17頁。管鮑の交わり。天下の人々は管仲の能力が優れている事をほめるよりも鮑叔が人物を認める事ができる事をほめた。142頁。刎頸の交わり。刎頸とは首をはねる意で相手のために首をはねられたとしても悔いる事のない交際。この語は、廉頗と藺相如、張耳と陳余の交わりを書く時用いられている。ただ廉頗と藺相如は刎頸の交わりを全うしたが、張耳と陳余の場合は憎しみ合う様になる。213頁。列伝は李斯が中心とはなっているが、後半は趙高の策略家ぶりが際立っている。そのためか、宋の『通史』では趙高の部分を取り出し宦官列伝に入れている
136頁。一般に高橋財政として知られる経済政策は、円の為替レート低下を放任し、低金利を維持し、政府の財政支出を激増させたことを指す。政府支出の膨張は主として満州事変費を中心とする軍事費、及び不況対策の公共投資であり、その財源として、日銀の引き受けによる赤字公債の発行という新しい手法が取られた。高橋是清の本来の政策は、金再禁止は断交するが為替相場は極力維持して緊縮政策を続ける性格のものだったのが、軍事予算膨張による円為替の暴落のもとで、本来の意図とは異なる円安維持の結果となったという。
216頁。塘沽停戦協定後、関東軍は華北における国民政府軍の影響力を後退させ、進出する足がかりを拡大していた。いわゆる華北分離工作である。協定に定められた非武装地帯における中国側の治安騒乱を理由に日本軍は中国側に強要して、まず1935年6月に梅津・何応欽協定を結ばせた。さらに同月中に土肥原・秦徳純協定で、内蒙古チャハル省から中国軍を撤退させた。このほか日本がつくらせた冀東防共自治政府が日本軍の容認の下に密貿易を公認して、中国世論と海関を掌握していたイギリスの態度硬化を招くといった事態が進行していたのである。
200頁。太平洋戦争。相手国が強大というのは日露戦争もそうである。時間が経てば軍事バランスが相手に有利になるため戦うなら今だとの開戦に向かう同種の理屈もあった。ただ日露戦争時は首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎が明確な意思をもって開戦を主導した。また外交部門も軍事部門も、どうすれば優勢な状態で講和に持ち込むことができるか、いかなる条件で講和が成立し得るか、当初から具体的に考えていた。しかも日英同盟があり、アメリカもおおむね日本に好意的だった。
それに対して太平洋戦争のときは、第二次近衛内閣期に外交方針をめぐって松岡外相が周囲と対立を深め、松岡を外す形で第三次近衛内閣が成立する。対外政策を一貫して指導する者はなく、国家意思決定に関わる諸集団の考えもバラバラだった。長きにわたる中国との戦争が続いている。ソ連とは一応中立条約を結んでいるものの潜在的に緊張関係にある。期待をかける同盟国のドイツと日本は真に協力して戦争を遂行する構えではない。それぞれの目的・戦略本位だった。そうしたなかで日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を始めた。
173頁。東日本大震災では津波による死者の約90%は溺死である。これは津波が原因で負傷すると、水中で息ができなくなって窒息死するからであり、肺には海水が入らないことになる。従って、体内でガスが発生しないので、遺体は膨張せず沈んだままである。行方不明者数は三県で2542人に達し、直接死者数の合計の16%を占めている。仮に南海トラフ巨大地震に当てはめてみると、津波の犠牲者数が約22万人と推定されているので、3万5200人が6年余り経過した時点で行方不明のままになると考えられる。
202頁。2011年に東北地方が見舞われた津波災害では、約30%の人々が逃げなかったことがわかっている。その一方で「釜石の奇跡」と言われるように、3000人近い小・中学生がほぼ全員助かったという事実がある。なぜこのような差が出るのだろうか。なぜ小・中学生はすぐに逃げたのか。それはそれが正しいということを学校で学んでいたからである。小・中学校では先生は正解のある問題しか教えていない。万難を排して逃げることが正解であると教えられていたから、それを実行したのである。命を落とさないためには、逃げればよいのである。
88頁。ウクライナが、ロシアの懸念を配慮して、①NATOをウクライナに拡大することはしない、②ウクライナ東部のロシア系住民を迫害しない、という二つの政策を明確にしていれば、多分ロシアのウクライナ侵攻はなかった。でもウクライナ政府はその選択を採用しなかった。その背景は、米国、NATOが軍事的に支援してくれるという誤算をしたことにある。バイデン大統領は米軍をウクライナに派遣しない理由を二つあげている。①ウクライナはNATOに加盟していないので防衛義務はない。②米ロが撃ち合えば、世界大戦を引き起こす。
126頁。核の傘は中国を例にとると次のようになる。①中国は日本に「核兵器を撃つぞ」と威嚇する。②日本は米国に助けてくれと頼む。③米国は中国に「報復に西安や杭州を核兵器で攻撃するぞ」と牽制する。①→②→③→中国は日本に対する核攻撃の脅しを取り下げる。以上が核の傘と言われるものだ。しかしここで終わらない。中国は「西安や杭州を攻撃したら、シアトルやユタ州を撃つぞ」と応酬する。それでも「日本を守ることが重要だからどうぞ」と言える米国の政治家はいない。自己犠牲してまで同盟国は守らない。核の傘なぞ存在しない理由である
270頁。「中国」を統一した漢と「草原帝国」を統一した匈奴は、同時期に勃興し、前後して最盛期を迎え、ともに歩調を合わせるように斜陽を迎える。様々な勢力間による戦争を通じて「中国」が膨張していき、最終的に「草原帝国」との戦いを通じてその範囲が定まっていく時代を「中国」の古代と位置づければ、両者の代表である漢と匈奴がともに衰退していく武帝の時代以後は、古代の終わり、すなわち「古代末期」と位置づけられるだろう。武帝の時代を生きた司馬遷の『史記』は神話の時代から「古代末期」の始まりまでを描いた史書ということになる
271頁。「中国」という呼称の始まりは西周時代であった。西周の滅亡後、諸侯たちが外交を身につけ、「中国」の内部で国際秩序を形成した。諸侯の中には周辺の諸勢力を征服して「小帝国」を形成するものもあった。その「小帝国」を作り上げ、諸侯の第一人者となった秦は国際秩序の維持を選ばず、郡県制のものでの統一を選んだ。しかし中央集権的な統一への忌避感が秦への反抗を促した。秦の滅亡後、「中国」では国際秩序復活の揺り戻しが起こる。新たな第一人者となった漢は郡国制のもとで、「草原帝国」との戦いを経て「中国」を形成していった。
166頁。僧侶が組織的に葬式に従事することは仏教伝来当初からのことではない。中世において、遁世僧教団による組織的な葬式従事が始められるまでは僧侶は葬式従事を避け、死体は遺棄されるか、墓場に運ばれても風葬に処されることが一般的であった。古代における基本的な僧侶集団は官僧であり、死穢忌避の制約から原則的に葬式従事は憚られたからだ。そのため中世の私僧、遁世僧によって葬式従事が一般化していった。近世の葬式仏教は、①本寺・末寺制度の確立、②宗門改寺請制度の成立、③檀家制度の確立という過程を経て成立したと考えられる。
247頁。新宗教。日蓮宗系としては、国柱会、創価学会、霊友会、立正佼成会が挙げられる。それらはプロの僧侶ではなく、在家信者が中心に活動する点に大きな特徴がある。国柱会の主張は日蓮主義と呼ばれ、関東軍作戦参謀として満州事変・満州国建国を主導した石原莞爾、テロリストの井上日召なども、その会員となり日本の中国侵略の思想的な背景ともなっていた。日蓮主義は日本の対外侵略を正当化するイデオロギーとなっていたと評価できる。ところで宮沢賢治が熱心な法華信者であった。18歳の時以来の信者で1920年12月には国柱会に入った
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270頁。「中国」を統一した漢と「草原帝国」を統一した匈奴は、同時期に勃興し、前後して最盛期を迎え、ともに歩調を合わせるように斜陽を迎える。様々な勢力間による戦争を通じて「中国」が膨張していき、最終的に「草原帝国」との戦いを通じてその範囲が定まっていく時代を「中国」の古代と位置づければ、両者の代表である漢と匈奴がともに衰退していく武帝の時代以後は、古代の終わり、すなわち「古代末期」と位置づけられるだろう。武帝の時代を生きた司馬遷の『史記』は神話の時代から「古代末期」の始まりまでを描いた史書ということになる
271頁。「中国」という呼称の始まりは西周時代であった。西周の滅亡後、諸侯たちが外交を身につけ、「中国」の内部で国際秩序を形成した。諸侯の中には周辺の諸勢力を征服して「小帝国」を形成するものもあった。その「小帝国」を作り上げ、諸侯の第一人者となった秦は国際秩序の維持を選ばず、郡県制のものでの統一を選んだ。しかし中央集権的な統一への忌避感が秦への反抗を促した。秦の滅亡後、「中国」では国際秩序復活の揺り戻しが起こる。新たな第一人者となった漢は郡国制のもとで、「草原帝国」との戦いを経て「中国」を形成していった。