旅と酒場と本に夢中。
大好きなのは、週刊文春に連載していた伊集院静の「二日酔い主義」のエッセイ。
四十路 後半戦。
レビューってなんだろう。
感想、あらすじの紹介?
わたし自身、新聞や週刊誌、とくに週刊文春のレビューで育ちました。
わたしがそうであっ
たように、
レビューを読み、誰かが本に触れてくれることが至福です。
紙の本が減っていく今、
わたしは紙の本がなくなって欲しくありません。
そんなレビューを書きたいです。
たまに変化球みたいなレビューも書きますが、
ご愛嬌で 笑。
訪問ありがとうございます。
短編小説【ジャンル:SF】
『量子の彼方で眠るもの』
第一章 シュレディンガーの囁き
僕が彼女と出会ったのは、五次元通信の実験室だった。
深夜の研究棟は、巨大な墓標のように静まり返っていた。
唯一の住人である冷却装置だけが、重苦しい低音を唸らせ、凍
てつく空気を吐き出している。
机の上では、量子ビットの状態を示すモニターが、死者の脈動のような淡い光を放っていた。
僕の夢は、宇宙の観測問題を解き明かすことだった。
「観測」とは何か。
なぜ世界は、誰かに見られることで初めて「確定」するのか。
その謎の輪郭を掴むことができれば、この宇宙の仕組みは半分、僕らの手に落ちる。
——物理なんて、現実の役には立たない。
父が吐き捨てた言葉だった。
心の底には、今も澱のように沈んでいる。
あの時の焼けつくような悔しさ。それを消し去るために、僕は証明したかった。僕らが見ているこの世界の、真実の肌触りを。
もしこの実験が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。
崖っぷちの絶望に背中を押されながら、僕は装置の前に立ち続けていた。
机の端には、妹から贈られた古い万年筆が転がっている。試験に合格した日の、誇らしげな彼女の笑顔。それを守り刀のように見つめるたび、僕は自分がここまで歩んできた理由を、かろうじて繋ぎ止めることができた。
そのときだった。
「この宇宙は、無限に分岐している」
背後から届いた声は、静かだが、鼓膜に直接刻まれるような透明感を持っていた。
振り向くと、そこに彼女がいた。
白衣を羽織った、見知らぬ女性。
実験室の無機質な白い光を吸い込んで、彼女の長い黒髪が夜の淵のように揺れている。
「観測という引き金を引くたびに、世界は枝分かれしていく。私たちは、数え切れないほどの可能性という枝の、その中の一本をなぞっているだけに過ぎない」
彼女の微笑みは、ひどく懐かしく、そして脊髄が凍るほどに恐ろしかった。
「君は……誰だ?」
掠れた声で問う僕に、彼女はあどけなく首をかしげて見せた。
「アマリリス・シュレディンガー」
冗談のような名前だった。
けれど、彼女の瞳は冗談を拒絶するほどに静謐で、底知れない。
その双眸には、宇宙の奥行きそのものが、濃密な闇となって封じ込められていた。
僕の名は相澤凛久。
二十五歳。大学で理論物理を学びながら、量子情報転送の研究をしている。
量子重ね合わせ、多世界解釈、観測問題……。
理論なら、人並み以上に血肉化してきた自負があった。
けれど、目の前の彼女という「現象」は、僕の積み上げてきた知性を、いとも容易く蹂躙していく。
「君は……どこから来たんだ?」
震える指先で問う。
彼女は、ただ優しく、残酷に笑った。
「私は、ここにいるし、いないわ」
その声は不思議だった。確かに鼓膜を震わせているのに、物理的な距離など意味をなさない、遥か彼方から届くような響きがある。
「この世界はね」
彼女は静謐な足取りで研究室を歩き、冷たい実験装置の金属に指先を触れた。
「あなたたちが確信しているほど、堅牢なものじゃないの」
モニターに表示された量子状態のグラフが、ふっと幽かに揺れた気がした。
「世界は観測によって形を定義される。観測者がいなければ、宇宙はただの不確定な可能性に過ぎない」
彼女がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、僕は息を呑んで硬直した。
彼女の瞳の奥、黒の深淵に、無数の光がまたたいていたからだ。
散りばめられた星のようでもあり、素粒子の軌跡のようにも見える、名もなき光の群れ。
「あなたはもう、観測者じゃない」
心臓が強く跳ねた。
観測者じゃない?
それはどういう意味だ。
視界が、ずれる。
机の位置。
モニターの冷たい光。
彼女の立ち方。
すべてが、決定的な違和感を持って配置し直されていた。
僕は机をつかもうとした。
だが——
指が、空を切り、デスクをすり抜けた。
「どうして……」
声が震える。
アマリリスは静かに言った。
「あなたはもう、観測する側ではないから」
背筋に氷のようなものが走る。
「あなたは、“観測される側”になった。この宇宙における、一つの現象へと堕ちたのよ」
そのとき。
視界の端で、何かが動いた。
研究室の廊下。ガラス越しに、誰かが歩いている。
——僕だ。
廊下の向こうから、僕ではないもう一人の僕が歩いてきた。
その瞬間、僕は理解した。
ここは、僕が知っている宇宙じゃない。
アマリリスが囁く。
「ようこそ、分岐点へ」
第二章 量子幽霊
目の前のアマリリスの姿が、不意に陽炎のように揺れた。
空気に溶け出すように輪郭がぼやけ、まるで存在がまだ確定していない量子のように揺らいでいる。
僕は息をのんだ。
「……僕が、観測者じゃない。どういう意味だ」
彼女は静かに僕を見つめた。その瞳は深く、どこまでも落ちていきそうなほど暗い。
「あなたはもう、この宇宙の“基底状態”には存在していないの」
言葉の意味がすぐには脳に届かない。
僕は動揺しながら自分の手を見た。そこにあるはずの肉体。けれど、何かがおかしい。決定的な何かが欠落している。
重さがない。
空気に触れているはずの皮膚感覚が、恐ろしいほどに薄い。
自分の身体が、世界から半歩だけ位相をずらされている。
そんな奇妙な感覚だった。
「これは……」
恐る恐る、僕は机の表面に指を伸ばした。
指先は確かに机に届いた。だが、届いたという物理的な実感が、脳に伝わってこない。
凍りつく僕を前に、アマリリスは落ち着いた声で告げた。
「あなたは今、存在と非存在の狭間にいる」
まるで日常の風景を語るかのように、その声は冷静だった。
「そんなはずない!」
思わず声が荒くなる。
「僕はここにいる。見えているだろう?」
その瞬間だった。
彼女がゆっくりと手をかざす。
直後、僕の腕の一部が、ふっと透けた。
光の中で分子がほどけていくように、輪郭が霧散する。心臓が跳ねた。
「……なにしてる、アマリリス」
声が震えた。
自分の腕を見つめる。肉体という実体を失い、陽炎のように揺らぐ異物。
「……僕、消えるのか?」
アマリリスは首を横に振った。
「違うわ」
彼女は静かに、決定的な一言を口にした。
「あなたは幽霊になったわけじゃない。……あなたは、“観測される側”になったの」
意味が理解できない。
ただ彼女の深い瞳を見つめることしかできなかった。
彼女は、僕の理解が追いつくのを待つように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「これまでのあなたは、世界を見ていた」
「観測者として、あなたは宇宙を外側から俯瞰する立場だった」
アマリリスは言葉を続ける。
「でも、今は違う」
彼女が一歩、僕との距離を詰める。その気配が、ひどく現実離れして感じられた。
「あなたは今、宇宙の中に取り込まれた。ただの『現象』になったのよ」
胸の奥が、冷たいノイズにざわめいた。
「……つまり」
喉が、砂を噛んだように乾く。
「僕が、宇宙の因果そのものの一部に……確率の揺らぎになった、ということか?」
アマリリスは静かに微笑んだ。
その微笑みこそが、残酷な答えだった。
僕は、ようやく理解した。
僕はもう、世界を外から覗き見る神の視点ではない。
この刹那に揺らぐ、淡い粒子のひとつ。背景に溶け去る、無機質なノイズに過ぎない。
「でも……」
声がかすれ、音にならなかった。
「なんで、僕が? どうしてこんなことに?」
彼女の瞳の奥で、数知れぬ光が瞬いた。
星々の抱擁のようでもあり、素粒子の複雑な軌跡のようにも見える光。
「あなたが選んだからよ」
「僕が?」
「ええ」
アマリリスはうなずいた。
その仕草は、世界の終焉のように静かだった。
「あなたは、世界の真の姿に近づきすぎた。そして、境界を越えて“知る”ことを選んだ。……だから、外側からの観測者ではいられなくなったの」
研究室の空気が、急に現実味を失い、果てしなく広く感じられた。
僕の輪郭が、世界の彩度と共にぼやけていく。
「……じゃあ」
僕は虚空へ向かってつぶやいた。
「僕はもう、元には戻れないのか?」
アマリリスは、少しだけ考えるような、慈しむような顔をした。
それから、ゆっくりと手を伸ばす。
細い指先が、僕の額に触れた。
「戻れるかどうかは——あなたが、自分をどう“観測”するか次第ね」
その瞬間、世界が剥がれ落ちた。
床も、壁も、光も、音も。
すべてが水面のように波打ち、境界が溶けていく。
僕の身体は、確率の海の中でほどけていく。
——僕は、まだ存在しているのか?
——それとも、誰かに観測されるだけの、ただの『ノイズ』になったのか。
第三章 シュレディンガーの牢獄
彼女の指先が額から離れた瞬間、世界が崩壊した。
床も、壁も、光さえも。
すべてが無音のうちにほどけ、溶け去っていく。
僕の意識は、暗い裂け目の中へとゆっくりと、しかし確実に沈んでいった。
いや——落ちているのではない。漂っているのだ。
どこにも触れず、何にも属さず、ただそこに在るだけの「無」。
「……観測次第、って言ったよな」
声を出したつもりだった。
けれど、音は生まれない。
言葉は空間のどこにも届かず、輪郭を失って消えていく。
この世界には、僕の言葉を受け止める物理法則が、もう存在しないかのようだった。
「そう。あなたは今、“決定”の外側にいる」
アマリリスの声だけが、僕の意識の中心に直接響く。
どこから聞こえるのかは分からない。
ただ、僕の存在の核に触れてくる。
僕は自分の手を見た。
やはり、半透明だった。
輪郭はあいまいで、時折、粒子のような光となってほどけていく。
「……どうすれば、戻れる?」
言葉にならない思考を投げる。
それは彼女に届いたらしかった。
「簡単なことよ」
アマリリスは告げる。
「観測を取り戻せばいい」
観測。
その言葉が、虚無の中で妙に重く響く。
「あなたは今、シュレディンガーの猫と同じ状態にあるの。存在しているとも言えるし、していないとも言える。そのままでは、あなたの状態は確定しない」
静かな声。
僕は理解しかけていた。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
「……つまり、僕は今、“決まっていない”存在ってことか」
「ええ。あなたは今、可能性の中に閉じ込められている」
その言葉を聞いた瞬間、凍りつくような戦慄が走った。
「じゃあ……誰かが僕を観測すれば、確定するのか?」
「そうね」
アマリリスは少しだけ間を置いた。
「でも問題があるわ」
「……何だ?」
「今のあなたを観測できるのは、あなただけよ」
僕は思考を止めた。
いや、止めるしかなかった。
意味が分からない。
「……僕が、僕を観測する?」
「そう」
彼女の声は、真空を凍らせるほどに穏やかだった。
「でも、今のあなたには『観測者』としての主観がない」
その静かな宣告は、僕という輪郭をゆっくりと溶かし、底なしの暗闇へと沈めていった。
「あなた、自分が今、どこにいるか分かる?」
答えようとして、喉が凍りつく。
言葉が形をなさない。
気づいてしまったからだ。
僕はここにいる。
けれど——ここが『どこ』なのか分からない。
空間の位置も、時の流れも、何一つ確信できない。
座標軸をすべて引き抜かれた無の空間に、漂っている。
上も下も、前も後ろもない。
世界を測る基準そのものが、僕の中から消え去っていた。
それだけじゃない。
もっと根本的な、自己存在の核が揺らいでいる。
『僕は……』
言葉にならない思考が、形を保てずに霧散する。
僕は、本当に『僕』なのか?
存在の根幹を突き崩すような恐怖が、胸の奥で音を立てて膨らんだ。
アマリリスが静謐な瞳で僕を見つめる。
「観測というのは、世界を決める行為。……同時に、『自分が自分である』と確定する行為でもあるの」
彼女の言葉が、音叉のように響く。
「でも今のあなたは、それを失っている」
理解した。
僕には今、『僕』という確固たる中心がない。
存在の定義(デフィニション)がない。
僕はただ、確率の海に浮かぶ、数多ある可能性の、ただの亡霊に過ぎなかった。
「……じゃあ」
僕は消えそうな意識を必死に繋ぎ止め、言葉を絞り出した。
「僕は、どうすればいい?」
「自分自身を、観測すること」
「そんなこと、僕にできるのか?」
「できるわ」
その瞬間。
何もなかった暗闇に、一条の光が生まれた。
アマリリスが指先で虚空をなぞると、煌めく光の粒子が数式を描き出した。
Ψ(x,t) = Σ Cₙ φₙ e^{-iEₙt/ħ}
量子力学の波動関数。
存在の可能性そのものを記述する式。
その式が意味する冷徹な現実は、あまりにも明白だった。
僕は、決まっていない。
「あなたの存在は今、確率の海を漂う、名もなき霧のようなもの」
アマリリスが静かに告げる。
その声は、重力を持たない空間で僕の輪郭を優しく撫でた。
「けれど、まだ消え去ったわけじゃない。……あなたが選べば、その泡のような可能性を、一つの『僕』として収束できる」
選ぶ。
言葉が空間に溶けた瞬間、世界は万華鏡のように開いた。
目の前には、僕の人生の断片が、無数の星のように浮遊していた。
研究室で孤独に夜明かしをする僕。
知らない街で誰かと笑う僕。
白紙の人生を歩む僕。
そして、すでに誰かの愛を失い、死を選んだ僕。
そのすべてが、僕だった。
可能性の海に漂う、あまたの亡霊。
「どの『あなた』でありたい?」
アマリリスの囁きが、僕の魂の中心に響く。
選ばなければ。
選ばなければ僕は永遠に、シュレディンガーの箱の中で観測されることのない、透明な幽霊になってしまう。
僕はゆっくりと目を閉じた。
無数の可能性が、瞼の裏で点滅する。
僕は、どの僕を選ぶ?
第四章 波動関数の崩壊
暗闇の中で、無数の“僕”が星屑のように瞬いていた。
満員電車に揺られ、擦り切れた日常を生きるスーツ姿の僕。
研究室の無機質な白い光に包まれ、数式の深淵を追い求める僕。
そして、事故の衝撃で、病院のベッドで静かに息を引き取った僕。
そのすべてを、私は見ていた。
いや、全身で感受していた。
それぞれの人生が持つ重み。
歓喜、後悔、恐怖。
万華鏡のように流れ込む他者の記憶に、自我が溶けそうになる。
「選ばなければ、あなたは確定しない」
アマリリスの声が、無限の暗闇に冷たく響いた。
逃げ場のない選択の重圧。
どれが本当の僕なのだ?
どれを選べば正解なのだ?
立ち尽くす僕の問いは、虚無に吸い込まれていく。
その時、霧が晴れるように確信した。
——いや、違う。
この問いの前提が違っている。
「本当の僕」など、どこにも存在しないのだ。
僕がどれを選び取るかによって、初めて“僕”という輪郭が確定する。
僕は今、この瞬間に、自分を再創造しているのだ。
胸の奥で、何かが静かに熱を帯び、定まっていく。
恐怖は霧散した。
代わりに、奇妙な確信が胸を突く。
無数の人生の中から、僕は静かに指を向けた。
研究室の孤独な灯りの中で、数式と共に生きる、あの未来へ。
「……この僕だ」
その瞬間、世界が凄まじい速度で収縮した。
無数の光が震え、可能性の海が激しく波打つ。
星屑たちが、次々に光を失っていく。
会社員の日常。
誰かと愛し合った日々。
死を迎えた静寂。
すべての平行世界が崩れ去り、ほどけていく。
残されたのは、ただ一つ。
僕が選んだ、たった一つの現実だけが、そこに揺らめいていた。
抗い難い引力が、僕の意識を深淵へと引きずり込む。
空間が幾重にも折りたたまれ、
時間が一本の線へと収束していく。
無数の可能性が閉ざされ、世界がただ一つの実在へと溶け合った。
波動関数が——崩壊する。
次の瞬間。
視界は純白に染まった。
音も、光も、感覚さえも消え去る。
無。
ただ一つ、最後に聞こえたのは、アマリリスの幽かな囁きだった。
「いい選択よ。」
僕は再び、あたたかな“存在”の渦中へと落ちていった。
第五章 観測者の眼
意識が、泥濘の底からゆっくりと水面へ浮上していく感覚。
瞼の裏に、淡い光が滲む。
——目を開けた。
視界に映ったのは、見慣れた景色だった。
細いひびの入った天井、古びた壁紙、机の上のスタンドライト。
僕はベッドの上に座り込んでいた。
「……」
口からは言葉にならぬ吐息だけが漏れ、静寂の中で呼吸の音だけがやけに大きく響く。
ここは、僕の部屋だ。
机の上には、開いたまま放置された量子力学の専門書。
数式で埋め尽くされた無機質なページを、デジタル時計の赤い数字が冷ややかに照らしている。
03:42
僕は無意識に左腕をつねった。
鋭い痛みが走る。
「……痛い」
その感覚に、妙な安堵を覚えた。
僕は、ここにいる。
確かに存在している。
自己の確定。観測。
僕は、戻ってきたのだ。
小さく呟いた、その時だった。
部屋の空気の密度が変わった。
視線を上げると、窓のそばの暗がりに、彼女が立っていた。
「おかえりなさい」
アマリリスは、静かに微笑んだ。
白いワンピースが、夜そのものを纏ったかのように静謐だった。
僕は息をのむ。
「……どうして、君がここに」
彼女は最初からそこにいたかのように、自然な佇まいで立っている。
「あなたが“この僕”を選んだからよ」
穏やかな声が部屋に溶ける。
胸の鼓動が、急速に激しく鳴り始めた。
「……まさか」
言葉が途切れる。
彼女は静かに頷いた。
「そう。あなたが戻る世界を選んだということは——」
「この世界もまた、同時に確定したということ」
僕はゆっくりと、その意味を噛み締めていた。
波動関数の崩壊。
確定したのは、僕の存在だけじゃない。
世界そのものが、一つの形をとったのだ。
無数に分岐していた可能性の海から、僕はこの世界を選び取った。
そして、この世界の彼女もまた、選ばれた。
「これが……観測者(オブザーバー)の代償か」
僕は呟いた。
彼女は何も言わず、ただ微笑みを深くした。
アマリリスは、ゆっくりと頷く。
「あなたは今、自らの存在をこの世界に繋ぎ止めた」
「けれど——」
そこで言葉を切り、彼女は微かに目を伏せる。
「これで終わりではないわ」
「どういう意味だ?」
僕の問いに、彼女は答えなかった。
ただ、糸を引くような視線を窓外へと移す。
「見て」
その一言が、冷たい風のように部屋を抜けた。
僕は重い腰を上げる。
膝がわずかに震え、足裏に伝わる床の硬い感触が、皮肉なほど生々しく「現実」を主張していた。
一歩、また一歩。
窓辺に歩み寄るにつれ、胸の奥で正体不明のざわめきが膨れ上がっていく。
僕は震える指先をカーテンにかけた。
何かが決定的に違う。
世界が歪んでいる。
そんな確信に近い予感が、心臓を強く締め付けた。
意を決し、僕は一気にカーテンを引き絞った。
その瞬間——
網膜に飛び込んできた光景に、僕は呼吸を忘れた。
そこに広がっていたのは、
僕の記憶にある景色ではなかった。
第六章 特異点の向こう側
窓の向こうに広がる街を、僕はしばらく黙って見つめていた。
見慣れているはずの景色だった。
深夜の摩天楼。冷たい影を落とす高層ビル群。遠くまで続く、音のない道路。
どれも、確かに見覚えがある。
けれど——何かが決定的に違う。
その小さな違和感は、かえって心胆を寒からしめる不気味さを放っていた。
静かすぎるのだ。
耳を澄ます。
夜の街には、本来であれば様々な音が溢れているはずだ。
遠くを走るエンジンの残響。
信号待ちのブレーキの軋み。
どこかの窓から漏れる微かなテレビの喧騒。
深夜のコンビニへ向かう足音。
だが、何も聞こえない。
街は確かに存在しているのに、
音という現実だけが切り取られてしまったようだった。
さらに奇妙なのは、光だった。
ビルの窓から漏れる光が、微かに歪んでいる。
揺れている。
風など吹いていないのに、光の粒子が水面の反射のように波打っているのだ。
まるで、この現実そのものが安定を失い、崩れかけているみたいだった。
その瞬間、僕の脳裏に、あり得ない可能性がいくつも去来した。
夜空に二つ浮かぶ月。
逆さに時を刻む時計。
街の人間が全員、同じ顔をしている狂気。
看板の文字が、この世に存在しない言語で書かれている静寂の都市。
……あり得るはずがない。
もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。
そんな崖っぷちの状況で、幻覚なんて見ている場合じゃない。
「……ここは本当に」
僕は、自分のものとは思えないかすれた声で言った。
「僕の世界なのか?」
振り返る。
アマリリスは、部屋の中で静かに立っていた。
相変わらず、すべてを見透かしたような落ち着いた表情で。
まるで、この現実の崩壊が些細な事象であるかのように。
「そうね」
彼女は穏やかに答えた。
「あなたが選んだ世界ではあるわ」
そこで言葉を切り、
少しだけ冷たい光を宿した瞳で僕を見つめる。
「でも、完全に元の世界と一致しているとは限らない」
僕は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
彼女は迷いのない足取りで机の方へ歩み寄った。
そこに置かれているのは、さっきまで僕が読んでいた量子力学の専門書だった。
彼女は、数式が並ぶそのページを指先で軽く叩いた。
——まるで、その数式が世界を書き換えてしまったのだと告げるみたいに。
「あなたは今、“観測者”としてこの世界を再構築している」
彼女の声は凪いだ水面のようだった。
だが、その言葉が抱える重量は、僕の肺から酸素を奪うには十分だった。
僕はただ、彼女の唇から零れ落ちる言葉の断片を拾い集めることしかできない。
「観測という行為は、世界を確定させる。……でも、確定した結果が、以前の現実と全く同じであるという保証は、どこにもないの」
彼女は窓の外、凍りついたような街並みに視線を向けたまま言った。
「観測前の可能性は無限に存在する。そして、そのうちのどれが具現化するかは、完全には……制御できない」
僕の喉が、渇いた音を立てて鳴る。
頭の中で、切り離されていたはずの理論が静かに結合を始めた。
シュレディンガーの猫。
箱を開けるまで、猫は生きてもいるし死んでもいる。
観測した瞬間に、状態は一つに収束する。
だが、それがどちらになるかは、観測するその時まで誰にも分からない。
つまり——
僕が今立っているこの世界は、元の世界に限りなく近い。
けれど、完全に同一とは限らない。
「……それじゃあ」
僕は震える唇を開いた。
「ここは、パラレルワールドなのか?」
アマリリスはすぐには答えなかった。
ただ、揺らぐ街の光を見つめている。
やがて、彼女は静かに、しかし明確に首を横に振った。
「いいえ」
彼女は僕の目をまっすぐに見返した。
「これは“あなたにとって唯一の世界”。ただし——」
「それが“以前と同じ世界”であるとは限らない」
背筋を、氷の指でなぞられたような感覚が走る。
僕は改めて窓の外の街を見渡した。
静まり返った道路。
輪郭が朧げな建物。
「……どこが、変わったんだ?」
問いかけた声が、わずかに裏返った。
彼女はゆっくりと視線を戻し、張り付いたような、ほんのわずかな微笑を浮かべた。
「それを確かめるのは——」
「観測者である、あなたの役目よ」
⸻
研究棟を出て、駅前の広場へ向かう足取りは、重く、どこか浮ついていた。
針が、逆に回っている。
駅前の時計を見た瞬間、凍りついた血液が血管を逆流するのを感じた。
街を見渡す。
街灯の光。
歩道。
建物。
すべてがそこにある。
だが、何かが決定的に足りない。
喉の奥が乾く。
心臓が早鐘を打つ。
その瞬間、気づいた。
この街には——
影が存在しない。
足元を見下ろす。
……僕にも、影がなかった。
街の光がもう一度、大きく揺れた。
さっきの揺らぎなど、前奏に過ぎなかったかのように。
それはまるで、
世界そのものが何か不治の病を患い、歪み始めているかのような……
そんな、静かで恐ろしい光景だった。
「共感」できることが、生きている実感であり、幸せなんだと思っています。ここでは、共感や共有できる方と出会えて嬉しいです。
YouTubeで室内環境音流しながら本読むのが好き。
図書館派。ここは備忘録として始めました。
読んだことを忘れないために、拙いですがレビューを書くようにしています。
レビューに激しく共感した時、お気に入り登録させてもらってます。
お気に入り登録や解除はご自由にどうぞ(^_^)/
自己紹介的なもの
Ⅰ
己の欲する所に従えども矩を踰えず、そんな自由な心で生きられたらどんなに幸せだろう。自由といっても幼子の様に好き勝手したいという訳ではない。libertyは悪くないが、政治臭が合わない。自然法爾、融通無碍というが理想に近い。自由へ
の第一歩として、まずはあらゆる執着が不自由の源と理解し、時間空間を超えた視点から自分を俯瞰的に見て、再びまた俗に還ってくる一連の過程を大事にしたい。俗に還るのは馴れ合いのためではない。身体性を忘れないためである。肉体は私を縛るものであると同時に私の存在根拠である。無数の因果を経て固有の遺伝的背景を託され、周囲環境の影響を受けながら成長した結果として今があり、今後も内外のやり取りー呼吸循環消化排泄ーを続けていかなければこの肉体は保ち得ない。むしろ私という現象は、そうしたエネルギーの流動過程で一過性に生じている出来事それ自体である。
Ⅱ
人は掴み所のない世界の中で、任意の何かに着目し、わかった様な気になってはまたわからなくなるという事を繰り返している。そもそも人は自分の存在が何なのかさえよくわからない。人の認識はどこまで行ってもかりそめであり、見立てであり、仮定であり、近似であり、ラフ・スケッチであり、暫定的判断であり、結論の先送りである。人は曖昧模糊とした世界を切り取って言葉を当てがい、理解し確かめ合う。存在は命名により励起する。言葉は世界への働きかけである。無意識の意識化である。言葉の用い方は世界の見方・切り取り方であり、そこに人となりが顕れる。それら無数の重ね合わせで時代や社会の空気が醸成され、個に還ってくる。言葉の流れは双方向的である。
Ⅲ
何か手近にあるものを借りてきて利用して、破綻したらまた近くの別のものを利用する。生命はそんな場当たり的対応を繰り返して進化してきた。進化とは変化である。無常という事である。そんな歴史の記憶が刻まれた幾兆の細胞が人体を構成し、細胞間のコミュニケーションがこの動的複雑系を成立させている。免疫細胞は自他の弁別を司り、幾百億のこれらが血流リンパ流を介し常時くまなく巡回し続ける事で、個が全体として保たれ続けている。抗体はランダム性を内包し、あらゆる外部世界を想定し準備している。自他の境界は厳密ではなく、状況に応じて揺れ動くものである。免疫が弱ければ内憂外患に対応できないが、無害なものに反応してはアレルギーを生じ、過剰になれば自己免疫疾患を病む。細胞の事はどうにもならぬが、全体を統括する身体のあり方からして状況に応じた柔軟なバランス感覚が必要で、柔よく剛を制すというのはこの普遍的真理を会得する事である。肉体を預かるこの現身としては、時と場と前後の文脈を読み、今なすべき事を当然の事として自然体で行う事を理想の境地としたい。
Ⅳ
法もマネーも国境も、宗教も倫理も科学も芸術も、世間の常識というのは過去からの文脈を踏襲した一つの時代思潮の下に交わされた約束事で、偶然性に左右され移ろい変わりゆくものである。世の中のあらゆる言説には絶対的な根拠などなく、幾分かの嘘やごまかし、思い込みや勘違い、時に悪意が紛れ込む事を免れない。平素の私の言動は、そのような曖昧で根拠不明な世間の常識に、自分でもよくわからぬままに同調したり忖度したりした結果である事を否定できない。多くの場合、私は私という役割を無難に演じているが、そこに関係性の力学は見出せても、行為する主体の輪郭を明確にする事はできない。人間の自由意志とは一体何なのだろう。私が私であるというのはただの思い込みに過ぎず、確かな実体などないのではないか。
Ⅴ
私は私自身をうまく説明できないにも関わらず、世間における私という役割を引き受ける他ない。その不条理を自覚し、私は私という実存に責任を持つと決める事で、初めて人は社会の参加者となれる。社会において主体の言動に価値があるかどうかは、正しいか間違いかではなく(それはそもそも不可知である)、責任能力で決まるのだ。近代社会は個々人に説明責任を要求する社会である。近代的価値観の中に生きる人間は、自分の言動を神や太陽や空気のせいにしてはならず、責任は最後まで己に帰する覚悟を持たなければならない。これは近代社会が勝手に敷いたルールではあるが、社会において現在最高神の地位にあるのはこのルールなのだ。法に規約に契約に、微に入り細に渡るルールの言語化制度化は、近代叡智の結晶であり、現代人もこれに敬意を払って生きなければならない。これは「社会は言語によって成り立つ」という強力な仮定から演繹された、人の行動原理に関する神学的解釈である。近代的個人は無意識に言語の万能性を信じている。そしてその信仰ゆえに苦しみ疲弊している。
Ⅵ
近代的個人を、啓蒙時代以降の「神を離れて理性的価値観を信奉している個人」と定義する。近代的個人の出発点には、デカルト的な我、即ち主体の実在への揺るぎない確信がある。近代においては、主体が「ある」という大前提が公理として要請されている。主体が対象として把握できる分別智の世界だけを問題とし、理性によって対象世界の解像度をムダなく上げていこうとする態度が合理主義であり、抽象度を上げ数学を用いて対象世界の最も簡潔かつ汎用性の高い記述を目指す試みが科学である。科学の発展のお陰で、飢餓や感染症といった、嘗ては人の生活のすぐそばにあった不条理の多くは克服されるようになった。機械文明の発達で肉体的労苦も軽減した。自然が人に与える試練を緩和するという点においては、対象世界の科学的合理的把握という方法が有効であった事は間違いない。そしてその様な科学の発展を支えたのは、人々に実現可能レベルの夢を語り資金を集め、富を増やし分配する資本の力であった。ここにも、怪力乱神を語らず存在を対象化可能なもの=貨幣と数字(利子)に割り切ってしまう近代の合理性が見て取れる。科学と資本主義がほどよく咬み合って今日の近代社会が築かれてきたのである。だがこの歯車は、一度動き始めると誰にも止められない怪物でもあった。
Ⅶ
現代文明は肉体的には快適である。しかし皆どこか生き辛さを抱えている。現代社会に蔓延るこの漠然とした不安の源は何なのだろう。私はこの難題を考えるにあたってはまず、デカルト的な我に帰る必要があると感じている。主体の実在ほど疑わしいものはない。にも関わらず、それを「ある」と盲信している所が近代の不幸なのではないか。主体と客体は本来同じものであって、単なる概念でしかない。それも、その方が整理しやすいという理由で便宜的に分けられたに過ぎない。近代以降の人間(以下、近代人)はその事をどこかにほっぽらかして忘れてしまい、まるで両者が別々のもの、しかも実在であるかのように取り扱ってきた。私はこれが過ちで詭弁で自己欺瞞であったと考え直したい。
Ⅷ
近代的個人は、神を捨てた代わりに心身二元論を奉じるようになった。その数多ある弊害の中で最も忌まわしいものがニヒリズムだと思う。近代人は主体と客体が別々のものだという思い込みがある為に、両者が一致する事がない。その結果自らが作り出した概念、錯覚に溺れやすくなっている。肥大した主体はやたらと他人の目を気にして承認欲求を満たしたがる一方で(臆病な自尊心)、簡単に客体に飲み込まれ少しの失敗少しの批判で立ち直れなくなるほど傷ついてしまう(尊大な羞恥心)。被害妄想を拗らせ陰謀論に傾きやすくなっている。心身の乖離に耐えられず美容整形に走る。とかく主客のバランスが悪いのが近代人である。合理的選択が賢いと信じるあまり、結婚や子育て、教育、葬式に至るまで何でもかんでも合理化してしまい、自分が人生で何がしたいのか、何を大切にしたいのかわからなくなっている。私達はコスパタイパと言いながら面倒を避け、ゲームやネットの中でちっぽけな自尊心を満たすうちに残酷に時が流れ、ただ老体が朽ちゆくのを眺めるばかりの人生になってはいないか。そしてそういう自他の人生を蔑み嗤っていないか。毎日炊事洗濯をして、家族ご近所同僚上司取引先とうまく付き合いをして、人生とは面倒なものである。だがちょっと待て。私が私の人生を面倒だと思うとはどういう事だ。例えば、たまった家事をこなしながら、それを面倒と感じているのが私なのか?それとも、既に今ここ、目の前でやっている家事作業という出来事そのものが私なのか?主客合一の観点からすれば、これはどちらも私なのであって、言語が主客を便宜的に分け、自意識という錯覚を生み出しているに過ぎない。cogitoとは、私という出来事に関する言語的解釈である。cogitoだけが私に他ならないと錯覚して生きるという事は、取りも直さず、その言語を生み出した社会的・歴史的・宗教的・文化的背景や文脈だけに縛られて生きるという事である。私が求める自由とは、その呪縛からの解放である。
Ⅸ
自分というのは、生い立ちや経験に基いた物語を紡いでいく中で自ずと顕れてくる何かであって、文学的に示されるより他にないものだと私は考える。それも言葉によってピタリと明晰に指し示されるような形でなく、行間から滲み出るような形で不恰好に語られ続けるより他にないものだと思っている。現代社会は、合理的思考(少数の物差しで対象を捉え、それで真理を把握した様な気になり、その尺度で得た指標に最適化しようとする態度)を持て囃す。だがそれは世界を、自分を、他者を、時の止まった死物(ただの原子分子の塊でありデータであり金づるである)と見て自他の限界を狭めているという事であり、そういうものの見方が、生を、性を、卑小なものに貶めている。私は先進国の引き籠りや少子化の根本病理をここに見る。原始時代に還ればよいなどと言うつもりはない。合理の行き過ぎは結果的に自らを不自由にするという事が言いたいのだ。私は、近代の行き過ぎた合理思考によって毀損された個人の価値を取り戻す事ができるのは、文脈に応じ適切な言葉で語ろうとする姿勢を持ち続けること、同時に言葉の限界を自覚することー即ち文学的感性を育むより他にないと直感している。
X
私はどうして、どのようにしていまここにあるのか。最も良質な科学とは、その問いに真摯に向き合うものであろう。宇宙開闢から考えてみる。初期宇宙の自由に動き回る素粒子の系は、膨張と共に温度が下がり、原子核中性子電子の系へと変化した。ゆらぎ、自己相似、対称性の破れ、エントロピーの増大、関係性の力学といった大原則が今もこの宇宙を支配しているのは、宇宙がこの様な出自だからだ。原子は分子となり宇宙空間に縞模様みたいな疎密が生じ、密な部分には星ができ、星の内部の核融合で金属などの重い原子ができ、星の寿命と共に爆発してばら撒かれ、その星屑同士がぶつかり合ってまた新たな系が生じ、そういう離散集合を繰り返す系の中にやがて太陽系ができ、中心の恒星から数えた3番目の惑星に生命が誕生した。
Ⅺ
境界があり、代謝を行い、自己複製する系。それが今日における生命の暫定的定義である。地球生命初期の創発として現在に至る道筋を拓いたのは光合成だろう。葉緑体と共生したシアノバクテリアが増殖し、地球は緑の星となった。長い年月と共に緑の星は酸素の星になりオゾン層を形成し、生命の陸上進出の条件を整えた。嫌気環境から誕生した原始生命にとって、反応性の高い酸素は猛毒であったが、生命はやがてこれを転用する術を身につける。ミトコンドリアの共生による酸素を利用したエネルギー代謝、呼吸の獲得である。発酵ではグルコース1分子から2ATPしか獲得できなかったのが、呼吸で38ATPを獲得できるようになった。この大規模なエネルギー代謝系によって、多数の細胞が協力連携する巨大な系;多細胞生物が誕生した。
Ⅻ
多細胞生物はさらに、性を創発した。即ち体細胞系列と生殖細胞系列を切り離したのである。これにより個体の寿命という概念が生まれた。寿命が生じたというのは一回限りという事である。その場その時代におけるオリジナルという事である。体細胞も生殖細胞もDNAが一緒くたになっている単細胞生物には、寿命という概念がない。遺伝的に均一なら(表現型のゆらぎはあるにせよ)自他の区別もない。性の誕生は寿命及びオリジナリティの誕生と同根であり、原初の自意識も、ここに起源があるのではないか。
XⅢ
次の創発は社会である。原初的な社会・群れを、我々はアリやハチ、あるいは魚において眺めることができる。個体に多少のオリジナリティはあるし、群れへの忠誠、利他行動と一見思えるものも観察できる。だが彼らに人間的な意味での自意識があるかというとそれは違うだろう。群れや巣というのは、遺伝子存続のために分散型の共生をしているだけであって、これだけでは人間的な意味での自意識が芽生える必然性が足りない。「私」に直接連なる自意識誕生のために必要なもう一つの条件。それは哺乳だったのではないか。
XⅣ
哺乳類の仔は弱い状態で産まれてくる。母親には乳を与え仔を育てる使命がある。小さい仔をかわいい(ちいかわ)と思うのも愛情を持って育てるのも、哺乳類には自明の事である。他者・かよわい弱者への思いやり。これが哺乳類の、虫や魚の群れと決定的に違うところだ。父も思いやりという想像力が必要だ。餌を取り敵と戦い、母子を守る事が、雄に与えられた生物学的責務である。群れを作りそれを強力なリーダーが率いて互いに助け合えば、その目的はさらに達成されやすくなる。すると群れのそれぞれの個体には役割自覚が芽生える。仔を育てるという自然の掟が群れという社会性と結びつく時、人間的な意味での自意識が芽生えるのではないか。他を思いやる想像力こそ自意識誕生の必要条件であり、自己意識は他者関係から反照的に構成されるのだ。性の誕生により、一回性の限りある体細胞系列(自)の幸せと、遺伝子の存続という生殖細胞系列(他)の幸せとが分離した。元来、生殖後に個体は死ぬ運命にあったが、哺乳類は育児の必要からすぐには死ななくなった。群れという社会性が個体の寿命をさらに延長した。その結果、個体内部で完結していた自他の分離が、個体の外部、社会的な場面でもありありと意識されるようになった。自意識が性や死の衝動、社会的立場と分かち難く結びついているのは、こうした事情があるからではないか。発声に特化した人体の構造的特徴は言語を生み、人が語る自意識は、やがて文学とか思想とか言われる様になった。
XⅤ
砂時計を考える。上半分と下半分が交叉する部分で、今この瞬間に流れ落ちている砂粒が私である。砂粒は自らの意思で落ちているように錯覚しているかもしれないが、実際には膨大な歴史の重みを一身に受けて、下へ下へと押し流されているのである。これまでの試論は、今この砂粒(身体)に至るまでの、生命に刻まれた歴史の古層を探るための考察であった。ここからは一気にスケールを縮め、日本の歴史と私という事について考えてみたい。くびれの部分のほんの上層にかかる圧力、私を落下点にまで押し出したその直接の力を知るための考察である。
XⅥ
日本の黎明期には稲作があった。集落を束ね、祀る存在として豪族がいて、天皇が、この豊葦原瑞穂国を纏め上げた(という事になっている)。いかにフィクションとはいえ、国づくり神話に始まり万世一系の天皇が日本の歴史を貫いていて、現在も全国津々浦々に坐す無数の神々を祀る神社がそれぞれの地域や自然と共に鎮座している。まず日本とはそういう国なのだ。それから仏教である。6世紀に伝来したとされる仏教に天皇家も帰依し、やはり全国津々浦々、寺院のない土地はない。日本人は死んだら仏様になるというフィクションの中で生きてきた。このインド発祥の教えは東洋の中の日本という事を思い起こさせる。諸行無常で諸法無我という感覚は日本人の無意識の中にあり、やたらめったら自己主張するのは愚かと教わる。人は何も特別な存在ではなく、山川草木悉有仏性という考えが広く共有されている。
XⅦ
現在に近いメンタリティとなったのは江戸時代以降であろう。はじめに禁教と鎖国があり、幕府が奨励した朱子学、儒教的価値観が日本人を縛り、その代わりに秩序と安定がもたらされた。この時代に武士は人の理想として観念化した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」この死の美学は、赤穂浪士の討ち入り事件によってさらに神格化され一般にも流布し、大義のために死ぬ事が日本男児の誉れとなった。元禄にもなると大義のために死ぬなどというのは稀有な事であり、稀有だからこそ神格化されたのだ。こうして二六○年の長きに渡り世界史上稀な天下泰平の眠りを貪っていた事は、今も日本人を特殊な民族たらしめている。だが幕末に入り西欧文明の圧倒的な力と邂逅し、その安定がゆらぐ。そして恐らく、この頃の思想的危機が現在にも尾を引いており、この国にぼんやりとした不安をもたらし続けている。幕末の危機は、遡ること百年前、家康の孫であるにも関わらず副将軍にしかなれない水戸光圀公が抱えていた、自己および徳川権力の正統性を巡る不安と共鳴し、尊皇攘夷思想として開花した。尊攘という大義を見つけた死に狂いの武士道は、幕府と武士自身を滅ぼしたのみならず、富国強兵の原動力にもなり戦陣訓へと受け継がれ、あの無謀な戦争を経てその理想主義と共に玉砕した。こうして天皇陛下は人となり(別な見方をすれば人となることを許され)、国体という抜け殻だけが辛うじて残された。
XⅧ
日本人であるという感覚は天皇との関係から醸成されるのではないか。都に対する私(鄙)、祖先に対する私(今)、「私」をこの国に位置付けるものの根源こそ天皇である。それには古事記に記され本居宣長が理論化したような、ウシハくのではなくシラすという天皇の統治形態が絶妙な理論装置となっているのではないか。天皇は秩序の中心ではあるが、意思を示したり行動したりする事はない空虚なシニフィアンである。文脈によって祖先にも国土にも、産土神にもなる。敬語を軸とする日本語は上御一人を頂点とする否定神学的構造となっており、言葉が正しく運用されている事それ自体が社会秩序をもたらしているのである。一方で、そうした構造が、日本語話者を近代的主体として自立させることを困難にしているのではないかという思いもする。近代化と共に今なお日本人にぼんやりとした不安を与え続けている何かの源流を辿ると、こうした言語的、宗教的葛藤に行き着くのではないか。國體ないし国体とは、究極的には、そうした日本人の精神構造そのものを指す言葉なのではないか。このシステムは社会に秩序と安定をもたらす一方で、内部から変革する力を持たず、常に外圧によってしか変わることができない構造上の問題も抱えているのではないか。内村鑑三のように二つのJという立場もあり得たわけだが、教育勅語奉読拒否事件でその危うさが露呈したように、このシステムの中では、強い個人主義と国体とを並列させるのは困難である。天皇制とは、日本語という否定的言語構造が、歴史と政治の中で結晶化した制度である。あるいは、日本において、神は言語として生きている。だから古来皇室は歌を詠み、民との関係を織り込み、神聖なものとして奉納してきたのではないか。この辺は類書を読みながら今後も深く考えていきたい。
XⅨ
戦後、国防は外部委託される事になった。冷戦構造の中、反共核戦略の砦として、米国の不沈空母として、資本主義の見本市としての役割を担わされた戦後日本において、武士道的倫理は会社への滅私奉公に変質し、家庭も顧みずただがむしゃらに働くモーレツ社員は、エコノミックアニマルと呼ばれる様になった。安田講堂、市ヶ谷、あさま山荘の一連の事件が思想史における大きな物語の終焉を告げ、日中国交正常化と引き換えに田中角栄が葬られた後、戦後日本はロンヤス体制の下で集大成の輝きを放つに至った。駅のホームには吸殻が大量に落ちていて、新幹線はタバコの煙が蔓延していた。野菜は青臭く、トイレは陰翳礼讃の便所だった。暴力団、闇金、総会屋、エセ同和、カルト宗教、悪徳代議士、悪徳事務所が幅をきかせ、闇社会と表社会が渾然一体となっていた。新聞TVには広告を通じて大金が集まり、文化と世論を支配していた。日本人は未だ欧米コンプが抜けきれず、彼ら彼女らの容姿や生活スタイルに憧れ、胴長短足で狭小住宅に住む自分達を恥じていた。男は汗とタバコと整髪料の入り混じったにおいを放ち、虚勢を張って生きていた。女は化粧臭いか所帯染みてるかのどちらかだった。そんな拝金と義理人情が入り混じった時代に私は生まれ育った。小学校に上がり物心がついた頃にソ連が崩壊しバブルが崩壊した。
XX
バブル崩壊とは、戦後の政官財が癒着した護送船団方式の崩壊であり、冷戦終結と共に訪れたグローバル資本主義(世界のアメリカ化)への接続の為に必要な試練であった。試練の中で阪神大震災とオウムのテロが追い討ちをかけ、キレる少年事件が紙面を賑わせ、数々の倒産劇があった。大人達が自信を失い、正しさがわからなくなり、倫理が崩壊していくのを感じた。街はサラ金の看板やピンクチラシで埋め尽くされ殺伐としていた。そんな中で青春を過ごした私は、どこか大人達を軽蔑していた。全てを斜めから見る癖がついてしまった私は、信じられるものは自然科学しかないと漠然と考え、唯物論に傾くようになった。文学や哲学は愚痴や屁理屈を並べている様にしか見えず敬遠していた。それは私の心の奥行きを狭め、思想を痩せ細らせる結果となった。この頃の私は、人間の感情など所詮は神経伝達物質の作用で、人の営為は全て地球を汚す結果にしかならず、それなら何もしない方がいいと考えている虚無的な若者だった。健康に恵まれながら、何をやってもばかばかしく思えて仕方がなかった。今思えばこれも、当時の若者に蔓延していた時代の空気であった。そうした思想的貧困の必然的成行きとして、いつしか私は自分の言葉が持てなくなり、気づいた頃にはその場を取り繕う事ばかりに最適化し、グランドデザインが描けず、周囲に迎合する事しかできない、典型的なダメな大人の一人になっていた。成人後も、リーマンショックが私の資本主義への懐疑を深刻にし、原発事故が科学や現代社会に対する不信を増幅していった。私は近代の恩恵に浸りながらも、近代というシステムの抱える矛盾に絶望しつつあった。私の二十代はそれだけで終わってしまった。一方で、唯物的なものの見方が己を虚無に陥れている事に気づき、思想を修正していく必要にも迫られていた。三十代の私は虚無からの脱却を求め仏教や科学哲学に傾倒しながら彷徨っていた。彷徨い続けるうちに気づけば不惑が迫っていた。
XⅪ
私は四十を前にしてようやく小説を読むようになった。読めるようになってきたという方が正確かもしれない。自分の中にある、誰かが言った事を簡単に鵜呑みにする傾向、何でも短絡的に解する傾向、じっくり腰を据えて考える事のできない胆力のなさに気がついて初めて、文学が読めるようになってきた。そして、ここで自己の内に生じた感覚を言語化し他者の視点を学ぶうちに、自分の理想や大切にしたいものの輪郭が、朧げながらわかるようになってきた。私という自意識が、いつも存在にまつわる不安を抱えており、存在の前提や根拠を確かめたがる習性がある事を自覚した。四十にしてようやく私は言葉を大事にする事を覚え始めた。そのうちに、どうも明瞭簡潔を求める近代の在り方が、私の特異性を毀損しているのではないかという思いが芽生え出した。何でも検索しわかったような気になってしまうネットの時代においては、人生も同様に薄っぺらく感じられる様になっているのではないか。文学はこのばかばかしさに抵抗できる唯一の試みなのではないか。
人の言葉というのは究極的には自己言及である。それはそもそも宇宙の成り立ちが自己言及的で、時空が無限の自己相似であることに因るのかもしれない。初めに言葉ありきと聖書に書かれたがため西洋はその様に発展し、言語に基く価値観がこの世界を覆っているのかもしれない。しかし東洋では、肉体を離れて言葉はない事を古くから重要視してきたのである。東洋人たる私は、近代のコード的言語観を利用しながらも、それにどこか違和感を抱えて生活している。私という肉体の現象は、今この瞬間も言語とは無関係に生じている。私はそれをあの四十七字の詩の中で眺め、追認する。祖先の歴史や国土の自然、その理想的象徴たる天皇の雅への憧憬を抱きながら。幕末以降のほろ苦い歴史の記憶もそこに重ねながら。きっとここには、そんな私の堂々巡りの自己言及が刻まれていく事だろう。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならぬ
有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせす
ん
趣味は、読書と映画鑑賞と旅行です。
ミステリーが小学生の頃からずっと好きです。映画も大好きです。映画館で観るのが好きですが、土日は家でも観ます。読んだ本が映画化されたものは、ほとんど観ています。旅行は年に2回くらいしかできませんが、死ぬまでに全都道府県行き
たいと思っています。
同じような本の傾向の人を読んでいる方をメインにお気に入りに登録させていただいています。また、正直な感想を書いていらっしゃる方の意見も参考にさせてもらっています。皆さんの読後の感想が素晴らしく、リスペクトしています。
ミステリー以外にも、読むようにしています。
よろしくお願いします。
【読書履歴】
社会人1年目:進化心理学
修士1年:教育学や世界史関係、古典(学問)
修士2年:教育社会学
学部1年:小説読んでた。平均月2冊くらい?
学部2年:新書や宮台真司先生の著書
学部3年:社会学を中心に読む
学部4年:教育社会学や古典文学
年金生活者。趣味は、読書、映画、旅行など。ついに、73歳、「ついにゆくみちとはかねてききしかどきのうけふとはおもはざりしを」、まさか自分が、その歳になるとは。驚きと嘆息です。ボケないように、日々頭と体を鍛える所存です。海辺のファーストペンギン、時々テ
レビで見かけるペンギンの集団、一番先頭を行くけど、別にカリスマ性や深い考え、思惑があって先頭を突っ走ているのではないが、なにか行動的なものを感じる。ああいう感がなしでだけれども、自分を信じて突っ走る勇気と根性を見習いたい。ほんとうは、慎重に行動して他人のふり見てわが身を正せが信条でありつつ、突撃、神よ我にご加護を与え給えというのも大好きな人間です。(とりあえず一部改訂、年齢調整)
行ってみたいところは行った。
他にやりたいことはない。
気が向いたら本を読む。
あとは、惰性で過ごして死ぬ。
プロフィール画像を更改しました!
よろしくお願いいたします💌
このアプリの中で、色々な人が読んだ本についても興味を持って今後読んでいきたいなと思います
HNは易の風地観から取りました。
ファンタジーと、医療ものと、心のことを書いたものと、人としてのあり方を書いたものが好き。脳のことを書いたものもついつい手を出してます。
偉人では割と伊能忠敬好き。
FGOでサーヴァントになったらきっと課金するくらいに好き
。
無人島に持って行くとしたら、モンテクリスト伯、とずっと言い続けてきたけれど、鹿の王も持って行くかも。
最近は伊与原新さん、万城目学さん、米澤穂信さんの作品をぐるぐる回ってることが多いです。
途中で挫折することもあるけれど、ブルーバックスも定期的に手を出します。
足摺と富山と沖永良部と宮津が大好きです。
※ 遅読なので更新は地味目です。よろしくお願いします。
プロフィール上限10240文字で自己紹介いたします。
(※レビューの方は全て上限255字でまとめました。)
定年退職した元中学国語教師です。
校内暴力最盛期に採用され激動の教育界で鬱病で休職した同僚や問題を起こして懲戒免職になった同僚もいた中で40年近
くを勤めあげました。
毎年必ず「先生のおかげで国語が大好きになりました。」と言ってもらえたことが誇りです。
小学4年で偕成社のホームズ全集5年で偕成社のルパン選集中学1年で角川文庫の乱歩全集中学3年で国名シリーズ悲劇シリーズを読破しました。
高校ではリアルタイムで本格不在の渇きを梶原一騎・牛次郎の謎解き漫画で癒しました。
「占星術殺人事件」の登場に狂喜乱舞し綾辻行人・有栖川有栖・加納朋子・米澤穂信・東川篤哉・蘇部憲一・金田一少年(青年)・名探偵コナン等等本格ミステリーを愛読しています。
「謎解きはディナーのあとで」に「こんなのミステリーじゃね~」というレビューが多いのには驚きました。
本格ミステリーというのは本格的にミステリー(謎)を解くことの面白さを中心にする作品なのに本格的な=大人向けの重厚な物語のことだと勘違いしているんじゃなかろうか?と思えます。
本格ミステリーなんて探偵小説と呼ばれていた乱歩の時代から「稚気だけの遊戯」と呼ばれてきた「謎解きゲーム」にすぎないんですけれどね・・・。
古典本格ミステリーを代表するエラリークイーンの国名シリーズは初めて「読者への挑戦」を挿入して作者と読者の謎解きゲームに徹しているのです。当然追求に値するほどの動機もなく動機なんて1行か2行で終わりです。
乱歩亡き後松本清張の台頭で謎解きの面白さより社会性だの文学性だのリアリティーだの切実な動機だのを重視する社会派ミステリー全盛の時代が長く続いたせいでそういうもののほうが本格ミステリーなのだろうという誤認が浸透してしまった気がします。
重いほうが本格的で軽いものは本格的ではないという印象を言葉の上からは受けやすいですからね。
ミステリーという言葉も不可解な重苦しい印象を受けやすいですね。でも。クイーンの国名シリーズは全てタイトルが「〇〇××ミステリー」ですが内容は理屈っぽさ優先で重苦しさはありません。
本格ミステリーを読んで「動機が物足りない」なんて文句を言うのは中国で餃子を食べて「ニンニクがなくて物足りない」なんて文句を言うのと同じようなもので恥ずかしいと思うのです。そもそも中国では餃子にニンニクはいれません。そもそも本格ミステリーは動機を重んじません。
重苦しく動機を掘り下げるのは本格ミステリーではありません。社会派ミステリーです。1974年松竹映画「砂の器」は140分中50分が動機の解明です。1975年NHK「遠い接近」は70分中60分が犯行に至る動機の描写です。
1970年代~1990年代の2時間ドラマの影響も大きい気がします。あの手のドラマはミステリーマニア対象ではありませんからロジックはなるべく排除してしまってハラハラやウルウルやエロエロを前面に出して犯人なんて配役見れば見当がつくようにできているのです。あれがミステリーだと思われたのではたまりません。(>_<)
2時間ドラマは「クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?」本格ミステリーは「トリビアの泉」のようなものだと轟直人は考えます。
2時間ドラマは犯人が分かってあたりまえ。本格ミステリーは予想外の驚きを楽しむものです。本格ミステリーを読んで「騙された!悔し~!」なんて悔しがっている人を見ると『本格ミステリーを2時間ドラマみたいに扱ってんじゃね~!』と無性に腹が立ちます。
ただ・・・1982年1月2日の「天国と地獄の美女」はジェームズ三木のアレンジと叶和貴子の熱演で本格ミステリー暗黒時代の例外的傑作になっていますが。「大空に裸女千断の花火かな」乱歩。
同じ2時間ドラマでもアメリカの「刑事コロンボ」はロジック優先で撃ち合いも追いかけっこもありませんが日本での人気1位は論理より感情が優先の「別れのワイン」ですからね。(>_<)
轟直人の「刑事コロンボ」ベスト8は「殺人処方箋」「二枚のドガの絵」「野望の果て」「意識の下の映像」「愛情の計算」「権力の墓穴」「自縛の紐」「5時30分の目撃者」です。犯行の動機は掘り下げるに値しない利己的な保身や営利です。同情の余地などないからロジックで犯人を追い詰める爽快感を堪能できるのです。
「古畑任三郎」だって謎解きとは無関係な今泉慎太郎が人気を博してしまってスピンオフドラマまでできましたからね。三谷幸喜が自らノベライズするにあたって今泉を登場させなかったのは本格倒叙ミステリーとして工夫しているところを味わってほしいんだというメッセージではないかと解釈しました。
轟直人は中学の時「刑事コロンボ」にはまって仕草も言葉も完全コピーして級友から「コロンボ」と呼ばれていました。国語の自習中「この問題分かるか?」と尋ねられて「ちょ~っと待ってくださいよ~」というのがコロンボでした。答が配られて全問正解して「すげ~!なんで分かるんだ?」と聞かれて「勘ですよ」というのがコロンボでした。
が。コロンボの最も有名な言葉「うちのかみさんがね」だけはコピーできませんでした。(>_<)中学生にかみさんはいませんからね。
教師になって結婚して使えるようになっても「かみさん」ってとしよりくさい感じで嫌なので「うちのグ妻がね」と言っていました。
同僚に「愛妻弁当ですか?」「グ妻弁当です。」「またまた~。」
ミスリードにひっかかりましたね!w
愚妻と謙遜しているんだと思いますよね。じつは・・・
good妻の意味でグ妻といっているのです♡
グ妻は編み物に励み轟直人はパソコンに向かっています。
「何打っているの?」
「エンディングノート。」
「何編んでいるの?」
「エンディングドレス。」
「ふふふふふ。」
「ははははは。」
1965年~1975年生まれのさくらももこ世代をX世代と称するなら
1955年~1965年生まれの轟直人はW世代で
1945年~1955年生まれの鈴木一平世代はV世代でいいのでしょうか?
V世代といえば力道山ですがW世代の轟直人は伊達直人です!
轟直人は「タイガーマスク」を「ぼくら」第1回から愛読していました。
轟直人にとっては「タイガーマスク」といったら「♪白いマットの~」ではなく「ぼくら」付録ソノシートの「♪もうこのマスクにひかる目は~」です。
轟直人の周囲で「ぼくら」を読んでいた級友はほかに1人もいませんでした。で。アニメの放送が始まると先の展開を1人だけ知っている轟直人は
「ミスターノーはちびなんだよ。ドラキュラはハンサムなんだよ。スカルスターははげなんだよ。ゴールデンマスクは傷だらけなんだよ。」とネタばらししまくるのが快感でした。自分以外が知らないことを《教えること》≒《発見の驚きを与えること》が好きだったのです。
X世代は昭和50年代に大ヒットした角川映画の「犬神家の一族」や「時をかける少女」を絶賛して懐かしがりますがW世代の轟直人は昭和40年代の「蒼い獣たち」や「タイムトラベラー」を観ているからそれと比べるとゴミだと感じるのです。角川春樹、後から作るなら前のものを超える自信があってからやれ、前のものより劣化してどうする!と思います。
さくらももこは一文字隼人が好きになって「お荷物小荷物」を見るようになったと語っています。「お荷物小荷物」での佐々木剛は仁、義、礼、智、信のご兄弟の五男でした。視聴率では「木枯し紋次郎」に負けましたが轟直人は最終回まで観ていました。「木枯し紋次郎」は「見返り峠の落日」から観始めました。視聴率では「必殺仕掛人」に負けましたが轟直人は最終回まで観ていました。必殺シリーズは「必殺仕置人」から観始めました。
さくらももこと同じくX世代の会川昇は「デスハンターなんて載っている雑誌を子供が買うわけはなかった」と述べていますが轟直人は「ぼくらマガジン」愛読していました。漫画では改造手術の傷跡を隠すために「仮面」をかぶるのにTVでは「変身」することにしてしまっていました。夜7時のお子様番組で漫画の通りに顔面がばっくり割れて傷跡が浮かびあがったらお子様は泣いちゃうでしょうが、だったら「変身ライダー」と名乗れ!と思ったものです。
級友はカルビースナックがおまけについているカードを集めていましたが「ライダーガールズ」のカードは1枚もありませんね。本当にお子様対象のカードだったのだとよく分かります。轟直人は級友からダブったカードをもらって改造人間をさらに改造して「雲男」や「子守男」や「ゼブラ男」や口から火をふく「仮面ライター」や口から泡ふく「仮面サイダー」や仮面以外身に着けていない「仮面ヌイダー」を作って級友を楽しませたものです。
大人になってから・・・ジョウロを持たせて「ジョウログモ男」緑色のモヤモヤで覆って「コケグモ男」を思いつきました。それで「ジョロウグモ」の「ジョロウ」ってなんだ?「ゴケグモ」の「ゴケ」ってなんだ?と思って調べてみたら・・・メスがオスを食べる蜘蛛なのですね。男を食い物にするから「ジョロウグモ」メスだけが残るから「ゴケグモ」とは・・・。授業では教えられません。
というわけで轟直人は「仮面ライダー」は1回目だけ観てやめました。轟直人にとっての「仮面ライダー」は石森章太郎が描いた6エピソードだけです。
「仮面ライダー」は路線変更前の放送開始当初は低視聴率だったそうですね。そうなると轟直人は「仮面ライダー」放送第1回をリアルタイムで観た貴重な日本国民の1人ということになりますね。えへんぷいw
「ルパン三世」もファーストシリーズは低視聴率だったそうですが轟直人はリアルタイムで夢中で観ていました。なぜなら・・・ちょうどホームズやルパンを夢中で読んでいた時期だったからです。轟直人は「ルパン三世」ファーストシリーズを放送第1回からリアルタイムで観ていた貴重な日本国民の1人ということになりますね。えへんぷいw
ただ・・・コミックでは1874年生まれの初代ルパンが1950年代には80代になっていて寝たきりの状態でも10代の三世に圧勝します。出典へのリスペクトを感じます。
2020年には三世は80代。四世(ルパン小僧)だって50代です。
2020年にやるんだったら「ルパン五世」だろ~!
轟直人にとっては佐々木剛といったら一文字隼人でも滝沢信でもなく風祭右京(柔道一直線)であり高杉次郎(いとこ同志)です!
「柔道一直線」というと「テレビ探偵団」がおちょくってとりあげたせいで「足ピアノ」が有名になってしまいましたが轟直人的には「柔道一直線」といったら「若者よきちがいになれ!」です!
直也は「柔道きちがい」飛雄馬は「野球きちがい」轟直人は「ミステリーきちがい」「国語きちがい」ですね。
轟直人が若いころはきちがいは『物事に全集中できる情熱の持ち主への誉め言葉』としても使われたのですが今は精神障碍者への差別言葉になってしまって迂闊に使えませんね。
轟直人は「柔道一直線」より「ハリス無段」のほうが断然好きです。「柔道一直線」は「巨人の星」に始まる漫画版「宮本武蔵」の《漫画で教養小説》路線ですが「ハリス無段」はそれ以前の作品なので技と技の応酬の面白さだけに終始しているのがミステリーマニアの轟直人には楽しめます。
「風巻竜のスクリュー投げをライバルはどう破るか?」「破られたらどうするか?」「闇剣之介の地獄投げを風巻竜はどう破るか?」
この面白さは乱歩が「怪人二十面相」でやった「泥棒予告があったらどうするか?」「鉄の罠にかかったらどうするか?」「仏像を要求されたらどうするか?」「仏像に銃をつきつけられたらどうするか?」「落とし穴に落とされたらどうするか?」というロジカルな知恵比べの面白さです。
乱歩が犯罪を題材にした「探偵小説」を梶原一騎はスポーツを題材にしてやったのです。
その題材をさらにパチンコや料理や建築に広げたのが牛次郎だと思います。
それが今日の和菓子を題材にした「和菓子のアン」本を題材にした「配達赤ずきん」古書を題材にした「ビブリア古書堂の事件手帖」などの日常ミステリー隆盛につながっているように思います。
轟直人の衣食住ミステリー3部作は・・・「こっとん鉄丸」「包丁人味平」「建師ケン作」です!・・・高齢化社会においては「医食住」でもいいですね。その場合《医》は「Dr.コトー診療所」ですね。
海堂尊は轟直人は好きではありません。医療現場で人殺すなよ!助けろよ!と思うのです。人を殺さなくたってミステリーは書けるのです。「遙か遠方で爆発事故で腕がちぎれかけた患者をどう助けるか?」「言語中枢のすぐそばに腫瘍のできた患者をどう助けるか?」心惹かれる《謎》に対する《驚》の解決が秀逸なミステリーだと感じます。
夏目房之介は「巨人の星」などの梶原劇画の荒唐無稽な「魔球」や「必殺技」を廃してスポーツ漫画にリアリティーを持ちこんだのが水島新司の「ドカベン」なのだというようなことを述べています。梶原一騎が本格ミステリーなら水島新司は社会派ミステリーですねw
しかしながら・・・夏目房之介は分かっていないと思います。梶原劇画は荒唐無稽なのではありません。荒唐無稽というなら「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」のほうがはるかに荒唐無稽です。なにしろゴムゴムの実や水の呼吸にロジックは存在しません。大リーグボール養成ギプスや消える魔球には「体の全ての動きに反するギプスの装着によって効率的に筋力を強化する」「ボールが地面すれすれを通れば砂煙に隠れる」という論理的根拠が机上の空論ではあっても一応は存在します。
「巨人の星」は「魔球」が登場する以前の少年時代からすでに「王貞治はなぜ初球をバントしたのか?」「飛雄馬はいかにして火の玉ボールを火傷せずに返球したのか?」といった心惹かれる《謎》に対する《驚》の答を提示してくれました。
「ドカベン」「大甲子園」通して轟直人が特に好きだったのは飛雄馬の《魔球》に匹敵するロジカルな驚きを与えてくれた殿馬の《秘打》です。秘打黒田節で殿馬がバットを槍のように構えたのはなぜか?秘打回転木馬で殿馬がバットを逆さに持ったのはなぜか?この答は抜群に「なるほど~!\(^O^)/」です。
轟直人にいわせれば「巨人の星」も「ドカベン」も同等に野球を題材にした謎解きを楽しめるスポーツ探偵漫画(スポ探)です!
夏目房之介は「巨人の星」も「ドカベン」もロジックでなくフィーリングで読むから魔球ありは荒唐無稽!魔球なしはリアル!と捉えてしまうのではないでしょうか?
謎解きの題材をスポーツからさらに娯楽や食に広げた牛次郎の「包丁人味平」にしても高取英は読者を釘づけにした名場面(迷場面)として《魚が骨だけで泳ぐ活け造り》を紹介していますが轟直人はそんな場面にはなんの魅力も感じずにスルーしていました。
包丁人味平で轟直人を釘づけにしたのはキャベツの早切り競争です!ベテランが猛スピードで切っていくのに味平はのんびり1枚1枚巻いて並べていく・・・。なぜ?この《謎》に対する答は抜群に「なるほど~\(◎o◎)/!」です。
フィーリングでは〖骨だけの魚が泳ぐ〗のは「ばかばかし~!(>_<)」のでしょうがロジックでは〖1枚1枚巻いて並べたキャベツは手早く切りやすいし盛りつけた時きれいに仕上がる〗のが「あったまい~!(^O^)」のです!
轟直人が小学生の時一番好きだったアニメは「探偵スカット」です。毎回5分で100回でした。毎回「え~?」という場面で終わって「お~!」という解決で始まるの繰り返しでした。
ごいんきょさんがこのアニメを取り上げたのですが「特になんということもない解決でした」なんて述べていたので?&!名義で異議を投稿させていただきました。
たとえば《部屋に飛び込んだら豹が襲ってきた!どうなる?》で続いた次の回で《のどをなでたらおとなしくなった!なるほど~!》という感じで毎回強烈な〖謎と驚〗を楽しめた旨を述べたら・・・
「サスペンスとは言えないですね(笑)」と返ってきました。
「ごいんきょさん。サスペンスとミステリーは違いますよ。サスペンスは《ハラハラ》と《ドキドキ》を楽しむものですがミステリーは『え~?』という《謎》と『お~!』という《驚》を楽しむものですよ。」と教えてあげたのですがそれきり返事はありません・・・。(>_<)
轟直人的にはへたな2時間ドラマなんかより「探偵スカット」のほうがはるかに本格ミステリーの《謎》(?)と《驚》(!)を楽しめたのです。
なにしろ・・・
中華じゃあるまいし本格ミステリーの「本格」は「大人の味」ではなくって「お子様ランチの美味」なのです。
本格ミステリーはアートではなくてゲームです。軽く楽しめばいいのです。軽く楽しめるからいいのです。
本格ミステリーは右脳でフィーリングを楽しむものではなくって左脳でロジックを楽しむものです。
犯人の動機に共感するより犯人のトリックに感心するものです。
「和菓子のアン」を読んで「和菓子が食べたくなりました~」と腹が減るのは感覚優先の文学作品の読み方です。「目から鱗が落ちました~」と知的好奇心が満たされるのが思考優先の本格ミステリーの読み方です。
「イニシエーション・ラブ」を読んで「女は怖い(>_<)」と鬱になるのはフィーリング優先の文学作品の味わい方です。「上手い\(◎o◎)/!」と感心するのがロジック優先の本格ミステリの楽しみ方です。
「謎解きはディナーのあとで」が「こんなのミステリーじゃね~」って・・・
回転寿司ばかり食べていた子どもが本格的な寿司屋に行って「こんなの寿司じゃね~」と言っているのに近い気がします。
裸の王様現象でここは「こんなのミステリーじゃね~」って言っておけば間違いあるまいと合わせている雰囲気すら感じます。間違い大ありですよ!
轟直人は小学校入学前からー「タイガーマスク」体験の前からー《教えること》が大好きでした。1967年5月に「怪物怪獣大全集」が書店に置かれました。買ってもらえなかったので毎日日が暮れるまで座り読み(座り眺め)して「金星ガニ」や「火星コウモリグモ」を目に焼きつけて家に帰ると紙に書いて翌日友達に見せて驚かせるのが楽しみでした。これがガラモンやぺギラでは「知ってる~。」になってしまうからダメなのです。教職は轟直人の天職だったと感じます。
読書メーターでも「和菓子のアン」や「謎解きはディナーのあとで」に対して「ミステリーではない」というレビューを目にします。そのレビュアーさんは長すぎる社会派ミステリー台頭の弊害で《ミステリー=刑事が殺人事件の犯人を追いかけて悲しい動機を明らかにするもの》という誤ったイメージが刷り込まれてしまっているのかもしれません。
それで轟直人が「ミステリーですよ。」と《教える》コメントを送ると・・・・
「感想は自由です!」というコメントが返ってくることたびたびでした。(>_<)
それで轟直人が「犬の肉を食べて『犬の肉は美味い』といおうが『犬の肉は不味い』といおうがそれは感想だから自由です。しかし、犬の肉を食べて『この羊は不味い』といったらそれは感想以前の間違いです。同様に、ミステリーを読んで『ミステリーは面白い』といおうが『ミステリーはつまらない』といおうがそれは感想だから自由です。しかし、ミステリーを読んで『ミステリーではない』といったらそれは感想以前の間違いです。」と《教える》コメントを送ると・・・
削除ブロックされて「へんな人に絡まれた!」とつぶやかれることたびたびでした。(>_<)
中学生が相手なら「『巨人の星』は野球の謎を解くミステリーなんですよ。」「『ドラえもん』の『天の川鉄道の夜』は辻村深月絶賛のミステリーなんですよ。」と《教える》と「へ~\(◎o◎)/!」と素直に納得してくれるのに大人になると自分の思い違いを指摘されても素直に正せず正そうとした相手を悪者にしてしまうのですね・・・。(>_<)
というわけですから素直に自分の間違いを認められるメロスのような心を失ってしまった大人を相手に間違いを正しても正しいことをしたほうが悪者扱いされるようだから間違えている人へのコメント欄ではなく轟直人のプロフィールに正しい本格ミステリーの捉え方を述べておくことにしました。
あまりにも長いのでまともに読む人なんていないかと思いきや・・・
「面白かったです。」とか「勉強になりました。」とかコメントしてくださるユーザーさんもいて恐縮してしまいます・・・。(#^^#)
長ったらしいプロフィールにわざわざ目を通してくださったユーザー様。まことにありがとうございました。m(__)m
さて。轟直人はまじめな純文学が大っ嫌いで小学生の時から現在に至るまで夢中で読んだ本といえばほぼほぼ推理小説ばっかりでしたが高校では国語だけは学年で1番。大学でも専門課程の成績はオール優でした。
《国語の正解は1つではない》という俗説がありますがいやいやいやいや国語の試験問題の正解は1つですから。その正解を導きだすために必要なのは文学作品を読んで培われる想像力ではなくって推理小説を読んで培われる思考力ですから。
生徒にも我慢して純文学読まなくてもいいから推理小説を楽しんで読書は楽しいものなんだってことを知ってくださいと言っていました。
ただし・・・教育現場で殺人事件を扱う話を奨励したくはないので日常ミステリーを薦めていました。
江戸川乱歩「智恵の一太郎」米澤穂信「氷菓」初野晴「退出ゲーム」坂木司「先生と僕」鯨統一郎「なみだ学習塾をよろしく!」辻村深月「ロードムービー」などです。
とはいっても文学作品を読むなと言っていたわけではもちろんありませんし推理小説以外は読んだことがないというわけでもありません。
中学高校の時映像を見てから「日本沈没」や「吾輩は猫である」や「ルーツ」を3か月くらいかけて読みましたし
大学では近代文学ゼミで1作家4作品くらい(ゼミ12人÷3人=4グループだったためです)取り上げて毎回レポート提出だったので宮沢賢治や芥川龍之介や太宰治や川端康成や三島由紀夫の作品を読んで・・・
「やっぱり純文学はくっだらね~(>_<)」と改めて思いました。卒業論文は・・・江戸川乱歩論です!
大学の4年間を東京で過ごしながら大学と下宿以外で立ち寄ったのは本の町神田と国会図書館だけ!
地元に戻って教員生活が始まりました。
「授業を受けるのはなんのため?」轟直人の考える答えは・・・「発見の驚きを楽しむため!」です。
ミステリーが大好きな轟直人はミステリーのテクニックを授業に活用して生徒を惹きつけてきました。
「クイズ日本人の質問」の趣向をいただいて生徒が疑問に思うことを書かせてその中から授業のねらいにあうものを選んで「生徒が知りたいことを解明する授業」の形にしました。
「メロスは勇者か否か?」(走れメロス)
「客が私に伝えたかったのはどんなことか?」(少年の日の思い出)
轟直人は40年近く授業という名のミステリーを綴ってきたのです。
轟直人のお薦め外国文学。英・・・ガリバー旅行記。米・・・ルーツ。仏・・・猿の惑星。独・・・ほら男爵の冒険。露・・・イワンのばか。
轟直人の現代語訳で楽しく読めるお薦め古典文学。「有斐閣新書の注釈万葉集《選》」。「星新一訳竹取物語」。「桃尻語訳枕草子」。「森村誠一の平家物語」。「山田風太郎の八犬伝」。
轟直人のお薦め近代文学。「夢十夜」(パロル舎)。「蜜柑」(立東舎)。「女生徒」(立東舎)。「銀河鉄道の夜」(偕成社)。「黒蜥蜴」(学研文庫)。
轟直人のお薦め現代文学。「ボッコちゃん」星新一。「日本沈没」小松左京。「戦争童話集」野坂昭如。「サラダ記念日」俵万智。「ひとりずもう」さくらももこ。
※大学の近代文学ゼミでは故人は近代文学の対象としていましたがすでに4人は故人ですね・・・(>_<)
轟直人のHNの意味は・・・
轟直人→ナオトトドロキ→ナゾトオドロキ→謎と驚→?&!。本格ミステリーの2大要素『冒頭の謎=〖?〗と結末の意外性=驚=〖!〗』が大好きの意味です。《直人》は伊達直人をイメージしています。それでアイコンも「伊達直人」です。
退職後に読んだ本のレビューは?&!のHNで Amazonカスタマーレビューに投稿しています。
轟直人が厳選した44作品のレビューの共読レビュアーさんのことをお気に入り登録させていただきます。お許しください。m(__)m
読書メーターには、本(自分が読みたいと思う)の情報を得たくて登録しました。読書管理にも便利なのでこれからも使っていこうかと。登録してから読書感想文の難しさを数十年振りに体感してます 苦笑。
読書大好き、ただ月に5冊前後読むのが精一杯なので、面白い本に効率
良く出逢える方法が無いかなぁ、と、いつも考えています。本屋さんに行くとあれもこれも買ってしまい、いたずらに積読本を増やしてしまうので。
あらゆるジャンルの本を読みますが、推理系、歴史系に偏りがちな今日この頃です。
さされませんようにぼくはいのった
せんせいやともだちのわらいごえはきこえなかった
とうめいになりたかった
シップレです。
中1です。
超低浮上です。
よろしくおねがいします。
今までこつこつエクセル使って読書感想文を書いていたので読んだ本の管理もできて便利!と思って読書メーターはじめました。ナイスやお気に入り登録ありがとうございます。周りにはあまりいないけれどここは読書好きな方が集まっていて嬉しいです。
基本的にこだわりはないけど、ミステリー、文学が多いです。恋愛小説は全然読みませんヾ(。゜▽゜)ノ
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