読書メーター KADOKAWA Group

わ!さんのお気に入り
36

  • Melinda Chan
    • 誠也
      • 男
      • 2003年
      • A型
      • 大学生
      • 滋賀県

      「なぜ」が世界を変える

      一章 死んだ教室

      黒板に書かれた公式を、誰も見ていなかった。

      春日高校3年B組。窓の外では桜がとっくに散り、五月の風が体育館裏のネットを揺らしている。教室の中は、ノートを枕にした頭と、スマホを膝に隠した手と、どこでもない虚空を

      見つめる目ばかりだった。

      前任の数学教師、田村が異動になったのは三週間前のことだ。

      田村の授業は「板書が速く、説明がない」という様式美で成立していた。公式を写す。問題を解く。答え合わせをする。そのサイクルが三年間、一度もブレたことがない。誰も何も理解していなかったが、誰も何も困っていなかった。定期テストの範囲さえ覚えれば、点数は取れた。

      「じゃあ静かにしてろ」

      自習監督に来た英語の松本が教卓に文庫本を広げた瞬間、後ろの席の川島涼太は盛大なため息をついた。

      「物理も数学も詰んだ。もう諦める」

      隣の席の小野寺実が細い声で言った。「受験、どうすんの」

      「知らん。文系にする。けど古文も詰んでる」

      「それ全部詰んでるじゃん」

      「そう。俺の高校生活、詰んでる」

      涼太はそのまま腕に顔を埋めた。

      扉が開いたのは、そのときだった。

      二章 最初の五分間

      入ってきた男は、教師にしては若すぎた。

      三十代前半だろうか。スーツではなく、白いシャツに黒のスラックスという格好で、持っているのはチョーク一本だけだった。荷物も、教科書も、出席簿さえない。

      「あ、田村先生の代わりに来た桐島です。よろしく」

      それだけ言って、桐島は黒板の前に立った。

      松本がバツの悪そうな顔で文庫本を閉じ、教室から出て行く。誰も桐島を見ていなかった。川島涼太も、顔を腕に埋めたままだった。

      桐島は黒板を消すこともなく、静かに言った。

      「一個だけ聞かせてください。サイン、コサイン、タンジェント。何のためにあるか、知ってる人」

      沈黙。

      「知ってる人じゃなくていい。なんとなく聞いたことある説明、なんでもいいです」

      最前列の優等生、橘花が恐る恐る手を挙げた。「直角三角形の、辺の比、です」

      「そう。それは正しい。」桐島は頷いた。「じゃあ、なんで人類はそんなものを作ったの?」

      また沈黙。

      涼太は顔を埋めたまま、耳だけ動かしていた。

      「答えは、海で死にたくなかったからです」

      教室の空気が、わずかに変わった。

      三章 話の背骨

      「紀元前の船乗りを想像してください」

      桐島はチョークを持ったまま、歩き始めた。教壇ではなく、教室の中を。

      「GPSもない。地図も大雑把。嵐が来たら終わり。そんな時代に、人間には一個だけ頼れるものがあった。星です」

      窓際の席の女子が、スマホから目を上げた。

      「北極星の角度を測れば、自分が地球のどの緯度にいるか分かる。でも角度を距離に変換するには、計算が要る。弧の長さと角度の関係。それを扱う道具として、三角比が生まれた」

      桐島は黒板に、三角形ではなく、円を描いた。その円の中に、小さな船のシルエットをざっくりと書き加える。

      「だからサインとコサインは、最初から『回転』と結びついてるんです。直角三角形の話じゃなかった。人間が空を見上げて、自分の位置を知ろうとした話だった」

      涼太は、いつの間にか顔を上げていた。

      「で、ここが大事なんですけど」

      桐島の声が、少し速くなった。

      「多分今、半分くらいの人が『じゃあ直角三角形の説明はなんだったんだ』って思ってる」

      涼太は思っていた。まさにそれを。

      「それ、正しい疑問です。答えは、円と直角三角形は実は同じものを見ている、です。円の中に直角三角形を書いてみると分かる」

      チョークが動いた。円の中に、斜辺が半径と重なる直角三角形が現れた。

      「角度が変わると、縦の長さが変わる。それがサイン。横の長さが変わる。それがコサイン。つまりサインとコサインは『角度が変化したとき、縦と横がどう動くか』を表してるだけ。波の形をしているのも、音が波打っているのも、交流電流がぐにゃぐにゃしているのも、全部これが理由です」

      橘花がノートに何かを書き始めた。急いで、でも丁寧に。

      四章 つまずく前に

      桐島は一度立ち止まり、教室全体を見渡した。

      「ここで絶対に混乱する人が出るので、先に言います」

      涼太は背筋を伸ばした。自分のことを言われている気がした。

      「サインが『縦』でコサインが『横』って、逆じゃないかって思う人がいる」

      涼太はまさに思っていた。

      「コサインの『コ』って、英語でco-、つまり『補角の』って意味なんです。サインの補角がコサイン。だから横なんじゃなくて、サインを基準にして、それを90度回転させた相棒がコサイン、と覚えると混乱しにくい」

      川島涼太は、手を挙げていた。自分でも気づかないうちに。

      「あの」

      桐島が目を向ける。

      「じゃあタンジェントは」

      「いい質問です」桐島は笑った。「タンジェントは、英語でtangent、接線って意味です。円に接する線の長さ。縦と横の比を取ると、円の傾き、つまり坂の角度が分かる。スキーのゲレンデが何度の斜面かを知りたいときに使います」

      「スキー場」と涼太は呟いた。

      「そう。人類はスキー場より先に、山の傾斜を測って安全な道を切り開くために使ってた」

      五章 放課後の黒板

      授業が終わった後、涼太は席を立てなかった。

      頭の中で何かが繋がり続けていた。サインとコサインが船乗りの道具で、タンジェントが山の傾きで、波の形が交流電流で。バラバラだったピースが、一本の糸で縫われていく感覚。

      桐島が黒板を消しながら、涼太の視線に気づいて振り返った。

      「何か残ってる?」

      「いや」涼太は言葉を選んだ。「なんか、気持ち悪かったものが、急に気持ちよくなった感じがして」

      「それ、一番いい感覚です」

      桐島はチョークを置いた。

      「公式って、誰かが必死に考えた答えなんですよ。問いがあって、試行錯誤があって、やっと辿り着いた形。だから公式を覚える前に、その人がどんな問いを持っていたか分かれば、覚えなくても導ける」

      「導ける、か」

      「数学も物理も、暗記科目じゃないです。推理小説です。どうしてそうなるのか、追いかけていくと、必ず理由がある」

      涼太は窓の外を見た。五月の空が、夕方の色に変わり始めていた。

      「推理小説か」

      声に、どこか火がついたような響きがあった。

      六章 一ヶ月後

      川島涼太の数学の点数は、赤点ギリギリから学年十七位まで上がった。

      それよりも変わったのは、授業中の顔だった。

      桐島が何かを説明し始めると、涼太は必ずどこかで「あ」という顔をした。声には出さない。でも眉が上がって、目が少し細くなって、口の端がわずかに動く。

      小野寺実はそれを「涼太の理解顔」と呼んで、いつしか自分もそれを待つようになっていた。

      桐島の授業には、不思議なリズムがあった。

      疑問を育てる。疑問が熟したところで答える。答えが新しい疑問を生む。そのサイクルが、五十分をあっという間に変えた。チャイムが鳴るたびに、教室のどこかで小さな舌打ちが聞こえるようになった。終わりたくない、という音だった。

      エピローグ 問いを持つ人間

      十一月。模試の返却日。

      涼太の答案には、物理の大問に、見慣れない記述があった。

      公式を使う前に、三行の説明が書いてあった。「この状況で保存されるのはエネルギーであり、なぜなら——」

      採点者のコメント欄には赤ペンで一言あった。

      「理解している」

      涼太はその答案を、机の引き出しにしまわなかった。

      桐島の授業が始まる前、机の上に広げておいた。理由は自分でもうまく説明できなかったが、なんとなく、見えるところに置いておきたかった。

      扉が開いた。

      「今日は慣性の話をします」桐島は言った。「まず聞きますけど、なんで止まってるものって、動き出しにくいんだと思う?」

      川島涼太は、一番最初に手を挙げた。

      了

    • Yo
      • その他
      • 東京都

      本を読むことで、様々な世界や考え方に触れるのが楽しみです。ジャンルを問わず、新しい発見がある本が好きです。読了後には星評価をつけていますが、あくまで個人的な感想と自分のための備忘録です。皆様の感想も選書の参考にしており、楽しく読書メーターを利用しています。

    • luadagua
      • 女

      アウトプット練習帳。
      じっくりていねいに記録していけたらと思っています。

      興味があれば何でも読んでみたいと思いつつ、読書傾向は偏りがちなので、読メで新しい出会いがあったら嬉しいです。

      好きなのはファンタジー、ホラー、SF、オカルト、猫、占い、健康、精神

      世界系。文具や手帳も好きなので手帳術や、まつわる自己啓発系も。

      映画鑑賞。
      https://filmarks.com/users/luadagua

    • 遊学の隠居🌊
      • IT関係

      ピカソとアインシュタインが会ったとき。エッシャーとゲーデルが会ったとき。自己言及をどう表現するべきか。。。
      無学です。
      インスタ: @ugaku_no_inkyo

    • はや

        ▼関心あるトピックは『幻想』『悪夢』『シュルレアリスム』『毒親』『発達未熟』『食物連鎖の循環』『残酷なリアリズム』『大きな現象を多角的に語ること(=環境について複数視点から語ること)、そして誠実さに呪われていること』
        ▼好きな物語ジャンルは『幻想怪奇』
        ▼

        文体を好んで作家読みすることがあります

      • ピンガペンギン
        • 女
        • 高知県

        2021年12月に登録しました。50代です。

        〇小説、新書を中心に読んできました。
        〇若い時「森鷗外選集21巻」石川淳編(中古)を購入しました。転居のたびに持ち運び、50代になって再読中。旧仮名表記で趣があり本のサイズも良いです。同じく20代で購入した「

        ギリシャ悲劇全集」(岩波書店)も待機中です。(2025.6)
        〇キリスト教、仏教(ベストセラーを出していたスリランカ出身のスマナサーラ師の本など)の本を昔から時々読んでいましたが、最近は日本宗教史にも興味があります。(2024.12)
        〇司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズ まだ7冊しか読んでいませんが、これも読んでいきたいです。(2024.12)
        ○語学学習アプリDuolingoでフランス語と中国語(音楽、ドイツ語も)を学んでいます。二兎を追う者は…と申しますが、面白いので二言語とも続けたい。(2025.6)
        ○台湾出身の著述家焦さんによる「現代の世界的ピアニストたちとの対話」シリーズが好きです。
        ○海外作家ではバルザックを読み進めています。「ゴリオ爺さん」「ランジェ公爵夫人」「オノリーヌ」「金色の眼の娘」「骨董室」などが印象強烈でした。しかし、読むと嫌な気分になることが多いので、中断している…。
        ○精神科医の中井久夫を須賀敦子全集(河出文庫)の解説者として知り、エッセイを読んでファンになりました。2022年8月に逝去されたと読書メーターのおかげで知りました。

      • tamami
        • 男

        半世紀にわたって買いためた積ん読本に囲まれる日々。少しずつ減らそうとするものの、新刊・古本が同じくらい入ってくる。

      • 大島ちかり
        • 女
        • 1969年
        • A型
        • 東京都

        浜松市出身です。行ったり来たりしています。新幹線で座って本の世界に浸っていると、駅に降り立ったとき、異世界に来た気になります。因みに東京の生活と、浜松の生活とどちらが異世界か分からなくなってきています。

      • naniwoyomu

          ブックガイド・書評サイトをやっています。記事にした本は、8000を超えています。皆さんのお役に立つと思います。

        • 西園寺カトリーヌ

            皆さんの書評を見るのが毎日の楽しみで
            お陰様で読みたい本リストが続々と
            増えてそれがまた楽しいです。

            図書館でタイトルに惹かれたものを
            雑食的に読んでいますが
            大好きな江戸・明治・大正・昭和初期に
            関わるものを分野問わず手に取ることが多いです。

            その他

            に海外ミステリ、歴史関連、民俗学
            ノンフィクションが好きです。

            よろしくお願い致します。

          • mol

              読む

            • 逆丸カツハ

                関係と情報の哲学への招待|松笠 遥 Matsukasa Haruka https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n858d6aa2de05?sub_rt=share_b

                本の著者です!
                情報と関係の哲学『誰も知らない夢の果て

                から』|
                Amazonから購入できます!→ amzn.asia/d/079xhRdo

                いくつかの大学の図書館にも入ってます!
                https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD08210396?l=ja

              • 榊原 香織
                • 女
                • 静岡県

                お気に入り登録歓迎(解除はイヤw)
                静岡で中国拳法・大東流教えてます。武歴34年ちょい
                (太極拳・気功・形意拳 國際教練・静岡支部支部長・地曳秀峰老師入室弟子)
                北海道出身

                英語検定準1級・中国語検定2級・フランス語検定準2級・ドイツ語検定5級・ハングル

                検定5級・イタリア語検定5級・スペイン語検定6級・美術検定4級・アロマテラピー1級・学芸員資格
                居合3段・弓道初段・日本体育協会公認スポーツリーダー
                https://www.instagram.com/toco60101d/
                日本百名城挑戦中。
                台湾、アイスランド、奈良好き 美術・博物館 鳥
                大学の専攻は文化人類学 修士論文は”中国武術における動物表象”
                https://www.facebook.com/kaori.sakakibara.9
                太極拳静岡支部のHP https://shizuoka-taikyoku.jimdofree.com/

              • ひろし
                • 男
                • 愛知県

                読書好きです。ときどき読書会に参加していました。相互フォロー希望しますので、よろしければお願いします。

              • ふみあき

                  1976年生まれ。一児の父親。

                • breguet4194q
                  • 男

                  東山魁夷と吉川英治を心から愛する男です

                • nobara
                  • 女
                  • 主婦
                  • 大阪府

                  好きなのは、SF、ファンタジー、歴史もの
                  あと、怪奇ホラー系も好き
                  その他、気が向けば何でも読みます

                  最近の読書傾向は、新書が多いです
                  読みたい本は沢山あるのに、読書に多くの時間が割けないのが現状

                  「読んだ本」「積読本」には、ダブり買い防止のために

                  蔵書を登録
                  「読んだ本」には、最近 図書館で借りて読んだ本も登録してます
                  「読みたい本」への登録本は、今後購入、又は図書館で借りる時のメモです

                  マンガはここに登録してません

                • 有機物ちゃん

                    読書メモ。読書日記。

                    年間読了数メモ
                    2022/299冊
                    2023/354冊
                    2024/119冊

                  • シップレ
                    • 男
                    • 小/中/高校生

                    シップレです。
                    中1です。
                    超低浮上です。
                    よろしくおねがいします。

                  • 全36件中 1 - 20 件を表示

                  ユーザーデータ

                  読書データ

                  プロフィール

                  登録日
                  2021/08/24(1871日経過)
                  記録初日
                  2009/03/10(6421日経過)
                  読んだ本
                  1638冊(1日平均0.26冊)
                  読んだページ
                  353285ページ(1日平均55ページ)
                  感想・レビュー
                  1636件(投稿率99.9%)
                  本棚
                  16棚
                  性別
                  男
                  自己紹介

                  地図好き、神社好き、郷土史好き、富士塚好き、知育玩具好きな爺さんです。
                  趣味の一つが「古本屋めぐり」であり、そのために、今となっては手に入らない本が多いかも知れません。

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