議ではないし、実際そういう人はたくさんいただろう>と。
【本書は3年前、2020年に他出版社で出版寸前までいった……】<しかし、幸福の科学の職員がその出版社の社長の自宅に嫌がらせのポスティングをしたり、担当者に何度も何度も電話をかけて「これ出版したら大変なことになりますよ?」と繰り返し圧力をかけた結果、お蔵入りになってしまった。それから苦節3年。/しかし、どこも「訴訟されるのが怖い」と取り合ってくれなかった。最悪、自費出版にしようと、と相談していたところに大川隆法が死に、そして、幻冬舎さんにお声がけをいただき、こうして無事、出版へと漕ぎ着けることができた>と。
【恩寵や特別な恵みへの願いがすべて表現された後でのみ届けられる唯一の祈りは、「私を神の御前にあらせてくださいますように」である】<シモーヌ・ヴェーユは「絶対の関心とは祈りである」と言った。これについて何年か考えてきたが、考えるほどに真実が深まってゆく。私はこの文章をよく、学生に詩の話をするとき引用した。対象はほとんど何でもよいが、花にせよ石にせよ木の皮にせよ、草、雪あるいは雲にせよ、一つのものを絶対の関心で長いあいだ見つめていると、天啓に似たものが得られ>、常に“自己の外にある”現実が、授けられる、と――
【自分が誤っていたと認めることを非常に恐れている】<けれど、それができたとき始めて、宥しの光がさしてくる/私は、自己憎悪の地獄、さらにわが愛する人と争い合う地獄まで下りてゆき、ついで自分を宥すとともに、相手を宥すという天国に帰ってきたことで甦った。なぜなら、私たちが争っているあいだ、真実は隠されているのだが、直面することさえできるなら、それを明らかにすることができるから。何週間も何カ月も、私は相手を宥すという、挫折した疑似平和の中で自分を納得させてきた。しかし、深い愛のあるところに深い愛はつきもの>と……
【ヴェイユの考え方は、日本中世の浄土系僧侶に似ている】<親鸞が、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と言います。善人が浄土に往けるというんだから、悪人ならなおさら往けるんだ、という言い方を親鸞はしていますが、ヴェイユの考えはそれに近づいている。不幸とか、死とかに関連していえば、あらゆる現世に対する執着を断ち切ってしまわなければ、絶対に神あるいは神の恩寵には到達しないと/現世にある執着を全部取っ払ってみずから慰めようのない不幸と言いましょうか苦痛にじぶんをおくと>、恩寵の慰めが向こうから来ると……
【『ヨブ記』の続編――神とヨブの和解の仕方を、各自が書き直す】<書き直しちゃったほうがいい/内村鑑三も優秀ですから、ここはこういうふうに言われているけど違うとか、ここは誤訳だとやっています。だからそれは少しも失礼にあたりません。それは『ヨブ記』を読むことの最後の完成だと思います。そうすると、『ヨブ記』のなかのヨブという人物は、福音書のなかのキリスト・イエスととても似た性格が与えられていますから、なぜキリスト・イエスが出現したかとか、なぜそういうふうに位置づけられたかということがとてもよく理解できる>と……
【断片的な語りの聞き語り】<一人の人間が歩んできた人生の中で、どんな人と、どんなかかわりをもち、どんな思いを抱いてきたのか。すべてを聞き書きすることも理解することもできるはずはない。けれど語られた記憶の断片を、都度書き留め積み重ねていくことで、言葉にはまとめきれない多面的なその人の歴史の一端に触れたり、想像したりできるのではないか。/表現の方法にこだわり、様々な形を試みてきた/表現するということは、私の観点で聞き語りを編集するということ>。本人と接点がない人との情報共有のために、必要な作業と考えたが……⇒
【編集することで、毀れ落ちる……】<けれど、編集することで、こぼれ落ちてしまう、その方の複雑な思いや人との多面的なかかわりの歴史があるのではないか。共に歴史を歩んできた家族にとっては、編集することでこぼれ落ちてしまう、まとめきれないものこそ大切なのかもしれない。/私は、断片的な語りを書き留め、未編集のままその都度家族に提示する。家族はその断片的な語りの聞き語りを、家族の歴史の中に置き直し、ある意味家族ならではの編集作業を通して、本人の言葉を受けとめ、思いに触れていく>と。この記述、とてもよく判るなぁ……
【成瀬は、毎年大吉を引く】メモ続き。<スマホを持たない女子高生>。<(父親によれば)緊張しているあかりを見たことがない>。<(武将のような自身の話し方について)小学1年生ぐらいから自然とそうなった>で、両親は止めない。「そのうち直るかなって思ってたんだけど、もう慣れちゃったね」と。<わたしは次から次にやりたいことを思いついて困っているタイプだ/少なくともわたしは人に教える仕事はできない。問題を見たら一瞬で答えがわかってしまいからな>。<線形代数学の授業でケーリー・ハミルトンの定理を習って感銘を受ける>。⇒
【瀬をはやみ~の成瀬あかりでございます】メモ続き。<けん玉パフォーマンスを行うびわ湖大津観光大使>。その観光大使応募理由を記者から訊かれ、「わたし以上の適任者はいないと思ったからだ。/ときめき地区の発展に努めてきた。その活動範囲を大津市全域に広げるのが一年間の目標」と。<シーチキンとライトツナの違いが判る女子大生>。<自宅の電話番号は、「コンビーフはうまい」>。<不思議なオーラがある>。<出産も、大きなトラブルもなく無事に生まれ、「まわりを明るく照らす子になるように」とあかりと名付けられ、すくすく育つ>。
【思い出のおっちゃんたち】<力みのない両親の社交性ゆえに、うちに来るおっさんの手土産はみんな「アホ」だった。アホを持ってきて「アホやなあ」と笑っていた。会話の内容なんてほとんどわからなかったけれど、物事を笑えるということが、生活を豊かにする近道なのだと知った。おっさんたちもおそらく、日々の中で笑えない悩みや葛藤を抱えていたに違いない。それでもうちに来るおっさんはいつでも明るくアホをやった。子ども時代にその光景を見聞きしていただけで、私は随分生きやすかった>。正しさを軸に物事を堅苦しくしそうな時に、そう……
【人生には様々な後悔が】<芸人という職業は、舞台の上では目の前の人たちを笑わせることに集中しているものだから、自分でも驚くほど狭い視界での言動をしてしまうことがある。お客さんの前では強気に振舞っていても、袖にはけた瞬間に「なんであんな事言ったんやろ」「あれも言えば良かった」と後悔に襲われることは日常茶飯事で、他のコンビを見てもたいてい楽屋に戻りながら「あそこごめん」「いや俺も」と移動式反省会を始めている。ウケた時はいいのだが、スベった場合は目も当てられない。「なんであんな事言ったん?」と言われても>と……
【超人役行者】<役行者という神格化の広がりは、奈良時代以降、国家仏教化し、その伽藍中心の仏教では庶民の救済に手が届かない時代が続くなかで、たとえば行基や空也、一遍のような遊行の聖と呼ばれる宗教者に人気が集まったことも無縁ではない。「超人役行者」は、千年余におよぶ修験道という実践宗教が求め、形成してきた理想像なのだ。/役行者の宗教性は、日本の宗教がさらに広い宗教の融合性のなかに形成されて行くことを示唆していないだろうか>。光格天皇から贈られし「神変大菩薩」の諡号こそ、神仏習合の人であることを体現する、と。
【山岳修行の中で気づき、発見して行く無数の生命とその在り様、世界を無数の仏の姿に捉える密教の世界観】<山岳を形成する自然の一つひとつが曼荼羅を構成する一尊一尊としてとらえ直されてゆくのである。山が曼荼羅としてとらえられてゆくとき、修行道場としての山は「悟りの本質を得る」聖なる場となる。そして水と樹木という自然の原質が、祈りの対象からさらに抽象化され、密教儀礼のなかで火とセットの関係で象徴化されてゆく。「水と木と火」は修験道儀礼の象徴であり、それは同時に山岳という自然を形成する生命の原質でもあるのだ>と。
【極論が共存する国】<作為と自然。漢意と大和心。保守とリベラル。ふたつの極論の対立は何回も何回も繰り返される。そして両者を往復する形でアイデンティティが形成される。日本はそういう意味では、すごくリベラルなようでいて本質は保守的だとも言えるし、逆にすごく保守的なようでいて本質はリベラルだとも言える。そういう土壌があるからこそ、かつて日本こそが東洋と西洋の融合という世界史的な使命を帯びているという議論も出てきた。訂正する力はヨーロッパの哲学から導き出した概念>だが、日本の文化的なダイナミズムを表現する言葉と。
【平和な国とは「喧騒に満ちた国」でもある】著者は最終章末尾で、<訂正する力は喧騒の力でもあります。社会の全体がひとつの話題に支配されないこと。「友」と「敵」の分断に支配されないこと。いろいろなひとが政治的な立場と関係なく結びつき、いろいろなことを語り、極論が極論のまま共存し続け、いつも新たな参加者に対して開かれていること。日本には古来そのような喧騒を重んじる文化的な伝統がありました。その伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義すること。それが日本復活の道となります>と。
【檀家】<江戸時代の寺院には、大きく祈禱寺と葬式寺の二つがあった。祈禱寺は、現世利益などの祈禱を行なうのを主務としたのに対して、葬式寺は檀家の葬式を主務とした/自力を否定し、祈禱などを否定する真宗寺院は、もちろん祈禱寺ではなく葬式寺であった/他宗の寺院は、僧侶が妻帯しないために、檀家との関係が切れやすいのに比して、真宗寺院は妻帯し、子どもが跡を継いだので檀家との関係が維持しやすく、いわば、真宗寺院は、寺請制度に適合的>であり、それゆえ真宗寺院は、江戸時代に大いに展開していった、と。確かに、その通りですね。
【葬式は、死語に極楽浄土や兜率天浄土に生まれたいと願う人々に応えるもの】<「葬式仏教」といわれるのは、僧侶たちが葬式や年忌の法事、墓地の管理などにかまけて、現在を悩みながら生きている人々の救済願望に応える努力をしていないように見えることに対する批判である。しかし、翻って考えてみると、たとえば葬式をきちんと僧侶がとり行なってくれるというのは、一人の人間にとって「誕生」と並ぶ「死」という一大画期を荘重かつ厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違いない/葬式は人間の根源的な願いに応えている>と。ええ。
【群れるな。ひとりが一番強い】<「何か善いことをしているときは、ちょっと悪いとをしている、と思うくらいがちょうどいいんだぜ」というのは、父の言葉だった/それは電車でお年寄りに席を譲ったり、重い荷物を持ってあげたりする行為を指している訳ではない。どんなに“善いこと”でもたとえNPOでも、集団で行った場合それは“悪いこと”に転じてしまうのだ。また、これは絶対社会正義だからと、同調圧力を振りかざす世間の空気からも“ひとり”であらねばならない>と。隆明は党派を嫌った。そこでは、誰もが“ひとり”ではなかったから――
【目が見えなくなっても、拡大鏡で斜め読み】<最終的に長い書評を書けって言われたのが『カラマーゾフの兄弟』です。あれの新訳を文庫にしたのが何冊もあって、全部斜め読みして。2、3日拡大鏡で読んでましたけど、全体像をつかんでる。それがやっぱりサヴァン症候群の一種だなっていう。/『フランシス子へ』を編集していたお姉さんたちなんかも「おじさんたちは真っ正面から一字一句読み解こうとするからダメなんだよねって。「ダーって読むと意外とわかっちゃうのよね、内容が」っていう>と。頭から読もうとせず、斜め読みでいいんだ、か……
【「若者の本離れ」というウソ】飯田一史:<「子ども・若者の本離れ」とよく言う。これは初歩的なデータを確認せずに発信され続けている妄言/近年の小中学生は1955年に調査が始まって以来もっとも平均読書冊数が多く、不読率はもっとも低水準にある。/児童書市場は1998年には推定販売額が700億円、2022年には923億円。少子化が進行したにもかかわらず堅調/多くの人が「本離れが進んでいる」と思ってしまうのは、出版市場が縮小し、書店数が減少しているから>で、特筆すべきは「官民挙げての読書推進施策が実を結んだ」こと。
【認められたいが目立ちたくない――複雑な承認欲求の謎】金間大介:<承認欲求があるのにもかかわらず、さも「そんなことは関係ない」「他人は全く関係ありません」と振る舞うのは恥ずかしいことだ。明らかに承認欲求を満たすための努力なのに、それをことさら隠そうとする姿勢はむしろ感じ悪い。そんな傾向が、今の10代から20代の若者世代にはある。いい点を取ろうと思ってちゃんと勉強した翌日、「昨日どのくらいがんばった?」と聞かれて、「全然!」なんて答えたら、プチ炎上必至。「いや、めっちゃやったよ(笑)」と答えるのが正解>と。
【街中にベンチを!】(株)グランドレベルの田中元子代表は、<日本の都心には、本当にベンチがない/床や階段、手すりや建物の基壇など、海外の方はあちこちにすぐ座ります/まちは万能ではないので、もし困ったときは人力で補完し合う場面も出てくるはずですが、ベンチすらない環境では、そのような可能性も低くなってしまう。/心身に余裕なく、立ち止まって眺めることすらないまちの体験そのものが、シビックプライドを醸成する機会すらなく、みすぼらしい/このような現状に対して、もっとも即時性、即効性のあるアイテムが、ベンチだ>と。⇒
【排除ベンチ】ベンチ設置の活動する中で、次の事実を知る。<日本ではベンチを作るメーカーは、どなたかを排除する目的の設計を前向きな言葉にすり替えている、ということでした。/発注の内容には、高めの手すりをつけて寝転べないようにする、長居できないように座面を狭く高くするといったニーズがいくつもあるようで、それらに応えていった結果、誰にとっても座り心地や居心地が悪いベンチがいくつも誕生していました>と。ベンチの効果は「まちにやさしさが実装されること」と思って活動してきたのに、設置されたのは排除デザインのベンチ……
【……でなければならない。……べきだ】<それは私が自分自身を支えるために用意する、堅固な柱であり梁だった。私がいつもこのような話し方をして他人にも自分自身にさえもプレッシャーを与えがちなのは、わずかでも倒壊の可能性のある曖昧な要素を、自分の住まう家から根こそぎ排除しておきたいからなのかもしれない。……かもしれない、……の方がよい、などとセメントで固める前の砂のように脆い素材では、寿命までの数10年を支えていくことはできない。それがたとえ形を持たないただの言葉であれ>と。こうした記述に、強く惹かれるなぁ……
【追記感想】「言葉」が「言葉」を呼び、「想い」が脳裏に拡がる読書体験でした。連想・想起したものから、3つほど。①同情。被援助者側からは嫌われる言葉の一つだが、「韻」のほうを重視したのか。②昔、「ノーマライゼーション」も「施設解体」も言われてない頃、障害者たちは山奥の「コロニー」なるところに収容された。設立者は「世間の差別から障害者を守る(保護する)砦」だと!③南青山に、児童相談所などの複合施設建設を巡って地元住民から「南青山のブランドイメージに相応しくない」の反対も。逆に、広瀬隆氏は「東京に原発を!」と。
【ヘラー判決:2008年、連邦裁判所は「自由な国家の安全」についての歴史的判断を下す】<それまでの解釈を根本的に変更し、修正第二条の定めた、銃を保有する権利は、市民が自衛のために銃を所持するためのものであると決した。従来の判決は、銃の保有はミリシアを創るために認められたものであるとしていた。これを覆し、個人の自衛権を行使するために銃を持てることになったのである。この結果、連邦政府はもちろん、州政府や自治体が銃規制の法律を制定することが、大きく制限されることになった>と。共和党の努力の下、5対4の僅差で――
【暴力に寛容なのは、トランプを支持する共和党員や右翼だけではない】1992年、スピード違反の疑いを掛けられた黒人男性が白人警官に暴行されたことがきっかけに起きた、ロサンゼルス大暴動。<民主党系の知識人のなかには、この暴動を人種差別に反発した人々の反乱として理解する者もある。それは、暴動の責任を、暴動を起こした人々にではなく、人種差別を放置する政府や警察、裁判所に求めようとするものであった。左翼や民主党の中にも、政府への暴力を容認する風潮が広がっていた>と。目的は必ずしも手段を正当化しない、とわたしは思う。
あ、そこ? (乱暴に要約すると)雨宮さんは、れいわ新選組のシンパ。この政党と公明党とでギクシャクする案件があり、それについて佐藤氏が雨宮さんに公明党サイドの話をする。その箇所を読みながら、以前より不思議に思っていた<佐藤氏が創価学会にシンパシーを持つ理由>が、わたしなりに判明。それはどうやら、<佐藤氏が故・池田名誉会長を高く評価している>ことに起因するものと了解。それだけです。それ以上は本書に書かれてない。先に挙げた本などを読めばより理解できるかもだけど、今はこの程度の情報で良しと。さっくりとこんな感じ。
そうなんだー(^-^;ワカラン! いろいろ読んで知ってたgenさんだからわかるものなのですね。公明党のことをちゃんと考えたことがなかった(自民党とつるんでるな、とか宗教な政党だな、とかしか)のですが、池田名誉会長って、けっこう評価されるんですね。そりゃそうか。あれだけ多くの人たちに尊敬されてるんですもんね。わからんちんに説明ありがとうございました。
【2014年、母はアルツハイマー型認知症と診断されました】次女のノエルは、<母の病気を公表することに、この本を出すことに、色々な考えを持たれる方がいるのではないかと思います。時には辛辣に思えるかもしれない内容に、抵抗を覚える方もいるかもしれません。でも、母が母の真実を書いてきたように、私たちにも私たちの真実があります。それは、どの家庭にもあるような、ほろ苦く、切なく、とても複雑な、だからこそ美しい物語なのではないかと思います>と書いた後、<人間としての母に対する私たちのリスペクトは揺るがないものです>と。
【姉を出産した翌年、文藝春秋を退社し、ロシア、ヨーロッパを鉄道で横断した後の、豪華客船の上で出産】「横浜、イースト・ハンプトン 1965――」(ノエル)から。<「階段を何度も上がったり、下がったり、それでも陣痛が起きないから飛び跳ねたりして、もう必死だったわ」と、まるで自分の予定通りに生まれない私の方が悪いかのように。そして、クリスマスの夜明け前、母は見事に私を生んで見せるのです。聖なる朝の奇跡の出産。/そんな、自分が思い描いた物語を現実化してしまう、ものすごいパワーを母は持っていたような気がします>と。
【私には大勢の「家族」がいる】著者は2014年頃に、アルツハイマー型認知症と診断される。それでも、量を減らしつつ仕事を続けていた。だが、2016年5月から雑誌で連載したエッセイを、認知症の悪化により10か月で連載を中断せざるを得なかった、と2022年刊の『ペガサスの記憶』で娘たちが公表。本書は、2017年3月書き下ろしで出版だが、直接自身の病気への言及はなく、<この先どうなるのか、自分でもわからない。しかし病気になったとしても、万が一倒れて寝たきりになったとしても、きっと誰かが助けてくれるだろう>と――。
【恋は突然、嵐のように】著者は書きます。<私が未婚の母となったことについて、自由を追い求めてやまない自立した女であるから、あえてそういう道を選んだと思っている人も多いようだ。しかしそれは大きな誤解、あるいは、買い被りと言ってもいい。私は何も、主義主張に従って、好き好んで未婚の母になったわけではない。私は家庭というものがとても好きなので、本来、結婚という一蓮托生の関係に向いている人間だ。いずれ結婚しようと思っていたし、まさか結婚せずに子どもを産むなんて、考えてもいなかった>と。わたしも、誤解していた一人……
え゛~! 「てんてん」なんて呼んでなかった。濁点って呼んでますよ。(ハイ、「え゛」が一番お気に入りです。)ところで「゜」はなんて呼ぶんでしょうか?もっと可愛いニックネームがありそうな姿態ですが。でも「え゜」「あ゜」とか発音しようとしても「ぺ」とか「ぱ」になちゃいますよね。
<他の人たちは明るいところで、ニコニコ生きているのに、どうして私は暗いところでビクビクしてるのかわからなかった。この暗いどこかが一体どこなのかわからないまま、何年も時間が過ぎて、48歳のときに、そこがどこなのかわかりました。【ジャングルの中にいたのです】私の脳だけが見せてる、私だけのジャングル。私にしか見えないし、感じることができないジャングル。【その正体は、“発達障害”というらしい】ジャングルって、イメージできますか?/何が飛び出してくるかわからない。いつも緊張してて、安心することができない世界>だと。
【みんな土台は違う。頑張ってもできない人に配慮するのは、ズルいですか?】友人の娘はグレーゾーンで、起立性調整障害。その友人の訴えに著者は、<はじめて合理的配慮という言葉を聞いた時、「一人ひとりに合わせた配慮をするって素晴らしい!」と思いました。けれども学校は、その理想には追いつけてないんだな、と/学校の先生はいつも疲れていて、余裕のないように思いました。毎年メンタルを病んで休職する先生たちが出るのを見て、教育の場は危機的状況なんだと/教育は子どもたちのためにあるので>、皆が楽しく学校に行けるように、と。
【昔の縁側を!】太田:<ヨーロッパの高齢者住宅には、自分の半生をディスプレイしたスペースが必ずあります。子ども時代から今までの写真を見て自分の時間を行ったり来たりする。これは日本では、朝のお勤めに該当するのではないでしょうか。お仏壇に手を合わせながら、亭主は浮気ばっかりしてたなぁなどと思い出すことは、ある種の回想療法です。そうするとものすごく落ち着く。またヨーロッパでは窓辺に置く植木鉢を外から見えようにしているところが多い。するとオモテを通りがかった人が、鉢植えに気づいてふっと中に入ってくる>と。確かに。
【“支え合いを支える”ことが、これからの社会保障や福祉のポイント】中央大学法学部・宮本太郎教授:<自助、互助、共助、公助という言葉がありますが、互助はそれだけで持続しなくて、互助も支えられなければならない。/“自助・互助を支える共助・公助”がなければいけない。ところが、僕は「線引き型」と「連携型」と呼んでいるのですが、今は元気な人は自助でやれ、少し弱ってきたら共助を使う。どうしようもない人は公助でみる>が、線引き型。連携型は、互助を支える共助・公助があり、NPOなど多様な主体が支え合いをサポートする、と。
【わたしにとって櫂は煌めく火花だった。そして北原先生は海だった】「波を渡る」:先生は、その佇まいから年配者を思わすが、暁海に出会った頃の結が5歳なので、当時は31歳位か。わ、若い🤩 <物語は不思議だ。内容は同じなのに、自分の気分や状況によって胸に残る場面や台詞が変わる。以前に読んだときはあまり好きではなかった人物をなぜか好きになったり、苦手なままだけれど気持ちを理解できたりする。物語は『今の自分』を映す鏡のようであり、言葉という細い細い糸を手繰って、今も櫂と手をつないでいるように感じさせてくれる>と。⇒
【子育てはお互い様です。ぼくも結に育ててもらいました】結の結婚式を控え、北原先生は教え子だった菜々から、「結をあんなに素敵な女性に育ててくれた。それは先生のおかげ」と言われ、自らの思いを語り回想する。<仕事と子育てをひとりで担うことは想像していたよりも大変で、暮らしのあらゆる場面が手抜きになった。できないことがあって当たり前という感覚が普通になり、それは他者への優しさになった気がする。それまでのぼくは『大変なこと』を投げ出さずに遂行することで自分を支え、それはぼく自身を縛る不自由な鎖になっていたのだ>と。
【私は自分を大切にしていなかった(自分を愛してはいた?)】<今では、すでに苦悩というものを知ってしまった自分がいる。私は生きおおせた。独りっきりだ――愛されていないし+愛する相手は誰もいない――/切り離された気がする、魅力ゼロな気がする――/愛されるような自分じゃない、と思う。でも、その自分のなかにいる可愛げのない兵士を大事にしたい、と思う――必死に生き延びようと、正直になろうと、正義を踏み外すまいと、誇り高くあろうと、苦闘している戦士。自分を尊重している。いじめっ子たちに二度とひれ伏すつもりはない>と。
【惨めさも弱さも見せた母親を哀れに思う、私】<褒めそやしたり憐れんだりして自分の共感能力を鍛えよう、そうすれば、つまらない罠には嵌らないで済むはずだ、と。親切にしよう、寛容になろう。だがまた、私は母に対して優位に立つ存在にもなった/助けを求めるとか期待するということはなく、自力でやっていける強さがあった。しかも私ときたら、欠落を抱え込んだまま、満たしてくれる存在も自分においては皆無だというのに、母の欠けた部分を補うことまで買って出ようとした。つまり、私もまた、母を甘やかしていた>と。アダルトチルドレンだ…
【一方、食レポも唸るレベル】主人公は売れない作家だが、友人の菜摘は芥川賞受賞作家。その2人が会食した時の描写。<菜摘ちゃんは「オススメ!」に書いてある割合でソースを調合し、おろし玉葱や大根おろし、大蒜を加えた。そして肉を一口切り取り、ソースをつけてから口に入れた。「うんうん」と何回か小さく頷いて唸ってから、テレビによくある芸能人の食レポみたいに大袈裟に目を見開いて「うーーんっ!」と間の抜けた長い声を発し、一拍置いて「うっわー!」と小さい「っ」をきっちり入れ、「おいしい」と語尾を伸ばしながら呻いた>。巧い!
【優しさって……】後輩の社会人2年生・福島さんは、上司のパワハラで体調を崩したまま退職した。主人公は思う。<優しい職場作りというのも結構だが、優しさだけで通用する世の中でもない。私に「もっと自分の身体を大事にしないといけないよ」と言った中学校の先生みたいに、優しさが独善的な押しつけに変化するのはよくあることだし、誰かに対する優しさによって他の誰かが割を食うこともしばしばだ。福島さんの退職によって、ほっとする自分がいるのも事実だった/私は結局、他人に対しても自分に対しても優しくなれない人間だ>と。うーん……
【民俗学のプリンス・宮田登】<宮田は人懐こい。口調はいつも柔らかだったし、むつかしい話でも笑みをたたえながら静かに語る人であった。会議などで意見が対立し、険しい雰囲気になったときなど、かれの存在は貴重であった。かれが口をひらくと、丸くおさまってゆくことが多かった。それに民俗学者らしく、博識であった。この世の話だけでなく、あの世の話もできる。だから、いっしょに歴博から水俣に聴き取りに行ったときでも、シャーマンのような女性患者や石牟礼道子のような魂の浮遊する人からも聴き取りができた>と。うん。この人の本も……
【社会史的な新しい歴史学を開いた、網野善彦】<世間的には功成り名遂げたその期に到っても、網野は自分が国史学界の孤児であるようなことを言っていた。/小熊英二との対談でも、「実際、私自身なぜ現在のように『網野史観』などという評価を世の中から受けるのかわからないのです」と訝っている。/成田龍一との対談でも、網野の功績をほめちぎる成田に対して、かれ自身は「『日暮れて道遠し』の感が強いですね」と言っている。かれは死ぬまで自分は学界から孤立しているのだと信じていた。これは謙遜などではなく本心だろうと私は思う>と。
ご訪問していただき
深く感謝しております。🙏
読友さんたちのレビューなどを読むことで、
多くの良き本に出逢え、有り難く思っています。
【お気に入りについて】
悠々自適のシニアライフになる筈が、根が貧乏症なためか、
相変わらずの忙しない日々で、やれやれです。
で、直近の課題は、古典の精読。
その時間確保で頭を悩ませているのが「お気に入り」への対処。
「承認欲求」と「数字の魔術」に未だ囚われていますので、
「お気に入り登録」して頂けると正直嬉しく、こちらもお返し登録したい。が、(当方のキャパ以上に)「お気に入り」の方が増えたことで、
レビューを読むことに時間がかかりすぎる現状が、悩みの種に。
そこで、当方が「お気に入り」登録する方は、
共読本が多くて、交流のある方のみとします。
交流の基準は、ナイスで判断するしかないと考えているので、
共読本以外の本のレビューを読んでいる(判断はナイス)方とします。
ただ、あくまでこれも原則です。
どうしても例外事例が出てくるのが困るところで……
何卒、ご理解を。m(__)m
【引用について】
気に入った文章を脳裏に刻むため、
引用多いです。
そして、その引用は、
コメント欄まで侵略し、
もう、ね……
引用文は、< >内に。
略す場合は、/ を使用。
極力、原文そのままを目指すが、
255字内に、収めきれないため、
ひらがなを漢字に変換する
などの小細工をしてしまう。
その度、無念の思いを――
【語尾が曖昧です】
過度に自信のないタイプです。
それが文章にでるのでしょうね……
末尾が「……」となるのが多いです。
どうか、お目こぼしを――
これからも、本や読み人との、
素敵なご縁を願って――
ネギっ子gen 拝
※2023.11.8 改定
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【セクシャル・リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(性行為と生殖に関わる健康と自己決定権)】釈華は思う。<妊娠と中絶がしてみたい/私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう/出産にも耐えられないだろう/もちろん育児も無理である/でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから/だから妊娠と中絶はしてみたい/普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>と。さらにそのうえで、<殺すためにも孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?/それでやっとバランスが取れない?>とも……
【生きよ】釈華の物語は、“私はせむし(ハンチバック)の怪物だから”のフレーズで終わる。この“怪物”という表記に『空の怪物アグイー』を想起したが、その後には「エゼキエル書38-39」の引用。これも大江健三郎流だな。それにしても、こんな第三次世界大戦を予言しているなぞ巷間言われる書を持ってきた真意は?と思っていたら、ラスト、突如語り手が釈華から紗花に転じている。この展開に対するわたしの解釈は、「エゼキエル書16」への導き。聖句には、<わたしは血の中にいるあなたに言った、『生きよ、野の木のように育て』>と――。