「なぜ」が世界を変える
一章 死んだ教室
黒板に書かれた公式を、誰も見ていなかった。
春日高校3年B組。窓の外では桜がとっくに散り、五月の風が体育館裏のネットを揺らしている。教室の中は、ノートを枕にした頭と、スマホを膝に隠した手と、どこでもない虚空を
見つめる目ばかりだった。
前任の数学教師、田村が異動になったのは三週間前のことだ。
田村の授業は「板書が速く、説明がない」という様式美で成立していた。公式を写す。問題を解く。答え合わせをする。そのサイクルが三年間、一度もブレたことがない。誰も何も理解していなかったが、誰も何も困っていなかった。定期テストの範囲さえ覚えれば、点数は取れた。
「じゃあ静かにしてろ」
自習監督に来た英語の松本が教卓に文庫本を広げた瞬間、後ろの席の川島涼太は盛大なため息をついた。
「物理も数学も詰んだ。もう諦める」
隣の席の小野寺実が細い声で言った。「受験、どうすんの」
「知らん。文系にする。けど古文も詰んでる」
「それ全部詰んでるじゃん」
「そう。俺の高校生活、詰んでる」
涼太はそのまま腕に顔を埋めた。
扉が開いたのは、そのときだった。
二章 最初の五分間
入ってきた男は、教師にしては若すぎた。
三十代前半だろうか。スーツではなく、白いシャツに黒のスラックスという格好で、持っているのはチョーク一本だけだった。荷物も、教科書も、出席簿さえない。
「あ、田村先生の代わりに来た桐島です。よろしく」
それだけ言って、桐島は黒板の前に立った。
松本がバツの悪そうな顔で文庫本を閉じ、教室から出て行く。誰も桐島を見ていなかった。川島涼太も、顔を腕に埋めたままだった。
桐島は黒板を消すこともなく、静かに言った。
「一個だけ聞かせてください。サイン、コサイン、タンジェント。何のためにあるか、知ってる人」
沈黙。
「知ってる人じゃなくていい。なんとなく聞いたことある説明、なんでもいいです」
最前列の優等生、橘花が恐る恐る手を挙げた。「直角三角形の、辺の比、です」
「そう。それは正しい。」桐島は頷いた。「じゃあ、なんで人類はそんなものを作ったの?」
また沈黙。
涼太は顔を埋めたまま、耳だけ動かしていた。
「答えは、海で死にたくなかったからです」
教室の空気が、わずかに変わった。
三章 話の背骨
「紀元前の船乗りを想像してください」
桐島はチョークを持ったまま、歩き始めた。教壇ではなく、教室の中を。
「GPSもない。地図も大雑把。嵐が来たら終わり。そんな時代に、人間には一個だけ頼れるものがあった。星です」
窓際の席の女子が、スマホから目を上げた。
「北極星の角度を測れば、自分が地球のどの緯度にいるか分かる。でも角度を距離に変換するには、計算が要る。弧の長さと角度の関係。それを扱う道具として、三角比が生まれた」
桐島は黒板に、三角形ではなく、円を描いた。その円の中に、小さな船のシルエットをざっくりと書き加える。
「だからサインとコサインは、最初から『回転』と結びついてるんです。直角三角形の話じゃなかった。人間が空を見上げて、自分の位置を知ろうとした話だった」
涼太は、いつの間にか顔を上げていた。
「で、ここが大事なんですけど」
桐島の声が、少し速くなった。
「多分今、半分くらいの人が『じゃあ直角三角形の説明はなんだったんだ』って思ってる」
涼太は思っていた。まさにそれを。
「それ、正しい疑問です。答えは、円と直角三角形は実は同じものを見ている、です。円の中に直角三角形を書いてみると分かる」
チョークが動いた。円の中に、斜辺が半径と重なる直角三角形が現れた。
「角度が変わると、縦の長さが変わる。それがサイン。横の長さが変わる。それがコサイン。つまりサインとコサインは『角度が変化したとき、縦と横がどう動くか』を表してるだけ。波の形をしているのも、音が波打っているのも、交流電流がぐにゃぐにゃしているのも、全部これが理由です」
橘花がノートに何かを書き始めた。急いで、でも丁寧に。
四章 つまずく前に
桐島は一度立ち止まり、教室全体を見渡した。
「ここで絶対に混乱する人が出るので、先に言います」
涼太は背筋を伸ばした。自分のことを言われている気がした。
「サインが『縦』でコサインが『横』って、逆じゃないかって思う人がいる」
涼太はまさに思っていた。
「コサインの『コ』って、英語でco-、つまり『補角の』って意味なんです。サインの補角がコサイン。だから横なんじゃなくて、サインを基準にして、それを90度回転させた相棒がコサイン、と覚えると混乱しにくい」
川島涼太は、手を挙げていた。自分でも気づかないうちに。
「あの」
桐島が目を向ける。
「じゃあタンジェントは」
「いい質問です」桐島は笑った。「タンジェントは、英語でtangent、接線って意味です。円に接する線の長さ。縦と横の比を取ると、円の傾き、つまり坂の角度が分かる。スキーのゲレンデが何度の斜面かを知りたいときに使います」
「スキー場」と涼太は呟いた。
「そう。人類はスキー場より先に、山の傾斜を測って安全な道を切り開くために使ってた」
五章 放課後の黒板
授業が終わった後、涼太は席を立てなかった。
頭の中で何かが繋がり続けていた。サインとコサインが船乗りの道具で、タンジェントが山の傾きで、波の形が交流電流で。バラバラだったピースが、一本の糸で縫われていく感覚。
桐島が黒板を消しながら、涼太の視線に気づいて振り返った。
「何か残ってる?」
「いや」涼太は言葉を選んだ。「なんか、気持ち悪かったものが、急に気持ちよくなった感じがして」
「それ、一番いい感覚です」
桐島はチョークを置いた。
「公式って、誰かが必死に考えた答えなんですよ。問いがあって、試行錯誤があって、やっと辿り着いた形。だから公式を覚える前に、その人がどんな問いを持っていたか分かれば、覚えなくても導ける」
「導ける、か」
「数学も物理も、暗記科目じゃないです。推理小説です。どうしてそうなるのか、追いかけていくと、必ず理由がある」
涼太は窓の外を見た。五月の空が、夕方の色に変わり始めていた。
「推理小説か」
声に、どこか火がついたような響きがあった。
六章 一ヶ月後
川島涼太の数学の点数は、赤点ギリギリから学年十七位まで上がった。
それよりも変わったのは、授業中の顔だった。
桐島が何かを説明し始めると、涼太は必ずどこかで「あ」という顔をした。声には出さない。でも眉が上がって、目が少し細くなって、口の端がわずかに動く。
小野寺実はそれを「涼太の理解顔」と呼んで、いつしか自分もそれを待つようになっていた。
桐島の授業には、不思議なリズムがあった。
疑問を育てる。疑問が熟したところで答える。答えが新しい疑問を生む。そのサイクルが、五十分をあっという間に変えた。チャイムが鳴るたびに、教室のどこかで小さな舌打ちが聞こえるようになった。終わりたくない、という音だった。
エピローグ 問いを持つ人間
十一月。模試の返却日。
涼太の答案には、物理の大問に、見慣れない記述があった。
公式を使う前に、三行の説明が書いてあった。「この状況で保存されるのはエネルギーであり、なぜなら——」
採点者のコメント欄には赤ペンで一言あった。
「理解している」
涼太はその答案を、机の引き出しにしまわなかった。
桐島の授業が始まる前、机の上に広げておいた。理由は自分でもうまく説明できなかったが、なんとなく、見えるところに置いておきたかった。
扉が開いた。
「今日は慣性の話をします」桐島は言った。「まず聞きますけど、なんで止まってるものって、動き出しにくいんだと思う?」
川島涼太は、一番最初に手を挙げた。
了
本を読むことで、様々な世界や考え方に触れるのが楽しみです。ジャンルを問わず、新しい発見がある本が好きです。読了後には星評価をつけていますが、あくまで個人的な感想と自分のための備忘録です。皆様の感想も選書の参考にしており、楽しく読書メーターを利用しています。
アウトプット練習帳。
じっくりていねいに記録していけたらと思っています。
興味があれば何でも読んでみたいと思いつつ、読書傾向は偏りがちなので、読メで新しい出会いがあったら嬉しいです。
好きなのはファンタジー、ホラー、SF、オカルト、猫、占い、健康、精神
世界系。文具や手帳も好きなので手帳術や、まつわる自己啓発系も。
映画鑑賞。
https://filmarks.com/users/luadagua
ピカソとアインシュタインが会ったとき。エッシャーとゲーデルが会ったとき。自己言及をどう表現するべきか。。。
無学です。
インスタ: @ugaku_no_inkyo
▼関心あるトピックは『幻想』『悪夢』『シュルレアリスム』『毒親』『発達未熟』『食物連鎖の循環』『残酷なリアリズム』『大きな現象を多角的に語ること(=環境について複数視点から語ること)、そして誠実さに呪われていること』
▼好きな物語ジャンルは『幻想怪奇』
▼
文体を好んで作家読みすることがあります
2021年12月に登録しました。50代です。
〇小説、新書を中心に読んできました。
〇若い時「森鷗外選集21巻」石川淳編(中古)を購入しました。転居のたびに持ち運び、50代になって再読中。旧仮名表記で趣があり本のサイズも良いです。同じく20代で購入した「
ギリシャ悲劇全集」(岩波書店)も待機中です。(2025.6)
〇キリスト教、仏教(ベストセラーを出していたスリランカ出身のスマナサーラ師の本など)の本を昔から時々読んでいましたが、最近は日本宗教史にも興味があります。(2024.12)
〇司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズ まだ7冊しか読んでいませんが、これも読んでいきたいです。(2024.12)
○語学学習アプリDuolingoでフランス語と中国語(音楽、ドイツ語も)を学んでいます。二兎を追う者は…と申しますが、面白いので二言語とも続けたい。(2025.6)
○台湾出身の著述家焦さんによる「現代の世界的ピアニストたちとの対話」シリーズが好きです。
○海外作家ではバルザックを読み進めています。「ゴリオ爺さん」「ランジェ公爵夫人」「オノリーヌ」「金色の眼の娘」「骨董室」などが印象強烈でした。しかし、読むと嫌な気分になることが多いので、中断している…。
○精神科医の中井久夫を須賀敦子全集(河出文庫)の解説者として知り、エッセイを読んでファンになりました。2022年8月に逝去されたと読書メーターのおかげで知りました。
半世紀にわたって買いためた積ん読本に囲まれる日々。少しずつ減らそうとするものの、新刊・古本が同じくらい入ってくる。
浜松市出身です。行ったり来たりしています。新幹線で座って本の世界に浸っていると、駅に降り立ったとき、異世界に来た気になります。因みに東京の生活と、浜松の生活とどちらが異世界か分からなくなってきています。
ブックガイド・書評サイトをやっています。記事にした本は、8000を超えています。皆さんのお役に立つと思います。
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(太極拳・気功・形意拳 國際教練・静岡支部支部長・地曳秀峰老師入室弟子)
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1976年生まれ。一児の父親。
東山魁夷と吉川英治を心から愛する男です
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その他、気が向けば何でも読みます
最近の読書傾向は、新書が多いです
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