読書メーター KADOKAWA Group

うつしみさんのお気に入られ
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  • ばたやん@かみがた

    積ん読、借り本優先なので、感想のアップは遅くなります。

  • kokada_jnet
    • 東京都
  • エンゼルフレンチ
    • うぃっくす
      • B型
      • 事務系

      今までこつこつエクセル使って読書感想文書いていたので読んだ本の管理もできて便利!と思って読書メーターはじめました。感想文もう少し長く書けたらいいな…。
      基本的にこだわりはないけど、ミステリー、文学が多いです。恋愛小説は全然読みませんヾ(。゜▽゜)ノ

    • murarara
      • 無職

      隠れコミュニティ、「エニートたちの読書会」のぬし兼目利き担当候補者。

      攻略中のブックリストがある。

      偏ってます。
      ブッククロッシングとコロプラのような位置ゲーと旅と温泉と史跡散歩あたりを絡めたら楽しそうな気がする。
      読んでみたい本を片手にちょっと遠出し

      て読み終えた本を手放して、縁のある本を連れて帰って…本も人もまた旅に出る。

      どのくらい本読んでるんですか?と聞かれて。

      考え込んでしまった本の数え方について。
      冊数はあてにならないと思ってはみたものの、
      ページ数、
      文字数、
      重ねておいての高さ、
      横に並べておいての長さ、
      ならば重量(10キロとか)、
      ならば体積(2リットルとか段ボール1つとか)…
      本の量り売りは見たことないけど
      本とのかかわりは運ぶことがメインだったような気がする自分にとってはやはり重さだろうか。
      水を吸うと大変だが。
      重さがない電子書籍はどう数えようか。

      プロフ更新20220206
      隠遁者。
      曾て学び働いていた頃は都市にありしが、
      人々の欲望渦巻く濁流に揉まれ、
      己がスペックを鑑みて努めても届かぬ程を知り、
      汚濁の行き着く果てを思い、昇進の望み失せて、
      世俗の穢れを避け、鄙びたる地に向かい、
      深山の奥、幽幻の仙境にて、
      思索と逍遥と鍛錬に愉しみを見出し、
      召喚魔法を得意とし、ネット検索で身につけし知識、技など用ひて、
      雅たる暮らしをなし、10年ほど経つ。
      たまに里に現れ、賢者と呼ばるるも、
      まだその有り難き域に及ばずと自戒す。
      噛めば噛むほどに、とスルメ系哲学者と呼ばるるも、あったりめぇだろ!と自信満々に返す能わず。当たり前を疑い、吟味するゆえに。

      今のところは産まず育てず働かず。
      あとは死ぬだけ。死ぬことだけで大仕事。

      20200519
      きーめた。
      それだったら、幼いころから今まで散々雑食してたけど儂は読むことで邪悪化するようなコンテンツはインプットしない原則にしよう。
      読まない本のジャンルを決めるだけで読みたい本にかけられる時間が増大するわけだから。

      ブクログ(注力してた。2014.05.10~2020.10.25)
      http://booklog.jp/users/murarara

      立ち読みにアクセスしやすい利便性と濃ゆい感想をシェアし合うには読書メーターのほうがコミュニティの雰囲気としては向いている感触を得るので、使い分けで行こうと思う。(ほんとは両方にインポートエクスポートしたかった。)

      20200521(甲子)更新。

      データベース検索技術とコミュニティマネジメントの他流試合でインテリジェンススキルを爆上げ中。

      その高めた登攀スキルで巨人の肩に攀じ登る。
      nani gigantum umeris insidentes

      ゆっくりゆっくり一息つきながら途中の景色も味わって、見渡せるものを海馬に刻む。

      cf.Ulysses Tennyson, Alfred Lord 18 I am a part of all that I have met;

      https://blog.goo.ne.jp/gtgsh/e/890818f504350e50de972a845f49add5

      肩の上に立った時、何を思いながらそこまで辿り着いたのやら走馬灯のように振り返ることになるだろう。

      しみじみと感じ入って、をかしもあはれもないまぜに。

      あくまでも日本人の情緒の立場で、地球文化の現代における後継者という立場から味わえるものを目いっぱい存分に味わって。

      そして、どこまで彼方を見渡せるか。すっかり見てしまって、さあこれから。っていうときに心身が限界で衰えてもはや残り時間が僅かしかないというのは、
      儂なら絶対…
      後悔する。
      これまで地上で繰り広げられてきたどれほどたくさんの人生が、命の灯が尽きそうな終末期の瞬間になってやっと一端でも垣間見て、見えてしまって「あ!」っという間に骨になったのだろう。

      若くてエネルギーのある充実した肉体に鋭敏な精神が保たれているうちに、肩の上まで登ってしまいたい。

      Festina lente!

      数量化して最短効率で一直線という戦略ではかえって見落としが多そうだ。

      寧ろ、大いなる道草を経てきた方がいいとはっきりと直感がふってきた当時、まだ24歳だった。

      そのようなことを予見しながら登っているが、アトラースが肩をすくめてしまったら、転がり落ちてしまうかもしれない。cf.Atlas Shrugged, Ayn Rand

      ここで文法解析。
      gigantumの性数格は男性名詞・複数形・属格。
      よって、巨人は複数形に注意する。

      なんとなく巨人族が組体操して人間ピラミッドしてる様を想像し、てっぺんの巨人が調子こいたのかドドドと崩れて戦場に残された死体の山になってて(cf.ワールシュタットの戦いでワールシュタットがそんな風に訳されてたのを読んだ)
      矮人がうろちょろしてる様まで妄想した。
      スーファミのレディストーカーで寝ている巨人の周囲をちょろちょろするダンジョンを攻略したような遠い記憶。
      https://w.atwiki.jp/gcmatome/pages/274.html

      ”Giants”
      https://www.tamagawa.jp/graduate/educate/column/detail_10588.html

      リヴァイアサン (ホッブズ) の絵の、人々で構成される王冠を被った「リヴァイアサン」も巨人かなと思いが飛んでった。

      学士会会報のデータベース検索。https://www.gakushikai-salon.jp/contents_search/

      ジャパンナレッジは機関で月額330円で利用する裏技発見で東洋文庫シリーズもじっくりと読める。

      大宅壮一文庫は雑誌記事索引検索データベースだけ、いつか入館利用してみる。https://www.oya-bunko.or.jp/guide/tabid/67/Agg551_SelectTab/4/Default.aspx

      国会図書館デジタルコレクションは明治大正昭和初期が充実。https://dl.ndl.go.jp/

      山下泰平の趣味の方法のブログはもちろんチェック。https://cocolog-nifty.hatenablog.com/

      主に西洋古典はインターネットアーカイブに潜る。https://archive.org/

      未体験。ルーラル電子図書館のデータの本体のアクセス・閲覧。

      20200522

      プレイ回数ごとに、
      今まで使い道が思い浮かばなくて捨ててたけど、
      なんか使えないかなと思ってググるターンを重ねる。
      その結果、これやろう!という実験の筋が見えてくる。
      実験して、過程や考察をログに残す。
      書きながらさらにその先を考えるうちに、
      知恵に厚みがでてきたように思う。

      生活体験が万学に通じ、全体を見渡すことができ、真理の知識体系の体現者として生きることができた昔の人を末裔は妄想する。アルス・マグナ、オプス・マグヌムの使い手を。
      学問が細分化され、狭く深くやりこむ専門人となることを求められる末裔たちは随分と矮人化している、というような昔の人と今の人を比べて賢愚をジャッジする議論は色んな場所で色んな人々の間で長年行われてきた。

      主にビジネスの文脈などで、
      ライバルに差をつけて、どんどんスケールし続けるのが目的で、
      そのためには、勝てそうな専門領域をごく狭く限定し、試行錯誤と反復練習を爆速でありえない量を繰り返すことでブレイクスルーが起こって量から質の転換につながるから、あいつらとうちはこんなにも違うと差別化アピールできるようになる。
      そういうメソッドで若い時間、お金、エネルギーといった使えるリソースを集中投下することを勧めている記述を複数回読んだことがある。短く言えば「選択と集中」というフレーズで。

      「ありえない量を繰り返す」という部分において、時間的に継続性がないとこれは成立しないが、繰り返しに飽きるという問題もあって、繰り返すことが苦にならないことが条件になる。

      やや積極的に解釈して、「好きなこと」なら繰り返すのも耐えられるだろうという考えから「好きを仕事に」というフレーズというのが出てきたんだろうけど、「自分の気が変わるので好きなものを死ぬまで好きでい続けるとは限らない」というシビアな命題は見なかったことにしているんだろうか。

      狭隘過ぎる専門人としての知的生活態度に、
      残りの健康寿命を費やすのに気が進まないくらい、
      まだ何にでも興味があって、まだ何にも知らなくて、まだなれるものの選択肢を残しておきたい素養の持ち主は、
      決断を可能な限り先延ばしにするモラトリアムを生きる。
      later specialization
      さっさと専門的職業を決めてしまい、伴侶を決めてしまい、リソース分捕り合戦の金稼ぎに追われるさまを横目に、まだ決めてない自分が置いてけぼりにされたような気持ちで「いいなあ。人生捗ってて」なんてうっかり言ってしまいそうになる唇をきゅっと噛みしめる。けてこー、平常心。(標準語訳:かえってこい、平常心)

      早くから決めてしまう生き方も一長一短なのは、幼少期から訓練を受けてデビューしたタレントやアスリートなど一芸枠を見ればなんとなく分かる。一見有利そうに見えるけど、早くから「お仕事」で忙しくなるわけだから、そのままだと教養を身に着けるには時間がなさすぎる。きっと活動休止期間中か引退後にでもなったら、そういう閑暇を持てるだろう。過度のアウトプットに偏って、過去のインプットで蓄えてきたネタが枯渇したらいったん休止して、その後何か見性悟道して、滾々と湧き出るインスピレーションの泉へのアクセス権を得たら活動再開。なんてパターンをひたすらwikipediaで読み取ってきた。

      泉へのアクセス権がいつまで権限付与してもらえるかはわからない。若くて色々浮かんでくる時代が長続きするかというとそうでもないのかもしれない。若くても何にも浮かばない人もいるかもしれないし、決まった生活に決まった仕事を単調に繰り返す中で鈍感力を求められるのに応えるうちに鋭敏な精神がスポイルされる罠にはまるかもしれない。
      老い衰えて脳が壊れたらアクセス不能になるかもしれないし、精神が肉体を凌駕し続けていて、肉体が限界突破したら、もはや叶わないかもしれない。

      ただ、今からでも色々浮かんだあれこれを書き留めておくことはできる。インスピレーションの泉を味わった残滓を残し、ああ、あの頃はこんなこと考えてたのか、と振り返る未来に手紙を送る。
      そんなことをぼんやりと感じていたけど、あまりはっきりと言語化することはできなくて。
      でも、自分にとっては大事なことだなと直感したから19歳から、儂はブログを書き続けているし、まだまだ書き続けるだろう。ときどき止まることもあったし、これからも止まることは予感しているけど。
      気づいたら15年が経とうとしていて、テキストも膨大だ。
      うら若い広義のJDも羽化が進む。進む先に、魯迅の『故郷』に出てくる五十前後のコンパスみたいな女もありうるかな、なんかやだな。私がオバさんになっても、なんてキャピキャピ歌うことはなかったけれど。
      参考。魯迅『故郷』
      https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42939_15330.html

      書くのが好きとか好きじゃないとか、そういう次元じゃない。
      しみっしみに恨みについてるんだと思う。」

      禅僧が語る 篠原大雄老師 「恨みにつく」
      https://www.youtube.com/watch?v=BD9hq1FbnHw

      20190328更新。

      ジャパンナレッジ Personal+Rでデータベースの海をゆらゆらと漂い中。

      みんなで翻刻を眺めながらくずし字(御家流)の手習い。

      文人趣味の世界にも少しずつ足を踏み入れ始めている。

      20180907更新。

      前回更新時と異なるのは、ゆるくだけど決まった時間に仕事していることぐらいだろうか。

      大本に健康があって、生活が土台になって、その一つ上に趣味があって、そのちょこんと小さく上に乗っているのが仕事、みたいな円錐型ワークバランス。

      家族活動はもっぱら孫ちゃん業。地域社会の活動は草刈りとかゴミ拾いとか近所の子供ら(両親共働きが多い)の勉強をそっと隣で見てることとか。

      働き盛りの年代の健康な大人は仕事に時間も身柄も持ってかれて、そばについて目をかけて遣れない。大人の目がない分、地域の防犯力も低下しやすい課題もある。

      少しばかり学問を修めて、図書館とも本とも縁遠くない文化資本の塊みたいな大人がそんなところに飛び込んだらどうなるか?という実験。

      職を投げ打って無位無官の村人Aとして村に紛れ込んで、そこそこ暇で朝もごゆっくりだし、昼間もぶらぶらし、しばしば温泉に浸かる。

      最近、「おぬし、只者じゃないな」と言われてきてしまい、まだまだ村人Aに徹しきれてないな、まだまだ修行が足りんなといったところ。

      趣味は修行。

      20161003更新。

      転勤族で、家の中の言語と地元の言語が違う環境で育つ。小学生の時エスペラント語に触れる。

      高校時代に理系白書を読んで、理系がそれまであまり報われそうにない進路だったように思い、文系を選択。

      黒板にギリシャ語の単語がスラスラ書けて休み時間にラテン語の基礎を教えてくれた高校倫理の先生から勧められて、

      竹内 洋の教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)を読んだらかぶれて、

      幅広い教養を身につけた高等遊民になるために

      大学ではリベラルアーツをやろう、人格を陶冶しに行こうって入った。

      そんな時代錯誤な大学生、教養部が解体され、職業に役立つ専門教育に重きを置く現代の大学では浮く浮く。自分の中で、学部は哲学部で教養を一通りやったら、院で医・法・神の専門教育をやるという目論みだったのだが。

      祖父母が宮城県なので大学は自分のルーツをたどるには最高の教育環境だったので、

      授業外で趣味で始めた姓名・地名・神社仏閣・聖域を文献調査し、現地にフィールドワーク。

      博物館もチェックし、温泉も入るというのをやっていた。

      出雲や屋久島にも手を広げ、日本国内の土着の聖地巡礼…はまだ今も続いている。

      熊野古道、月山、湯殿山、蔵王山、白山、三輪山、高野山、諏訪など。

      ついでに在学中に関西語学留学をする。水の飲み比べや豆腐文化、蕎麦文化もチェック。

      大学卒業後は、東京で法の分野を少々。法と工学って近いなと思う。

      ギャップイヤーで図書館情報学を独学してみて、

      学問知識全体を見渡せてアクセス可能になる学問ってこれじゃん。と思った。

      今は検索屋さんをやっている。文字による検索のため語学が生きる。

      wikipediaの記事を多言語で読めたら楽しそうだなと、

      西洋哲学やるなら語学は必須だからと古典語にも手を出していたのはよかった。

      印欧祖語に興味があったが、印欧祖語の講義は見つけられなかったので、

      ラテン語、ギリシャ語、サンスクリット語を少々。ドイツ語(第二外国語)、フランス語、中国語、イタリア語を文法だけ少々。スペイン語はさわりだけ。マヤ文字もさわりだけ。朝鮮語は就職してから語学研修(英・中・韓)で。就職したらそれまでノーマークだったアジア系中心に諸言語も触れることに。タイ語、マレー語、インドネシア語、タガログ語、イスラム語、ロシア語、モンゴル語、ポルトガル語、アフリカ諸国…でも、海外旅行したことなくて日本国内から出たことないんですけど。

      石川県西田幾多郎記念哲学館http://www.nishidatetsugakukan.org/に足を運ぶくらいは哲学に興味ああって、鈴木大拙館http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/をぶらぶらするくらいには禅にも興味がある。

      最近は、QOLが上がるかどうかが判断基準で、睡眠覚醒リズムを良好に保つことや運動、環境に配慮した家事スキルの向上、産直所で新鮮でバイタリティ溢れる農産品の吟味と調理、水源調査、山歩きによる自然観察とハーブなど薬草のガーデニング、山に薪を取りに行く薪活や水汲みを優先しているため、余暇にネットをやるのは調べもののためで、ソーシャルには時間を制限気味でたまに見に来るくらい。

    • うえぽん

        ノンフィクション中心で、仕事柄、社会科学系が多いが、生命科学や心理学、人類学などにも関心。旅行、街歩きが趣味なので、軽いエッセイや紀行文も好きだが、詩や短歌、俳句の世界にも入っていきたい。

      • テル35
        • 販売系
        • 愛媛県

        「共感」できることが、生きている実感であり、幸せなんだと思っています。ここでは、共感や共有できる方と出会えて嬉しいです。

      • 榊原 香織
        • 静岡県

        お気に入り登録歓迎(解除はイヤw)
        静岡で中国拳法・大東流教えてます。武歴33年ちょい
        (太極拳・気功 國際教練・静岡支部支部長・地曳秀峰老師入室弟子)
        北海道出身

        英語検定準1級・中国語検定3級・フランス語検定4級・ドイツ語検定5級・イタリア語検定5級

        ・スペイン語検定6級・美術検定4級・アロマテラピー1級・学芸員資格
        居合3段・弓道初段・日本体育協会公認スポーツリーダー
        https://www.instagram.com/toco60101d/
        日本百名城挑戦中。
        台湾、アイスランド、奈良好き 美術・博物館 鳥
        大学の専攻は文化人類学 修士論文は”中国武術における動物表象”
        https://www.facebook.com/kaori.sakakibara.9
        太極拳静岡支部のHP https://shizuoka-taikyoku.jimdofree.com/

      • coffee
        • 1994年
        • 東京都

        転職を機に久しぶりに本を読んでいます。
        読んだ時の気持ちを言語化しておきたかったのと、
        同じ本を読んだ方がどう感じたのかを知りたいと思い
        読書メーターも始めてみました。
        よろしくお願いします。

      • まーくん
        • A型
        • 千葉県

        先月(2016.8)このサイトを見つけました。
        表紙写真が表示されるの気に入り、最近10年くらいに読んだ本を少しづつアップしてます。
        似たような傾向の本を読んでる方のコメントなどおもしろく拝見してます。

        読メ登録、一年たちました。気まぐれですが、ちょこっ

        と感想も書き始めました。(2017.9)

      • ほし
        • 1988年
        • O型
        • 岐阜県

        岐阜に住む、小学生の息子と娘をもつ二児の父です。

        読む本は、人文・社会科学、ビジネス、育児・教育、エッセイなど、その時の興味にフィットした本を気ままに読んでいます。
        日々の生活の隙間を縫うようにして読書をしているので、あまり読むペースは速くはないですが、

        ちまちまと楽しい読書が出来ればと思っています。

        いいねを下さる方、ありがとうございます!嬉しいです。
        お気に入りの登録・解除などはお気軽に、特にご挨拶などは不要ですのでよろしくお願いします。

      • Bartleby

          本の虫が読んだ本の山の管理、感想、メモランダム。蔵書と過去に読んだ本を整理中。

          好きな作家は、
          ガルシア=マルケス、プルースト、ジャン・コクトー、ミシェル・トゥルニエ、レーモン・クノー、古井由吉、安部公房、多和田葉子、小山田浩子、町田康、深沢七郎、今村夏

          子、ジャック・ラカン、A.N.ホワイトヘッドetc...

          好きな音楽は、
          ブラジルサンバ&ボサノヴァ、J.S.バッハぜんぶ、メシアン「鳥のカタログ」、ライヒ「エレクトリック・カウンターポイント」、ストラヴィンスキー「ヴァイオリン協奏曲」、ロバート・グラスパー「Aflo Blue」、rei harakamiぜんぶ、エラ・フィッツジェラルドの声etc...

          好きな映画監督は、
          ベルナルド・ベルトルッチ、侯孝賢、トニー・スコット、クリント・イーストウッド、レオス・カラックス、フレデリック・ワイズマン、ルイス・ブニュエル、アンドレイ・タルコフスキー、ジム・ジャームッシュ、アッバス・キアロスタミetc...

          好きな画家は、
          フランシス・ベイコン、イヴ・クライン、バルテュス、アンリ・ルソー、セザンヌ、藤田嗣治、カラヴァッジョ、尾形光琳、ターナー、アンリ・マティスetc...

          ヴァイオリン弾き。ピアノ修行中(目標はバッハ「ゴールドベルク変奏曲」)。ドイツ語勉強中。お見知りおきを。

        • ソフトバンク
          • 神奈川県

          へた読み辞書 読めない語句があるとき試してください
          https://heta.undo.jp/

          本とワインがすき
          レビューはアメブロに書いています。
          小説などフィクションは殆ど読みません。← 薦められて最近(2014年終わり)読む機会が増えました
          sit

          e:bookmeter.com/u/221957

        • trazom
          • 奈良県
        • みあ

          春の音が聞こえる。雨の音が。桜がひらひら舞い散る音が。夜の音が聞こえる。光と闇が踊る音が。今夜で桜は取り落ちるだろう。桜雨が降っているから。花冷えの時季が終わり明日は青空が輝くだろう。桜が雪片のように零れ落ちる音が聞こえる。私の心の痛みが吸い寄せられていく

          音も…。

        • koji
        • molysk
          • 技術系
          • 神奈川県

          年齢相応に不惑を志すエンジニア。

          専門知識を深めるだけでなく、
          幅広い教養を身に付けるため、
          様々な分野の本を読むことを目指します。

          本の感想・レビューの欄では、
          自分の感想を書くことに加えて、
          本の概要をまとめたり、
          関連する情報を集めたりすることで


          本への理解を深めるように努めます。

          同じ本を読まれている方が
          ほかにどのような本を読まれているか、を
          参考にさせていただくことのお返しに、
          自分からも、みなさまに
          興味を持っていただける本との出会いを
          提供できればうれしく思います。

        • 兵士O

            どうも、皆さん、こんにちは。

            人によっては、僕の感想を不快に思う方もいるとは思いますが、ご容赦いただけたらありがたいです。

            また、こちらの都合なのですが、お気に入りに登録してくださっても、こちらの能力の範囲内でしか対応できないので、こちらからの登録を

            しない場合もあることをご理解ください。

            (今までの友人さんが読んだ本やつぶやきをチェックしたり、コメントをしたりすることがおろそかになってしまう場合があるからです。)

            逆に、僕自身が言葉と言葉の対話が好きなので、こちらからそういった方を望んで、登録する場合もあります。

            (「言葉と言葉の対話」というと大袈裟ですが、平たく言えば、僕自身が尊敬したり、好きになったり、新しい視点をもらえてしてしまうようなレビューやコメントを書かれていたりして、この人のこれからのレビューやつぶやきを読んでみたいと思うような場合です。)

            結局は、本というツールで、物事を考えたり、他人の気持ちや思想を慮ることが好きです。
            そういった人との交流を望んでいます。

            宜しくお願いします。

          • 村上シナモン

              読んだ本はできるだけ感想を書くようにしています。雑誌や漫画、写真集などのレビューも投稿しますので、苦手な方はお気に入り登録を外してくださると嬉しいです。

              主に読む分野:空間、建築、デザイン、美術、アート、神話、仏教、宗教、哲学、文学、境界、異界、古典、文

              化人類学、民俗学、日本論、読書論、台湾、中国語

              好きな著作家:
              村上春樹(1949-)、Hermann Hesse(1877-1962)、河合隼雄(1928-2007)

              好きな建築家:
              Sigurd Lewerentz(1885-1975)、白井 晟一(1905-1983)

              2019年→71冊
              2020年→202冊
              2021年→114冊
              2022年→181冊
              2023年→103冊(内 中文書籍17冊)
              2024年→100冊(内 中文書籍30冊)(目標)

              趣味:墓場巡り、古寺巡礼、海に行くこと、スケッチすること

              (取り敢えずの)人生目標と進捗:
              ・岩波文庫100冊→26/100
              ・SD選書50冊→10/50
              ・台湾史&台湾文化→342/1000mm
              ・『戦争と平和』読破
              ◎『カラマーゾフの兄弟』読破(2024.10.7)

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              プロフィール

              登録日
              2020/10/18(1561日経過)
              記録初日
              2012/08/17(4545日経過)
              読んだ本
              191冊(1日平均0.04冊)
              読んだページ
              60097ページ(1日平均13ページ)
              感想・レビュー
              154件(投稿率80.6%)
              本棚
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              性別
              年齢
              41歳
              職業
              専門職
              自己紹介

              自己紹介的なもの

              Ⅰ 梵我一如
               己の欲する所に従えども矩を踰えず、そんな自由な心で生きられたらどんなに幸せだろう。私は自由を求めてもがく者である。自由といっても幼子のように好き勝手したいという訳ではない。libertyは悪くないが、俗臭の拭いきれぬ感じが合わない。自然法爾、融通無碍というのが理想に近い。自由への第一歩として、まずはあらゆる執着が不自由の源と理解し、時間空間を越えた視点から自分を俯瞰的に見て、再びまた俗に還ってくる一連の過程を大切にしようと思う。俗に還るのは馴れ合いの為ではなく、調和を希求するからである。主客合一の瞬間が最も心地よいと確信しているからである。それが本を読みここに感想を書く理由である。

              Ⅱ 声字実相義
               人は掴み所のない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人はそんな曖昧模糊とした世界を切り取って言葉を当てがい、自分なりの理解をし、それを確かめ合う。言葉は世界への働きかけである。言葉の用い方は世界の見方・切り取り方であり、そこに人となりが顕れる。それらの無数の重ね合わせで時代や社会の空気が醸成され、個に還ってくる。言葉の流れは双方向的である。

              Ⅲ 自然法爾
               何か手近なものを借りてきて利用して、破綻したらまた近くにある別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応を繰り返して進化してきた。そんな歴史が刻まれた幾兆の細胞が人体を構成し、細胞間のコミュニケーションがこの動的複雑系を成立させている。免疫細胞は自他の弁別を司り、幾百億のこれらが血流リンパ流を介して常時くまなく巡回し続ける事で、個が全体として保たれている。抗体はランダム性を内包し、あらゆる外部世界を想定し準備している。自他の境界は厳密ではなく、状況に応じて揺れ動くものである。免疫が弱ければ内憂外患に対応できないが、無害なものに反応してはアレルギーを生じ、過剰になれば自己免疫疾患を病む。細胞の事はどうにもならぬが、全体を統括する身体のあり方からして状況に応じた柔軟なバランス感覚が必要で、柔よく剛を制すというのはこの普遍的真理を会得する事である。肉体を預かるこの現身としては、時と場と前後の文脈を読み、今なすべき事を当然の事として自然体で行う事を理想の境地としたい。

              Ⅳ 諸行無常と諸法無我
               法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右され移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかしや時に悪意が紛れ込む事を免れない。平素の私の振る舞いは、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に自分でもよくわからないまま同調したり忖度したりした結果である可能性を否定できない。そもそもこれ迄の人生で純粋に自分の意思だけで何かを選択した事などなかったのではないか。人生に自由意志の介在する余地はあるのだろうか。私が私であるというのはただの思い込みに過ぎず、確かな実体などないのではないか。

              Ⅴ 近代的個人の自覚
               私は私自身の事をうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を持つと決める事で、初めて人は社会の参加者となれる。主体の言動に価値があるかどうかは、正しいか間違いかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力の有無で決まるのだ。近代社会は個々人に説明責任を要求する社会である。近代的価値観の中に生きる人間は、自分の言動を神や悪魔や世間や空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持たなければならない。これは近代社会が勝手に敷いたルールではあるが、社会において現在最高神の地位にあるのはこのルールなのだ。その根底には人の世界を支配するのは言語であるという思想がある。これは「社会は言語によって成り立つ」という強力な仮定である。法に代表されるルールの制度化は近代叡智の結晶であり、当然敬意を払われるべきものであるが、現代はそのルール、即ち言語が本質的に内包する矛盾や限界が露呈してきている時代でもあるという認識は必要だろう。

              Ⅵ 近代的個人が生み出したもの
               近代的個人を、啓蒙時代以降の「神を離れて理性的価値観を信奉している個人」と定義する。近代的個人の出発点には、デカルト的な我、即ち主体の実在への揺るぎない確信がある。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度をムダなく上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のお陰で、飢餓や感染症といった、嘗ては人の生活のすぐそばにあった不条理の大半は克服されるようになった。機械文明の発達で肉体的労苦も軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという意味においては、対象世界の科学的合理的把握という方法が有効であった事は間違いない。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に実現可能なレベルの夢を語り資金を集める資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=貨幣と数字(利子)だけに割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。近代合理主義が産んだ科学と資本主義が車の両輪のように影響しあって、今日の文明社会を築いてきたのである。

              Ⅶ 近代的個人の不安
               現代文明は肉体的には快適である。しかし皆どこか生き辛さを抱えている。現代社会に蔓延る漠然としたこの不安の源はなんなのだろう。私はこの難題を考えるにあたってはまず、デカルト的な我に帰る必要があると感じている。主体の実在ほど疑わしいものはない。にも関わらず、それを「ある」と確信してしまっている短絡的な所が近代の不幸の源なのではないか。主体と客体は本来同じものであって、単に視点の違いを指す概念でしかない。近代人はその事をどこかにほっぽらかして忘れてしまい、まるで両者が別々のもの、しかも実在するものであるかのように取り扱ってきた。私はこれが過ちで詭弁で欺瞞であったと考え直したい。

              Ⅷ 莫妄想
               近代的個人は神を捨てた代わりに心身二元論を無意識に奉じるようになった。その数多ある弊害の中で最も忌まわしいものが、実存の悩み、実存の空虚である。近代的個人は、主体と客体が別々のものだという思い込みがあるために、両者が一致する事がない。その結果、自らが作り出した概念、錯覚に溺れやすくなっている。肥大した主体はやたらと他人の目を気にして承認欲求を満たしたがる一方で(臆病な自尊心)、簡単に客体に飲み込まれ少しの失敗少しの批判で立ち直れなくなるほど傷ついてしまう(尊大な羞恥心)。被害妄想を拗らせ、陰謀論に傾きやすくなっている。とかく主客のバランスが悪いのが近代人である。合理的思考が賢い選択だと信じるあまり、結婚や子育て、教育、葬式に至るまで何でもかんでも合理化してしまい、お前は人生で何がしたいのか、何を大切にしたいのかという事に答えられないでいる。コスパタイパと言いながら面倒を避け、ゲームやネットの中でちっぽけな自尊心を満たすうちに残酷に時が流れ、自分を見失ったままただ老体が朽ちていくのを眺めるばかりの人生になってはいないか。

              Ⅸ 現代における文学の重要性
               自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。現代社会は、合理的思考(=少数の物差しで対象を捉え、それで真理を把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度)をやたらと持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、時の止まった死物(ただの玩具であり原子分子の塊でありデータであり金づるである)と見て、自他の限界を狭めているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引き籠りや少子化の根本的な病理をここに見る。行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語ろうとする姿勢を持ち続けること、同時に言葉の限界を自覚することー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。

              Ⅹ 日本人としての私と死への先駆
               私は自分の人生の物語をどのような文脈の中に当てはめ思い描いて行けばよいのだろう。私の関心を惹くのは、ある対象に身心を捧げる事を美徳とする価値観が、我が国の思想的基盤となってきた点である。その行動原理を大義と言った。大義を掲げる対象は政治的には天皇や主君であったが、一般には肉親でも友でも恋人でも何でもよかった。多神教で神仏習合の日本の思想とは、元々はそのくらいのゆるさのものであった。ある対象に対する真っ直ぐで純粋な心ーきよき心、あかき心を神聖なものとする考え方があり、私を滅して誠を貫く生き方=死に方を理想とする様式を我が国は文化として持っていた。

              (本当にそうだったかどうかは今となってはわからない。これは私がさまざま見聞きした結果としてそうだったんじゃないかと信じている、一種の神話である。しかし何かこのような聖的なものを原初に想定しないと、ひ弱な私の近代精神は、際限のない冷笑的相対主義の波に押し流されてしまう、あるいは相対主義の沼の中で腐ってしまうのである。一方で、この様な近代人の弱みに漬け込んだのがナチスであり皇国史観であり、歴史を知っている現代の人間はそういうものに飲み込まれてはいけないという認識をしている事を先に断っておく。)

              Ⅺ 国民的トラウマとしての戦争
               しかし、この世に地獄を生んだ先の大戦を経て、これらの価値観は大きく歪み、捻じ曲がってしまった。真珠湾攻撃は、誰がどう考えても当時の常識からしたって狂気の沙汰だった。だが、そうと知りつつそれでもやるのが当時の日本だった。それは薩英戦争や下関戦争をやらかした幕末の武士と同様の気骨であった。それは西南戦争であり会津戦争であり、大塩平八郎であり、赤穂浪士であり、桶狭間であり、湊川であり鵯越であり、日本人からすれば歴史上何度も経験されてきた、大義に殉ずる行動様式の一つのバリエーションに過ぎなかった。死中に活を求めるのが武士道の最も理想とするところであり誉れであり、真珠湾はそれを体現したものだった。しかし、大量殺戮兵器の時代に国を挙げて死に狂いに染まった事は、取り返しのつかない事態を招いた。この思想は組織や社会に適合されると破滅に陥る危険を孕んでいた。葉隠が門外不出とされていた理由でもある。こんな危険思想を全国民に強いて突っ走った当時の日本は、最初から花と散り滅びる運命が決まっていた。近隣諸国を巻き添えにし膨大な犠牲を払いながら、正義の戦争と信じ突き進んだ結果が亡国だった事は、深刻な国民的トラウマとなった。我々が千年育んできた武士道精神はマッカーサーから12歳のmoronとバカにされる始末で、敗戦を境に嘗ての美風は蛮風となり果てた。戦後の日本ではそれまで思想の核にあった忠義や誠があまり触れてはいけない危険で野蛮でクレイジーなものになった。日本人は自己の本来性から目を背けるようになり、死を思わなくなった。嘗ての美意識や矜持を失って責任の取り方が分からなくなり、失敗しないようにする事、世間の顔色を伺う事、損得勘定ばかりが行動原理になり、自分の言葉を持てなくなった。

               安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬからー原爆慰霊碑に彫られた言葉である。過ちとは何か、考えていかなければならない。武士道とは死ぬことと見つけたりー自分の死は自分にしか決められない。であるからこそ、武士道は本来極めて個人的な美学であった筈だ。本来なら個人の内面から発せられるべき倫理や規範意識を、国家が外からの強制力として利用し、世間もそれに加担してもの言えぬ空気が醸成された事、それに対抗しうる自律的倫理観を個々の日本人が持てなかった事。国の指導者が武士道的理想主義に目が眩み、外交的マキャベリズムが足りなかった事(国民に対してはマキャベリストを演じていた癖に!)。こうした武士道の曲解と退廃こそ、戦前日本の思想的過ちだったのではないだろうか。

              Ⅻ 大衆の時代
               戦後は大衆の時代として始まった。大衆社会の萌芽は既に大正の頃からみられていた。真珠湾攻撃に快哉を叫んだのは、大本営発表を鵜呑みにして報道したのは、大衆でありマスメディアだった。戦後その事実は都合よくなかった事にされ、「戦犯」だけに罪を押し付け、自分達の民主主義で選んだ指導者を絞首刑にして、米国の「進んだ」大衆文化を無条件に受け入れた。平和主義は対米従属とセットであり、反共の為の方便であった。背後には逆コースと言われた政治取引があり、CIAが(自粛)。戦後民主主義平和国家の共同幻想はこれらの欺瞞からスタートした。浮薄で、下品で、卑屈で、陰湿で、残酷で、嫉妬深くて、不誠実でー大衆は人の醜い部分の集合体である。戦争は二度と御免だと情緒的には反省した日本人だが、戦争を支持した大衆の悪徳に関してその本質を突くような議論は起きなかった。責任から逃げ利権構造の中で私腹を肥やす卑怯者が特をする国づくりがここに始まり、貧困に喘ぐ大衆はわれ先にと利権の蜘蛛の糸に群がり、やむを得ない事ではあるが、結果的にその様な国造りに加担した。間に合わせで作られた憲法と自衛隊は、多くの矛盾を抱えながらも超国家アメリカに支えられ盤石に機能し続けた。当時の左翼思想とは、この現実の惨めさに耐えられなかったインテリ層が主体だったのではないか。だが米国の核の傘に守られながら反戦を叫んでも、その虚しさと自己矛盾がより刻明になるばかりであった。敗戦を受け容れた国民が今さら打倒米帝資本主義などと息巻く事に、もはや大義はなかったのである。自己矛盾に耐えられなかった者は極左暴力集団となって自他を傷つけ、極端に振れる愚かさを身を以て証明するばかりだった。

              XⅢ 三島の蹶起
               1970年は戦後が一つの区切りを迎えた年だと思う。時あたかも高度経済成長が頂点に達すると共にその終焉を迎えようとしていた。大阪万博が成功を収め、岡本太郎が太陽の塔に込めた思いとは裏腹に、人々は科学技術の発展による進歩的未来を夢見ていた。万博が閉幕しその熱狂も落ち着きつつあった頃、三島由紀夫が世間を震撼させた。魂を失った戦後日本に違和感を抱き続けていた彼は世間に絶望し、その思いを檄として突きつけた。自衛隊にクーデターを促す様な体裁を取っていたが、成功させる気はなかったと思われる。当然「失敗」に終わったが、自分と殉死者以外に一人の命も奪う事なく世間に強烈な衝撃を与えた彼の行動は見事と言う他ない。彼は自分の自決くらいで変わるほど世の中は甘くない事も分かっていただろう。その自決には美しく死にたいという個人的な願望があった事も否定できない。当時の世間は自分勝手と非難する声が多く、実際この国は何も変わらなかった。だが私は、戦後日本が捨て去った、大義に殉ずる至誠の行動様式の体現者として彼を評価したい。大義とは何か?単純には定義できない、その場の文脈や立場や見方で揺れ動く文学的な概念である。三島の蹶起は認識と行動の哲学であり、全ての日本人に託された禅の公案なのだ。彼は戦後社会が目を背けていた日本文化の野蛮で非合理な美の源泉を、大衆の面前に引っ張り出して突きつけた。偽善に耐えきれず振り切れたという意味では極左暴力集団と同じかもしれない。だが彼は誰を傷つける事もなく、日本人の心の奥底に未来永劫楔を打ち込む事に成功したという点で、安易なテロリストと同列に語られるべきではないと思う。自分が生まれる前の事だからこんな無責任が言えるというのはあるが、三島事件は戦後日本の一つの象徴となっていると思う。近代化がもたらす明るい未来に皆が胸躍らせると共に、岡本や三島が釘を刺した1970年の日本。五輪に万博にこの頃が戦後文化のピークで、以後はその劣化した焼き直しに過ぎないように思えてしまう。

              XⅣ Japan as No.1の時代
               こうしてしらけた拝金の時代が到来した。無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない或る経済大国が極東の一角に残り、私はそこに生を受けた。ファミコンが発売され東京ディズニーランドが開園し物心ついた頃には身の回りがモノとアイコンで溢れていた。藤子アニメがジブリが、戦隊モノゴジラウルトラマン仮面ライダービックリマンキン消し霊幻道士スケバン刑事尾崎豊何でもあった。小学校に上がると少年の心はドラゴンボールに染まり、TVでキラキラ(ギラギラ)輝くド派手な芸能界は一つの憧れとなっていた。Jリーグ開幕頃まで日本は敗北を知らず、いつも新しい刺激に溢れていて、子供にとっても楽しい世界だった。だが、現在大人の視点で振り返ると、同時に軽薄で愚かな時代だったとも思う。全国に今も残るリゾート廃墟やバブル遺産を見れば、当時の日本人がいかに先を見る目がなかったか明らかだろう。この頃の日本は暴力団や闇金や総会屋やエセ同和やカルト宗教や悪徳代議士や悪徳芸能事務所など魑魅魍魎が跋扈する未成熟な社会だった。それは戦後の混乱を反共一つで無理やりまとめ上げ、人口増加を追い風に、がむしゃらな働き方で資本主義の見本市の役割を果たした戦後日本の集大成の輝きであった。しかしその繁栄とやらは三島の遺作「豊饒の海」(=月の海)の語に象徴されるような、見せかけだけのハリボテの虚像でもあったのだ。幼い私は大人達の庇護の下、その輝きの片鱗を垣間見ていたのだが、それは地獄をみた戦争世代の悲哀が正反対に振り切れた結果でもあり、同時に我々世代が解決しなければならない無数の問題が暗示されていたのである。そして恐らくその深奥には、武士道に自ら背いて捨て去ったにも関わらず、西洋由来の近代というものを明治以降うまく噛み砕いて消化しきれていない、日本人全般の問題があるに違いないと私は思うようになった。当時権勢を誇ったヤクザその他や、それを当たり前に許容していた社会も、歴史的視点で振り返ると、西洋に由来する近代のルールを素直に受容できない日本文化の一面だったのではないか。武士道廃れて仁義あり;戦後日本の男は映画的任侠=馬鹿でやってる事は無茶苦茶でもやたらと仁義だけは通す者=に多かれ少なかれ憧れを持っていたと私は思う。それは武士になれなくなった戦後日本人にぽっかりと空いた心を埋める、補完的偶像だったのではないか?

              XⅤ 衰退日本と私の虚無
               1995年。日本の凋落が子供心にも感じられるようになった。そしてこの頃から私は自分を見失い始めた。そういう年頃になったせいでもあるが。バブル崩壊の深刻さが明確になってくる中、阪神大震災からのオウム事件でユートピアだった筈の日本はぶっ壊れた。連日ワイドショーでオウムの闇が報じられ、日本中の小学生が尊師マーチを口ずさむ異常な時代が訪れた。その後も親父狩に援交にチーマーにノーパンしゃぶしゃぶに、みっともない言葉が次々にTVを賑わし、お笑いは以前のわかりやすさわざとらしさが消え、ダウンタウンのシュールな笑いに変わっていった。00年代に入ると私と同世代の弱い人間はキレる17歳なんて言われ、同じ様に弱い大人達から恐れられた。こんな時代に青春を過ごした私は、全てを斜めから見る癖がついてしまった。信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論に傾くようになった。若い頃の私は、作者の気持ちとかいう訳のわからないものを答えさせる国語が大嫌いで、敢えて文学と親しまなかった。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で、人の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えている虚無的な若者だった。健康に恵まれながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困の必然的成行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕うことばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合する事しかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。マルキシズムがソ連の傀儡で自民党が米国の傀儡なら、一体日本はどこにあるのか?政治的にもわからなくなっていた。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。三十代の私は虚無からの脱却を求め彷徨っていた。彷徨い続けるうちに気がつけば不惑が迫っていた。

              XⅥ 自己欺瞞の罪
               現代人とか近代的個人とか大きな主語で語っていた人間の闇、それは結局は全部自分の事であった。自己肯定感が低くて人生に意味が見出せず、心に深い虚無を抱えていたのは、他でもない私自身であった。それを敗戦や近現代のせいにして自己正当化しようとしていたのも私だった。唯物論的世界観と極端な合理思考が人生を皮相なものにしていた。この思想は受験勉強と相性が良かった。十代の私は学歴社会に反発心を抱きながらも、自分を信じられず人一倍臆病であったが故に、自己の本来性に向き合わず社会に合わせる方を選んだ。己を省みることなくただ受験に最適化するよう認識を歪めていく中で、幸か不幸かこの試みは受験システムの中ではうまく行き、私は歪みに気づくこともなかった。私は、世の中には絶対的な真理があり賢い人は皆それがわかっているものだと思っていた。難しい事は賢い人に任せて、私は自分の分かる事できる事だけやらせてもらえればそれでいいと思っていた。それが人として謙虚な姿勢だとさえ思っていたからタチが悪い。私は私の人生の主人公となる事を最初から放棄していた。全て人生に対するこういう逃げ腰の態度が問題だった。言葉を大事にしない事が投げやりな人生観を生み、自分を大事にせず他人を大事にしない事に繋がっていた。弱い人間は世間に飲まれやすく、最初から勝負もしてない癖に、悪い事があると安易に時代や社会のせいにして言い訳しようとする。こういう自己欺瞞的な生き方は、過去の賢人達に末人だとか世人に頽落しているとかいう言い方で批判されていた事を後に知った。

              XⅦ 短絡の罪
               私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。唯物論に染まっていた私にとって、五感も感情も受容体化学刺激でしかなく、それが真理であり科学だと思い込んでいた。だがそんなものは真理でも何でもなく、ある一面的なものの見方で言葉を言い換えただけに過ぎず、実際には何の説明にもなっていなかったのである。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解釈する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。私は一等愚かな人間だった。

              「一番バカな人間は、分子や原子がほんとうに『ある』と思っている。 中くらいの頭の人間は、分子や原子は『概念』だと考えている。 利口な人間は、分子や原子をたんなる『約束』だと信じているのである。」(都筑卓司「物理学はむずかしくない」)

              XⅧ
               読書遍歴を記録し他者の視点を学ぶうちに、多忙な日常の中で忘れがちな自分の理想や大切にしたいものの輪郭が、朧げながらわかるようになってきた。私ははじめ三島由紀夫にハマった。なぜこんなにも彼の作品に共感したのか。それは自分が彼と同様、心身の乖離という二元論的問題を抱えていたからだという事が後になってわかってきた。そしてそれが今日ではありふれた問題であるという事も。身体と精神、存在と時間、科学と自然、西洋と東洋、私の興味関心はどれも二元論的問題である。その根底には、私とは何かという存在に関わる謎と不安がある。私はそれをどうにかしたくて本を読む。きっとここには、そんな自己言及の輪廻する記録が残されていくだろう。

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