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2021年11月の読書メーターまとめ

あなた
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感想・レビュー
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2021年11月に読んだ本
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2021年11月にナイスが最も多かった感想・レビュー

あなた
コロナで家にいろと何度も言われたが、家を守れ、ひとの家を守れ、友だちの家だ、友だちはボートに乗っていなくなった、でも時々帰ってくる、秘密があるようだ、友だちは掛け軸からやって来て時々かなしい顔をしている、いさぎよい顔をしているときもある、私もいつか向こう側にゆくだろうか、でも私は今はこの家をまもる、私はものを書いています、わたしはあなたがたと出会って別れ、少しの誇りとやさしさをもちました。それがこの家守綺譚なのではないか。このほん、最後にやさしさがやってくる。コロナを過ぎてオズ大王が私たちにくれたやつ。
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2021年11月にナイスが最も多かったつぶやき

あなた

くるったチェシャ猫の腕時計をずっと使っている。時計屋さんにもっていったら、ふるいものなので、もう、なおせません。くるったままでつかうしかないですね、と言われた。でもなあそういえばチェシャ猫も「We are all mad here. I’m mad. You’re mad(きづいてますよね、わたしもあなたももうとてもマッドなんだっていうことを)」っていってたしなあとおもって、もうなおさずに、このままとてもマッドのままでいることに決めた。

くるったチェシャ猫の腕時計をずっと使っている。時計屋さんにもっていったら、ふるいものなので、もう、なおせません。くるったままでつかうしかないですね、と言われた。でもなあそういえばチェシャ猫も「We are all mad here. I’m mad. You’re mad(きづいてますよね、わたしもあなたももうとてもマッドなんだっていうことを)」っていってたしなあとおもって、もうなおさずに、このままとてもマッドのままでいることに決めた。
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2021年11月の感想・レビュー一覧
94

あなた
最近机に『明暗』を置きっぱなしにしていて、愛についてちゃんと考えようと思っていたのだが、読み返してて、この小説は、「穴」から始まるのがいいんだよな、とも思った。穴から始まる物語っておむすびころりんか不思議の国のアリスしか思いつかないが、どちらも愛の話には進まなかった。でも『明暗』はじぶんの穴の暗がりが、愛の模索、探求につながってゆく。しかも未完に終わり、愛の模索はわたしたちの話になってゆく。会話の中でふっと愛が途切れ、またつながる、そうした2021年の、めちゃくちゃ未来の、めちゃくちゃ私の、わたしたちに。
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あなた
小池正博さんが言っていた、川柳は断言の文体というのがずっと忘れられなかった。『現代詩手帖』の「でも川柳だと信じてる」を書いていたとき本書の、川柳は付句であることから独立するために断言を文体としたといったとこを繰り返し読んだ。つまり謎々の答えのようなものから生まれた川柳は独り立ちするため、謎々部分を忘却するため、強く断言するようになった。妖精は酢豚なのだ!と。すると謎々の答えだったものは独立した詩のようになってゆく。これがだんだん過剰な断言・認知になり現代川柳は不思議の国の文芸になっていった(と思ってる)
yumiha
2021/11/30 23:13

お世話などしておりませんが、以前句会でお会いしたことのあるゆみ葉です。丁寧なお返事をありがとうございます。

あなた
2021/11/30 23:34

あのときわたしは川柳の方々に実際にはじめてお会いしたはじめての場所だったんですがやさしくしていただいてありがとうございました。

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あなた
泣いている博雅の横で安倍晴明が言ったこのセリフをよく思い出している。「何もできなかった」「壊れるということはな、よいことなのだよ、博雅。終わるということはよいことなのだ」。あそうか、これは、御手洗潔が石岡和己に『異邦の騎士』でいったことだし、京極堂が関口巽に『姑獲鳥の夏』でいったことなんだよなと思う。ワトソンたちはみんな泣いている。でもホームズたちはこの世界の終わりの定めをしっているし、またそこから始まるものがあることもわかってる。終わりと始まりの循環を涙を経由してわたしたちはいきてゆく。
あなた
凄くすきな箇所があって、アウレリウスが「起きたいけどなかなか起きられないひとはこうしてみたらいいよ」といっているとこがある。「人間のつとめを果たすために私は起きるんだ」と思って、がばと起きろ、と。でもな、それでもやっぱきみはまだぶつぶついうんだろうね、ともアウレリウスはいう。「だってこのほうがここちよいもの。」ときみはふとんのなかでいうんだろうね、と。そして、うんそれは私もそう思う、とアウレリウスは素直にいってくれる。たしかにふとんきもちいいもの、と。こういうところがアウレリウスさんの凄くすきなところです
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あなた
「春の小川講演会でよく眠る」この世界って、講演会で眠るひとと、みをのりだしてきいてるひとでわけられるんだろうなあと思う。私は眠るひとで、あなたも眠るひとなら、この本を一緒に読みたい。「魚とご飯しっかり食べて逢いにゆく」「あたたかい拍手もらっているところ」どちらもすごくすきな句。いきなきゃね、ということがひしひしと伝わってくる。ひとはときどき恋したり拍手もらったりするんだろうから。秋の子さんからてがみと楽譜を同時にもらったことがある。楽譜のてがみははじめてだった。ドアがあく。「ドア開けて下さい春の野を歩く」
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あなた
地方の遊女たちを見つめ直すことで、中央から語られがちだった遊女の歴史を語り直そうとしている。松本てふこさんの「よそ者として一心に踊りたる」の句をちょっと思い出した。あ、じぶん、よそ者だよね、というときに、ねっしんにやればやるほど、どこか集団になじんでいくなにか、と、やればやるほどずれていくなにか、がある。うちとけられるものと、うちとけるほどずれてゆくもの。そういうのを、おおざっぱにしないで、いつも感覚していたいよね、というのが物語の感性なんじゃないかと思う。話す、ということのねっこというか。
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あなた
映画『刑事ジョン・ブック』の静と動について書いてある。あの映画って宗教共同体のなかでハリソン・フォードがちょこちょこしてるのが魅惑的な映画だが、こないだともだちとハリソン・フォードってちょっと不思議すぎない?みたいな話になった。現実感がなく、爆笑するとかいうのでもなく、ぼそっぼそっと話し、ちがう星からきたひとのようでもあり、表情はいつもおなじかんじで、でもムチとかもったりけむくじゃらのひととだいたんにうごきまわる、星のうんめいをかけて。ハリソン・フォードっていったいなんなんだろうね、という秋の話し合い。
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あなた
サラリーマンのおじさんが、風俗で赤ちゃんプレイを繰り返すうちに、ほんものの赤ちゃんに転生する。花くまさんのマンガはバーコードのサラリーマンのおじさんが主人公クラスになることが多いが、そういうおじさんがおっぱいをすってるうちにピュアな赤ちゃんに転生したり、巨大なさめにのまれピノキオ的ファンタジーに移行しつつ無断欠勤でクビになっちゃうなど、おじさんとファンタジーとはなんなのか、というてーまを追求している。バーコードのおじさんのファンタジーマンガ。
あなた
「春の光ぼくは眠る君は起きてゐて」書くことに迷ったときにこの句の場所に戻ってくればいいんじゃないかと、いつもこの句に帰ってくる。始まりになるんじゃないかと思って。ここにあるのはエゴであり、いっしょにいるのに別れるふたりであり、けれどいっしょにいるふたりであり、またおそらくすぐ未来に返事があり、会話の期待があり、でもどこかで、しっかりとしたさようならもあり、そしてすべてを包む光がある。別れ、出会い、話し、でも眠たく、すべての始まりと終わりがあり、きみもいつかねむるのに、ぼくはさきにねむってしまう。でも光は。
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あなた
私はぽんこつだなあとじぶんをよく思うし、いっしょにしごとしてるひとも、このひとぽんこつだなあと思ってるとおもうんだけど、でもぽんこつでもいきなきゃならないので、悩めるぽんこつ用にセレクトしておいたよというスヌーピーを読んで、あいとゆうきをもらって生きてる。「あいとゆうきなんかおまえにあげるやつはいないよ」といわれたときもあったが、そういうアンパン的なものから今回の生ではざんねんながらはじかれたひとたちがこのピーナッツの世界線に寄り集まっているのではないだろうか。かなしくても、『かなしくても』だと、おもう。
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あなた
ときどきプールで泳ぐんだけど、そのなんか、ふっとひとがプールで泳ぐかんじ、世界から取り残されて泳いでるかんじ、せかいの音がきえてゆくかんじ、でもなにか想いが泡といっしょくたになってたゆたっているかんじ、じぶんはいまどこでなにをしているんだろうというかんじ、ただただ波をうけるひとつのからだになってゆくかんじ、過去、未来、でも水の今、そういうプールをめぐるわたしのいろんなかんじがよくでているマンガ。プールマンガとしてはひとつの到達点なんじゃないかと、おもう。いいまんが。
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あなた
引用されているブローティガンのことば、「ことばでよりはむしろ糸くずの世界をもって描かれるべきできごとに、今夜のわたしは取り憑かれている」がすごくブローティガンそのひとを表しているよなあとも思う。ブローティガン自身も「わたしはほんをはっけんしたんだ」といってるが、ブローティガンの書いたものを読むと、ほんってなんだろう、文ってなんだろう、愛するってなんだろう、だれかと話すってなんだろう、と考えさせられる。文学とマヨネーズのかんけいについての課題といくつかのすてきなほんをのこした、リチャード・ブローティガン。
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あなた
あらためて検討されるアニミズムの話が面白かった。あ、この木にも魂があるな、というのはアニミズムではなくて、次のしゅんかん、わたしと木がとけあっているのがアニミズムなんだという(だから帰ってこられないかもしれないちょっとやばいせかいでもある)。でもこういうアニミズムを得意とするのってすべての秩序をぐちょぐちょにする現代川柳のほうなんだろうなあとも思う。「気がつくときょうは桔梗になっている/妹尾凛」というような主体がぐちゃぐちゃのせかい。きがつく、の、き、が意味をもたないせかい。向こう側の、き(気)。
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あなた
美しくふざけるってどういうことかをえいえんに考えさせるほん。ここにかかれてあるのは、小説とか物語なんじゃなくて、ひとはこんなふうに文を書けばいいんだよ、というとてもとうめいでゼロにちかい、文の模範集なんじゃないかとおもうこともある。でもそのなかには、愛や風や暴力やどうしても思い出せなかったあなたのことや不可解だった手つきや髪型のこと、おもわずうなってしまった美味しいハムなどについて、とても好きだったひとのこと、どうして?というあなたのそっちょくな問いかけ、光、などが込められてる。とても好きでだいじなほん。
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あなた
「ありがとうちょうど夕日が見たかった」現代川柳は、夕日がきれいだね、とは言わない。夕日も私も同じレベルの世界に生きてるので、ありがとうちょうどだね、と言う。夕日や青空とともにいること。「ぼくはまだ青空にいる 平気」月もすぐそばにある。「もしもしというときの月の浮力」あなたから電話がくる。わたしは「もしもし」とあなたにいう。あなたと電話しながら、月の力を感じながら、もしもし、とわたしはいう。わたしはたぶん浮いていて、あなたは、やあ、とかそれらしいことをこのせかいのことばでいう。わたしだよ、みたいなことを。
Ring
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あなた
ボールペンで古事記をかきなおすというとてもすてきなことをしている。この古事記もそうなんだけれど、こうのさんはひととひとがじっさいにあたまをなでたり、ふっとだきあったり、ぴたっとくっついたりしているシーンがとてもうまい。なんでかな、ってかんがえたんだけれど、たぶん、こうのさんの描く、て、がそうさせてるんだとおもう。ながく、はかなく、ほそく、どこかきえそうな、しかし、あなたの肩やあたまをやさしくなでる、て。それはボールペンでかかれた、て、なのに、温度のあるて、だ。あなたのあたまをなでる、そのて。
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あなた
月報で漱石のこんな手紙が紹介されている。「私はわざとそれを回避したんです。なぜって小説になってしまってはおもしろくないからなんです」。小説になることを回避しようとするなんてやっぱり漱石はおもしろいよなあと思う。じゃあ何を書こうとしてたんだろ。私は漱石はブローティガンみたいに、文を、こういう文章がこんかいはできました、という文を書こうとしていたんじゃないかとおもう。こどものころにはみんなできてたのに、おとなになるとできなくなるやつ。それが、文。
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あなた
せかいでいちばんわたしがきになっているひとがバートルビーで、ときどき会いに行く。でもかれはいう。できれば会いたくないのですが。なんにもしないひとはたくさんいるが、できればおまえのいうことをしたくない、というひとは珍しい。なんにもしない、はたったひとりの活動だが、できればしたくない、はあなたとのかかわり合いの中で常に起こってる。あなたと出会い、あなたを否定し、あなたからきにされ、あなたをやわらかく否定し、世界のはしっこで、バートルビーはしんでゆく。来世、バートルビーになれたらいいんだがなあ。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「生まれなさい外に気球が待ってます」 どうしてじぶんがよろめきながらめそめそしながら当時、現代川柳にたどりついたのかはわからない。昔わたしをしってたひとも、え、なんであんたが川柳に、とも思うだろう。でもなあ。しんだとおもったのに気球が待ってたから、とかそういう言い方しかできない。「電飾の城に素泊まりしたおはぎ」 あるときはじぶんはおはぎなんだと思ったからとか。生きてると人生がじぶんを驚かしてくるが、そういう専門が現代川柳だったということ、この句集を読んでると強くそう思う。「輪を叩きつけて天使は出ていった」
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あなた
いろんないい句がたくさんあるんだけれど、よく「狸しか来ない狸のお葬式」をなんどもなんども思い出してる。狸しか来ないんだよね、ということや、でも狸たちは来たんだぜ、ということ、どこかでむすうの狸たちが、いま、すわって、泣いたり、しんみりしたり、狸が狸のことを思い出したりしているかもしれないということ、やさしさとかあたたかさとかかなしさとかこの世界のすべてのこととか、たったひとつのこととか。むかし、大阪で、紺さんがほほえんでいて、わたしもたぶんほほえんでいて、話したことをときどき思い出す。
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あなた
月報を読むと、相馬御風を訪ねたひとが、ひとり畳にころがって頭を抱えて泣いている相馬を見ている。転がる、抱える、泣くという大泣きのコンボがむかしの文学者っぽくていい。漱石に出てくるひとたちで誰か泣いてたひとはいたっけな、ともふと思う。なみだと、そうせきの、かんけいはどうなっているのだろう。夢十夜で百年まっていろ、と言われたわたしはめそめそして泣いてたっけ。泣いてなかったとおもう。わたしはどうしたんだっけ。わたしはすこしつまらなそうなかおをしたんだっけ。すん、としたかおで。
あなた
プレゼントしてもらったほん。ロラン・バルトがいっていたすてきなことばでよく覚えてるのが、「わたしはあえてながれる。ながれつづけるのだ」ということばで、ほんとうにながれつづけたひとだよなあとおもう。テクスト論って今あらためておおざっぱにかんがえると、ながれつづけ、うろうろしながら、ときにすべてをわすれながら、ほんをよむこと、なんじゃないかともおもう。だれが書いたかもわすれ、わたしが読んでることもわすれ、いいたいことはなにもないじょうたいで。わすれながらあなたにであうということ。
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あなた
「生きることだ。それは常に生きることなのだ」とカーヴァーは言う。生きているとあるとき「ちょっとしたこと」が起こる。そのちょっとしたことが人生に不思議な流れをもたらしてくるからと。カーヴァーがいろんな短編でたえず口にしたのは、生きることにはただそれだけでわたしが気づかなかったなんかしらの秘密がある、ということだと思う。あしたのひみつ。どうしてひとは生きなければならないのか? あなたが生きていることそれそのものは、いつもあしたの秘密であり、だから明日あなたに、ささやかだけれどちょっとしたことがおとずれるから。
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あなた
「上手な苦しみ方」の章にプルーストの自己評価がのっている。「楽しみも目標もなく、活動も野心もなく、この先の人生はすでに終わったも同然」。プルーストって、かわいい、ってジャンルにはいるきがする。「ひんぱんにトイレに行きますが、ちゃんと出ません」。「自分のベッドが大好きで、たいていはベッドのなかにいて、そこを事務所代わりにしています」。完璧にかけがえのない人と思ってもらえる長さは、「せいぜい十五分」と書いてあるけれどこれはみなかったことにしよう。だいたい連続もののラジオドラマくらいの長さでひとは愛される。
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あなた
「芸術一家言」でキザについて話してる。鏡花は「キザの隊長」と言っていて(なるほど)、漱石ももっと思い切りキザになったらよかったのに、と言っている。たぶん谷崎は「草枕」推しであの作品はちょっとキザってそれはすごくよくわかるんだけど(だから「明暗」は合わないといっている)、でも「明暗」みたいにだらだらうろうろしたほうこうにいって、そこでだらだらしながらたおれたから漱石ってよかったんじゃないかなあとわたしなんか思う。ひとがとつぜんだらだらうろうろしだすのは、不思議でいいね、ってわたしなんか思うんだけれど。
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あなた
語り手の俺っていうのは実は「犬」のことで、犬が語っているんだよ、というほん。ときどき、犬や猫に向かって「うまうまだねえ」とか「ねむねむなのね」と話しているひとがいるが、実は逆にこのとき犬や猫に語りかけている本人も犬化・猫化していることがあるのではないだろうか。これはわたしたちがことばを使う時の変幻自在のシステムの話で。わたしたちはけっこう語り手としてうろうろしてるようなきがする。そういううろうろから文学がはじまるきもするし。
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あなた
何度も読み返してる。最近「だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる」という句がすきで、無意味な勃起というくうかんをつくっているところがとても面白い。つまり、この世界のすべての勃起を無化させている。男は、勃起は、力は、欲動は、なにかのためにあるわけでもなく、ただそのようにたんなるそれだけとしてそんざいさせる。どこかおろかで、無で、無重力で、無意味で、完結していて、はてしない。俳句だからこそ語れた勃起だと思う。俳句はただ「それ」とゆう。この世界のこれまでを少しずつこわす本。「たんぽぽのどこか壊れてゐる黄色」
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あなた
大学のときにカウンセリングに通っていて『それから』の家族から放逐されてぐるぐるあたまがまわりだすシーンをなんどもなんどもカウンセラーに朗読していた。コーエン兄弟の映画にでてくる、じぶんがどこにいて・なにをしているかわからない、しかし破滅にそっとちかい人間がここには出てくる。岩松了がいってた、ひとを好きになるってことはどこか破滅的でもあるんですよね、がここにある。壊滅的だったねあたし、といういいかたをしたひともかつていた。
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あなた
手塚治虫ってすごくちゃんとエロいなあと思うのが、死とセットでエロをもってくるところで、じぶんのからだがもう終わりそうなシーンで、もうひとつのからだがやってきて、からだとからだがくっつきあおうとする。特に火の鳥はなおさらその死/不死/エロスのテーマが顕著だ。エロというのは、こわれつつ・補完されてゆくことなんだよ、とこどものころに手塚治虫から教わったきがする。でもたぶん恋愛ってこわれながら補完されてゆくことなんだと思う。だから、もろいし、だから、すてきなことだ。
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あなた
バルトは俳句を、こどもがゆびさして「これ!」っていったときの、「これ!」だと説明している。ストレートに「これ!」とゆびさすこと。意味じゃない。特殊にもならない。ただ「これ!」とゆびさすこと。それなら現代川柳は「これはあれ!」とこどもが思い込むこととも言えるだろう。この世界のあらゆるものをひとつひとつ特殊化してゆくこと。そうにちがいないと思いこむこと。そのせいで超意味になってしまうこと。意味の巨浪。ロラン・バルトは現代川柳をどう読むだろう。現代川柳はロラン・バルトをどう読むだろう。
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あなた
この句集の栞文にも書かせてもらったけれど、「今走つてゐること夕立来さうなこと」の「今」を今でもずっと考えている。俳句ってみるものなのに「走」っていて、カメラのようにその瞬間を刻印するものなのに、走ってるせいで、「今」が「今」としてこの今もつきまといつづける句。俳句ってなんだろうと根っこのほうから突きつけられる。もしくは、みること、かくこと、はなすこと、ってなんだろう。わたしたちはいつもどの「今」にいるんだろう。あなたに「元気?」といった場合、それはいつの「今」なんだろう。おしえてください。
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あなた
友達と、自立/依存、ではなく、ケア、っていう考え方ってあるよねという話をしたことがあって、さいきん、ゴドーを読んでると、このエストラゴンとウラジミールのふたりがお互いにいきてゆくのにケアしあってる物語としても読んでもいいんじゃないかと思えてくる。しにたい、しぬよ、といえる相手がいること。過去をしってて今話せばぱっとわかりあえるあいてがいること。やあまたおまえだね、といえるあいてがいること。いっしょに待ってくれるあいてがいること。ゴドーという絶対的な非ケアをまえに、ケアしあうふたり。「嬉しいよ、また会えて」
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あなた
ブローティガンの『西瓜糖の日々』になぜかよく似てるんだよなあと読み返しながら思った。わたしたちの暮らす世界とはちがう、すこし変わった不思議な世界があって、そのなかでは、わたしたちの価値観や愛のしかたとはすこしちがったやりかたで生活するひとびとが暮らしてる。主人公はものを書きながら、愛をえて、うしない、ふしぎに思い、すこしくびをかしげ、ふらふらし、まただれかと出会い、ものを書き、「にゃあ」の章を書き、風と愛にかんする話も書き、生きてゆく。「それは神さ──とあたりまえの答えを何回かしてみたことがある」
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あなた
「創世記」の最後みんなで話し合っている内にだんだん会話がなくなり「うん、まあ」「忘れようたって」「うん、うん」のとことかほんとうまい。太宰ってこういう人と人がなんとなくなんとなくなことを話し合っているうちにふっと核心にたどりつきそうになって、でもなんとなくそれを避けて、だんだん黙って、でもたどり着いちゃってることもわかって、通じあえてんのかあえてないのか、でもびっくりすることにこのあとも生きてくんだよね、みたいな空気感つくるのが本当にうまい。びっくりすることにこのあともひとっていきなきゃならないんだよなあ
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あなた
有島武郎は「パパ感」があって、ひげがあるからパパ感があるというより、「小さき者へ」の中で、わたしはパパだよ、とこどもたちへ語りかけていたので、パパ感がやっぱりある。葛西善蔵や太宰治の「私はかなしい父です」みたいのとはちょっとちがう。じぶんが有島となんで合わないのか考えながら読んだが、「或る女」ってタイトルでこんなにぶあついもの書くのかあ、ちょっとやだなみたいなところがあったんじゃないか。校長先生が「これから或る話をします」と言って話し始めてそれが思っていた以上に長かった、そのときの「或る」の凄さ。
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あなた
葛西善蔵の短編「哀しき父」は、こどくで、ゆううつで、じぶんのことをかなしいおとうさんと呼んでいる、かなしいひとクラスターのひとなんだけれども(かなしい会)、さいごに、「彼は静かに詩作を続けようとしてゐる。」にたどり着く。ブローティガンの『西瓜糖の日々』のわたしもそうだけれど、書くということに、たどりつくひとたちがいる。いろんなことがあったけれど書くよ、と。書くってなんだろうなと思う。書くからたどりつくんじゃない。たどりいたところが書くことだった場合のいろんなわたしたち。
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あなた
すごくすきなほんで、いきてくときにひつような辞典みたいによく取り出してくる。よしもとばななの質問に答える大島弓子のとこが特にいい。大島弓子はこう答えている。描いて(書いて)ゆくことのいいことは、すごくいいてがみをもらえることです、と。「こーんないい手紙」とおもうような手紙が間違ったようにふっと届く。「キセキみたいな幸福」と。ときどきこの星で各自がみんな生まれたときから仕事はもっていて、それは、ときどきてがみをかくことなんじゃないか、とおもうこともある。2021年という未来でもてがみかいてるんだから。
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あなた
会話詩のすごくおいしい、いいところが「夏至」という詩にあると思う。すごくすきな詩。「草ずもうって知ってる?/草ずもうなんてしなかったわ/草ずもうなんてつまらない」ぼくのいったことはすぐにきみに否定される。それにさらにきみのふかいところがふっとでてくる。「もっと悪いことをしたわ」きみはぼくを否定して、くわえて悪いひとになる。「じっとしているのが好きだったな」こんなにぜんぜんちがう二人が「時の雨」の中で通い合って「風草」が鳴る。時間が降るということ。あなたとすれちがいながらつうじあうということ。
あなた
だらだらつきあうこと。だらだら本を読むこと。このほんではみんなでドストエフスキーをだらだら読む。そういうほんの読み方もありなんじゃないか。ヴォネガット『猫のゆりかご』の私も「世界の終わり」についての本をだらだらと書いていたし。ときどき横目でちらっと時をかけぬける火の鳥をみながらだらだらよんだりつきあったりする。だらだらといろんなひきだしをあけしめする。ドストエフスキー自身もすごくだらだらとじぶんの書くキャラクターにつきあいつづけた。この価値観をちょっと推してみたい。だらだら。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
チェーホフってけっこう「ぼんやり」に撮り憑かれてるよなと思う。わたしはロパーヒンが好きだが、昔からの怨念のような夢がじょうじゅしたしゅんかん「桜の園はわたしがうちのめす!」と激しいこうふんとともに「頭がぼんやりして、しゃべれないんです。わたしは夢を見ている、ただそんなきがしているだけなんだろうか、幻」とも語る。はげしさとぼんやりのいったりきたり。冷静と情熱じゃない。はげしさとぼんやり。でもひとってそうでしょう。すっごくしゃべってたのに次の瞬間ぼんやりしている。そういうところに今って時間があるんでしょう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「それでも青井さんが愛した人ですからね…恋敵とはいえ、青井さんのすべてを愛そうと誓った私は、青井さんの愛する人も愛さねばなりません。このへん『愛のパラドックス』です」 愛にかんするすてきなセリフがたくさん詰まった戯曲。みんなへんな愛で、しかもその愛は微妙に届かない。まるではじめて口にするかのようにゆうが、あらためて、愛ってなんだろう。「これは私が四番目に好きな曲よ」 誰かにとって四番目のめまいのような世界を試行錯誤して、でもそれはほんとうはただの小さな箱かもしれなくて、愛の〈メロンの迷路〉のような話です。
あなた
昔「いやあ、しみじみあいとゆうきがもらえるなあ」とひとにいったら「いやおまえにはあいもゆうきもあげないんだ」といわれたことがある。され、と。チャーリー・ブラウンではないが人生にときどき愛と勇気はない。でもこの本の「別のかたちだけど生きてゐますから」の句は勇気がなくなるたびに本当によく思い出す。うーん、ヴォネガットやブローティガンやカーヴァーやチャーリー・ブラウンがもし俳句を作るとして、いちばんつくりたい句をつくるならこれを一句つくったと思う。別のかたちだけど生きてゐますから。みんなそうおもってたとおもう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
えび男くんがわたしに「熱いっていう感じをかたちにすると手を天に向かって差し上げてる太ったおじいさんだよ」と話してくれるシーンがある。わたしは世界のあるかたちが違うかたちに交換されるのをまざまざとめにする。そしてわたしはくまと再びピクニックにゆく。くまは「あなたと呼んでほしい」といった。漢字で。貴方。くまはたぶんこの世界のなかで交換できないものもあるんだよ、かなしいね、ということをわたしに教える。わたしは交換できるものと交換できないものをしって、すこし大人になり、泣き、机の中にだせないままの手紙をしまう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
このなかに入ってる鏡花のちっちゃなエッセイ「曲線」で、鏡花は線のことをきにしている。せかいにはいろんな線があります。そしてそのいろんな線がいろんなかんじをあたえるのです、と。不思議も、不気味も、ありがたいのも、うらやましいのも、線のせいなんです。鏡花にとって文学って文字じゃなく線だったのかなあとも思う。てがみなんかもこうおもったらいい。あなたからむすうの線がおくられてくると。わたしはその線のいくつかをたいせつにする、と。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
マンガのコマってなんだろう、と考えさせるマンガ。このマンガのコマはすごくじゆうで、ときどき窓のようでもあり、もしくはコマがきえ、画集のようになるときもあり、またはコマはぬりえのようにいろんなえをぬれるばしょでもあり、コマが溶けたりきっぱりしたりするコマの波にあわせて、ひとがくっついたり、離れたりする。もしかして、コマって、マンガのなかの縁(えん)なのかもしれない。さいきん、たまたま、縁(えん)ってあるんだよ、といってたひとがいた。えん、か。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
このほん、ほんとうに改行がないんだけれど、でもその改行がないかんじがとてもだいじなきがして、つまりその、マルケスを読むときに、きもちをきりかえたり、まがりかどをまがってはいけないんじゃないか、ぶっとい、マッドロードのようなぶっといみちを、ただただめくるめくめまいをかんじとりながら、つきすすんでゆく、るいるいたるファンタジーのしたいのやまがきずかれても、つきすすむ、おいもうひゃくねんもたってるんだぜ、といわれても、つきすすんでゆく、読むことはふとることだとりかいし、つきすすんでゆく。さいごの字まで。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
プレゼントしてもらった本。最近私はたまたまカルヴィーノの『むずかしい愛』を読んだ。川上弘美のとめどない愛のものがたりもなんこか読んだ。このほんのなかにある愛は、「ちょうどいい愛」だと思う。かんたんとか重いとか間違いとかそういうことではない。バランスとかでもない。この「ちょうどいい」とわたしがかんじる流れの中で、ショッキングなことにもゆらがず、時々愛し愛されながら生きていく。「私の夢は、いつか彼か私が死んだとき、それをお互いが宿に来なかったことで初めて知ること。そこまで静かに続けられれば、それが一番いい」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
このほんのいちばん最後にちいさなかたちで目立たずにほとんどのひとが読み飛ばすようなかたちでのっているサン=テグジュペリの妻にあてた愛の手紙がすごくいい。「可愛い愛しのコンスエロへ。羽飾りのついた小ねずみ、少しへんなぼくの妻、最愛の人、その後どう暮らしていますか? あなたがいないのでぼくは寂しい。本当に、心の底から、新鮮な水をたたえた泉のようなあなたがいなくて、ぼくは寂しい」 少しへんなぼくの妻、っていいなあ。少しへん、で落として、最愛、で抱き上げて、パイロットなのに、パイロットだから、いいてがみかくなあ。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
すきなほんで人生の節目節目に鞄に入れてもち歩いてる。「ずいぶんとなくなったから心がね 何年かかけて忘れるだろう」「こんにちはみなさん指を握りしめわたしは何もうしなっていない」「抱きしめているんだよだからそれでいいじゃないかそれに眠ってるんだよ」失うことと失うこと。ひとは繰り返し何回か同じものを失う。そのたびに「それに眠ってるんだよ」と話す、失いながら。失った後もふつうにナチュラルローソンの低糖質チョコパンをたべたりたまたま開かれていた野鳥の会にそっと参加したりもする。でもまたうしなう。ねむる。それに。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
さばくでひこうきをしゅうりするところから始まってるのがいい。つまり、負けたところから話ははじまってる。でも、パイロットも星の王子もばらもきつねもへびも、みんな負けてゆく。勝ったものはいない。みんな負けて、去ってゆく、でもさいごに星はのこるよね、というふんいきもいい。星からきて、かえるって、そういうことなんだろうなあともおもう。きょう、ほしにかえります。おせわになりました、ってあたまをさげてみたいとおもったりすることもあるんだけど、このほんをいちど読むと、それをしたことになる。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
ときどき『カラマーゾフの兄弟』の「どうしてこんな人間が生きているんだ!」ということばを思い出す。カラマーゾフ的な森のなかでうろうろするってそういうことじゃないのか。どうしてこんな人間が生きているんだ、とじぶんじしんにおどろきながら兄弟たちはうろうろしていた。みんななんなの、以前に、じぶんなんなの、と。神なんなの、とも。そのうろうろにみちびかれ、しんでゆくひともいた。でも兄弟はうろうろしつづける。カラマーゾフに、せいかいはない。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
このほんをはじめて心療内科の待合室でみつけて、ぱらぱらめくり、お、おぉ、あ、これは、とおもい、もう診察いいから借りていこうと、借りて帰ったことがあって。ほんをよむことについてのほん、なんですよね、ほんをよんでゆうきをもらっていきてゆくことについてのほん、なんですよね。ひとはときどきそうやっていきてる。それをくどくどとやらないで、ひゅってマンガでやった感じがして。だから、救われたのかなあ、とおもうんです、そのとき。これはゆうきについてのほんです、と書いてたレビュアーさんがいましたが、わたしもそうおもいます。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
一緒にピクニックにいったくまが「あなたと呼んでほしい。あなた、ということばがすきだから」と話すシーンがある。この「あなた」という呼びかけには、わたしの目の前にいるあなたがいてこそわたしがいてわたしはこうしてあなたに話しかけています、というどこまでもくるまれていく関係性みたいなものが込められている。ひとはひとりでは「あなた」と発話できない。そして種や性差や時空を超えてひとは「あなた」ととつぜん呼びかけたりもする。もしかしてじんせいで「あなた」と呼びかけられるチャンスはそうそうないのかも。緑の扉みたいに。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
小説になれないでぐずぐずだらだらしている非小説。漱石の面白い所は、小説に近づいていきながらだんだん核心に迫ってくるとそのコースを外れ小説じゃなくなってゆくとこだと思う。村上春樹の人物たちにもつながっている。核心の近くにはいるのだ。でもどうしてもアクセスできない。『坑夫』の「自分」のように坑道のいちばん深い地獄のようなとこにアクセスしながらそこからはじきだされる。でもわたしはいくつかのものごとをみて帰ってくる。だが小説にもならない。なにか、になって、なにかのまま終わる。であってわかれた安さんはまだ地獄にいる
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「蒲団から人が出てきて集まった」「すべらないすべらないよう家の中」「今家に卵は何個あるでしょう」樋口川柳の世界において、家、というものはリスクが高い。家のリスクを計るのが現代川柳とも言えるかもしれない。ふとんからひとが出てくるし、あちこち無作為にすべりまくるし、卵をちゃんとカウントしなければ/しても無秩序状態かも。オズの魔法使いをもじれば「家ほどふあん/ふおんなところはない」になる。しかし身を守るすべはたぶんない。「前転で近づいてくる中近東」なにもしなくてもふあんとふおんはやってくる。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「とめどないこの世界の中で、自分の居場所をみつけることが、できたのだろうか?」この「とめどない」がニシノユキヒコの、川上作品のテーマにもなってる。果てのないフローな状態、とめてもとめても流れてくる、ときにはもれてくる、愛とか、ことばとか、からだも液状になってあちこちにむかう、男や女もときどき流れまざりあう、今も過去も未来も、「宇宙って、広がりつづけてるの」と問う西野くん、このさいごに「の」をつけることで、あなたをまきこみながら宇宙をひろげてゆく、答えなくては、「うん、ほんとに、この世界はとめどがないよね」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
小池さんの本を読み返してると、愛を語っていることが多いことにきがつく。「塗り壁にぶつかるまではともに行く」とか「もみがらの中で手首を握りあう」とか「逢うときは水の階段駆けてくる」とか。現代川柳は愛にちかい文芸なのかなともおもう。いろんなやりかたで愛を検証する。むずかしい愛も、たまたまの愛も。そんなの愛じゃないでしょう、というときも、一応やってみる。すべてのことはやってみました、を愛に適用しようとする。愛のしっぱいもひっくるめて。「たてがみを失ってからまた逢おう」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「はっきりした理由はないけれど、ちょっとした理由ならあった。」「できることの少ない日は、少なくなにかをする。」糸井さんのほんをよんでると、ちょっとの思想、すこしの思想、っていうもんがあるんだよなあとか思う。すこしのお風呂、すこしのお菓子みたいに。わすれそうでわすれなかっただいじなこと。「「そのとき」には聞けない話が、ずっと後になって聞けるなんてことも、長く生きてる楽しみのひとつですね。」少し生きるをながくつづけるとたのしいことがある。そして「それはそれで、たくさんの毎日のうちの一日です。」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
この句集は実は現代俳句のヴォネガット『猫のゆりかご』なんじゃないか。『猫のゆりかご』では〈カラース〉という概念のもと不思議な縁で人々が集まってくる。理屈じゃない。あなたと私には縁がある。私はいつも答えが遅いがあなたに辿り着く。「猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝」「次のバスには次のひとびと十一月」猫が集まり次の人々が乗り込み私たちは大きな生の流れの中を連鎖する。「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」この「ぽ」が今の私にはボコノンにも思える。「ここに世界の終りがある。そしてぼくがいる、ほとんど最後の人間として」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
やっぱり大好きなほんだが、現代川柳は時空を歪めるためにそんざいしていると言っても言い過ぎではないと思う。タイムパトロールの真逆をゆこうとするタイムテロリストというか。 「青春通りで四千年前の月を見ている」「頷いてここは確かに壇の浦」 時空を次々飛び超えて、すずしい顔をしている。きみ、生きてる?と。タイムリープしては、てがみをあちこちまきちらす。いつかの今にとどくように。こころの爆弾のようなてがみだとおもう。現代川柳って。時空のあちこちの踊り場できみを待っている。「君がよければ川の話をはじめよう」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
〈はるのやみ「むかしこのへんは海でした」〉この句が頭から離れなくてこの句いいよなあとずっと思ってる。いま生きてここにいることや過去にわたしたちはいなかったこと、未来でわたしもわたしがすきだったひともわたしをすきだったひともなんでもなくすれちがったちきゅうじょうのひとびともみんないなくなるんだよなあみたいのがぜんぶまじっているきがして、この句すきです。わたしはいなくなるんだよなあ。いまねっころがってほんよんでても、めをとじてても、ふとおきあがっても。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「また美術館行かうまた蝶と蝶」。この句集のいちばん最後の句。どうしてこの句を心傷的に感じることがあるのかなあと時々考えるんだけれど、「また美術館行こう」とあなたに言ったときに「また」行けない可能性もあるからではないか。でもだからこそ「また」とわたしはあなたに言ってしまう。「また蝶と蝶」と強迫的に心の中で繰り返す。でもだからこそその「また」が未来でどうなるのかわからない。それは未来の傷になるかも。でも。文香さんの俳句って今と未来をゆれてるんじゃないか。「冬晴れて君宛の手紙はすべて君に」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
『エネルギーのないひとのための文学全集』がもしあったとしたらその中に必ず入ってくる詩人が八木重吉だと思う。〈えんぜるになりたい/花になりたい〉という二行詩。エネルギーがないなかでもひとは文学ができるのかという問題を考えさせる。ちからはなく、むりょくで、ほとんど0なんだけど、その0のまわりをうろうろしながら、むしろじぶんがやっと見つけた0なんだから、この0をとどけるように、しかし1になるようなやるきはださずに、その0のきんぺんで、書くこと。0が愛されるようにやってみること。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
大好きなほんで何回も読み返してるが現代川柳って構文集だよねと思うこともある。短歌だと構文になるには長すぎるし、俳句は季語が構文化を阻害する。川柳はこの世界の構文をもぎとり、魔術的なもうひとつの世界線を作り出す。「水牛の余波かきわけて逢いにゆく」「目印はムササビ今夜逢いにゆく」交差点のひとごみをかきわけるのでも、あの明かりが目印になるのでもない。あなたに逢うにしてもちょっとちがった世界線であなたとあうこと。やあ、の質感を変える。波をかきわけ、ムササビをおって。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「僕らはみんなきちんとした人々なのだ──あるポイントまでは」カーヴァーの小説はこのポイントをうろうろいったりきたりしている。きちん以上、きちん以下の、とつぜんやって来たコースを。「きちん」のたがが外れそうなところから身を乗り出してときどき崖の下をみている。そこにいるのはだれなのか、もしかしておれなのか、と。「びゅうううん」と風がうなる風の強く吹く場所で、ぼくはぼくを見ている。「ねえハニー、その夢の中にはあはたは出てこなかったの」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
Kがとつぜんこんなふうにいうシーンがある。「出ていくなんてできない。ここにとどまるためにやって来た。だからここにいる」 よくこのことばを思い出している。もしかしたら『城』は城にたどりつかない物語なんじゃなくて、Kが「ここにいる」と決めた物語なんじゃないかなと思う。だからここにいる。城や測量の仕事が問題なのではない。ここにとどまるためにやってきてここにいることに決めた。その中で起きてしまっていることにここにいる人間として出会ってゆく。そういう物語なんじゃないか。だから、もう、たどりついてる。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
リチャード・フォードが「グッド・レイモンド」の中で「ものすごく、ものすごく良い」時間の中にいたカーヴァーのことを語っている。リチャードは最後にふっと「レイがここにいてくれたらなあと思う」と口にする。ふたりのあいだでふとしたきっかけであふれたかけがえのないもの。ともだちが、作家のひとってときどきみもふたもない素直さがあるよね、と話していたことがある。そうくちにしてしまうしおもってしまうしそれがどことなくひととちがうふうにかんじられてその素直さで愛されることがある。そうおもうの。そんなふうに話していた。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
とつぜんムーミンが出てくるとこがあって、あらためてムーミンについて読者もいっしょになってみんなで確認するとこがある。《ムーミンとは「いることはいるが、何かはわからないもの」という意味であった》。俳句は構造でなく質感、という話が出てくるが、俳句とムーミンはもしかすると少し似ている。いることはいる。ある。しかしそれは質であり感であり波であり、突き詰めれば、わからない、にたどり着く。でも、ある。妖精は構造をつくらない。妖精は波。感想も波なのかも。このほんのいちばんはじめにブローティガンが唱える愛なんかも。波。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
《「その『通常は』っていう言葉好きよ、私」「こういう話って、朝の五時にしか話せないよな」》。私がカーヴァーが好きなのはいろんな関係、いろんな時間、いろんな場所、いろんな心で、会話を見せてくれる点で、ほんとうにカーヴァーの人物たちはよく話し合う。だからといって、仲が深まるわけでもないんだけれど、ひととひとがことばを交わし、何かをりかいし、ごかいする、それってすごく神秘的なんだよなあということがひしひしと伝わってくる。「その時間にしか話せないあいてっているよね」っていったのはブローティガン。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
私はすごく、ムーミンのクリスマスのアニメの話が好きで、クリスマスってどんなおじさんなんだろう、みたいにクリスマスを知らないムーミンたちが話し合う。まってたらくるんじゃないの。木とか用意しておこうよ。あたたかい贈り物も。でもおじさんはこない。雪がふり、夜がふかくなる。ムーミンたちはクリスマスを待ちきれずねむってしまう。でもちっちゃなムーミン谷のいきものたちがムーミンが用意した明かりや贈り物のもとに集まってくる。なんだかこれしあわせなかんじがする、と。その話がだいすきだったのに、ぜんぜんちがうはなしだったよ。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
とても好きで何年たってもいつも行き詰まったときは持ち歩いてる(書き込んで大事にしてた一冊はひとにあげてしまった)。よく読み返す「中国行きのスロウ・ボート」。何も言えない、どうしていいかわからない、ここは僕のための場所でもない、というないない尽くしの中で、それでも色んなふうに「僕」はひとと出会い別れてゆく。村上春樹の真骨頂ってそれで、ひととの出会いや変化は、できる・できない能力関係なく、風のようにやってくるもんなんだってとこなんじゃないか。いつも僕は僕を超えたところで誰かに出会ってさよならする。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「妻ねむらせ部屋中に滝落してみる/阿部完市」。やってみた系俳句としてはかなり強烈なインパクトを残す。阿部完市はもしかしたらタグ俳句をつくっていたのかもしれない。《部屋中に滝落してみた》とか《むほんしてみた》とか《衛兵ふやしてみた》とか。やってみた系動画のタグのような俳句を生やしてゆく。三輪車で国境こえてみた。「三輪車で国境こえるかるくなり」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
変な話だが『崖の上のポニョ』とロラン・バルトはちょっと似ているなと思った。テクストの海に身をゆだねながらも、その海を語り続けながらも、テクストの海そのものに最終的になろうとしている。けれども、そのせつな、ひととの間でゆれうごき、いまいち海そのものになれないでいる。プルーストのゆれを本書で語っているが、それはポニョやバルトのゆれにもつながっている。でも文学ってそのゆれ、メタファー(私は今誰か)とメトニミー(私は明日誰か)のあいだのゆれのようなきもするんだよなあ。わたしは毎晩はやくからねむった。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
古畑について三谷幸喜がこんな驚くことを語っている。最初古畑任三郎役は田村正和ではなく玉置浩二を想定していたと。黒い悪魔のように無表情で淡々と謎を解いていく刑事。だとすると悪魔でも天使でもない妖精のような立ち位置に古畑を引っ張り込んだ田村正和の役者としての力はやっぱり大きいのかも(表情としての妖精)。あと印象的なこんな三谷の言葉があった。「僕が考えるファンタジーの登場人物は、靴を履いてなきゃダメなんですよ」。羽根はなく地に足をついてときに転んで泣いても起きて生きていくのが三谷幸喜のファンタジー劇だとおもう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「泣いてゐるひとの隣へ豆の花/宮本佳世乃」『三○一号室』。佳世乃俳句を読んでると、あ、私ここにいたんだ、きみはここにいたいんだ、と気づくことも俳句なんだよなと教えてもらえる。「二階建てバスの二階にゐるおはやう」。見る、だけでなく、いる、ことも俳句へのコンタクト。とてもゐたこと。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「丘を見てきたと電池を取り換へる/鴇田智哉」。鴇田俳句の中で丘と電池はふつーにつながっている。電池を取り換えることと丘を見ることはシステムとしても価値としても何も変わらない。価値観のプレーンでまっさらな白い風景の中誰かが誰かにものを言う。いきる、しぬ、あいする、あいされる、でなく。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「毛布から白いテレビを見てゐたり/鴇田智哉」。何年も頭にとり憑いて離れない句。眼の真空状態、見ることの空白がここにはある。テレビの画面が白いのか、テレビ自体が白いのか、しかしだからといって何が写っているのか、なにも見ていないんじゃないか、しんでんのか、けれど毛布からと測定可能な眼のベクトル。だれが・なにを・どこから・なんのために・見ている/いないのか。見る、ということの、眼のまっただなかのゼロの中に、この句は読む者を巻き込みながら滑空し続けてゆく。見る、ってなに、だれ、という俳句究極の問い。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい/なかはられいこ」。この句のことをとてもよく考える。わたしがいつか交換されるのはわかります、でもわたしは交換されたくないのです、えんぴつである以上書きたいし鳥である以上生まれたいのです、わたしであることそのままに、という交換と交換不能性をめぐる祈り。わたしはわたしでいたいけれど、わたしは今日あなたなのかも、というこの世界の不確実性のなかで祈ったこと。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
カーヴァーはいつも終わり方がいい。〈「さよならも言ったし、もう行っていいわよね」「そうだな」と私は言った。「行っていいと思う」〉とか〈窓を閉め忘れたことに気がついた。でも起きあがらなかった。それでかまわないじゃないか〉とか。どの短編の最後も一貫してる雰囲気は、たどりついちゃったんだからしかたないじゃないか、ということだと思う。ともかくわれわれはここにゆきついたんだから、と。ゆきつくこと。すすんだひとにだけ与えられるけんり。あるかなくてもいい。ともかくその場にいてもすすんであなたがゆきついたところ。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
このほんを買うと糸井さんの手書きの一言がランダムに印字された栞をもらえる。わたしは、「あ、いいこと考えた。」だった。糸井さんのほんって、ゲーム・MOTHERのNPCとたえず会話をくりかえしているような気持ちになる。たとえばふっと街の人間に話しかけると、「あ、いいこと考えた。おれ、だから、うちに帰るよ」とか。こんないいこと思いついたよ集、のようなほん。この世界にはかなしいこともたくさんあるけど、それとはむかんけいにいいこともごろごろしてるよね、というほんです。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「人が人を愛したりして青菜に虫」。不思議なまきもののような手紙といっしょにこの池田さんのほんをおくってくれたひとがいて、読んでいた。池田さんの俳句は、愛のシステムの話をしているよなあと自転車で坂道をくだりながら思ったことがある。「初恋の後の永生き」とか「夫は他人なので好き」とか、愛ってシステムなんだよなあと思う。メカニズムがわからないような。その中でわたしたちは愛に呼ばれて、愛をときどきさせられている。愛してる、って世界のあちこちの天気とは無関係に口にしたりしさえもする。じぶんでもおどろきながら。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
ひとつの文学のただしいあり方として、この俺の過剰につきあってくれよ、というのがあるとおもう。おさめようとしても、やりくりしようとしても、それでもあふれるこのなにかはなんなんだよ、と。フーコーが巨大な図書館(アーカイヴ)に出会ってそれで知の考古学の研究をはじめた話があるんだけど、過剰に出会うってそういうことだと思う。あふれてんじゃん、さあ始めよう、と。かわいさんはすごいひとだよなあとおもう。ゆきつくんだよなあ。つづけてさえいれば。それをわたしは眼にした。「おれだけが狂っているよ江戸幕府」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「ぼくが電話をかけている場所」で、唐突に、あれっ自分はジャック・ロンドンの本をなにか読んだことがあったっけ、と思い出すシーンがあってそれがとてもいい。雪の中火を起こさなければしんでしまう、火をなんとかつける、希望が瞬くまにひろがる、でも次の瞬間どさっと雪が落ちてきて、ひはきえる、よるがちかづいている、この希望と絶望のあやとりはカーヴァーのあちこちの物語に顔を出す。希いが絶えて、でも絶えた希いはまた生まれて。ぼくがいる場所はそういうとこで、そこから話したいことがあるからと彼は電話をかけようとしている。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
「べえー、永遠に」というタイトルの詩がある。ぼくはきみがいない宇宙のひろさにおびえているんだけれど、ブローティガンにとって、Boo、あっかんべー、や、おばけ、愛するきみ、は、永遠とずっと等価のものだったんじゃないかなと思う。きみはときどきすごく高くて、かと思うととてもやすっぽかったりもして、でもそれが永遠に感じられて、どこにいても宇宙のことを考えてしまう。いきるとかしぬとかからかうとかでもない。おばけ、べー、愛がまじった宇宙の中で、こまみたいにぼくはぐるぐる回っている。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
現代川柳は確認するまではこの世界にこれから何が起こるかわからない量子論的なところがある。粒子状の猫がぱっと猫になったり、とびちったりしてる状態。それを昔教えてもらったのが京極夏彦だったんじゃないかと思った。『姑獲鳥の夏』のテーマは、箱をあけてみるまで中に何が入っているかはわからないし、箱をあけてわかったからといってわかったことにはならない、というのがテーマになっている。猫とは波なのか、いや、それをそう見るわたし自身が波だったのか。世界は波で、つかのま、あなたといっしゅん奇跡のようにてをつないだりしてんのか
が「ナイス!」と言っています。
あなた
ずっと持ち歩いて読んでいたほん。好きな歌。「手紙として送られてきたメロンの迷路をさまよいながらふたたび出会う」。あなたから送られてきたメロンの迷路。その迷路をどうにかこうにかとおり抜けて出会うんじゃなくて、さまよいながら、さまようことで、わたしはもういちどあなたに出会う。さまようことで、あ、会えた、ってことあるんだよなあと思う。迷いながらうねりながらこんらんしながらあなたに出会う。カフカのことば、思い出した。「ここにくるために僕はやってきた。だからここにいる」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
さいきん持ち歩いて読んでいたほん。好きな一句。「きゅうり揉み 船はもう出たのでしょうね」。きゅうりを揉んでいるという私の生活の流れや時間とは別に、ゆっくりとあなたの乗る船が港を出てゆく。わたしを離れて。わたしやわたしのきゅうりとはむかんけいに。じんせいってそういうもんではないか。きゅうりをもんでいるときに、誰かがてをふって別れていたりする。でもそれもどこかでわたしにかかわっている。さようならは波なのか。そう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
短編「メヌード」。妻が浮気しているのを知った僕は、なんにもいわず、ベッドに横になる。そのままずっとそこで眠る。何日も起きない。なにかをしようとしてもすぐにぐうぐう眠ってしまう。でも足りない。カーヴァーは致命的な心の傷を、どこかどこまでも平和で平穏なゆるやかな眠りとして描いた。眠るというのはどこにもゆけない身体になることなのに、けれど、どこかにむかって運ばれゆく身体になってゆく。ここ、が、どこか、に。ねむって、起きて、そとにでると、みんなが歩いている。うしなったひとも、うしなってないひとも、あるいて、いる。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
ほんをよむちからがなんにもなくなったときに、ムーミン『彗星がふってくる日』なら読めるかなあとふるえるてで読んでいた(手がふるえると手がふえてみえる)。世界の終わりに読める本だし、タイトルですでにネタバレしてあるのが心的外傷が少なくてよいし、コミックなので童心に帰りはらばいになって星の壊滅的な話を読めるのもいい。人生のピンチを切り抜けたときに割れた眼鏡をかけ直してぜひ使いたい、私の好きなムーミンのことばを最後に引いておこう。「まだぼくら生きてるよ…しかも無傷で!」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
コロナで家にいろと何度も言われたが、家を守れ、ひとの家を守れ、友だちの家だ、友だちはボートに乗っていなくなった、でも時々帰ってくる、秘密があるようだ、友だちは掛け軸からやって来て時々かなしい顔をしている、いさぎよい顔をしているときもある、私もいつか向こう側にゆくだろうか、でも私は今はこの家をまもる、私はものを書いています、わたしはあなたがたと出会って別れ、少しの誇りとやさしさをもちました。それがこの家守綺譚なのではないか。このほん、最後にやさしさがやってくる。コロナを過ぎてオズ大王が私たちにくれたやつ。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
こないだ「みんなきっと追放者なんですよね」という手紙を貰った。ブローティガンのことを思い出した。「あのとき、ぼくはどうしてハンバーガーを買わず、銃弾を買ってしまったのだろう?」 ハンバーガーと銃弾がつながるのってブローティガンっぽいなと思う。彼はほかの作品でもいろんなものをくっつけていった。西瓜鱒油とか。くっついてはわかれる不思議な生の流れを光るようにうねるようにブローティガンは描く。いつ終わってもいいようにちいさいものをつづけておおきくしていった。好きなところから読み好きなところで終えお家に帰ろう。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
絶望したときにとりあえず持って外に出かける本。ぼろぼろになっている。カーヴァーの小説は「人はそれでもなお生きていくんだ」ということがテーマになっている。どこかに置き去りにされたり、真剣に自分の死について考える夜があるだろう。でも理由もなく、とほうもなく、生きてゆかねばならない。そこになにかのまだ誰にもわからないひみつがあるから。まいにちを希望も絶望もなくちょっとずつ生きていく。未来のために。「やがて僕らはさよならを言わなくてならなかった。でも、そこまで会いに行って、本当に良かったと思っているんだよ、サム」
が「ナイス!」と言っています。
あなた
朝四時くらい、くらい部屋いっぱいのベッドのうえで、もうふの中の役人から、ほんとうにちょっとしたことで望みがかなうばあいがあるんです、という話をK.が聞くシーンがある。あなたはわからないかもしれないが、ほんとうにとつぜん、ちょっとしたことでとつぜんかなうんです、と。K.はベッドのはしっこでほぼ眠りながらそれを聞いている。うるさいなあと少し思いながら。ゆれながら。『城』のおもしろさは、「寝室」にあるようなきがする。寝室でみんな意外とはなしあうでしょう、と。おおきくてすばやいこのせかいのことについて。
が「ナイス!」と言っています。
あなた
この愉快でかなしいほんの中の章のタイトル「わたしは答えるのがおそい」をよく大事なときに思い出す。ヴォネガットはいろんな形で愛の不思議のようなものを教えてくれる。世界の終わりにあなたの前でやっといえたことば、くるまのなかで思いがけず顔をおおって泣いたときなんかに。でも「わたしは答えるのがおそい」。いつも、大事なときもそうでないときも。ロラン・バルトは「いつも私は早くからねむった」という短文を書いたことがある。答えはおわりのほうにある。
が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2009/06/28(4543日経過)
記録初日
2009/06/28(4543日経過)
読んだ本
1144冊(1日平均0.25冊)
読んだページ
334449ページ(1日平均73ページ)
感想・レビュー
1070件(投稿率93.5%)
本棚
4棚
血液型
B型
職業
クリエイター系
URL/ブログ
http://twitter.com/anata_omaeda
自己紹介

ときどき、この星でしっぱいすることがあります。

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