「共感」できることが、生きている実感であり、幸せなんだと思っています。ここでは、共感や共有できる方と出会えて嬉しいです。
自己紹介的なもの
Ⅰ
己の欲する所に従えども矩を踰えず、そんな自由な心で生きられたらどんなに幸せだろう。自由といっても幼子の様に好き勝手したいという訳ではない。libertyは悪くないが、政治臭が合わない。自然法爾、融通無碍というが理想に近い。自由へ
の第一歩として、まずはあらゆる執着が不自由の源と理解し、時間空間を超えた視点から自分を俯瞰的に見て、再びまた俗に還ってくる一連の過程を大事にしたい。俗に還るのは馴れ合いのためではない。身体性を忘れないためである。肉体は私を縛るものであると同時に私の存在根拠である。無数の因果を経て固有の遺伝的背景を託され、周囲環境の影響を受けながら成長した結果として今があり、今後も内外のやり取りー呼吸循環消化排泄ーを続けていかなければこの肉体は保ち得ない。むしろ私という現象は、そうしたエネルギーの流動過程で一過性に生じている出来事それ自体である。
Ⅱ
人は掴み所のない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人は曖昧模糊とした世界を切り取って言葉を当てがい、理解し確かめ合う。存在は命名により励起する。言葉は世界への働きかけである。無意識の意識化である。言葉の用い方は世界の見方・切り取り方であり、そこに人となりが顕れる。それら無数の重ね合わせで時代や社会の空気が醸成され、個に還ってくる。言葉の流れは双方向的である。
Ⅲ
何か手近にあるものを借りてきて利用して、破綻したらまた近くの別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応を繰り返して進化してきた。進化とは変化である。無常という事である。そんな歴史の記憶が刻まれた幾兆の細胞が人体を構成し、細胞間のコミュニケーションがこの動的複雑系を成立させている。免疫細胞は自他の弁別を司り、幾百億のこれらが血流リンパ流を介し常時くまなく巡回し続ける事で、個が全体として保たれ続けている。抗体はランダム性を内包し、あらゆる外部世界を想定し準備している。自他の境界は厳密ではなく、状況に応じて揺れ動くものである。免疫が弱ければ内憂外患に対応できないが、無害なものに反応してはアレルギーを生じ、過剰になれば自己免疫疾患を病む。細胞の事はどうにもならぬが、全体を統括する身体のあり方からして状況に応じた柔軟なバランス感覚が必要で、柔よく剛を制すというのはこの普遍的真理を会得する事である。肉体を預かるこの現身としては、時と場と前後の文脈を読み、今なすべき事を当然の事として自然体で行う事を理想の境地としたい。
Ⅳ
法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右され移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかし、思い込みや勘違い、時に悪意が紛れ込む事を免れない。平素の私の言動は、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に、自分でもよくわからぬままに同調したり忖度したりした結果である事を否定できない。多くの場合、私は私という役割を無難に演じているが、そこに関係性の力学は見出せても、行為する主体の輪郭を明確にする事はできない。人間の自由意志とは一体何なのだろう。私が私であるというのはただの思い込みに過ぎず、確かな実体などないのではないか。
Ⅴ
私は私自身をうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を持つと決める事で、初めて人は社会の参加者となれる。社会において主体の言動に価値があるかどうかは、正しいか間違いかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力で決まるのだ。近代社会は個々人に説明責任を要求する社会である。近代的価値観の中に生きる人間は、自分の言動を神や太陽や空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持たなければならない。これは近代社会が勝手に敷いたルールではあるが、社会において現在最高神の地位にあるのはこのルールなのだ。法に規約に契約に、微に入り細に渡るルールの言語化制度化は、近代叡智の結晶であり、現代人もこれに敬意を払って生きなければならない。これは「社会は言語によって成り立つ」という強力な仮定から演繹された、人の行動原理に関する神学的解釈である。近代的個人は無意識に言語の万能性を信じている。そしてその信仰ゆえに苦しみ疲弊している。
Ⅵ
近代的個人を、啓蒙時代以降の「神を離れて理性的価値観を信奉している個人」と定義する。近代的個人の出発点には、デカルト的な我、即ち主体の実在への揺るぎない確信がある。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度をムダなく上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のお陰で、飢餓や感染症といった、嘗ては人の生活のすぐそばにあった不条理の多くは克服されるようになった。機械文明の発達で肉体的労苦も軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという点においては、対象世界の科学的合理的把握という方法が有効であった事は間違いない。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に実現可能レベルの夢を語り資金を集め、富を増やし分配する資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=貨幣と数字(利子)に割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。科学と資本主義がほどよく咬み合って今日の近代社会が築かれてきたのである。だがこの歯車は、一度動き始めると誰にも止められない怪物でもあった。
Ⅶ
現代文明は肉体的には快適である。しかし皆どこか生き辛さを抱えている。現代社会に蔓延るこの漠然とした不安の源は何なのだろう。私はこの難題を考えるにあたってはまず、デカルト的な我に帰る必要があると感じている。主体の実在ほど疑わしいものはない。にも関わらず、それを「ある」と盲信している所が近代の不幸なのではないか。主体と客体は本来同じものであって、単なる概念でしかない。それも、その方が整理しやすいという理由で便宜的に分けられたに過ぎない。近代以降の人間(以下、近代人)はその事をどこかにほっぽらかして忘れてしまい、まるで両者が別々のもの、しかも実在であるかのように取り扱ってきた。私はこれが過ちで詭弁で自己欺瞞であったと考え直したい。
Ⅷ
近代的個人は、神を捨てた代わりに心身二元論を奉じるようになった。その数多ある弊害の中で最も忌まわしいものがニヒリズムだと思う。近代人は主体と客体が別々のものだという思い込みがある為に、両者が一致する事がない。その結果自らが作り出した概念、錯覚に溺れやすくなっている。肥大した主体はやたらと他人の目を気にして承認欲求を満たしたがる一方で(臆病な自尊心)、簡単に客体に飲み込まれ少しの失敗少しの批判で立ち直れなくなるほど傷ついてしまう(尊大な羞恥心)。被害妄想を拗らせ陰謀論に傾きやすくなっている。心身の乖離に耐えられず美容整形に走る。とかく主客のバランスが悪いのが近代人である。合理的選択が賢いと信じるあまり、結婚や子育て、教育、葬式に至るまで何でもかんでも合理化してしまい、自分が人生で何がしたいのか、何を大切にしたいのかわからなくなっている。私達はコスパタイパと言いながら面倒を避け、ゲームやネットの中でちっぽけな自尊心を満たすうちに残酷に時が流れ、ただ老体が朽ちゆくのを眺めるばかりの人生になってはいないか。そしてそういう自他の人生を蔑み嗤っていないか。毎日炊事洗濯をして、家族ご近所同僚上司取引先とうまく付き合いをして、人生とは面倒なものである。だがちょっと待て。私が私の人生を面倒だと思うとはどういう事だ。例えば、たまった家事をこなしながら、それを面倒と感じているのが私なのか?それとも、既に今ここ、目の前でやっている家事作業という出来事そのものが私なのか?主客合一の観点からすれば、これはどちらも私なのであって、言語が主客を便宜的に分け、自意識という錯覚を生み出しているに過ぎない。cogitoとは、私という出来事に関する言語的解釈である。cogitoだけが私に他ならないと錯覚して生きるという事は、取りも直さず、その言語を生み出した社会的・歴史的・宗教的・文化的背景や文脈だけに縛られて生きるという事である。私が求める自由とは、その呪縛からの解放である。
Ⅸ
自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。現代社会は、合理的思考(少数の物差しで対象を捉え、それで真理を把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度)を持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、時の止まった死物(ただの原子分子の塊でありデータであり金づるである)と見て自他の限界を狭めているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引き籠りや少子化の根本病理をここに見る。原始時代に還ればよいなどと言うつもりはない。合理の行き過ぎは結果的に自らを不自由にするという事が言いたいのだ。私は、近代の行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語ろうとする姿勢を持ち続けること、同時に言葉の限界を自覚することー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。
X
私はどうして、どのようにしていまここにあるのか。最も良質な科学とは、その問いに真摯に向き合うものであろう。宇宙開闢から考えてみる。初期宇宙の自由に動き回る素粒子の系は、膨張と共に温度が下がり、原子核中性子電子の系へと変化した。ゆらぎ、自己相似、対称性の破れ、エントロピーの増大、関係性の力学といった大原則が今もこの宇宙を支配しているのは、宇宙がこの様な出自だからだ。原子は分子となり宇宙空間に縞模様みたいな疎密が生じ、密な部分には星ができ、星の内部の核融合で金属などの重い原子ができ、星の寿命と共に爆発してばら撒かれ、その星屑同士がぶつかり合ってまた新たな系が生じ、そういう離散集合を繰り返す系の中にやがて太陽系ができ、中心の恒星から数えた3番目の惑星に生命が誕生した。
Ⅺ
境界があり、代謝を行い、自己複製する系。それが今日における生命の暫定的定義である。地球生命初期の創発として現在に至る道筋を拓いたのは光合成だろう。葉緑体と共生したシアノバクテリアが増殖し、地球は緑の星となった。長い年月と共に緑の星は酸素の星になりオゾン層を形成し、生命の陸上進出の条件を整えた。嫌気環境から誕生した原始生命にとって、反応性の高い酸素は猛毒であったが、生命はやがてこれを転用する術を身につける。ミトコンドリアの共生による酸素を利用したエネルギー代謝、呼吸の獲得である。発酵ではグルコース1分子から2ATPしか獲得できなかったのが、呼吸で38ATPを獲得できるようになった。この大規模なエネルギー代謝系によって、多数の細胞が協力連携する巨大な系;多細胞生物が誕生した。
Ⅻ
多細胞生物はさらに、性を創発した。即ち体細胞系列と生殖細胞系列を切り離したのである。これにより個体の寿命という概念が生まれた。寿命が生じたというのは一回限りという事である。その場その時代におけるオリジナルという事である。体細胞も生殖細胞もDNAが一緒くたになっている単細胞生物には、寿命という概念がない。遺伝的に均一なら(表現型のゆらぎはあるにせよ)自他の区別もない。性の誕生は寿命及びオリジナリティの誕生と同根であり、原初の自意識も、ここに起源があるのではないか。
XⅢ
次の創発は社会である。原初的な社会・群れを、我々はアリやハチ、あるいは魚において眺めることができる。個体に多少のオリジナリティはあるし、群れへの忠誠、利他行動と一見思えるものも観察できる。だが彼らに人間的な意味での自意識があるかというとそれは違うだろう。群れや巣というのは、遺伝子存続のために分散型の共生をしているだけであって、これだけでは人間的な意味での自意識が芽生える必然性が足りない。「私」に直接連なる自意識誕生のために必要なもう一つの条件。それは哺乳だったのではないか。
XⅣ
哺乳類の仔は弱い状態で産まれてくる。母親には乳を与え仔を育てる使命がある。小さい仔をかわいい(ちいかわ)と思うのも愛情を持って育てるのも、哺乳類には自明の事である。他者・かよわい弱者への思いやり。これが哺乳類の、虫や魚の群れと決定的に違うところだ。父も思いやりという想像力が必要だ。餌を取り敵と戦い、母子を守る事が、雄に与えられた生物学的責務である。群れを作りそれを強力なリーダーが率いて互いに助け合えば、その目的はさらに達成されやすくなる。すると群れのそれぞれの個体には役割自覚が芽生える。仔を育てるという自然の掟が群れという社会性と結びつく時、人間的な意味での自意識が芽生えるのではないか。他を思いやる想像力こそ自意識誕生の必要条件であり、自己意識は他者関係から反照的に構成されるのだ。性の誕生により、一回性の限りある体細胞系列(自)の幸せと、遺伝子の存続という生殖細胞系列(他)の幸せとが分離した。元来、生殖後に個体は死ぬ運命にあったが、哺乳類は育児の必要からすぐには死ななくなった。群れという社会性が個体の寿命をさらに延長した。その結果、個体内部で完結していた自他の分離が、個体の外部、社会的な場面でもありありと意識されるようになった。自意識が性や死の衝動、社会的立場と分かち難く結びついているのは、こうした事情があるからではないか。発声に特化した人体の構造的特徴は言語を生み、人が語る自意識は、やがて文学とか思想とか言われる様になった。
XⅤ
砂時計を考える。上半分と下半分が交叉する部分で、今この瞬間に流れ落ちている砂粒が私である。砂粒は自らの意思で落ちているように錯覚しているかもしれないが、実際には膨大な歴史の重みを一身に受けて、下へ下へと押し流されているのである。これまでの試論は、今この砂粒(身体)に至るまでの、生命に刻まれた歴史の古層を探るための考察であった。ここからは一気にスケールを縮め、日本の歴史と私という事について考えてみたい。くびれの部分のほんの上層にかかる圧力、私を落下点にまで押し出したその直接の力を知るための考察である。
XⅥ
日本の黎明期には稲作があった。集落を束ね、祀る存在として豪族がいて、天皇が、この豊葦原瑞穂国を纏め上げた(という事になっている)。いかにフィクションとはいえ、国づくり神話に始まり万世一系の天皇が日本の歴史を貫いていて、現在も全国津々浦々に坐す無数の神々を祀る神社がそれぞれの地域や自然と共に鎮座している。まず日本とはそういう国なのだ。それから仏教である。6世紀に伝来したとされる仏教に天皇家も帰依し、やはり全国津々浦々、寺院のない土地はない。日本人は死んだら仏様になるというフィクションの中で生きてきた。このインド発祥の教えは東洋の中の日本という事を思い起こさせる。諸行無常で諸法無我という感覚は日本人の無意識の中にあり、やたらめったら自己主張するのは愚かと教わる。人は何も特別な存在ではなく、山川草木悉有仏性という考えが広く共有されている。
XⅦ
現在に近いメンタリティとなったのは江戸時代以降であろう。はじめに禁教と鎖国があり、幕府が奨励した朱子学、儒教的価値観が日本人を縛り、その代わりに秩序と安定がもたらされた。この時代に武士は人の理想として観念化した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」この死の美学は、赤穂浪士の討ち入り事件によってさらに神格化され一般にも流布し、大義のために死ぬ事が日本男児の誉れとなった。元禄にもなると大義のために死ぬなどというのは稀有な事であり、稀有だからこそ神格化されたのだ。こうして二六○年の長きに渡り世界史上稀な天下泰平の眠りを貪っていた事は、今も日本人を特殊な民族たらしめている。だが幕末に入り西欧文明の圧倒的な力と邂逅し、その安定がゆらぐ。そして恐らく、この頃の思想的危機が現在にも尾を引いており、この国にぼんやりとした不安をもたらし続けている。幕末の危機は、遡ること百年前、家康の孫であるにも関わらず副将軍にしかなれない水戸光圀公が抱えていた、自己および徳川権力の正統性を巡る不安と共鳴し、尊皇攘夷思想として開花した。尊攘という大義を見つけた死に狂いの武士道は、幕府と武士自身を滅ぼしたのみならず、富国強兵の原動力にもなり戦陣訓へと受け継がれ、あの無謀な戦争を経てその理想主義と共に玉砕した。こうして天皇陛下は人となり(別な見方をすれば人となることを許され)、国体という抜け殻だけが辛うじて残された。
XⅧ
日本人であるという感覚は天皇との関係から醸成されるのではないか。都に対する私(鄙)、祖先に対する私(今)、「私」をこの国に位置付けるものの根源こそ天皇である。それには古事記に記され本居宣長が理論化したような、ウシハくのではなくシラすという天皇の統治形態が絶妙な理論装置となっているのではないか。天皇は秩序の中心ではあるが、意思を示したり行動したりする事はない空虚なシニフィアンである。文脈によって祖先にも国土にも、産土神にもなる。敬語を軸とする日本語は上御一人を頂点とする否定神学的構造となっており、言葉が正しく運用されている事それ自体が社会秩序をもたらしているのである。一方で、そうした構造が、日本語話者を近代的主体として自立させることを困難にしているのではないかという思いもする。近代化と共に今なお日本人にぼんやりとした不安を与え続けている何かの源流を辿ると、こうした言語的、宗教的葛藤に行き着くのではないか。國體ないし国体とは、究極的には、そうした日本人の精神構造そのものを指す言葉なのではないか。このシステムは社会に秩序と安定をもたらす一方で、内部から変革する力を持たず、常に外圧によってしか変わることができない構造上の問題も抱えているのではないか。内村鑑三のように二つのJという立場もあり得たわけだが、教育勅語奉読拒否事件でその危うさが露呈したように、このシステムの中では、強い個人主義と国体とを並列させるのは困難である。天皇制とは、日本語という否定的言語構造が、歴史と政治の中で結晶化した制度である。あるいは、日本において、神は言語として生きている。だから古来皇室は歌を詠み、民との関係を織り込み、神聖なものとして奉納してきたのではないか。この辺は類書を読みながら今後も深く考えていきたい。
XⅨ
戦後、国防は外部委託される事になった。冷戦構造の中、反共核戦略の砦として、米国の不沈空母として、資本主義の見本市としての役割を担わされた戦後日本において、武士道的倫理は会社への滅私奉公に変質し、家庭も顧みずただがむしゃらに働くモーレツ社員は、エコノミックアニマルと呼ばれる様になった。安田講堂、市ヶ谷、あさま山荘の一連の事件が思想史における大きな物語の終焉を告げ、日中国交正常化と引き換えに田中角栄が葬られた後、戦後日本はロンヤス体制の下で集大成の輝きを放つに至った。駅のホームには吸殻が大量に落ちていて、新幹線はタバコの煙が蔓延していた。野菜は青臭く、トイレは陰翳礼讃の便所だった。暴力団、闇金、総会屋、エセ同和、カルト宗教、悪徳代議士、悪徳事務所が幅をきかせ、闇社会と表社会が渾然一体となっていた。新聞TVには広告を通じて大金が集まり、文化と世論を支配していた。日本人は未だ欧米コンプが抜けきれず、彼ら彼女らの容姿や生活スタイルに憧れ、胴長短足で狭小住宅に住む自分達を恥じていた。男は汗とタバコと整髪料の入り混じったにおいを放ち、虚勢を張って生きていた。女は化粧臭いか所帯染みてるかのどちらかだった。そんな拝金と義理人情が入り混じった時代に私は生まれ育った。小学校に上がり物心がついた頃にソ連が崩壊しバブルが崩壊した。
XX
バブル崩壊とは、戦後の政官財が癒着した護送船団方式の崩壊であり、冷戦終結と共に訪れたグローバル資本主義(世界のアメリカ化)への接続の為に必要な試練であった。試練の中で阪神大震災とオウムのテロが追い討ちをかけ、キレる少年事件が紙面を賑わせ、数々の倒産劇があった。大人達が自信を失い、正しさがわからなくなり、倫理が崩壊していくのを感じた。街はサラ金の看板やピンクチラシで埋め尽くされ殺伐としていた。そんな中で青春を過ごした私は、どこか大人達を軽蔑していた。全てを斜めから見る癖がついてしまった私は、信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論に傾くようになった。文学や哲学は愚痴や屁理屈を並べている様にしか見えず敬遠していた。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で、人の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えている虚無的な若者だった。健康に恵まれながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困の必然的成行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕う事ばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合する事しかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。私の二十代はそれだけで終わってしまった。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。三十代の私は虚無からの脱却を求め仏教や科学哲学に傾倒しながら彷徨っていた。彷徨い続けるうちに気づけば不惑が迫っていた。
XⅪ
私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。そして、ここで自己の内に生じた感覚を言語化し他者の視点を学ぶうちに、自分の理想や大切にしたいものの輪郭が、朧げながらわかるようになってきた。私という自意識が、いつも存在にまつわる不安を抱えており、存在の前提や根拠を確かめたがる習性がある事を自覚した。四十にしてようやく私は言葉を大事にする事を覚え始めた。そのうちに、どうも明瞭簡潔を求める近代の在り方が、私の特異性を毀損しているのではないかという思いが芽生え出した。何でも検索しわかったような気になってしまうネットの時代においては、人生も同様に薄っぺらく感じられる様になっているのではないか。文学はこのばかばかしさに抵抗できる唯一の試みなのではないか。
人の言葉というのは究極的には自己言及である。それはそもそも宇宙の成り立ちが自己言及的で、時空が無限の自己相似であることに因るのかもしれない。初めに言葉ありきと聖書に書かれたがため西洋はその様に発展し、言語に基く価値観がこの世界を覆っているのかもしれない。しかし東洋では、肉体を離れて言葉はない事を古くから重要視してきたのである。東洋人たる私は、近代のコード的言語観を利用しながらも、それにどこか違和感を抱えて生活している。私という肉体の現象は、今この瞬間も言語とは無関係に生じている。私はそれをあの四十七字の詩の中で眺め、追認する。祖先の歴史や国土の自然、その理想的象徴たる天皇の雅への憧憬を抱きながら。幕末以降のほろ苦い歴史の記憶もそこに重ねながら。きっとここには、そんな私の堂々巡りの自己言及が刻まれていく事だろう。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならぬ
有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせす
ん
基本的には『ガープの世界』の掃除婦のように、「次がどうなるか」知りたくて読んでます。
趣味は、読書と映画鑑賞と旅行です。
ミステリーが小学生の頃からずっと好きです。映画も大好きです。映画館で観るのが好きですが、土日は家でも観ます。読んだ本が映画化されたものは、ほとんど観ています。旅行は年に2回くらいしかできませんが、死ぬまでに全都道府県行き
たいと思っています。
同じような本の傾向の人を読んでいる方をメインにお気に入りに登録させていただいています。また、正直な感想を書いていらっしゃる方の意見も参考にさせてもらっています。皆さんの読後の感想が素晴らしく、リスペクトしています。
ミステリー以外にも、読むようにしています。
よろしくお願いします。
【読書履歴】
社会人1年目:進化心理学
修士1年:教育学や世界史関係、古典(学問)
修士2年:教育社会学
学部1年:小説読んでた。平均月2冊くらい?
学部2年:新書や宮台真司先生の著書
学部3年:社会学を中心に読む
学部4年:教育社会学や古典文学
マイペースに読んでます
行ってみたいところは行った。
他にやりたいことはない。
気が向いたら本を読む。
あとは、惰性で過ごして死ぬ。
このアプリの中で、色々な人が読んだ本についても興味を持って今後読んでいきたいなと思います
HNは易の風地観から取りました。
ファンタジーと、医療ものと、心のことを書いたものと、人としてのあり方を書いたものが好き。脳のことを書いたものもついつい手を出してます。
偉人では割と伊能忠敬好き。
FGOでサーヴァントになったらきっと課金するくらいに好き
。
無人島に持って行くとしたら、モンテクリスト伯、とずっと言い続けてきたけれど、鹿の王も持って行くかも。
最近は伊与原新さん、万城目学さん、米澤穂信さんの作品をぐるぐる回ってることが多いです。
途中で挫折することもあるけれど、ブルーバックスも定期的に手を出します。
足摺と富山と沖永良部と宮津が大好きです。
※ 遅読なので更新は地味目です。よろしくお願いします。
読書メーターには、本(自分が読みたいと思う)の情報を得たくて登録しました。読書管理にも便利なのでこれからも使っていこうかと。登録してから読書感想文の難しさを数十年振りに体感してます 苦笑。
読書大好き、ただ月に5冊前後読むのが精一杯なので、面白い本に効率
良く出逢える方法が無いかなぁ、と、いつも考えています。本屋さんに行くとあれもこれも買ってしまい、いたずらに積読本を増やしてしまうので。
あらゆるジャンルの本を読みますが、推理系、歴史系に偏りがちな今日この頃です。
さされませんようにぼくはいのった
せんせいやともだちのわらいごえはきこえなかった
とうめいになりたかった
画像は、道に落ちたが為に蟻に群がられた、飴。
基本はミステリーを中心に読んでいます。
本格ミステリーが大好きですが、ほんわかした温かい物語や旅の本も時々読みます。
好きな作家は、基本は松本清張、横溝正史、北村薫、高村薫、山崎豊子、三浦綾子、高村薫、角田光代、横山秀夫、桐野夏生、道尾秀介、米澤穂信、エラ
リー クイーン、アガサクリスティーなどです。
最近はミステリーだけでなく、本屋大賞ノミネート作品や、読メの方々からの情報を得て新しい本も読むようにしています。
読書メーターを知ってから読書の幅や情報が増えて嬉しいです。特に、お気に入りの方のおすすめ本は、かなりの確率で面白いので読むようにしています。
映画も大好きで、洋画邦画たくさん観ています。特に、読んだ本が映画化された時はほぼ必ず観ています。
図書館派。ここは備忘録として始めました。
読んだことを忘れないために、拙いですがレビューを書くようにしています。
レビューに激しく共感した時、お気に入り登録させてもらってます。
お気に入り登録や解除はご自由にどうぞ(^_^)/
ミステリ好き。たまに感想も書きます。
◇好きな作家:若竹七海/小林泰三/原尞/宮部みゆき/麻耶雄嵩/山口雅也/新津きよみ/今邑彩/曽根圭介/白井智之/津村記久子
◇お気に入りの本:
若竹七海『悪いうさぎ』『ぼくのミステリな日常』
小林泰三『記憶破断者』
中島らも『ガダラの豚』
今邑彩『いつもの朝に』
西澤保彦『七回死んだ男』
宮部みゆき『模倣犯』
松浦理英子『親指Pの修業時代』
貴志祐介『悪の教典』
澤村伊智『ぼぎわんが、来る』
津村記久子『水車小屋のネネ』
最近上記のURLの掲示板への書き込みはお休みしています。
現在は読書メーター参加以前に読んだ本の感想を思い出しながら、登録中。
一ヶ月、最低10冊読破を目指していますが、現状は厳しいですす。
読書の管理、備忘録に記録を始めました。
本を読むペースはとっても遅め。
メモを取りながらマイペースに読んでいます。
趣味は、語学学習、トレーニング、ロードバイク。
1日30分の読書と瞑想が日課で、心のトレーニング(だと思い込んでます)
好きな本のジャンルは
ミステリーですが、
ジャンルを問わず、気になった物は何でも手を出す雑食です。
根っからの理系脳ですが、大人になってから学び直す文系科目(語学・歴史・社会)に喜びを感じています。
気に入った作品は読み終わりたくなくて、終盤でペースが更に落ちます。
読み終わった後に所感を書くことで、内容を掘り下げて理解できる…ような気がしてます。
みなさんの感想、楽しく拝読しています!!
(2020.10.15更新)
今村昌弘さんの『屍人荘の殺人』をきっかけに、現在僕の人生における“第3次ミステリーブーム”真っ只中です📕
(第1次・2次は、主にS.S.ヴァン・ダイン、E.クイーン、A.クリスティ、内田康夫作品)
今回は、文藝春秋『東西ミステ
リーベスト100』(2012年版)&『有栖川有栖の密室大図鑑』などを参考に、国内外のミステリー作品(&ミステリー系コミック)を広く深く読み進めていきたいですね😊
ちなみに…吹奏楽部出身(打楽器)で、長年アマチュア吹奏楽団&オーケストラで演奏活動をしておりました🎵
登録1冊目:今村昌弘『屍人荘の殺人』(19.1.23)
50冊目:綾辻行人『迷路館の殺人』(20.5.9)
100冊目:宇佐美まこと『るんびにの子供』(20.9.29)
150冊目:知念実希人『仮面病棟』(21.1.22)
200冊目:石持浅海『扉は閉ざされたまま』(21.6.1)
250冊目:犬飼ねこそぎ『密室は御手の中』(21.10.14)
300冊目:服部まゆみ『この闇と光』(22.4.7)
350冊目:北山猛邦『月灯館殺人事件』(22.9.30)
400冊目:鴨崎暖炉『密室狂乱時代の殺人』(23.2.12)
450冊目:麻耶雄嵩『隻眼の少女』(23.5.27)
500冊目:今村昌弘『でぃすぺる』(23.11.1)
550冊目:ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』(24.7.9)
600冊目:カー『火刑法廷』(25.5.10)
現時点でのコンプリート作家(単著):早坂吝、青崎有吾、今村昌弘
今までこつこつエクセル使って読書感想文を書いていたので読んだ本の管理もできて便利!と思って読書メーターはじめました。ナイスやお気に入り登録ありがとうございます。周りにはあまりいないけれどここは読書好きな方が集まっていて嬉しいです。
基本的にこだわりはないけど、ミステリー、文学が多いです。恋愛小説は全然読みませんヾ(。゜▽゜)ノ
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