アリアもまた、ポールの分身と言えないか。ハルコンネンや皇帝という敵を捩じ伏せ、権力の頂きに立とうとするポールは、つまり次なる敵が自分自身であることを読者はページを閉じたあと、その未来視として知る。
アシスタントをしていただけあって、赤塚不二夫に多くが割かれているが、スタジオゼロのことも詳しく語られていて、この辺りの証言は貴重。また、北見の代表作である『釣りバカ日誌』裏話も興味深い。
臨場感たっぷりにつかこうへいという演劇人を、あるいは人間を活写する。そんな空白期において長谷川の焦点が熱く注がれるのが、NHKのドラマ『かけおち‘83』と韓国で上演された『ソウル版・熱海殺人事件』であるのが興味深い。また、沖雅也との交流も避けずに記していて(なぜなら、そこからもつかという人間が確かに感じられるからだ)強い印象を残す。とはいえ、本著で何度も長谷川が繰り返しているように、解散後のつか芝居ではなく、やはり劇団時の舞台こそがつかこうへいであり、(つづく)
その凄さは生で観た者にしか理解し得ないという主張には悔しい思いがする。このちゃぶ台返しとも言える身も蓋もない真実は、演劇の宿命であるとともに、その宿命を信じ、生きたつかこうへいの真実でもあるのだろう。つかの舞台を初めて観たのが、まさしく解散後の『今日子』からである俺などは長谷川に言わせれば論外に違いない。
伝説や神話が、そんな人の視界の狭さから生まれたものだとしたら、そこに描かれている神を人はどう信じたらいいのか。「……あんたは、祖先から伝えられたことを、真実という。けど、過去になにが起きたか、だれにもわからない。ほんとうのところは、だれにもわからない」噂が本当のことかどうかわからないと疑うのも困難であるのに、神話を疑うことはどれほど困難なことか。
臭気は気配として否定することは容易だ。しかし、認識できぬ“古のものども”が姿を現した時、それを打ち消すことなど不可能だろう。その時、人間は許されていた支配者の地位から否応なく引き摺り下ろされるのだ。
もちろん、現在の小池ならもっと上手く書けただろうと思われる描写や展開の不満がなくはないが、主人公の男性とペンションの娘とに共通する罪悪感の記憶を対比し、やがて共鳴させる構造など、のちの恋愛小説に結び付く主題が内包されているのもいい。そして『墓地を見おろす家』以上に、本作にはキングの影響を強く感じる。
悪いアイデアを不朽のものにする最善の方法は、それを書き留めておくことだ。良いアイデアは自然と残る」確かにキングの多くの作品は、何十年も前に思い付いたアイデアやある場面を発端として書かれている。それはノートにあるのではなく、キングの脳の片隅に長年残っていたものだ。映像化作品はもとより、エッセイや合作、限定版や未収録作品も網羅する、まさしく大全に相応しい充実の内容だ。
しかし、本作がただの前日譚に終わらないのは、犯人当てやミステリのメイキングの面白さだけではなく、三部作を貫くピップの人格をそこに絡めることで、三部作の主題をすでに予知させている点だ。ゆえに、侮れないこれは前日譚なのだ。
しかし、その拙さも4番目に配置された「ニューヨーク炭鉱の悲劇」までで、そこを境に「カンガルー通信」以降の作品はグンッと読み応えが大きくなるのだ。発表順に並べられた短編は、今回の復刊用に書き下ろされた春樹のまえがきによれば「カンガルー通信」までの4編が『1973年のピンボール』のあとに書かれ、「午後の最後の芝生」から後半の3編が『羊をめぐる冒険』発表後に書かれたものらしい。(つづく)
その事実を踏まえると『羊をめぐる冒険』の直前に書かれた「カンガルー通信」から短編の質が向上しているのは、なんとも興味深い。初期作品における『羊を〜』が持つ重力の強さを実感させられるからだ。
のちの寅さんから受けるイメージやメディアが安易に造形する渥美清像とはまるで違うものだ。私生活や本音を極力見せることのなかった渥美の、その素顔を都合よく妄想するのではなく、本人ではないのでわからないという前提に立って、あえて余白として配置する小林の誠実な方法論は、だからこそ謎な渥美清という人間への親しみを抱かせることに成功している。これは、そんな稀有な評伝だ。
この大胆な試みが理詰めで証明されるのではなく、血の流れるキャラクター達によって証明されてゆく躍動が、本作の肝なのだ。それはつまり『シャーロック・ホームズ』を読む理由として、ホームズの推理力に魅せられるだけではなく、その個性、そして良くも悪くも人間性に惹かれているのかもしれないという、裏の動機に思い当たらせようとする力が本作には存在するということだ(さらに言えば、事件簿の記録係としてのワトソンを通して、コナン・ドイルの心境まで想像する企みがある)。いやはや、凄い。何より、愛おしい小説だ。
とする佐藤優の指摘は興味深い。池上彰も「皮肉なことですが、寄生地主がいるからこそ革命運動も活性化し文化も生まれてくる」と語っている。「だから先進国ならともかく、日本のような後発国の革命的プロレタリアートの場合、自分たちが強くなろうとするならばまず敵を強化しなければいけないという隘路に入ってしまう」とは佐藤の弁。この歪な構造は、戦前の共産党における佐野・鍋山転向声明、あるいは袋小路に入ってしまい敵を見失った結果同志へ刃を向けるという連合赤軍事件へと繋がっているように見える。
「人間が決めることじゃないか」という表現は言い方によれば「人間が決めることだ」という意味に取れなくもない。このような曖昧さは、読者の解釈を無限にする可能性を秘めている。それに戸惑う読者もいるだろうけど、それを楽しんでほしいと田島列島は言ってるはずだ。
「趣味に自分のアイデンティティを預けるな!「本を読んでないと私らしくない」って不安を抱えながら読書することになるぞ!」という神林はカッケーし「それっぽいだけだ」という神林はさらにカッケーよ(倍速コナンマラソンを『虚航船団』第2章と重ねる彼女のことが好きだわ)。読書から思索にハマるのは『サナギさん』の作者ゆえとはいえ、そこを個性として肯定し、笑うのは、救いであり、成長でもある。ラストのエピソードで、読む側が書く側へと転化する展開こそ、実はこの作品を象徴しているような気がしてならないのよね。
本が好きです。
映画やお芝居、寄席にも足を運びます。
本は漫画をベースに、小説、評論、ノンフィクション、エッセイなど、節操なく渡り歩く日々。
読書は基本、近所のスタバでラテを飲みながら。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
この大胆な試みが理詰めで証明されるのではなく、血の流れるキャラクター達によって証明されてゆく躍動が、本作の肝なのだ。それはつまり『シャーロック・ホームズ』を読む理由として、ホームズの推理力に魅せられるだけではなく、その個性、そして良くも悪くも人間性に惹かれているのかもしれないという、裏の動機に思い当たらせようとする力が本作には存在するということだ(さらに言えば、事件簿の記録係としてのワトソンを通して、コナン・ドイルの心境まで想像する企みがある)。いやはや、凄い。何より、愛おしい小説だ。