読書メーター KADOKAWA Group

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  • 奈

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    • Melinda Chan
      • 誠也
        • 男
        • 2003年
        • A型
        • 大学生
        • 滋賀県

        「なぜ」が世界を変える

        一章 死んだ教室

        黒板に書かれた公式を、誰も見ていなかった。

        春日高校3年B組。窓の外では桜がとっくに散り、五月の風が体育館裏のネットを揺らしている。教室の中は、ノートを枕にした頭と、スマホを膝に隠した手と、どこでもない虚空を

        見つめる目ばかりだった。

        前任の数学教師、田村が異動になったのは三週間前のことだ。

        田村の授業は「板書が速く、説明がない」という様式美で成立していた。公式を写す。問題を解く。答え合わせをする。そのサイクルが三年間、一度もブレたことがない。誰も何も理解していなかったが、誰も何も困っていなかった。定期テストの範囲さえ覚えれば、点数は取れた。

        「じゃあ静かにしてろ」

        自習監督に来た英語の松本が教卓に文庫本を広げた瞬間、後ろの席の川島涼太は盛大なため息をついた。

        「物理も数学も詰んだ。もう諦める」

        隣の席の小野寺実が細い声で言った。「受験、どうすんの」

        「知らん。文系にする。けど古文も詰んでる」

        「それ全部詰んでるじゃん」

        「そう。俺の高校生活、詰んでる」

        涼太はそのまま腕に顔を埋めた。

        扉が開いたのは、そのときだった。

        二章 最初の五分間

        入ってきた男は、教師にしては若すぎた。

        三十代前半だろうか。スーツではなく、白いシャツに黒のスラックスという格好で、持っているのはチョーク一本だけだった。荷物も、教科書も、出席簿さえない。

        「あ、田村先生の代わりに来た桐島です。よろしく」

        それだけ言って、桐島は黒板の前に立った。

        松本がバツの悪そうな顔で文庫本を閉じ、教室から出て行く。誰も桐島を見ていなかった。川島涼太も、顔を腕に埋めたままだった。

        桐島は黒板を消すこともなく、静かに言った。

        「一個だけ聞かせてください。サイン、コサイン、タンジェント。何のためにあるか、知ってる人」

        沈黙。

        「知ってる人じゃなくていい。なんとなく聞いたことある説明、なんでもいいです」

        最前列の優等生、橘花が恐る恐る手を挙げた。「直角三角形の、辺の比、です」

        「そう。それは正しい。」桐島は頷いた。「じゃあ、なんで人類はそんなものを作ったの?」

        また沈黙。

        涼太は顔を埋めたまま、耳だけ動かしていた。

        「答えは、海で死にたくなかったからです」

        教室の空気が、わずかに変わった。

        三章 話の背骨

        「紀元前の船乗りを想像してください」

        桐島はチョークを持ったまま、歩き始めた。教壇ではなく、教室の中を。

        「GPSもない。地図も大雑把。嵐が来たら終わり。そんな時代に、人間には一個だけ頼れるものがあった。星です」

        窓際の席の女子が、スマホから目を上げた。

        「北極星の角度を測れば、自分が地球のどの緯度にいるか分かる。でも角度を距離に変換するには、計算が要る。弧の長さと角度の関係。それを扱う道具として、三角比が生まれた」

        桐島は黒板に、三角形ではなく、円を描いた。その円の中に、小さな船のシルエットをざっくりと書き加える。

        「だからサインとコサインは、最初から『回転』と結びついてるんです。直角三角形の話じゃなかった。人間が空を見上げて、自分の位置を知ろうとした話だった」

        涼太は、いつの間にか顔を上げていた。

        「で、ここが大事なんですけど」

        桐島の声が、少し速くなった。

        「多分今、半分くらいの人が『じゃあ直角三角形の説明はなんだったんだ』って思ってる」

        涼太は思っていた。まさにそれを。

        「それ、正しい疑問です。答えは、円と直角三角形は実は同じものを見ている、です。円の中に直角三角形を書いてみると分かる」

        チョークが動いた。円の中に、斜辺が半径と重なる直角三角形が現れた。

        「角度が変わると、縦の長さが変わる。それがサイン。横の長さが変わる。それがコサイン。つまりサインとコサインは『角度が変化したとき、縦と横がどう動くか』を表してるだけ。波の形をしているのも、音が波打っているのも、交流電流がぐにゃぐにゃしているのも、全部これが理由です」

        橘花がノートに何かを書き始めた。急いで、でも丁寧に。

        四章 つまずく前に

        桐島は一度立ち止まり、教室全体を見渡した。

        「ここで絶対に混乱する人が出るので、先に言います」

        涼太は背筋を伸ばした。自分のことを言われている気がした。

        「サインが『縦』でコサインが『横』って、逆じゃないかって思う人がいる」

        涼太はまさに思っていた。

        「コサインの『コ』って、英語でco-、つまり『補角の』って意味なんです。サインの補角がコサイン。だから横なんじゃなくて、サインを基準にして、それを90度回転させた相棒がコサイン、と覚えると混乱しにくい」

        川島涼太は、手を挙げていた。自分でも気づかないうちに。

        「あの」

        桐島が目を向ける。

        「じゃあタンジェントは」

        「いい質問です」桐島は笑った。「タンジェントは、英語でtangent、接線って意味です。円に接する線の長さ。縦と横の比を取ると、円の傾き、つまり坂の角度が分かる。スキーのゲレンデが何度の斜面かを知りたいときに使います」

        「スキー場」と涼太は呟いた。

        「そう。人類はスキー場より先に、山の傾斜を測って安全な道を切り開くために使ってた」

        五章 放課後の黒板

        授業が終わった後、涼太は席を立てなかった。

        頭の中で何かが繋がり続けていた。サインとコサインが船乗りの道具で、タンジェントが山の傾きで、波の形が交流電流で。バラバラだったピースが、一本の糸で縫われていく感覚。

        桐島が黒板を消しながら、涼太の視線に気づいて振り返った。

        「何か残ってる?」

        「いや」涼太は言葉を選んだ。「なんか、気持ち悪かったものが、急に気持ちよくなった感じがして」

        「それ、一番いい感覚です」

        桐島はチョークを置いた。

        「公式って、誰かが必死に考えた答えなんですよ。問いがあって、試行錯誤があって、やっと辿り着いた形。だから公式を覚える前に、その人がどんな問いを持っていたか分かれば、覚えなくても導ける」

        「導ける、か」

        「数学も物理も、暗記科目じゃないです。推理小説です。どうしてそうなるのか、追いかけていくと、必ず理由がある」

        涼太は窓の外を見た。五月の空が、夕方の色に変わり始めていた。

        「推理小説か」

        声に、どこか火がついたような響きがあった。

        六章 一ヶ月後

        川島涼太の数学の点数は、赤点ギリギリから学年十七位まで上がった。

        それよりも変わったのは、授業中の顔だった。

        桐島が何かを説明し始めると、涼太は必ずどこかで「あ」という顔をした。声には出さない。でも眉が上がって、目が少し細くなって、口の端がわずかに動く。

        小野寺実はそれを「涼太の理解顔」と呼んで、いつしか自分もそれを待つようになっていた。

        桐島の授業には、不思議なリズムがあった。

        疑問を育てる。疑問が熟したところで答える。答えが新しい疑問を生む。そのサイクルが、五十分をあっという間に変えた。チャイムが鳴るたびに、教室のどこかで小さな舌打ちが聞こえるようになった。終わりたくない、という音だった。

        エピローグ 問いを持つ人間

        十一月。模試の返却日。

        涼太の答案には、物理の大問に、見慣れない記述があった。

        公式を使う前に、三行の説明が書いてあった。「この状況で保存されるのはエネルギーであり、なぜなら——」

        採点者のコメント欄には赤ペンで一言あった。

        「理解している」

        涼太はその答案を、机の引き出しにしまわなかった。

        桐島の授業が始まる前、机の上に広げておいた。理由は自分でもうまく説明できなかったが、なんとなく、見えるところに置いておきたかった。

        扉が開いた。

        「今日は慣性の話をします」桐島は言った。「まず聞きますけど、なんで止まってるものって、動き出しにくいんだと思う?」

        川島涼太は、一番最初に手を挙げた。

        了

      • Yo
        • その他
        • 東京都

        本を読むことで、様々な世界や考え方に触れるのが楽しみです。ジャンルを問わず、新しい発見がある本が好きです。読了後には星評価をつけていますが、あくまで個人的な感想と自分のための備忘録です。皆様の感想も選書の参考にしており、楽しく読書メーターを利用しています。

      • ピンガペンギン
        • 女
        • 高知県

        2021年12月に登録しました。50代です。

        〇小説、新書を中心に読んできました。
        〇若い時「森鷗外選集21巻」石川淳編(中古)を購入しました。転居のたびに持ち運び、50代になって再読中。旧仮名表記で趣があり本のサイズも良いです。同じく20代で購入した「

        ギリシャ悲劇全集」(岩波書店)も待機中です。(2025.6)
        〇キリスト教、仏教(ベストセラーを出していたスリランカ出身のスマナサーラ師の本など)の本を昔から時々読んでいましたが、最近は日本宗教史にも興味があります。(2024.12)
        〇司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズ まだ7冊しか読んでいませんが、これも読んでいきたいです。(2024.12)
        ○語学学習アプリDuolingoでフランス語と中国語(音楽、ドイツ語も)を学んでいます。二兎を追う者は…と申しますが、面白いので二言語とも続けたい。(2025.6)
        ○台湾出身の著述家焦さんによる「現代の世界的ピアニストたちとの対話」シリーズが好きです。
        ○海外作家ではバルザックを読み進めています。「ゴリオ爺さん」「ランジェ公爵夫人」「オノリーヌ」「金色の眼の娘」「骨董室」などが印象強烈でした。しかし、読むと嫌な気分になることが多いので、中断している…。
        ○精神科医の中井久夫を須賀敦子全集(河出文庫)の解説者として知り、エッセイを読んでファンになりました。2022年8月に逝去されたと読書メーターのおかげで知りました。

      • luadagua
        • 女

        アウトプット練習帳。
        じっくりていねいに記録していけたらと思っています。

        興味があれば何でも読んでみたいと思いつつ、読書傾向は偏りがちなので、読メで新しい出会いがあったら嬉しいです。

        好きなのはファンタジー、ホラー、SF、オカルト、猫、占い、健康、精神

        世界系。文具や手帳も好きなので手帳術や、まつわる自己啓発系も。

        映画鑑賞。
        https://filmarks.com/users/luadagua

      • tamami
        • 男

        半世紀にわたって買いためた積ん読本に囲まれる日々。少しずつ減らそうとするものの、新刊・古本が同じくらい入ってくる。

      • 遊学の隠居🌊
        • IT関係

        ピカソとアインシュタインが会ったとき。エッシャーとゲーデルが会ったとき。自己言及をどう表現するべきか。。。
        無学です。
        インスタ: @ugaku_no_inkyo

      • はや

          ▼関心あるトピックは『幻想』『悪夢』『シュルレアリスム』『毒親』『発達未熟』『食物連鎖の循環』『残酷なリアリズム』『大きな現象を多角的に語ること(=環境について複数視点から語ること)、そして誠実さに呪われていること』
          ▼好きな物語ジャンルは『幻想怪奇』
          ▼

          文体を好んで作家読みすることがあります

        • 大島ちかり
          • 女
          • 1969年
          • A型
          • 東京都

          浜松市出身です。行ったり来たりしています。新幹線で座って本の世界に浸っていると、駅に降り立ったとき、異世界に来た気になります。因みに東京の生活と、浜松の生活とどちらが異世界か分からなくなってきています。

        • naniwoyomu

            ブックガイド・書評サイトをやっています。記事にした本は、8000を超えています。皆さんのお役に立つと思います。

          • 西園寺カトリーヌ

              皆さんの書評を見るのが毎日の楽しみで
              お陰様で読みたい本リストが続々と
              増えてそれがまた楽しいです。

              図書館でタイトルに惹かれたものを
              雑食的に読んでいますが
              大好きな江戸・明治・大正・昭和初期に
              関わるものを分野問わず手に取ることが多いです。

              その他

              に海外ミステリ、歴史関連、民俗学
              ノンフィクションが好きです。

              よろしくお願い致します。

            • mol

                読む

              • 逆丸カツハ

                  関係と情報の哲学への招待|松笠 遥 Matsukasa Haruka https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n858d6aa2de05?sub_rt=share_b

                  本の著者です!
                  情報と関係の哲学『誰も知らない夢の果て

                  から』|
                  Amazonから購入できます!→ amzn.asia/d/079xhRdo

                  いくつかの大学の図書館にも入ってます!
                  https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD08210396?l=ja

                • 榊原 香織
                  • 女
                  • 静岡県

                  お気に入り登録歓迎(解除はイヤw)
                  静岡で中国拳法・大東流教えてます。武歴34年ちょい
                  (太極拳・気功・形意拳 國際教練・静岡支部支部長・地曳秀峰老師入室弟子)
                  北海道出身

                  英語検定準1級・中国語検定2級・フランス語検定準2級・ドイツ語検定5級・ハングル

                  検定5級・イタリア語検定5級・スペイン語検定6級・美術検定4級・アロマテラピー1級・学芸員資格
                  居合3段・弓道初段・日本体育協会公認スポーツリーダー
                  https://www.instagram.com/toco60101d/
                  日本百名城挑戦中。
                  台湾、アイスランド、奈良好き 美術・博物館 鳥
                  大学の専攻は文化人類学 修士論文は”中国武術における動物表象”
                  https://www.facebook.com/kaori.sakakibara.9
                  太極拳静岡支部のHP https://shizuoka-taikyoku.jimdofree.com/

                • ひろし
                  • 男
                  • 愛知県

                  読書好きです。ときどき読書会に参加していました。相互フォロー希望しますので、よろしければお願いします。

                • ふみあき

                    1976年生まれ。一児の父親。

                  • breguet4194q
                    • 男

                    東山魁夷と吉川英治を心から愛する男です

                  • nobara
                    • 女
                    • 主婦
                    • 大阪府

                    好きなのは、SF、ファンタジー、歴史もの
                    あと、怪奇ホラー系も好き
                    その他、気が向けば何でも読みます

                    最近の読書傾向は、新書が多いです
                    読みたい本は沢山あるのに、読書に多くの時間が割けないのが現状

                    「読んだ本」「積読本」には、ダブり買い防止のために

                    蔵書を登録
                    「読んだ本」には、最近 図書館で借りて読んだ本も登録してます
                    「読みたい本」への登録本は、今後購入、又は図書館で借りる時のメモです

                    マンガはここに登録してません

                  • 有機物ちゃん

                      読書メモ。読書日記。

                      年間読了数メモ
                      2022/299冊
                      2023/354冊
                      2024/119冊

                    • 全37件中 1 - 20 件を表示

                    ユーザーデータ

                    読書データ

                    プロフィール

                    登録日
                    2021/08/24(1870日経過)
                    記録初日
                    2009/03/10(6420日経過)
                    読んだ本
                    1635冊(1日平均0.25冊)
                    読んだページ
                    352613ページ(1日平均54ページ)
                    感想・レビュー
                    1635件(投稿率100.0%)
                    本棚
                    16棚
                    性別
                    男
                    自己紹介

                    地図好き、神社好き、郷土史好き、富士塚好き、知育玩具好きな爺さんです。
                    趣味の一つが「古本屋めぐり」であり、そのために、今となっては手に入らない本が多いかも知れません。

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