赤松氏・楠木氏の戦い方は騎馬武者に有利な地形では戦わないという一点において攻撃の限界をよく知り、また相手の弱点を厳しく突くものだった。それが六波羅探題や鎌倉幕府の上洛軍が畿内で苦戦した理由であった。元弘の変での畿内の戦いは鎌倉幕府の主力軍である騎馬武者の時代が終わった事を示す象徴的な合戦である。一方、新田義貞と鎌倉を守る幕府軍との戦いは騎馬武者と騎馬武者が正面衝突する平家物語的な様相を帯びた。鎌倉合戦は兵力の尽きた方が負けという合戦になった。この戦いが鎌倉武士が鎌倉武士らしく戦うのできた最後の戦いである。
123頁。心身の病的抑制を打破して目前の行動に踏み切るには、「ともかく主義」が良いという。もしも不登校の子どもがいたとする。で、朝に起きたら何も考えずに、「ともかく顔を洗う」、「ともかく食事をする」、「ともかく服を着る」、「ともかくカバンを背負う」「ともかく靴をはいて家を出る」、家を出れば大抵、学校も会社も行けるもの。問題は行動に移す以前の葛藤だから、そこを「ともかく、目前の課題に限定してひとつひとつこなす」ことによって、乗り越えようというのが「ともかく主義」だ。
167頁。うつ病について書かれた色々な本の中で、回復期に勧められるものとしての筆頭は「歩くこと」である。歩くことで心理的に狭くなっていたなわばり感覚、難しく言うと自己統治つまりセルフ・ガバナンスの感覚を満足なものにすることができる。そして注目すべきことは歩き終わった後にある程度の達成感を得られることである。前段でうつ病の一部の人は成功体験や達成感によって癒やされると述べた。あるいは「努力が報われる社会でないとうつ病は治らない」とも述べた。「歩くこと」が推奨される理由の一つも、歩くことの達成感=快感による。
394頁。マルクスは社会の構造を次のように考えた。社会は土台(下部構造)となる経済構造の上に、政治・法制・イデオロギーなどの「上部構造」が乗る形で存在している。そして上部構造は下部構造によって規定され両者は不可分に結びついている。従って下部構造である経済構造が生み出す生産力が上部構造の意識を形成していく。生産力が変化すれば生産諸関係が変化しそれが歴史を動かす原動力となるのだと。絶対精神のような理念が歴史を動かすのではなく、歴史を動かすのは具体的な生産力だという思想をマルクスは確立した。唯物史観の誕生である
439頁。自由な人間が主体的に行動して社会を変革するというサルトルのアンガージュマンの思想に対して、レヴィストロースは人間は社会に行動を規制されていると論証した。自由な人間も人間の主体的な行動も実は存在しない。人間は社会の構造の中でそこに染まって生きるのであると、彼は考えた。常に進歩があるわけではない。先進国ばかりではなく未開の社会もあるし人間は社会に合わせて生きていくことしかできないという考え方だ。このような思想は「構造主義」と呼ばれている。構造主義の考え方は今日では自然科学的にも正解に近いとされている
42頁。東晋の参軍であった劉裕が420年に禅譲を受けて、宋王朝を開いた(武帝)。建康(のちの南京)を都とした宋は、三代目の文帝の治世に元嘉の治と呼ばれる安定を見せた。しかし、皇族内部の抗争の激化によって衰退し、479年に順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は斉王朝を開き、宋は滅亡した。478年に倭王武が遣使を行った対手である。宋は北涼・吐谷渾・高句麗を冊封し、北方の柔然とも結んで、北魏を包囲する国際的な連合関係を構築した。倭の五王の遣使は、この宋による国際的な連合関係の一環として行われたものである。
196頁。実際に摂政や関白となった人物は天皇の外戚である事が圧倒的に多い。しかし同時に十世紀末までは外戚ではない摂政や関白が存在したのも事実であり、そもそも当初の摂政・関白は外戚といういわば私的関係に基づくというよりは、太政大臣の権能と密接に関連した地位であった。ところが安和の変前後を堺として、摂政・関白の地位が太政大臣ではなく、天皇との外戚関係と結びつけられる傾向が強まっていく。これは安和の変という政変と必ずしも直接の関係があるわけではないが、一方でこの時期に摂関政治の性格が大きく変化した事も確かである
112頁。明朝の外国貿易を支えた一本の柱が朝貢船の制度であったとすれば、他の一本の柱は海禁の制度であった。海禁とは中国人が海上に出て外国人と接触する事を禁じたもので、この政策は元末に既に一時的に行われた事があった。明では太祖洪武帝の時から施行され、約200年にわたって存続した。朝貢船貿易の制度が外国に対する政策なのに対し、海禁はあくまでも中国の人民を対象にした国内政策であった。この二つの政策は表裏の関係をなし、海賊団の横行を防止するための治安策であると共に、政府の外国貿易独占を維持する財政政策でもあった。
朝貢船貿易の制度と海禁政策との影響を最も大きく受けたのは中国沿海諸地域の商人である。商品流通経済がかなりすすんだ段階で、このような政策を強行することは、はじめから無理なことであった。明初以来200年間の海禁の時代に、公許を得ない私貿易すなわち密貿易が執拗にくりかえされていた事実がなによりの証拠といえよう。15~16世紀になると、貿易の主流は朝貢船貿易ではなく密貿易に移ってしまったといってもよい状態となった。海禁を無視して密貿易を行ったのは福建・広東・浙江などの諸地方の塩商人と米商人を中心とする商人群である
禁軍は職業軍人だったから、その強大な兵力を維持し戦果をあげ政情を安定させるには将兵を養い、働かせるに足る給与を支払わねばならない。その給与は貨幣・銅銭で支給した。そのため中原「五代」王朝は銅銭を必要とした。ところが唐末以来、政権は財政困難・銅銭不足で、軍隊の不興を買うことが多かったから、政情の安定にはほど遠い状態だった。だから柴栄の武功はその財政運営の成功をも意味する。銅の回収につとめ、集まった銅器・銅像を銭に改鋳した。「法難」といわれた著名な仏教弾圧策もその一環である。銅銭鋳造のため仏像を破壊したからだ
238頁。中国史は政治も経済も大半は南北、つまり中原と江南の関係を基軸に進んだ。春秋戦国の楚、漢代の呉楚、孫呉にはじまる「三国六朝」、隋の煬帝にはじまる大運河と江淮の開発で長命を保った唐、「五代十国」・南北両宋、そしてモンゴル帝国の征服から明朝の興起。以上の大まかな史実だけで、二千年以上、14世紀の終わりまでたどれる。15世紀以降も変わらない。永楽帝が崛起した靖難の変も然り、明清交代で清朝に制圧された南明もそうだし、20世紀に入れば辛亥革命も国民革命も南北政府の対立となった。
高校中退という負い目はあっても、著者は子どもの頃から好きな事を貫き、成功を手にした。好きなことをして飯を食っていける人生は多少は羨ましい。というのも、自分は好きな事に責任を負いたくないからだ(213頁。あらゆる仕事がそうだが、必ずピンチがやってくる。そういう時は「これはチャンスだ」などと甘い事を言っている場合じゃない。それは自分が考えているよりもピンチだ。だからこそ頑張れ!失敗を取り返すにはいつもの倍働くしかない。本当に好きならやれる。できなかったらそれは好きじゃないか、もしくは違う事をやったほうがいい)
集まってきた御家人は言われてから出てきたが、恩賞がないから本気で戦わないで、ほどほどに邪魔しただけで赤松の軍勢の前進をゆるしてしまう。1333年3月12日の京都合戦の直前まではそんな状況である。赤松が強いというより御家人にやる気がないのである。ところが、鎌倉幕府が悪党から謀反人に赤松氏の罪科を変えると、御家人たちの目の色が変わり猛然と攻め始め恩賞を巡る駆け引きが行われる。ただ、時既に遅く、六波羅探題は合戦をすれば勝つが、周囲は六波羅探題に分がないと見ているので御家人たちの脱落が止められない状況になっていた
赤松氏・楠木氏の戦い方は騎馬武者に有利な地形では戦わないという一点において攻撃の限界をよく知り、また相手の弱点を厳しく突くものだった。それが六波羅探題や鎌倉幕府の上洛軍が畿内で苦戦した理由であった。元弘の変での畿内の戦いは鎌倉幕府の主力軍である騎馬武者の時代が終わった事を示す象徴的な合戦である。一方、新田義貞と鎌倉を守る幕府軍との戦いは騎馬武者と騎馬武者が正面衝突する平家物語的な様相を帯びた。鎌倉合戦は兵力の尽きた方が負けという合戦になった。この戦いが鎌倉武士が鎌倉武士らしく戦うのできた最後の戦いである。
それどころかイスラエルはパレスチナ人の土地を強奪し続けている。ファタハは和平路線を訴え続けてきたが、国家が樹立できないのであれば人気が下がる。②アラファトの死。パレスチナ人の精神的な支柱だったアラファトを失い、ファタハは人々の支持も失った。③ハマスはテロ組織と言われるが、そもそもは純粋に宗教活動をしていた団体である。慈善事業にも精力を注ぎ、学校や病院を運営しパレスチナ人のために活動している。住民のための活動がハマス支持基盤の強さの大きな要因である。④イスラエルがハマスを利用としてその成長を黙認してきた。
226頁。トランプは、イランからサウジの油田が攻撃された時や、米国の無人偵察機が撃墜された時などは戦争を始めることもできたはずだがしなかった。もしやったら再選がないというのがわかっていたからだ。しかしトランプが2期目の当選をすると、3期目がないのであれば選挙の心配をせずに何でもできる。247頁。ヒズボラは15万発のミサイルやロケットを持っている。多くが精密誘導ミサイルである。ハマスとは比較にならない破壊力を持つ。例えるなら、イスラエルはメジャーリーグ、ハマスはリトルリーグ、ヒズボラは日本のプロ野球ぐらい。
歴史、特に近現代史を中心に読みたい。
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集まってきた御家人は言われてから出てきたが、恩賞がないから本気で戦わないで、ほどほどに邪魔しただけで赤松の軍勢の前進をゆるしてしまう。1333年3月12日の京都合戦の直前まではそんな状況である。赤松が強いというより御家人にやる気がないのである。ところが、鎌倉幕府が悪党から謀反人に赤松氏の罪科を変えると、御家人たちの目の色が変わり猛然と攻め始め恩賞を巡る駆け引きが行われる。ただ、時既に遅く、六波羅探題は合戦をすれば勝つが、周囲は六波羅探題に分がないと見ているので御家人たちの脱落が止められない状況になっていた