もドゥルーズも強調していたはずだ。ソシュールはそれが、どちらが先かではなく、両面から定まるものだと言っている。私の言葉で言えば、輪郭を得てから埋まって行く感じとでも言いましょうか。言語はシニフィエが無くても、シニフィアンが無くても存在しない。けれどもシニフィエは、それぞれの言語システムの相互関係を前提とした価値を要約したものにすぎない。結論として、言語には差異しかないということ。厳密に言うと、記号などではなく、記号間の差異しかないということ。物事は結局、→
記号の恣意性という根本的な原理に辿り着く。差異によってしか、記号に機能を与えることも、価値を与えることもできないということである。長々と失礼しました。最近、過去に読んだ本の再読を始めていて、やっぱこの頃が一番情熱的だったなと苦笑しております。過去のメモを参考に再読していますので、細部までは読んでいませんが、概ね外してないはず汗。これから哲学を学ぶ方の参考になれば幸いです。有難うございました。了
だがその現前に本質があるわけではない。眼に映した時に本質が現れる。しかしその瞬間は一枚の画像でしかなく、次の瞬間には真実を語っていない。この部分にメルロの哲学の本質を見ることができる。実存主義と言われながら、そこに収まりきれない何かの存在を認めること。本書の中で、ホワイトヘッドに触れているのも嬉しかった。なぜなら、ホワイトヘッドが実存主義の対局にあるような思想で、現代になって、仮想現実のような実存主義的思想が再び巡って来るなんて、私にとっては胸躍る出来事なのだ。現代哲学は既に世界以外のものを許容し、→
科学と非科学をひっくるめて理解しようとしていると私は思う。だから実存主義が間違っているわけでもなく、実存主義が否定した見えないものを存在させる抱握もまた間違っているとは言えない。哲学の歴史は、この繰り返しだったのかもしれないが、必要な繰り返しだったと言うか、ドゥルーズに言わせれば、一度目は過去に対して折り畳まれ、二度目は未来に対して折り畳まる。その積み重ねで現在がある、なんて言うかもしれない笑。そう言うわけで、今回は私のとりとめのない戯言で失礼する。了
その最初の分岐点であったかもしれない。未熟な人間が後者を選び、成熟した人間が成長という名の仮面をまとい、社会の中で立ち振舞うとは思わないが、目と耳を塞ぎ、思考停止するような人生に何の意味があろう? これを危険思想と考える大衆側にだけは絶対になりたくない。若かったあの頃だけではなく、歳を経ても心に火を灯す文学というものがある。「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ時、僕は十六歳の頃を鮮明に思い出した。物語の最後に主人公が妹のために自らの過激な思いを断念するシーンがある。このシーンが一番好きだな。人は世の中の→
見えない枠から踏み外したと感じた瞬間から、孤独を得て大人になる。ライ麦畑の中を一人で走ることに似ている。孤独で、恐いはずだ。自らの心の声だけを頼りに進むのだから。今、君は自らの心の声を聞いているだろうか? 世の中の糞インチキに惑わされていないだろうか? 金や名誉に大切な自分自身を売り渡してはいないだろうか? 人生はきっと、あっと言う間に終わりを迎える。私が大人になっても小説を書き続けるのは、それが自分自身の心の声を聞くことであり、小説を書くことが自らの心のセラピー、つまり癒しであると気付いたからである。了
思考の根底に置いているということ。つまり物事の構造を組み換えて、その差異によってそのものを認識するのではなく、そうではなくて、物事の根底から分岐していることの総体をありのまま捉えること。差異が生じるのではなくて、初めから差異として始まっていることを認識すること。それは類似していて、殆ど差異がないかもしれない。けれどもそれを差異と捉えるために、心を研ぎ澄ませる。私は私自身なのだと。僕は今、全てが機械化された世界を想像している。フーコーの考古学とは「システマチック」に捉えることであり、そこに確定された意味や→
有機的な主体など無い。再構築などしない。弁証法的なものなど必要無い。差異は袂から分かれている。構造主義と一線を画すところから、私は私というこの時代の一つの地層として、人生を生きてみたいと思う。繰り返しになるが、知はその時代、その時代によって、時と場所が変われば本質も変わるのだ。だから、科学や学問を地層の全てだと思わずに、そうかといってその時代の叡智を軽んずることなく、自分は自分の歴史を創ればいい。それが知の考古学。そこにはきっと全ての時代を貫くアルシーヴがあるはずだから。了
色彩から二度に渡って到来する。一度目は中間的な色調の変化において「過ぎ去る時間」として。二つ目は平塗りの単一色において「時間の永遠性」として。噛み砕いて言うと、ダイアグラムとは、言い表せないものを図で示したもの。そして、ダイアグラムの本質とは、何かがそこから出現するために、それは「ある」ということ。何も生まれなければ失敗ということになる。要するに、→
我々が芸術作品から受ける「ショック」という直感が、芸術作品の価値であり、そこには物語性も説明もなく、極論すれば意味も無く、ただ、それが一体どういうことなのか? を解明した哲学なのである。了 アップしている途中で、いきなり原稿が消えてしまって、復元できたかまだ確認できていません。参りました。途中、意味不明な箇所あるかもしれませんが、ご容赦ください。
好きな作家は開高健、大江健三郎、安部公房、遠藤周作、村上春樹、大沢在昌、北方謙三など。海外ではヘミングウェイ、クンデラ、ブロツキー、ヘッセなど。
哲学書が大好物で、特にホワイトヘッド、ドゥルーズ、フーコー、デリダを愛読。根底にはプラトン。ハイデガーも好き。他にはサルトル、ソシュール、レヴィストロース、に影響を受けました。
お酒も好きだし、美味しいものが好き。料理好き。釣り好き。フライマンです。最近はハゼ釣りばっかしてますけど笑。
コメントは嬉しいです。お気に入りは波長が合えば(笑)
ワダヒロタカの人生を楽しむ方法
https://ameblo.jp/wadayamethod/
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その最初の分岐点であったかもしれない。未熟な人間が後者を選び、成熟した人間が成長という名の仮面をまとい、社会の中で立ち振舞うとは思わないが、目と耳を塞ぎ、思考停止するような人生に何の意味があろう? これを危険思想と考える大衆側にだけは絶対になりたくない。若かったあの頃だけではなく、歳を経ても心に火を灯す文学というものがある。「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ時、僕は十六歳の頃を鮮明に思い出した。物語の最後に主人公が妹のために自らの過激な思いを断念するシーンがある。このシーンが一番好きだな。人は世の中の→
見えない枠から踏み外したと感じた瞬間から、孤独を得て大人になる。ライ麦畑の中を一人で走ることに似ている。孤独で、恐いはずだ。自らの心の声だけを頼りに進むのだから。今、君は自らの心の声を聞いているだろうか? 世の中の糞インチキに惑わされていないだろうか? 金や名誉に大切な自分自身を売り渡してはいないだろうか? 人生はきっと、あっと言う間に終わりを迎える。私が大人になっても小説を書き続けるのは、それが自分自身の心の声を聞くことであり、小説を書くことが自らの心のセラピー、つまり癒しであると気付いたからである。了