読書メーター KADOKAWA Group

2024年3月の読書メーターまとめ

みのくま
読んだ本
27
読んだページ
7146ページ
感想・レビュー
26
ナイス
200ナイス

2024年3月に読んだ本
27

2024年3月のお気に入られ登録
1

  • qv-yuh

2024年3月にナイスが最も多かった感想・レビュー

みのくま
西洋編も大変面白かったけど東洋編はそれを上回る面白さだった。東洋哲学はどうしても面白く読めなかった所があるが、本書で指摘している東洋哲学の特徴を理解すると納得した。東洋哲学は結果重視であり体験がその根本にあるのだ。そして悟りに至ってもアウトプットは何も変わらない。自身の内面が変わっている事が重要なのだ。他方中国哲学の解説も興味深い。本書を読むと孔孟老荘、韓非子に墨子も全部面白い事に驚愕する。特に韓非子と墨子は原典未読の為すぐにでも読みたくなった。また書きたくなかった老子、書きたかった荘子という指摘も面白い
が「ナイス!」と言っています。

2024年3月にナイスが最も多かったつぶやき

みのくま

2024年2月の読書メーター 読んだ本の数:23冊 読んだページ数:5674ページ ナイス数:184ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/543477/summary/monthly/2024/2

が「ナイス!」と言っています。

2024年3月の感想・レビュー一覧
26

みのくま
本書はキリスト教の聖人を列挙しただけの簡単な本だが、面白い論考も挿入されており楽しく読んだ。兼ねてから一神教を奉じているはずのキリスト教において、聖人という奇跡を起こすような限りなくキリストに近い存在を公認するのは異端的行為なのではないかと感じていた。本書ではまさに聖人信仰は多神教的な信仰形態であると指摘しており、我が意を得たりである。そもそも一神教と多神教にぼく達が思う程大きな断絶などあるのだろうか。ほとんどすべての宗教は多神教的側面と一神教的側面の双方を併せ持っておりそれが人間の普遍宗教ではなかろうか
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
内藤湖南の聖徳太子評を知りたくて読んでみたが、大変面白かった。聖徳太子の評価は歴史的に振れ幅が大きく、隋の冊封体制からの脱却を達成した偉人とみる向きもあれば、外来の宗教である仏教を取り入れて日本古来の神を貶めた人物であるとも見做される。他方、聖徳太子自身の実在を疑う意見もある。本書の興味深い指摘として、太子信仰が知識人層のみならず大工など庶民にまで広まっている事や、遣隋使を帰化人ではなく小野妹子を大使にした事、そして聖徳太子の改革を明治維新に見立てている処だろうか。近代国家の淵源としての聖徳太子評である。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
著者の描くイエスは純粋に愛に生きた人物であり、むしろその純粋さが弟子にも理解されなかった原因だと説く。ある人は民族独立の騎手として、またある人は奇跡を起こしてくれる治療者としてイエスに期待するが、イエスはそれらのイメージの押し付けを全て拒否し、ただただ無力に隣人への愛を説きながら死んでいく。著者の想像によると、弟子たちはイエスの死と引き換えに自分たちの罪を免じてもらったのではないかと主張する。イエスはそれを知りつつ、なお弟子たちにも愛を向けて恨み言一つ言わず死んでいく。その姿が惰弱な弟子たちを覚醒せしめた
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
中国史はどのような観点から通観すれば良いか非常に難しい。黄河流域の中原から見渡す歴史観は伝統的な歴史観だが、中華思想に則ったかなり偏向的な歴史観になってしまう。だが、周縁の遊牧民族にフォーカスを当てすぎると、中国史の全体像が捉えられなくなる。遊牧民といっても多様な諸部族から成り立っており、中原に入り込んでいる部族もいるからだ。本書は、古代中国をユーラシア大陸の東端に位置付け、西方とかなりパラレルに中国史が動いている様子を描き出している事が興味深い。中国史は南北だけでなく東西間の対立にも注視せねばならない。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
これ程までに面白いプラトン解説書があったであろうか。本書は、著者が思うプラトン「饗宴」の魅力が最大限引き出されている稀有な作品である。なかでも当時の哲学者や文学者のパロディという同時代性の高いプラトンの魅力の唯一性がわかりやすく、かつ楽しく描いている事に驚嘆する。特に登場人物の一人である大喜劇作家アリストファネスは、まさにパロディ界の第一人者であるはずだが、そのアリストファネスさえもパロディ化するプラトンの作家性は恐るべきものであるし、それを十全に伝える事ができている本書もまた素晴らしい傑作でなのである。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
城郭は色んなものを後世に与えてくれる。それは城主のパーソナリティだったり、歴史そのものであったりする。文字資料は嘘をつく事ができるが実際にそこにあった城郭はこれらの貴重な情報を赤裸々に語ってくれる。だが後世のぼく達はちゃんと城郭からのメッセージを受け取れているのだろうか。荒廃が進んでしまったり、史実を捻じ曲げて修繕されてしまったり、またある政治的な意図に利用されたり。城郭はただそこにあるだけなのに、ぼく達はそれをそのまま受け取る事ができない。本書からは城郭考古学の面白さともどかしさが伝わってくる良書である
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
戦国史の本が売れる理由は血肉湧き踊るヒロイックな物語であるだけでなく、本書のように「実用的」に読み替えられる特性があるからだろう。本書は驚く程歴史を実践する事に逡巡がない。著者はあとがきで「賢者は理屈で動き、愚者は感情で動く」としたり顔で書いている。では感情を抑圧すれば失敗しないのか。本書は冒頭「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というテーゼを掲げながら途中から放棄しているのは示唆的である。偶然性の存在を否定出来ないながらなんとか歴史の再帰性を信じたい、分裂した著者の主張が投影されているのだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書は一次資料から道長と紫式部を再構成していくのだが、著者が言うように確かにそれは面白い。大河ドラマのように関係性を偽装する必要はないだろう。だが同時にこの時代に興味が持たれない理由も明確だ。どうやら著者は大衆は戦争がないと興味を持たないと思っているようだが、それだけではないだろう。端的に自分とは無関係だと感じるからに違いないのだ。大衆を愚民と蔑む貴族様たちの政争に、誰が興味を持つというのか。と同時に本書もまた大衆をフィクションでしか歴史を楽しめない愚民だと言っているように感じる。その態度では絶対にダメだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
「虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカなオッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。」本書は坂口安吾による太宰治論なのだが、太宰治の入水を惜しみながら、しかし彼のフツカヨイ的な態度には否定的であるという大変バランスの取れた批評である。フツカヨイとは正常でも酩酊でもない。ただ昨夜の自分の不摂生によって背負わされた気持ち悪さを抱えながら、恥ずかしく腹ただしい。太宰治はまさにフツカヨイ的な限界を引き摺っているのだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
四大文明で高度な数学が発達し、紆余曲折ののち西洋数学に収斂していく。現代は西洋数学一強の時代であるわけだ。なぜ数学は一つに収斂してしまうのだろうか。表層的に考察すれば普遍性とか絶対的な正しさみたいなものが数学には具備されているからと答えざるを得ないだろう。だがもう少し深く考えてみたい。例えば普遍性や正しさの背景に、人類共通の条件があるのではないか。手指が10本とか目が二つとか身長が大体同じとか、そういう条件から普遍性や正しさが生成されているのではないか。数学は人類の根本性を暴き出す助けになるのかもしれない
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
江戸時代から識字率が高いという事を日本人は誇りがちだが識字率と一口に言ってもグラデーションがある。文字を書ける人、読めるだけの人、姓名のみ書ける人などである。本書はかなり精緻にエビデンスを出しており、ある種の幻想を打ち砕くには充分だろう。他方、日本人が読み書きの勉強する時に使う教材が「往来物」というのは大変興味深い。つまり歴史上有名な手紙を使ったわけだが、ここからある傾向を持った歴史観が定着していったのではないか。腰越状や直江状から読み書きの勉強をした人々は、きっとメンタリティにも多大な影響があったはずだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書は神話における贈与の失敗の表象から交換に移行していく様子を描く。なかでも聖杯(コルヌコピア)に対しての分析は大変興味深い。無限の富を噴出する聖杯が地上に豊穣と荒廃をもたらす様は、資本主義的な精神性を感じさせる。他方で、果たしてこのような贈与的世界観に妥当性があるか疑問である。神話においても贈与は常に失敗(=交換)の可能性を示唆する。著者はこの事をかつて贈与が存在していた証左だと主張するが、そもそもはじめから失敗の可能性を内在している贈与は、理想として描かれた空想の産物ではないかという気がしてならない。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
改めて本書を再読してみると以前読んだ時には気にならなかった箇所が気になってしまうようになる。遠野の怪異は前近代的な想像力が近過去にあった事を「この話は○年前に起こった」という文言で表している。近代化によって捨て去ってしまったものを再度汲み上げようとする柳田の意図がここに垣間見えるのだ。遠野という中央から周縁化された寒村で起こる数々の怪異は、現代人の目線で見れば殺人・窃盗・拉致監禁など残酷な事件に他ならない。しかし、遠野という土地ならではの怨念がその事件を脚色する。安倍貞任やアイヌ、山の民という要素である。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書は民俗学に興味を持ってもらう為に書かれた。とはいえ内容はそこまで子供騙しとも言えない。本書は多種多様な伝説を収録したものだがなかでも大師講の由来は興味深い。全国に弘法大師伝説が流布されているが、どうやら「だいし=大子=おおご」という神の伝説が読み方の混同を通して弘法大師に収斂していったのではないかとしている。また、片目片足という欠損に対する聖性の問題、でんぼやちんば(跛)という歩行の問題が取り上げられており、この辺りはもう少し論を進めて欲しかった。弘法大師もちんばだったという説もあり興味が尽きないのだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
「哲学は現実について考えるのではなく、現実の中から考えるのである」という出発点から始める本書は、現実とは「現実存在のもの」であり、それは世界であり、そして世界とは環境であるとして論を進める。人間は環境を作る。しかし人間も環境である。主観と客観は相互補完的に存在を分化し認識し合っている。ベースは西洋哲学だが、そこには濃厚に東洋哲学の直観が働いている本書は、まさに著者自身や西田哲学の入門であり、京都学派の真髄が語られているのだろう。ただし入門である事がびっくりである。まだ端緒である事に戦慄せざるを得ないのだが
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
再読だがやはり大変面白かった。なぜ著者の著作がこんなに面白いのかは、読みやすい軽妙な筆致や、恐ろしく的を射た要約や、哲学者の主張とパーソナルな部分を上手く重ね合わせた論述のみに帰せられるだけではあるまい。もっと根本的な部分に、著者の哲人たちへのリスペクトが垣間見えるからではないかと思う。著者は過去の哲人たちを、彼らの時代的制約を前提にして紹介する事で現代の感覚から評価を下す事をしないのだ。だから本書は哲人たちの偉大さを現代人に伝える事に成功しているのだろう。しかし改めて「刃牙」はちゃん読まないとダメだなぁ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
ニーチェから元気をもらい、そして好きになる良書。著者のニーチェに触れる経緯も語られており、納得感が高い。また、哲学には白哲学と黒哲学があるという整理は結構敷衍できるのではないか。ニーチェは当然黒哲学なのだが、つまり実存(現実存在)を扱っている哲学であり、理屈に偏って理解しようとしても限界がある。体験によって理解しなければならないのだ。ニーチェというと、末人や永劫回帰、神は死んだなど暗いキーワードの多い哲人だが、著者によるとそうではない。エピクロスにも繋がるような、生を肯定し楽しく生きる事を提示しているのだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書を読んでいて幾たびも落涙しそうになった。触覚は何の記録も残らない。ただぼんやりした記憶の中で、亡霊の様にぼく自身にこびりついている。不思議な事に触覚は視覚や聴覚とは違い、直接ぼくの心に触れてくるのだ。だからこそぼくは本書を読んでいて感情を強く揺さぶられるのであろう。ぼくはまだ全然大人になれていない人間で、きっとぬいぐるみが好きなのも触覚の力による所が大きいと思う。また同時に強く不快な思いを想起するのも触覚の経験である。本書はぼくがレヴィナスを読んで指摘してくれなかったもどかしさを回収してくれた気がした
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書はアンナという異国の友人との交流から、その強烈な個性の源流を辿るため、帝政ローマ末期の神学論争を中心に著述されるが、大変難しい。まず、論の中心が東方ローマであり馴染みが薄い事と、哲学と神学を読者に阿って分離していない事が大きな原因だろう。だが面白い箇所も沢山あり、特に東方ローマの超越論的な神学が、後継の正教会のみならず西方ローマにもちゃんとインストールされており、おそらくその残滓を友人アンナから著者は感じ取っているのだろうという事だ。相反するものを内包し、その融合を試みる営みが、アンナにもあったのだ。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
半藤一利の作品を読むのは十数年ぶりでしかも本書は亡くなった後の作品という事で、大変感想が書きにくい。ぼくは著者の良い読者ではなく、また本書で多く引用されている司馬遼太郎の全然好きではない為、基本的に批判的な態度で読書してしまう事になる。また石橋湛山すごいみたいな言説もかなり疑いを持って接してしまう。他方で、歴史を物語化する事に全然抵抗がない著者の著述は、それはそれでかなり問題含みである事を踏まえながら、ぼくは好意的に解釈できる。そして歴史を教訓として実践しようとする屈託のなさも微苦笑を禁じ得ない良さがある
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
著者の「中動態の世界」に感銘を受けて本書を読むと、あの本はスピノザがベースにあった事に気がつかされる。スピノザにとっての自由とは能動(=自分が原因の行動)だと言う。外部からの強制の一切ない状態で、自分のみが原因となる行動こそが自由であると。ぼくの「中動態の世界」を読んだ時の感想は、ぼく達は自由ではあらないからこそ運命のようにやってくる外部からの強制性によって行動してしまう(=中動態)事を、むしろ積極的に引き受ける(=受動的能動)事が必要だと感じていた。本書を読むと、それは著者の意図とは違う読みであるようだ
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
西洋編も大変面白かったけど東洋編はそれを上回る面白さだった。東洋哲学はどうしても面白く読めなかった所があるが、本書で指摘している東洋哲学の特徴を理解すると納得した。東洋哲学は結果重視であり体験がその根本にあるのだ。そして悟りに至ってもアウトプットは何も変わらない。自身の内面が変わっている事が重要なのだ。他方中国哲学の解説も興味深い。本書を読むと孔孟老荘、韓非子に墨子も全部面白い事に驚愕する。特に韓非子と墨子は原典未読の為すぐにでも読みたくなった。また書きたくなかった老子、書きたかった荘子という指摘も面白い
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
「国家」と邦訳される「ポリテイア」は超訳といってもよいようだ。本書は日本における「ポリテイア」及びプラトン受容の歴史を辿っており興味深い。まずプラトン対話篇を訳すにあたり新しい日本語の創造が必要であった。明治初期の文語体ではプラトンの対話は表現できないのだ。そして戦前は英訳の重訳として「理想国」という邦訳がつけられた。同時に「理想」という単語も生み出された。他方プラトンは近代世界で全体主義や社会主義の起源として解釈されたが、戦後日本では非政治的な哲学書として脱臭されて受容された事で見落してしまった事が多い
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
本書で描かれる中国史は杉山正明の著作を極端にした感じであり、話半分に聞いておいた方が良いだろう。ただ、長江文明や任那については勉強したいと思っていたので少し参考になった。本書は中国や韓国の歴史認識への反論という動機が強く少々うんざりするが、逆になぜこんなに東アジアは歴史戦を繰り広げなければならないのだろうか。本書を読んでいても、日中韓で共通の歴史観は絶対に合意できないだろうという気がしてならない。factを提示するだけでもバイアスはかかるので、共通の歴史認識は合意できないという諦めが重要なのかもしれない。
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
中国人の持つ日本人観の淵源は倭寇であり凶暴な野蛮人としての認識は現代にまで続いているテンプレなのかもしれない。そしてその象徴が日本刀というのも大変興味深い。とはいえ「日本一鑑」の著者である鄭舜功はもう少しバランスの取れた報告をしているのだが、寧波事件や戦国時代の世相も手伝ってかなり印象が悪くなっているのは隠すべくもないであろう。問題はこのような歴史的背景を踏まえ中国人は日本人をどのように見ているかについて理解した方が良いという事だ。自己認識と他己認識が隔絶している日中関係を少しでも改善すべく考えていきたい
が「ナイス!」と言っています。
みのくま
福沢諭吉の脱亜入欧の行く末は、脱亜したものの入欧などできるはずがない現実であり、アジアに戻る事もできない孤立した日本の姿であった。日本の失敗は植民地の皇民化政策であり、他者の文化を軽視した同一化の強要であったというのは興味深い。荒れ狂う欧米列強の帝国主義路線ではかなり宥和的な政策であるようにも感じるが、しかし同時に脱亜入欧の不徹底さが露呈したとも言える。元々歴史的にも日本は中国を中心にした東アジア世界に入り込んでいるわけではなく、常に距離をとっていた。その凝集性を見据えつつ何ができるかを考えねばなるまい。
が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2015/01/22(3376日経過)
記録初日
2014/11/01(3458日経過)
読んだ本
965冊(1日平均0.28冊)
読んだページ
274027ページ(1日平均79ページ)
感想・レビュー
833件(投稿率86.3%)
本棚
11棚
性別
年齢
36歳
職業
営業・企画系
現住所
東京都
読書メーターの
読書管理アプリ
日々の読書量を簡単に記録・管理できるアプリ版読書メーターです。
新たな本との出会いや読書仲間とのつながりが、読書をもっと楽しくします。
App StoreからダウンロードGogle Playで手に入れよう