読書メーター KADOKAWA Group

ちょんすさんのお気に入り
18

  • K
    • 2003年
    • A型
    • 大学生
    • 滋賀県

    短編小説【ジャンル:SF】少し修正

    『量子の彼方で眠るもの』

    第一章 シュレディンガーの囁き

    僕が彼女と出会ったのは、五次元通信の実験室だった。

    深夜の研究棟は静まり返り、冷却装置の低い唸りだけが部屋に満ちていた。
    机の上では、量子ビットの状態を示

    すモニターが淡い光を放っている。

    僕の夢は、宇宙の観測問題を解くことだった。

    観測とは何か。
    なぜ世界は確定するのか。

    もしそれが分かれば、宇宙の仕組みの半分は説明できる。

    父は昔、僕に言ったことがある。

    「物理なんて、現実の役には立たない。」

    その言葉を聞いたとき、僕は悔しくてたまらなかった。
    だからこそ、証明したかった。

    世界の本当の姿を。

    もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。
    それでも僕は、この装置の前に立ち続けていた。

    机の上には、妹がくれた古い万年筆が置いてある。
    試験に合格した日に、彼女がくれたものだ。

    それを見るたびに、僕は思い出す。
    ここまで来た理由を。

    そのときだった。

    背後で、誰かが静かに言った。

    「この宇宙は、無限に分岐している。」

    振り向くと、そこに彼女が立っていた。

    白衣を羽織った、見知らぬ女性。
    長い黒髪が、実験室の白い光の中でゆるやかに揺れている。

    「観測するたびに、世界は分かれる。
     私たちは、その枝のひとつを生きているだけ。」

    彼女はそう言って微笑んだ。

    その笑みは、なぜか懐かしくて、そしてどこか恐ろしかった。

    「君は……誰だ?」

    僕は思わず聞いた。

    彼女は少し首をかしげてから答えた。

    「アマリリス・シュレディンガー。」

    どこか冗談のような名前だった。
    だが彼女の瞳は、冗談とは思えないほど静かで深い。

    まるで、宇宙の奥行きそのものを映しているようだった。

    僕の名は相澤凛久(あいざわ りく)。
    二十五歳。大学で理論物理を学びながら、量子情報転送の研究をしている。

    量子重ね合わせ。
    多世界解釈。
    観測問題。

    そのあたりの理論なら、人並み以上に理解しているつもりだった。

    けれど。

    彼女の存在は、僕の知識の枠を軽々と越えていた。

    「君は……どこから来たんだ?」

    僕の問いに、彼女は少しだけ笑った。

    「私は、ここにいるし、いないわ。」

    その声は不思議だった。
    確かに聞こえているのに、どこか遠くから届いているような響きがある。

    「この世界はね」

    彼女はゆっくり歩きながら、実験装置に触れた。

    「あなたたちが思っているほど、確かなものじゃないの。」

    モニターに表示された量子状態が、わずかに揺れた気がした。

    「世界は観測によって形を持つ。
     観測者がいなければ、宇宙はただの可能性でしかない。」

    彼女は僕の方を見た。

    「そして——」

    その瞬間、僕は息を呑んだ。

    彼女の瞳の奥に、無数の光が見えたからだ。

    星のようにも、粒子の軌跡のようにも見える光。

    「あなたはもう、観測者じゃない。」

    心臓が強く跳ねた。

    その言葉が、頭の奥で奇妙に反響する。

    観測者じゃない?

    それはどういう意味だ。

    次の瞬間、僕の意識の奥で何かが弾けた。

    まるで脳内の高エネルギー粒子が衝突したときのように、世界が一瞬だけ揺らいだ。

    視界が、わずかにずれる。

    机の位置。
    モニターの光。
    彼女の立ち方。

    すべてが、ほんの少しだけ違う。

    僕は机をつかもうとした。

    だが——

    指がすり抜けた。

    机はそこにある。
    でも、僕は触れられない。

    「どうしてだ……」

    声が震える。

    アマリリスが静かに言った。

    「あなたは観測者じゃないから。」

    背中が冷たくなった。

    「あなたは、“観測される側”になったの。」

    「あなたは、宇宙の中の一つの現象になったの。」

    もし僕が決まらなければ。

    僕は一生、存在しないままになる。

    そのとき。

    僕の視界の端で、何かが動いた。

    研究室の廊下。

    ガラス越しに、誰かが歩いている。

    よく見ると——

    それは僕だった。

    廊下の向こうから、もう一人の僕が歩いてきた。

    その瞬間、僕は理解した。

    ——いや、理解してしまった。

    ここは。

    僕の知っている宇宙じゃない。

    そして彼女は、静かに囁いた。

    「ようこそ、分岐点へ。」

    第二章 量子幽霊

    目の前のアマリリスの姿が、ふっと揺れた。

    空気の中に溶けるように、輪郭がぼやける。

    まるで、存在がまだ確定していないかのようだった。

    僕は息をのんだ。

    「僕は……観測者じゃないって、どういう意味だ?」

    彼女は静かに僕を見つめた。

    その瞳は深く、どこまでも落ちていきそうなほど暗かった。

    「あなたはもう、この宇宙の“基底状態”には存在していないの。」

    言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

    「……待ってくれ」

    僕は思わず、自分の手を見た。

    そこにあるはずの手。

    けれど、何かがおかしい。

    重さがない。

    触れているはずの空気の感触が、妙に薄い。

    まるで、自分の身体が世界から半歩ずれているような感覚。

    「これは……」

    僕は恐る恐る机に触れようとした。

    指先が、机の表面に届く。

    だが。

    触れたはずなのに、触れた感じがしない。

    僕は凍りついた。

    「……なんだよ、これ」

    アマリリスは静かに言った。

    「あなたは今、存在と非存在の狭間にいる。」

    その声は落ち着いていた。
    まるで、この状況が当たり前であるかのように。

    「そんなはずない!」

    思わず声が荒くなる。

    「僕はここにいる。見えるだろ?」

    その瞬間だった。

    彼女が、ゆっくりと手をかざした。

    すると。

    僕の腕の一部が、ふっと透けた。

    光の中で、形がほどけていく。

    まるで霧のように。

    心臓が強く跳ねた。

    「……なに、してるんだ」

    声が震えた。

    僕は自分の腕を必死に見つめる。

    そこにあるはずの肉体が、ゆらゆらと揺れている。

    まるでこの世界に完全には属していないみたいに。

    「……僕、消えるのか?」

    アマリリスは首を横に振った。

    「違うわ。」

    そして、静かに言った。

    「あなたは幽霊になったわけじゃない。」

    僕は息を止めた。

    彼女は続ける。

    「あなたは、“観測される側”になったの。」

    意味が、すぐにはわからない。

    僕はただ、彼女の顔を見つめるしかなかった。

    アマリリスは、僕の理解が追いつくのを待つように、ゆっくりと言葉を選んだ。

    「これまでのあなたは、世界を見ていた。」

    「観測者として、宇宙に影響を与える立場だった。」

    「でも今は違う。」

    彼女は一歩近づいた。

    「あなたは、宇宙の中の一つの現象になったの。」

    胸の奥がざわめいた。

    「……つまり」

    喉が乾く。

    「僕は、宇宙の一部になったってことか?」

    彼女は微笑んだ。

    それが答えだった。

    僕は、ようやく理解した。

    僕はもう、世界を外から見ている存在じゃない。

    この宇宙の中で揺らぐ、ただの一つの確率。

    背景に流れるノイズのようなもの。

    「でも……」

    声がかすれる。

    「なんで、こんなことに?」

    アマリリスの瞳の奥で、無数の光が瞬いた。

    星のようにも見えるし、粒子の軌跡のようにも見える光。

    「あなたが選んだからよ。」

    「僕が?」

    「ええ。」

    彼女は静かにうなずいた。

    「あなたは、世界の本当の姿に近づきすぎた。」

    「そして、“知る”ことを選んだ。」

    胸が強く締めつけられる。

    「だから、観測者ではいられなくなったの。」

    研究室の空気が、急に広く感じられた。

    世界の輪郭が、少しずつぼやけていく。

    僕は、小さくつぶやいた。

    「……じゃあ」

    「僕はもう、元には戻れないのか?」

    アマリリスは、少しだけ考えるような顔をした。

    それから言った。

    「戻れるかどうかは——」

    彼女はゆっくりと手を伸ばした。

    細い指先が、僕の額に触れる。

    「あなたが、どう観測するか次第ね。」

    その瞬間。

    世界が揺れた。

    床も、壁も、光も、音も。

    すべてが水面のように波打つ。

    僕の身体は、確率の海の中でほどけていく。

    そして僕は思った。

    ——僕は、まだ存在しているのか?

    それとも。

    もう、観測されるだけの“何か”なのか。

    第三章 シュレディンガーの牢獄

    彼女の指先が額から離れた瞬間、世界は崩れた。

    床も、壁も、光も、すべてが音もなくほどけていく。

    僕の意識は、暗い裂け目の中へゆっくりと沈み込んでいった。

    いや——落ちているわけではない。

    漂っている。

    どこにも触れず、どこにも属さず、ただ存在しているだけ。

    「……観測次第、って言ったよな」

    声を出したつもりだった。

    けれど、音は生まれなかった。

    言葉そのものが、空間のどこにも届かず、消えていく。

    まるで、この世界が僕の言葉を受け取る仕組みを持っていないみたいだった。

    そのときだった。

    「そう。あなたは今、“決定”の外側にいる。」

    アマリリスの声だけが、はっきりと響いた。

    どこから聞こえてくるのかは分からない。

    けれど、その声は確かに僕の意識の中心に届いていた。

    僕は自分の手を見た。

    やはり、半透明だった。

    輪郭があいまいで、時々、粒子のような光になってほどける。

    「……どうすれば、戻れる?」

    僕は思った。

    その思考は、どうやら彼女に届いたらしい。

    「簡単なことよ。」

    アマリリスは言った。

    「観測を取り戻せばいい。」

    観測。

    その言葉が、妙に重く響く。

    「あなたは今、シュレディンガーの猫と同じ状態にあるの。」

    彼女の声は静かだった。

    「存在しているとも言えるし、していないとも言える。」

    「そのままでは、あなたの状態は決まらない。」

    僕は理解しかけていた。

    いや、理解したくなかったのかもしれない。

    「……つまり」

    僕は考える。

    「僕は今、“決まっていない”存在ってことか」

    「ええ。」

    彼女は迷いなく答えた。

    「あなたは今、可能性の中に閉じ込められている。」

    その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。

    「じゃあ……」

    「誰かが僕を観測すれば、僕は確定するのか?」

    「そうね。」

    アマリリスは少しだけ間を置いた。

    「でも問題があるわ。」

    「……何だ?」

    「今のあなたを観測できるのは、あなただけよ。」

    僕は思考を止めた。

    意味が分からない。

    「……僕が、僕を観測する?」

    「そう。」

    彼女の声は変わらず穏やかだった。

    「でも、今のあなたには観測者としての主観がない。」

    その言葉は、ゆっくりと僕の中に沈んでいった。

    「あなた、自分が今どこにいるか分かる?」

    僕は答えようとした。

    だが、言葉が出ない。

    気づいてしまったからだ。

    僕は確かにここにいる。

    でも——

    ここがどこなのか分からない。

    空間の位置も。

    時間の流れも。

    何一つ確信できない。

    まるで、座標軸のない空間に投げ出されたようだった。

    上も下もない。
    前も後ろもない。

    世界を測る基準そのものが、消えてしまったみたいだった。

    それだけじゃない。

    もっと根本的なことが、揺らいでいる。

    「僕は……」

    言葉にならない思考が浮かぶ。

    僕は、本当に僕なのか?

    その瞬間、恐怖が胸の奥で膨らんだ。

    アマリリスが静かに言った。

    「観測というのは、世界を決める行為。」

    「同時に、“自分が自分である”と確定する行為でもある。」

    「でも今のあなたは、それを失っている。」

    僕は理解した。

    今の僕には、“僕”という中心がない。

    だから存在も決まらない。

    僕はただ、確率の海に浮かぶ一つの可能性に過ぎない。

    「……じゃあ」

    僕は必死に思考をまとめた。

    「僕はどうすればいい?」

    アマリリスは答えた。

    「自分自身を観測すること。」

    「そんなこと、できるのか?」

    「できるわ。」

    その瞬間。

    暗い空間に、光が生まれた。

    アマリリスの指先が空間をなぞる。

    すると、そこに数式が浮かび上がった。

    Ψ(x,t) = Σ Cₙ φₙ e^(-iEₙt/ħ)

    量子力学の波動関数。

    可能性の重ね合わせ。

    その意味は、あまりにも明白だった。

    「あなたの存在は今、確率の海に広がっている。」

    アマリリスは言う。

    「でも、完全に消えたわけじゃない。」

    「あなたが選べば——」

    「一つの存在として収束できる。」

    選ぶ。

    その言葉と同時に。

    世界が開いた。

    僕の前に、無数の“僕”が現れた。

    別の人生を生きる僕。

    違う街で暮らす僕。

    研究者ではない僕。

    すでに死んでいる僕。

    誰かを愛している僕。

    誰にも出会わなかった僕。

    そのすべてが、可能性として漂っている。

    無数の世界。

    無数の人生。

    そして、その中心にいる僕。

    アマリリスの声が静かに響いた。

    「あなたは、どの“あなた”でありたい?」

    僕は、息を呑んだ。

    選ばなければならない。

    選ばなければ、僕は永遠に決まらない。

    観測されない存在。

    可能性の亡霊。

    ——シュレディンガーの牢獄の中で。

    僕は、ゆっくりと目を閉じた。

    そして考えた。

    僕は。

    どの“僕”を選ぶ?

    第四章 波動関数の崩壊

    無数の“僕”が、そこにいた。

    暗い空間の中で、星のように浮かび上がる無数の人生。

    ある僕は、満員電車に揺られている。
    スーツ姿の会社員として、どこにでもある日常を生きている。

    ある僕は、研究室の白い光の下で数式を書き続けている。
    量子力学の奥底にある真理を追い求める研究者だ。

    ある僕は——

    もう、息をしていない。

    事故で命を落とした僕。
    病院のベッドで静かに目を閉じた僕。

    無数の人生。
    無数の可能性。

    そして僕は、そのすべてを同時に見ていた。

    いや。

    見ているというより——

    感じている。

    それぞれの人生の重さ。
    喜び。
    後悔。
    恐れ。

    すべてが、僕の中に流れ込んでくる。

    「選ばなければ、あなたは確定しない。」

    アマリリスの声が、遠くで響いた。

    その声は静かだった。

    けれど、逃げ場のない重さを持っていた。

    選ばなければならない。

    だが、僕は立ち尽くしていた。

    どの人生を選べばいい?

    何を基準に?

    どの僕が、本当の僕なんだ?

    そのとき、ふと気づいた。

    ——違う。

    この問いの前提が、間違っている。

    「本当の僕」なんてものは、最初から存在しない。

    僕がどれを選ぶかによって、

    初めて“僕”が決まる。

    僕は、今この瞬間に、自分を作るのだ。

    胸の奥で、何かが静かに定まった。

    恐怖は消えていた。

    代わりに、奇妙な確信があった。

    僕は、ゆっくりと手を伸ばす。

    無数の人生が目の前に広がる。

    どの人生も、あり得た未来だ。

    どれも、僕だった可能性だ。

    その中の一つに、僕は指を向けた。

    研究室の光の中で立っている僕。

    数式に囲まれた、あの人生。

    「……この僕だ。」

    その瞬間だった。

    世界が、急激に収縮した。

    無数の光が、一斉に震える。

    可能性の海が激しく波打ち、
    すべての未来が崩れ始める。

    星のように浮かんでいた“僕”たちが、次々に消えていく。

    会社員の僕。

    別の街で暮らす僕。

    愛する人と出会った僕。

    すでに死んでいた僕。

    すべてが、静かにほどけていく。

    残るのは、ただ一つ。

    僕が選んだ人生だけ。

    強烈な引力が、僕の意識を引き寄せる。

    空間が折りたたまれる。

    時間が一本の線に戻る。

    可能性は閉じ、世界は一つになる。

    波動関数が——

    崩壊する。

    次の瞬間。

    視界が真っ白になった。

    音も、光も、感覚も。

    すべてが消える。

    ただ一つ、最後に聞こえたのは。

    アマリリスの、かすかな囁きだった。

    「いい選択よ。」

    そして僕は、

    再び“存在”へと落ちていった。

    第五章 観測者の眼

    ゆっくりと、意識が浮かび上がってくる。

    深い水の底から、静かに水面へ戻るような感覚だった。

    まぶたの裏に、ぼんやりと光が広がる。

    そして——

    僕は目を開けた。

    見慣れた天井があった。

    白い天井。
    細いひびの入った壁。
    机の上のスタンドライト。

    僕は、ベッドの上に座っていた。

    「……」

    しばらく、何も言えなかった。

    呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。

    ここは——

    僕の部屋だ。

    ゆっくりと周囲を見渡す。

    机の上には、開いたままの本がある。

    量子力学の専門書。
    数式で埋め尽くされたページ。

    デジタル時計の赤い数字が、暗い部屋の中で光っている。

    03:42

    僕は、無意識に腕をつねった。

    鋭い痛みが走る。

    「……痛い」

    その感覚に、妙な安心感があった。

    僕は、ここにいる。

    ちゃんと存在している。

    僕は僕だ。

    それがはっきりと分かる。

    それこそが——

    観測。

    僕は、確定したのだ。

    「……戻ってきたのか」

    小さくつぶやいた。

    だが、そのときだった。

    部屋の空気の中に、わずかな違和感があることに気づいた。

    僕はゆっくりと顔を上げる。

    部屋の隅。

    窓のそばに——

    彼女が立っていた。

    「おかえりなさい。」

    アマリリスは、静かに微笑んだ。

    僕は、息をのんだ。

    「……どうして、君がここにいる?」

    彼女は、まるで最初からそこにいたかのように自然に立っている。

    白いワンピース。
    静かな瞳。

    まるで夜そのものが人の形をしているみたいだった。

    「あなたが“この僕”を選んだからよ。」

    彼女は、穏やかな声で言った。

    僕の胸が、強く鳴る。

    「……まさか」

    言葉が途中で止まる。

    だが、彼女は頷いた。

    「そう。」

    「あなたが戻る世界を選んだということは——」

    「この世界もまた、同時に決まったということ。」

    僕はゆっくりと理解した。

    波動関数の崩壊。

    それは、僕の存在だけじゃない。

    世界そのものが、一つに確定したということだ。

    無数に分岐していた可能性の中から、

    僕はこの世界を選んだ。

    そして——

    この世界の彼女もまた、選ばれた。

    「これが……観測者ってことか」

    僕は呟いた。

    アマリリスは、静かに頷いた。

    「あなたは存在を確定させた。」

    「でも——」

    彼女はそこで言葉を止めた。

    「これで終わりではないわ。」

    僕は眉をひそめる。

    「どういう意味だ?」

    彼女は答えなかった。

    ただ、ゆっくりと窓の方へ視線を向けた。

    「見て。」

    その一言だけだった。

    僕は立ち上がる。

    足が、少し震えている。

    部屋の床を踏む感覚が、妙に現実的だった。

    一歩。

    また一歩。

    僕は窓の前に立つ。

    カーテンに手を伸ばす。

    なぜか、胸の奥がざわついていた。

    何かがおかしい。

    そんな予感がする。

    僕は、ゆっくりとカーテンを開いた。

    その瞬間——

    世界が目に飛び込んできた。

    そして僕は、息を止めた。

    そこに広がっていたのは、

    僕の知っている世界ではなかった。

    第六章 特異点の向こう側

    窓の外に広がる街を、僕はしばらく黙って見つめていた。

    見慣れているはずの景色だった。

    夜の街。
    高層ビルの影。
    遠くまで続く道路。

    どれも、確かに見覚えがある。

    けれど——

    何かが違う。

    違和感は小さかった。
    だが、その小ささが、かえって不気味だった。

    静かすぎるのだ。

    耳を澄ましてみる。

    夜の街なら、本来はさまざまな音があるはずだ。
    遠くを走る車のエンジン音。
    信号待ちのブレーキの軋み。
    どこかの窓から漏れてくるテレビの音。
    深夜のコンビニに出入りする人の足音。

    だが——

    何も聞こえない。

    街は確かに存在しているのに、
    まるで音だけが切り取られてしまったかのようだった。

    さらに奇妙なのは、光だった。

    ビルの窓から漏れる光が、わずかに歪んでいる。

    揺れている。

    風が吹いているわけでもないのに、
    光が水面の反射のように波打っているのだ。

    まるで、現実そのものが安定していないみたいだった。

    その瞬間、僕の頭の中に、いくつかの奇妙な可能性がよぎった。

    空に月が二つある。
    時計が逆に進んでいる。
    街の人間が全員同じ顔。
    看板の文字が、存在しない言語で書かれている。

    そんな、あり得ないはずの世界。

    僕は小さく首を振った。

    あり得るはずがない。

    もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。

    そんな状況で、幻覚なんて見ている場合じゃない。

    「……ここは本当に」

    僕は、かすれた声で言った。

    「僕の世界なのか?」

    振り返る。

    アマリリスは、部屋の中で静かに立っていた。

    相変わらず、落ち着いた表情だった。

    まるで、この状況が少しも不思議ではないみたいに。

    「そうね。」

    彼女は穏やかに答える。

    「あなたが選んだ世界ではあるわ。」

    そこで少しだけ言葉を区切った。

    「でも、完全に元の世界と一致しているとは限らない。」

    僕は眉をひそめる。

    「どういう意味だ?」

    彼女は机の方へ歩いた。

    そこに置かれているのは、さっきまで僕が読んでいた量子力学の本だった。

    ページの上には、数式が並んでいる。

    彼女は、その本を指先で軽く叩いた。

    「あなたは今、“観測者”として世界を再構築している。」

    僕は黙って彼女の言葉を待った。

    「観測によって現実は確定する。」

    「でも、その結果が“以前とまったく同じ世界”になる保証はない。」

    彼女の声は静かだった。

    だが、その意味は重かった。

    「観測前の可能性は、無数にある。」

    「そして、どの可能性が選ばれるかは——」

    「完全には制御できない。」

    僕の喉が、かすかに鳴った。

    頭の中で、理論がつながる。

    シュレディンガーの猫。

    箱を開けるまでは、生きてもいるし死んでもいる。

    観測した瞬間に、状態は一つに決まる。

    だが——

    どちらになるかは、観測するまで確定しない。

    つまり。

    僕が戻ってきたこの世界は。

    元の世界に、限りなく近い。

    だが、完全に同じとは限らない。

    僕はゆっくりと言った。

    「……それじゃあ」

    「ここはパラレルワールドなのか?」

    アマリリスは、すぐには答えなかった。

    窓の外の街を見つめる。

    そして、静かに首を横に振った。

    「いいえ。」

    「これは“あなたにとって唯一の世界”。」

    彼女は言った。

    「ただし——」

    「それが“以前と同じ世界”であるとは限らない。」

    僕の背中を、冷たい感覚が走った。

    「じゃあ……」

    僕は窓の外の街を見た。

    揺らぐ光。
    静まり返った道路。

    「どこが変わったんだ?」

    その問いに、彼女はゆっくりと視線を戻した。

    そして、ほんのわずかに微笑んだ。

    「それを確かめるのは——」

    「観測者である、あなたの役目よ。」

    僕は部屋を出て、研究棟の外へ向かった。

    駅前の広場に出る。

    ふと、時計を見る。

    駅前の時計だった。

    針が、逆に回っている。

    その瞬間、背筋が凍った。

    街を見渡す。

    街灯の光。
    歩道。
    建物。

    すべてがそこにある。

    だが——

    何かが足りない。

    そして僕は気づいた。

    この街には、影が存在していない。

    そしてそのとき、気づいた。

    僕にも、影がなかった。

    窓の外で、街の光がもう一度揺れた。

    その揺らぎは、さっきよりもはっきりしていた。

    まるで世界そのものが、

    何かを患っているかのように。

  • ヴェネツィア
    • 専門職

    2011年4月からの参加で、15年目にはいりました。一番よく読んでいるのは日本文学、次いでは翻訳文学です。読むジャンルの幅は広い(半ばは意識的にそうしています)のですが、何でも手当たり次第に読むというわけではありません。特に誇れるものはありませんが、連続読

    書日数は初日から5263 日(2025年9月2日現在)、冊数は8098冊になりました。胃癌で入院中も、海外旅行中も毎日読んできました。さて、どこまで伸ばせることやら。

  • パトラッシュ
    • 千葉県

    人間の友人はほとんどいませんが、読書だけに浸っていれば満足している変人です。いい年なのに独身ですが、下手に家族を持ったらため込んできた本を捨てられそうで婚活もしていません。私のような存在が少子化の元凶かもしれませんが、知ったこっちゃありません。もし読書を禁

    止するような政府が成立したら、命を賭けて戦う覚悟だけはあります。

  • KAT

    感想を読んでいただいた方
    ありがとうございます!

    在宅作業の合間に、
    月間7~9冊を目標に、
    ジャンルを問わず浅く広く読書をしています。

    アウトプットをする習慣をつけようと
    読書メーターを始めました。
    拙文であっても、人目に晒して
    どんどん恥をかいて

    いこうと思います。

    宜しくお願い致します。

    ニックネームのこじつけ
    Knowledge And Thinking

    【好きな作家】
    沢木耕太郎/司馬遼太郎/伊坂幸太郎
    万城目学/新田次郎/篠田節子
    夏目漱石/安部公房

  • Masa

    「沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない」 ブッダ

    お気に入り登録はお気軽

    にどうぞ。ただし、まともな議論ができないと思われる方や、そのような方が支持する、知的誠実さに欠ける”文化人”を肯定的に評価する方については、こちらからは一切関わりませんし、場合によりブロックします。あらかじめご了承ください。
    《私の性格診断》
    https://www.16personalities.com/ja/entj%E5%9E%8B%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%A0%BC

    (ここを訪ねられた方へ)
    あなたが何を読んでいるか、何を知っているかには基本的に興味がありません。あなたが読んだ本を通じていかに己を語るかに興味があります。

    共読本ページに上がる感想のチェックを習慣にしており、よいと思ったものには勿論、自分とは違う読み方でも面白いものにもナイスを付けます。
    ただし、文学作品ならともかく、既に入門書や研究書が出回っているような哲学・思想書を手前勝手に読んで体裁だけを取り繕った文章、はてはどうしようもない誤読にナイスは付けません。さらに、そんなものにナイスを付ける方とも関わり合いになる気はありません。

    「名刺代わりの10冊」という本棚があるので、興味のある方は覗いてください。

    (私の考えるところ 2021年8月19日)
    「自宅療養」を「自宅放置」と言い換えているネット投稿を見かけ、やはり政府の欺瞞を突かずにはいられない人がいる事にいささか安堵する。当然私もその言い換えに我が意を得たりと思ったひとりだ。
    「放置じゃないぞ」云々と擁護を口にしたい手合いにはマルコムx のこの言葉を聞かせよう。
    「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか? 白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか」
    ありがたいとそこで思うような手合いこそ、私がよく言う「よきツァーリを待ち望む農奴」だということだ。自分の命より「お上」が大事、倒錯している。しかし、それがこの国の政府の無為無策を支え、命の軽視を容認している。
    (以前投稿したつぶやきを一部修正して再掲)

  • きり
    • 栃木県
  • Tenouji
    • O型
    • IT関係
    • 神奈川県

    No book,No life!

    ここでの感想は1冊ごとですが、ある2冊の本を読んだときに感じた「言葉」をブログに書いています。
    https://tenouji.hatenablog.com/

    また、読了した本は、一部、メルカリでお譲りしています。
    h

    ttps://www.mercari.com/jp/u/470386143/
    「読書メーターを見た」と言っていただければ、お値引きいたしますw。

  • HANA
  • ひよこ皇太子

    くたばれ!ビッグブラザー!

  • 阿部義彦
    • 1961年
    • O型
    • サービス業
    • 宮城県

    猫とロックが好きなはっぴいえんど主義者です、よろしく。プログレッシブロックの申し子です。文学はエスエフ第一世代の影響をもろに受けました。人文書好きです。アートにも興味があり、好きな編集者は都築響一さんです。サブカル、赤瀬川原平、山田詠美、綿矢りさ、筒井康隆

    、橋本治、大島弓子、吾妻ひでお、萩尾望都、フィリップ・K・ディック、絲山秋子、森達也、北村薫、川上弘美。元ビックリハウサー、今でもナイアガラー。

  • うつしみ
    • 1983年
    • 専門職

    自己紹介的なもの


     己の欲する所に従えども矩を踰えず、そんな自由な心で生きられたらどんなに幸せだろう。自由といっても幼子の様に好き勝手したいという訳ではない。libertyは悪くないが、政治臭が合わない。自然法爾、融通無碍というが理想に近い。自由へ

    の第一歩として、まずはあらゆる執着が不自由の源と理解し、時間空間を超えた視点から自分を俯瞰的に見て、再びまた俗に還ってくる一連の過程を大事にしたい。俗に還るのは馴れ合いのためではない。身体性を忘れないためである。肉体は私を縛るものであると同時に私の存在根拠である。無数の因果を経て固有の遺伝的背景を託され、周囲環境の影響を受けながら成長した結果として今があり、今後も内外のやり取りー呼吸循環消化排泄ーを続けていかなければこの肉体は保ち得ない。むしろ私という現象は、そうしたエネルギーの流動過程で一過性に生じている出来事それ自体である。


     人は掴み所のない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人は曖昧模糊とした世界を切り取って言葉を当てがい、理解し確かめ合う。存在は命名により励起する。言葉は世界への働きかけである。無意識の意識化である。言葉の用い方は世界の見方・切り取り方であり、そこに人となりが顕れる。それら無数の重ね合わせで時代や社会の空気が醸成され、個に還ってくる。言葉の流れは双方向的である。


     何か手近にあるものを借りてきて利用して、破綻したらまた近くの別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応を繰り返して進化してきた。進化とは変化である。無常という事である。そんな歴史の記憶が刻まれた幾兆の細胞が人体を構成し、細胞間のコミュニケーションがこの動的複雑系を成立させている。免疫細胞は自他の弁別を司り、幾百億のこれらが血流リンパ流を介し常時くまなく巡回し続ける事で、個が全体として保たれ続けている。抗体はランダム性を内包し、あらゆる外部世界を想定し準備している。自他の境界は厳密ではなく、状況に応じて揺れ動くものである。免疫が弱ければ内憂外患に対応できないが、無害なものに反応してはアレルギーを生じ、過剰になれば自己免疫疾患を病む。細胞の事はどうにもならぬが、全体を統括する身体のあり方からして状況に応じた柔軟なバランス感覚が必要で、柔よく剛を制すというのはこの普遍的真理を会得する事である。肉体を預かるこの現身としては、時と場と前後の文脈を読み、今なすべき事を当然の事として自然体で行う事を理想の境地としたい。


     法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右され移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかし、思い込みや勘違い、時に悪意が紛れ込む事を免れない。平素の私の言動は、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に、自分でもよくわからぬままに同調したり忖度したりした結果である事を否定できない。多くの場合、私は私という役割を無難に演じているが、そこに関係性の力学は見出せても、行為する主体の輪郭を明確にする事はできない。人間の自由意志とは一体何なのだろう。私が私であるというのはただの思い込みに過ぎず、確かな実体などないのではないか。


     私は私自身をうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を持つと決める事で、初めて人は社会の参加者となれる。社会において主体の言動に価値があるかどうかは、正しいか間違いかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力で決まるのだ。近代社会は個々人に説明責任を要求する社会である。近代的価値観の中に生きる人間は、自分の言動を神や太陽や空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持たなければならない。これは近代社会が勝手に敷いたルールではあるが、社会において現在最高神の地位にあるのはこのルールなのだ。法に規約に契約に、微に入り細に渡るルールの言語化制度化は、近代叡智の結晶であり、現代人もこれに敬意を払って生きなければならない。これは「社会は言語によって成り立つ」という強力な仮定から演繹された、人の行動原理に関する神学的解釈である。近代的個人は無意識に言語の万能性を信じている。そしてその信仰ゆえに苦しみ疲弊している。


     近代的個人を、啓蒙時代以降の「神を離れて理性的価値観を信奉している個人」と定義する。近代的個人の出発点には、デカルト的な我、即ち主体の実在への揺るぎない確信がある。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度をムダなく上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のお陰で、飢餓や感染症といった、嘗ては人の生活のすぐそばにあった不条理の多くは克服されるようになった。機械文明の発達で肉体的労苦も軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという点においては、対象世界の科学的合理的把握という方法が有効であった事は間違いない。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に実現可能レベルの夢を語り資金を集め、富を増やし分配する資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=貨幣と数字(利子)に割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。科学と資本主義がほどよく咬み合って今日の近代社会が築かれてきたのである。だがこの歯車は、一度動き始めると誰にも止められない怪物でもあった。


     現代文明は肉体的には快適である。しかし皆どこか生き辛さを抱えている。現代社会に蔓延るこの漠然とした不安の源は何なのだろう。私はこの難題を考えるにあたってはまず、デカルト的な我に帰る必要があると感じている。主体の実在ほど疑わしいものはない。にも関わらず、それを「ある」と盲信している所が近代の不幸なのではないか。主体と客体は本来同じものであって、単なる概念でしかない。それも、その方が整理しやすいという理由で便宜的に分けられたに過ぎない。近代以降の人間(以下、近代人)はその事をどこかにほっぽらかして忘れてしまい、まるで両者が別々のもの、しかも実在であるかのように取り扱ってきた。私はこれが過ちで詭弁で自己欺瞞であったと考え直したい。


     近代的個人は、神を捨てた代わりに心身二元論を奉じるようになった。その数多ある弊害の中で最も忌まわしいものがニヒリズムだと思う。近代人は主体と客体が別々のものだという思い込みがある為に、両者が一致する事がない。その結果自らが作り出した概念、錯覚に溺れやすくなっている。肥大した主体はやたらと他人の目を気にして承認欲求を満たしたがる一方で(臆病な自尊心)、簡単に客体に飲み込まれ少しの失敗少しの批判で立ち直れなくなるほど傷ついてしまう(尊大な羞恥心)。被害妄想を拗らせ陰謀論に傾きやすくなっている。心身の乖離に耐えられず美容整形に走る。とかく主客のバランスが悪いのが近代人である。合理的選択が賢いと信じるあまり、結婚や子育て、教育、葬式に至るまで何でもかんでも合理化してしまい、自分が人生で何がしたいのか、何を大切にしたいのかわからなくなっている。私達はコスパタイパと言いながら面倒を避け、ゲームやネットの中でちっぽけな自尊心を満たすうちに残酷に時が流れ、ただ老体が朽ちゆくのを眺めるばかりの人生になってはいないか。そしてそういう自他の人生を蔑み嗤っていないか。毎日炊事洗濯をして、家族ご近所同僚上司取引先とうまく付き合いをして、人生とは面倒なものである。だがちょっと待て。私が私の人生を面倒だと思うとはどういう事だ。例えば、たまった家事をこなしながら、それを面倒と感じているのが私なのか?それとも、既に今ここ、目の前でやっている家事作業という出来事そのものが私なのか?主客合一の観点からすれば、これはどちらも私なのであって、言語が主客を便宜的に分け、自意識という錯覚を生み出しているに過ぎない。cogitoとは、私という出来事に関する言語的解釈である。cogitoだけが私に他ならないと錯覚して生きるという事は、取りも直さず、その言語を生み出した社会的・歴史的・宗教的・文化的背景や文脈だけに縛られて生きるという事である。私が求める自由とは、その呪縛からの解放である。


     自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。現代社会は、合理的思考(少数の物差しで対象を捉え、それで真理を把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度)を持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、時の止まった死物(ただの原子分子の塊でありデータであり金づるである)と見て自他の限界を狭めているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引き籠りや少子化の根本病理をここに見る。原始時代に還ればよいなどと言うつもりはない。合理の行き過ぎは結果的に自らを不自由にするという事が言いたいのだ。私は、近代の行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語ろうとする姿勢を持ち続けること、同時に言葉の限界を自覚することー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。

    X
     私はどうして、どのようにしていまここにあるのか。最も良質な科学とは、その問いに真摯に向き合うものであろう。宇宙開闢から考えてみる。初期宇宙の自由に動き回る素粒子の系は、膨張と共に温度が下がり、原子核中性子電子の系へと変化した。ゆらぎ、自己相似、対称性の破れ、エントロピーの増大、関係性の力学といった大原則が今もこの宇宙を支配しているのは、宇宙がこの様な出自だからだ。原子は分子となり宇宙空間に縞模様みたいな疎密が生じ、密な部分には星ができ、星の内部の核融合で金属などの重い原子ができ、星の寿命と共に爆発してばら撒かれ、その星屑同士がぶつかり合ってまた新たな系が生じ、そういう離散集合を繰り返す系の中にやがて太陽系ができ、中心の恒星から数えた3番目の惑星に生命が誕生した。


     境界があり、代謝を行い、自己複製する系。それが今日における生命の暫定的定義である。地球生命初期の創発として現在に至る道筋を拓いたのは光合成だろう。葉緑体と共生したシアノバクテリアが増殖し、地球は緑の星となった。長い年月と共に緑の星は酸素の星になりオゾン層を形成し、生命の陸上進出の条件を整えた。嫌気環境から誕生した原始生命にとって、反応性の高い酸素は猛毒であったが、生命はやがてこれを転用する術を身につける。ミトコンドリアの共生による酸素を利用したエネルギー代謝、呼吸の獲得である。発酵ではグルコース1分子から2ATPしか獲得できなかったのが、呼吸で38ATPを獲得できるようになった。この大規模なエネルギー代謝系によって、多数の細胞が協力連携する巨大な系;多細胞生物が誕生した。


     多細胞生物はさらに、性を創発した。即ち体細胞系列と生殖細胞系列を切り離したのである。これにより個体の寿命という概念が生まれた。寿命が生じたというのは一回限りという事である。その場その時代におけるオリジナルという事である。体細胞も生殖細胞もDNAが一緒くたになっている単細胞生物には、寿命という概念がない。遺伝的に均一なら(表現型のゆらぎはあるにせよ)自他の区別もない。性の誕生は寿命及びオリジナリティの誕生と同根であり、原初の自意識も、ここに起源があるのではないか。

    XⅢ
     次の創発は社会である。原初的な社会・群れを、我々はアリやハチ、あるいは魚において眺めることができる。個体に多少のオリジナリティはあるし、群れへの忠誠、利他行動と一見思えるものも観察できる。だが彼らに人間的な意味での自意識があるかというとそれは違うだろう。群れや巣というのは、遺伝子存続のために分散型の共生をしているだけであって、これだけでは人間的な意味での自意識が芽生える必然性が足りない。「私」に直接連なる自意識誕生のために必要なもう一つの条件。それは哺乳だったのではないか。

    XⅣ
     哺乳類の仔は弱い状態で産まれてくる。母親には乳を与え仔を育てる使命がある。小さい仔をかわいい(ちいかわ)と思うのも愛情を持って育てるのも、哺乳類には自明の事である。他者・かよわい弱者への思いやり。これが哺乳類の、虫や魚の群れと決定的に違うところだ。父も思いやりという想像力が必要だ。餌を取り敵と戦い、母子を守る事が、雄に与えられた生物学的責務である。群れを作りそれを強力なリーダーが率いて互いに助け合えば、その目的はさらに達成されやすくなる。すると群れのそれぞれの個体には役割自覚が芽生える。仔を育てるという自然の掟が群れという社会性と結びつく時、人間的な意味での自意識が芽生えるのではないか。他を思いやる想像力こそ自意識誕生の必要条件であり、自己意識は他者関係から反照的に構成されるのだ。性の誕生により、一回性の限りある体細胞系列(自)の幸せと、遺伝子の存続という生殖細胞系列(他)の幸せとが分離した。元来、生殖後に個体は死ぬ運命にあったが、哺乳類は育児の必要からすぐには死ななくなった。群れという社会性が個体の寿命をさらに延長した。その結果、個体内部で完結していた自他の分離が、個体の外部、社会的な場面でもありありと意識されるようになった。自意識が性や死の衝動、社会的立場と分かち難く結びついているのは、こうした事情があるからではないか。発声に特化した人体の構造的特徴は言語を生み、人が語る自意識は、やがて文学とか思想とか言われる様になった。

    XⅤ
     砂時計を考える。上半分と下半分が交叉する部分で、今この瞬間に流れ落ちている砂粒が私である。砂粒は自らの意思で落ちているように錯覚しているかもしれないが、実際には膨大な歴史の重みを一身に受けて、下へ下へと押し流されているのである。これまでの試論は、今この砂粒(身体)に至るまでの、生命に刻まれた歴史の古層を探るための考察であった。ここからは一気にスケールを縮め、日本の歴史と私という事について考えてみたい。くびれの部分のほんの上層にかかる圧力、私を落下点にまで押し出したその直接の力を知るための考察である。

    XⅥ
     日本の黎明期には稲作があった。集落を束ね、祀る存在として豪族がいて、天皇が、この豊葦原瑞穂国を纏め上げた(という事になっている)。いかにフィクションとはいえ、国づくり神話に始まり万世一系の天皇が日本の歴史を貫いていて、現在も全国津々浦々に坐す無数の神々を祀る神社がそれぞれの地域や自然と共に鎮座している。まず日本とはそういう国なのだ。それから仏教である。6世紀に伝来したとされる仏教に天皇家も帰依し、やはり全国津々浦々、寺院のない土地はない。日本人は死んだら仏様になるというフィクションの中で生きてきた。このインド発祥の教えは東洋の中の日本という事を思い起こさせる。諸行無常で諸法無我という感覚は日本人の無意識の中にあり、やたらめったら自己主張するのは愚かと教わる。人は何も特別な存在ではなく、山川草木悉有仏性という考えが広く共有されている。

    XⅦ
     現在に近いメンタリティとなったのは江戸時代以降であろう。はじめに禁教と鎖国があり、幕府が奨励した朱子学、儒教的価値観が日本人を縛り、その代わりに秩序と安定がもたらされた。この時代に武士は人の理想として観念化した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」この死の美学は、赤穂浪士の討ち入り事件によってさらに神格化され一般にも流布し、大義のために死ぬ事が日本男児の誉れとなった。元禄にもなると大義のために死ぬなどというのは稀有な事であり、稀有だからこそ神格化されたのだ。こうして二六○年の長きに渡り世界史上稀な天下泰平の眠りを貪っていた事は、今も日本人を特殊な民族たらしめている。だが幕末に入り西欧文明の圧倒的な力と邂逅し、その安定がゆらぐ。そして恐らく、この頃の思想的危機が現在にも尾を引いており、この国にぼんやりとした不安をもたらし続けている。幕末の危機は、遡ること百年前、家康の孫であるにも関わらず副将軍にしかなれない水戸光圀公が抱えていた、自己および徳川権力の正統性を巡る不安と共鳴し、尊皇攘夷思想として開花した。尊攘という大義を見つけた死に狂いの武士道は、幕府と武士自身を滅ぼしたのみならず、富国強兵の原動力にもなり戦陣訓へと受け継がれ、あの無謀な戦争を経てその理想主義と共に玉砕した。こうして天皇陛下は人となり(別な見方をすれば人となることを許され)、国体という抜け殻だけが辛うじて残された。

    XⅧ
     日本人であるという感覚は天皇との関係から醸成されるのではないか。都に対する私(鄙)、祖先に対する私(今)、「私」をこの国に位置付けるものの根源こそ天皇である。それには古事記に記され本居宣長が理論化したような、ウシハくのではなくシラすという天皇の統治形態が絶妙な理論装置となっているのではないか。天皇は秩序の中心ではあるが、意思を示したり行動したりする事はない空虚なシニフィアンである。文脈によって祖先にも国土にも、産土神にもなる。敬語を軸とする日本語は上御一人を頂点とする否定神学的構造となっており、言葉が正しく運用されている事それ自体が社会秩序をもたらしているのである。一方で、そうした構造が、日本語話者を近代的主体として自立させることを困難にしているのではないかという思いもする。近代化と共に今なお日本人にぼんやりとした不安を与え続けている何かの源流を辿ると、こうした言語的、宗教的葛藤に行き着くのではないか。國體ないし国体とは、究極的には、そうした日本人の精神構造そのものを指す言葉なのではないか。このシステムは社会に秩序と安定をもたらす一方で、内部から変革する力を持たず、常に外圧によってしか変わることができない構造上の問題も抱えているのではないか。内村鑑三のように二つのJという立場もあり得たわけだが、教育勅語奉読拒否事件でその危うさが露呈したように、このシステムの中では、強い個人主義と国体とを並列させるのは困難である。天皇制とは、日本語という否定的言語構造が、歴史と政治の中で結晶化した制度である。あるいは、日本において、神は言語として生きている。だから古来皇室は歌を詠み、民との関係を織り込み、神聖なものとして奉納してきたのではないか。この辺は類書を読みながら今後も深く考えていきたい。

    XⅨ
     戦後、国防は外部委託される事になった。冷戦構造の中、反共核戦略の砦として、米国の不沈空母として、資本主義の見本市としての役割を担わされた戦後日本において、武士道的倫理は会社への滅私奉公に変質し、家庭も顧みずただがむしゃらに働くモーレツ社員は、エコノミックアニマルと呼ばれる様になった。安田講堂、市ヶ谷、あさま山荘の一連の事件が思想史における大きな物語の終焉を告げ、日中国交正常化と引き換えに田中角栄が葬られた後、戦後日本はロンヤス体制の下で集大成の輝きを放つに至った。駅のホームには吸殻が大量に落ちていて、新幹線はタバコの煙が蔓延していた。野菜は青臭く、トイレは陰翳礼讃の便所だった。暴力団、闇金、総会屋、エセ同和、カルト宗教、悪徳代議士、悪徳事務所が幅をきかせ、闇社会と表社会が渾然一体となっていた。新聞TVには広告を通じて大金が集まり、文化と世論を支配していた。日本人は未だ欧米コンプが抜けきれず、彼ら彼女らの容姿や生活スタイルに憧れ、胴長短足で狭小住宅に住む自分達を恥じていた。男は汗とタバコと整髪料の入り混じったにおいを放ち、虚勢を張って生きていた。女は化粧臭いか所帯染みてるかのどちらかだった。そんな拝金と義理人情が入り混じった時代に私は生まれ育った。小学校に上がり物心がついた頃にソ連が崩壊しバブルが崩壊した。

    XX
     バブル崩壊とは、戦後の政官財が癒着した護送船団方式の崩壊であり、冷戦終結と共に訪れたグローバル資本主義(世界のアメリカ化)への接続の為に必要な試練であった。試練の中で阪神大震災とオウムのテロが追い討ちをかけ、キレる少年事件が紙面を賑わせ、数々の倒産劇があった。大人達が自信を失い、正しさがわからなくなり、倫理が崩壊していくのを感じた。街はサラ金の看板やピンクチラシで埋め尽くされ殺伐としていた。そんな中で青春を過ごした私は、どこか大人達を軽蔑していた。全てを斜めから見る癖がついてしまった私は、信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論に傾くようになった。文学や哲学は愚痴や屁理屈を並べている様にしか見えず敬遠していた。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で、人の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えている虚無的な若者だった。健康に恵まれながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困の必然的成行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕う事ばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合する事しかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。私の二十代はそれだけで終わってしまった。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。三十代の私は虚無からの脱却を求め仏教や科学哲学に傾倒しながら彷徨っていた。彷徨い続けるうちに気づけば不惑が迫っていた。

    XⅪ
     私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。そして、ここで自己の内に生じた感覚を言語化し他者の視点を学ぶうちに、自分の理想や大切にしたいものの輪郭が、朧げながらわかるようになってきた。私という自意識が、いつも存在にまつわる不安を抱えており、存在の前提や根拠を確かめたがる習性がある事を自覚した。四十にしてようやく私は言葉を大事にする事を覚え始めた。そのうちに、どうも明瞭簡潔を求める近代の在り方が、私の特異性を毀損しているのではないかという思いが芽生え出した。何でも検索しわかったような気になってしまうネットの時代においては、人生も同様に薄っぺらく感じられる様になっているのではないか。文学はこのばかばかしさに抵抗できる唯一の試みなのではないか。

     人の言葉というのは究極的には自己言及である。それはそもそも宇宙の成り立ちが自己言及的で、時空が無限の自己相似であることに因るのかもしれない。初めに言葉ありきと聖書に書かれたがため西洋はその様に発展し、言語に基く価値観がこの世界を覆っているのかもしれない。しかし東洋では、肉体を離れて言葉はない事を古くから重要視してきたのである。東洋人たる私は、近代のコード的言語観を利用しながらも、それにどこか違和感を抱えて生活している。私という肉体の現象は、今この瞬間も言語とは無関係に生じている。私はそれをあの四十七字の詩の中で眺め、追認する。祖先の歴史や国土の自然、その理想的象徴たる天皇の雅への憧憬を抱きながら。幕末以降のほろ苦い歴史の記憶もそこに重ねながら。きっとここには、そんな私の堂々巡りの自己言及が刻まれていく事だろう。

    色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならぬ
    有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせす

  • くものすけ

    最近は、日本農業(食糧)問題、憲法改正問題、相続税(節税,マンション投資など)関連の書籍を中心に読書しています

  • 竹園和明

    有名な賞など一切関係なく読んでます。

  • n

    女性作家さんの作品をよく読みます。金原ひとみさんと村田沙耶香さんと江國香織さんがすきです。

  • 小鳥遊

    たかなしのん 

    世田谷区在住/千代田区在勤

  • trazom
    • 奈良県
  • あやほ

      記録

    • まさにい

      気になる本を検索していたら、このサイトに出会う。結構乱読派なので、読んだ本のちょっとした感想を記録できたらと思い登録。

      登録後記録を見て気付いたのですが、結構一人の作家を集中して読んでいるみたいだ。記録しておくことの意味を知った。

    • 全18件を表示

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    プロフィール

    登録日
    2024/09/13(545日経過)
    記録初日
    2024/08/01(588日経過)
    読んだ本
    50冊(1日平均0.09冊)
    読んだページ
    13856ページ(1日平均23ページ)
    感想・レビュー
    49件(投稿率98.0%)
    本棚
    1棚
    現住所
    愛知県
    自己紹介

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