読書メーター KADOKAWA Group

Kazuko Ohtaさんのお気に入られ
448

  • W-G
    • 1979年
    • O型
    • サービス業
    • 東京都

    こころなしか、最近小さな文字が読みづらくなってきている気がして不安いっぱいの40代半ばです。

    転勤が続いてコロコロ現住所の設定を変えていましたが、実は3年ほど前から東京に戻ってきており、しばらくは落ち着きそう。2024年は都内やその近郊の本屋・カフェ巡り

    を楽しみたいと思っています。

    今迄に衝撃を受けた作品トップ3は、

    アガサクリスティ「アクロイド殺し」
    島田荘司「占星術殺人事件」
    京極夏彦「魍魎の匣」

    でしょうか。

    このレベルの衝撃をもう一度味わいたくて、コツコツと読書生活継続中。

    2016年2月以降に読んだ本しか記録してませんが、割と再読する派なので、都度アップします。

  • K
    • 2003年
    • A型
    • 大学生
    • 滋賀県

    短編小説【ジャンル:SF】少し修正

    『量子の彼方で眠るもの』

    第一章 シュレディンガーの囁き

    僕が彼女と出会ったのは、五次元通信の実験室だった。

    深夜の研究棟は静まり返り、冷却装置の低い唸りだけが部屋に満ちていた。
    机の上では、量子ビットの状態を示

    すモニターが淡い光を放っている。

    僕の夢は、宇宙の観測問題を解くことだった。

    観測とは何か。
    なぜ世界は確定するのか。

    もしそれが分かれば、宇宙の仕組みの半分は説明できる。

    父は昔、僕に言ったことがある。

    「物理なんて、現実の役には立たない。」

    その言葉を聞いたとき、僕は悔しくてたまらなかった。
    だからこそ、証明したかった。

    世界の本当の姿を。

    もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。
    それでも僕は、この装置の前に立ち続けていた。

    机の上には、妹がくれた古い万年筆が置いてある。
    試験に合格した日に、彼女がくれたものだ。

    それを見るたびに、僕は思い出す。
    ここまで来た理由を。

    そのときだった。

    背後で、誰かが静かに言った。

    「この宇宙は、無限に分岐している。」

    振り向くと、そこに彼女が立っていた。

    白衣を羽織った、見知らぬ女性。
    長い黒髪が、実験室の白い光の中でゆるやかに揺れている。

    「観測するたびに、世界は分かれる。
     私たちは、その枝のひとつを生きているだけ。」

    彼女はそう言って微笑んだ。

    その笑みは、なぜか懐かしくて、そしてどこか恐ろしかった。

    「君は……誰だ?」

    僕は思わず聞いた。

    彼女は少し首をかしげてから答えた。

    「アマリリス・シュレディンガー。」

    どこか冗談のような名前だった。
    だが彼女の瞳は、冗談とは思えないほど静かで深い。

    まるで、宇宙の奥行きそのものを映しているようだった。

    僕の名は相澤凛久(あいざわ りく)。
    二十五歳。大学で理論物理を学びながら、量子情報転送の研究をしている。

    量子重ね合わせ。
    多世界解釈。
    観測問題。

    そのあたりの理論なら、人並み以上に理解しているつもりだった。

    けれど。

    彼女の存在は、僕の知識の枠を軽々と越えていた。

    「君は……どこから来たんだ?」

    僕の問いに、彼女は少しだけ笑った。

    「私は、ここにいるし、いないわ。」

    その声は不思議だった。
    確かに聞こえているのに、どこか遠くから届いているような響きがある。

    「この世界はね」

    彼女はゆっくり歩きながら、実験装置に触れた。

    「あなたたちが思っているほど、確かなものじゃないの。」

    モニターに表示された量子状態が、わずかに揺れた気がした。

    「世界は観測によって形を持つ。
     観測者がいなければ、宇宙はただの可能性でしかない。」

    彼女は僕の方を見た。

    「そして——」

    その瞬間、僕は息を呑んだ。

    彼女の瞳の奥に、無数の光が見えたからだ。

    星のようにも、粒子の軌跡のようにも見える光。

    「あなたはもう、観測者じゃない。」

    心臓が強く跳ねた。

    その言葉が、頭の奥で奇妙に反響する。

    観測者じゃない?

    それはどういう意味だ。

    次の瞬間、僕の意識の奥で何かが弾けた。

    まるで脳内の高エネルギー粒子が衝突したときのように、世界が一瞬だけ揺らいだ。

    視界が、わずかにずれる。

    机の位置。
    モニターの光。
    彼女の立ち方。

    すべてが、ほんの少しだけ違う。

    僕は机をつかもうとした。

    だが——

    指がすり抜けた。

    机はそこにある。
    でも、僕は触れられない。

    「どうしてだ……」

    声が震える。

    アマリリスが静かに言った。

    「あなたは観測者じゃないから。」

    背中が冷たくなった。

    「あなたは、“観測される側”になったの。」

    「あなたは、宇宙の中の一つの現象になったの。」

    もし僕が決まらなければ。

    僕は一生、存在しないままになる。

    そのとき。

    僕の視界の端で、何かが動いた。

    研究室の廊下。

    ガラス越しに、誰かが歩いている。

    よく見ると——

    それは僕だった。

    廊下の向こうから、もう一人の僕が歩いてきた。

    その瞬間、僕は理解した。

    ——いや、理解してしまった。

    ここは。

    僕の知っている宇宙じゃない。

    そして彼女は、静かに囁いた。

    「ようこそ、分岐点へ。」

    第二章 量子幽霊

    目の前のアマリリスの姿が、ふっと揺れた。

    空気の中に溶けるように、輪郭がぼやける。

    まるで、存在がまだ確定していないかのようだった。

    僕は息をのんだ。

    「僕は……観測者じゃないって、どういう意味だ?」

    彼女は静かに僕を見つめた。

    その瞳は深く、どこまでも落ちていきそうなほど暗かった。

    「あなたはもう、この宇宙の“基底状態”には存在していないの。」

    言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

    「……待ってくれ」

    僕は思わず、自分の手を見た。

    そこにあるはずの手。

    けれど、何かがおかしい。

    重さがない。

    触れているはずの空気の感触が、妙に薄い。

    まるで、自分の身体が世界から半歩ずれているような感覚。

    「これは……」

    僕は恐る恐る机に触れようとした。

    指先が、机の表面に届く。

    だが。

    触れたはずなのに、触れた感じがしない。

    僕は凍りついた。

    「……なんだよ、これ」

    アマリリスは静かに言った。

    「あなたは今、存在と非存在の狭間にいる。」

    その声は落ち着いていた。
    まるで、この状況が当たり前であるかのように。

    「そんなはずない!」

    思わず声が荒くなる。

    「僕はここにいる。見えるだろ?」

    その瞬間だった。

    彼女が、ゆっくりと手をかざした。

    すると。

    僕の腕の一部が、ふっと透けた。

    光の中で、形がほどけていく。

    まるで霧のように。

    心臓が強く跳ねた。

    「……なに、してるんだ」

    声が震えた。

    僕は自分の腕を必死に見つめる。

    そこにあるはずの肉体が、ゆらゆらと揺れている。

    まるでこの世界に完全には属していないみたいに。

    「……僕、消えるのか?」

    アマリリスは首を横に振った。

    「違うわ。」

    そして、静かに言った。

    「あなたは幽霊になったわけじゃない。」

    僕は息を止めた。

    彼女は続ける。

    「あなたは、“観測される側”になったの。」

    意味が、すぐにはわからない。

    僕はただ、彼女の顔を見つめるしかなかった。

    アマリリスは、僕の理解が追いつくのを待つように、ゆっくりと言葉を選んだ。

    「これまでのあなたは、世界を見ていた。」

    「観測者として、宇宙に影響を与える立場だった。」

    「でも今は違う。」

    彼女は一歩近づいた。

    「あなたは、宇宙の中の一つの現象になったの。」

    胸の奥がざわめいた。

    「……つまり」

    喉が乾く。

    「僕は、宇宙の一部になったってことか?」

    彼女は微笑んだ。

    それが答えだった。

    僕は、ようやく理解した。

    僕はもう、世界を外から見ている存在じゃない。

    この宇宙の中で揺らぐ、ただの一つの確率。

    背景に流れるノイズのようなもの。

    「でも……」

    声がかすれる。

    「なんで、こんなことに?」

    アマリリスの瞳の奥で、無数の光が瞬いた。

    星のようにも見えるし、粒子の軌跡のようにも見える光。

    「あなたが選んだからよ。」

    「僕が?」

    「ええ。」

    彼女は静かにうなずいた。

    「あなたは、世界の本当の姿に近づきすぎた。」

    「そして、“知る”ことを選んだ。」

    胸が強く締めつけられる。

    「だから、観測者ではいられなくなったの。」

    研究室の空気が、急に広く感じられた。

    世界の輪郭が、少しずつぼやけていく。

    僕は、小さくつぶやいた。

    「……じゃあ」

    「僕はもう、元には戻れないのか?」

    アマリリスは、少しだけ考えるような顔をした。

    それから言った。

    「戻れるかどうかは——」

    彼女はゆっくりと手を伸ばした。

    細い指先が、僕の額に触れる。

    「あなたが、どう観測するか次第ね。」

    その瞬間。

    世界が揺れた。

    床も、壁も、光も、音も。

    すべてが水面のように波打つ。

    僕の身体は、確率の海の中でほどけていく。

    そして僕は思った。

    ——僕は、まだ存在しているのか?

    それとも。

    もう、観測されるだけの“何か”なのか。

    第三章 シュレディンガーの牢獄

    彼女の指先が額から離れた瞬間、世界は崩れた。

    床も、壁も、光も、すべてが音もなくほどけていく。

    僕の意識は、暗い裂け目の中へゆっくりと沈み込んでいった。

    いや——落ちているわけではない。

    漂っている。

    どこにも触れず、どこにも属さず、ただ存在しているだけ。

    「……観測次第、って言ったよな」

    声を出したつもりだった。

    けれど、音は生まれなかった。

    言葉そのものが、空間のどこにも届かず、消えていく。

    まるで、この世界が僕の言葉を受け取る仕組みを持っていないみたいだった。

    そのときだった。

    「そう。あなたは今、“決定”の外側にいる。」

    アマリリスの声だけが、はっきりと響いた。

    どこから聞こえてくるのかは分からない。

    けれど、その声は確かに僕の意識の中心に届いていた。

    僕は自分の手を見た。

    やはり、半透明だった。

    輪郭があいまいで、時々、粒子のような光になってほどける。

    「……どうすれば、戻れる?」

    僕は思った。

    その思考は、どうやら彼女に届いたらしい。

    「簡単なことよ。」

    アマリリスは言った。

    「観測を取り戻せばいい。」

    観測。

    その言葉が、妙に重く響く。

    「あなたは今、シュレディンガーの猫と同じ状態にあるの。」

    彼女の声は静かだった。

    「存在しているとも言えるし、していないとも言える。」

    「そのままでは、あなたの状態は決まらない。」

    僕は理解しかけていた。

    いや、理解したくなかったのかもしれない。

    「……つまり」

    僕は考える。

    「僕は今、“決まっていない”存在ってことか」

    「ええ。」

    彼女は迷いなく答えた。

    「あなたは今、可能性の中に閉じ込められている。」

    その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。

    「じゃあ……」

    「誰かが僕を観測すれば、僕は確定するのか?」

    「そうね。」

    アマリリスは少しだけ間を置いた。

    「でも問題があるわ。」

    「……何だ?」

    「今のあなたを観測できるのは、あなただけよ。」

    僕は思考を止めた。

    意味が分からない。

    「……僕が、僕を観測する?」

    「そう。」

    彼女の声は変わらず穏やかだった。

    「でも、今のあなたには観測者としての主観がない。」

    その言葉は、ゆっくりと僕の中に沈んでいった。

    「あなた、自分が今どこにいるか分かる?」

    僕は答えようとした。

    だが、言葉が出ない。

    気づいてしまったからだ。

    僕は確かにここにいる。

    でも——

    ここがどこなのか分からない。

    空間の位置も。

    時間の流れも。

    何一つ確信できない。

    まるで、座標軸のない空間に投げ出されたようだった。

    上も下もない。
    前も後ろもない。

    世界を測る基準そのものが、消えてしまったみたいだった。

    それだけじゃない。

    もっと根本的なことが、揺らいでいる。

    「僕は……」

    言葉にならない思考が浮かぶ。

    僕は、本当に僕なのか?

    その瞬間、恐怖が胸の奥で膨らんだ。

    アマリリスが静かに言った。

    「観測というのは、世界を決める行為。」

    「同時に、“自分が自分である”と確定する行為でもある。」

    「でも今のあなたは、それを失っている。」

    僕は理解した。

    今の僕には、“僕”という中心がない。

    だから存在も決まらない。

    僕はただ、確率の海に浮かぶ一つの可能性に過ぎない。

    「……じゃあ」

    僕は必死に思考をまとめた。

    「僕はどうすればいい?」

    アマリリスは答えた。

    「自分自身を観測すること。」

    「そんなこと、できるのか?」

    「できるわ。」

    その瞬間。

    暗い空間に、光が生まれた。

    アマリリスの指先が空間をなぞる。

    すると、そこに数式が浮かび上がった。

    Ψ(x,t) = Σ Cₙ φₙ e^(-iEₙt/ħ)

    量子力学の波動関数。

    可能性の重ね合わせ。

    その意味は、あまりにも明白だった。

    「あなたの存在は今、確率の海に広がっている。」

    アマリリスは言う。

    「でも、完全に消えたわけじゃない。」

    「あなたが選べば——」

    「一つの存在として収束できる。」

    選ぶ。

    その言葉と同時に。

    世界が開いた。

    僕の前に、無数の“僕”が現れた。

    別の人生を生きる僕。

    違う街で暮らす僕。

    研究者ではない僕。

    すでに死んでいる僕。

    誰かを愛している僕。

    誰にも出会わなかった僕。

    そのすべてが、可能性として漂っている。

    無数の世界。

    無数の人生。

    そして、その中心にいる僕。

    アマリリスの声が静かに響いた。

    「あなたは、どの“あなた”でありたい?」

    僕は、息を呑んだ。

    選ばなければならない。

    選ばなければ、僕は永遠に決まらない。

    観測されない存在。

    可能性の亡霊。

    ——シュレディンガーの牢獄の中で。

    僕は、ゆっくりと目を閉じた。

    そして考えた。

    僕は。

    どの“僕”を選ぶ?

    第四章 波動関数の崩壊

    無数の“僕”が、そこにいた。

    暗い空間の中で、星のように浮かび上がる無数の人生。

    ある僕は、満員電車に揺られている。
    スーツ姿の会社員として、どこにでもある日常を生きている。

    ある僕は、研究室の白い光の下で数式を書き続けている。
    量子力学の奥底にある真理を追い求める研究者だ。

    ある僕は——

    もう、息をしていない。

    事故で命を落とした僕。
    病院のベッドで静かに目を閉じた僕。

    無数の人生。
    無数の可能性。

    そして僕は、そのすべてを同時に見ていた。

    いや。

    見ているというより——

    感じている。

    それぞれの人生の重さ。
    喜び。
    後悔。
    恐れ。

    すべてが、僕の中に流れ込んでくる。

    「選ばなければ、あなたは確定しない。」

    アマリリスの声が、遠くで響いた。

    その声は静かだった。

    けれど、逃げ場のない重さを持っていた。

    選ばなければならない。

    だが、僕は立ち尽くしていた。

    どの人生を選べばいい?

    何を基準に?

    どの僕が、本当の僕なんだ?

    そのとき、ふと気づいた。

    ——違う。

    この問いの前提が、間違っている。

    「本当の僕」なんてものは、最初から存在しない。

    僕がどれを選ぶかによって、

    初めて“僕”が決まる。

    僕は、今この瞬間に、自分を作るのだ。

    胸の奥で、何かが静かに定まった。

    恐怖は消えていた。

    代わりに、奇妙な確信があった。

    僕は、ゆっくりと手を伸ばす。

    無数の人生が目の前に広がる。

    どの人生も、あり得た未来だ。

    どれも、僕だった可能性だ。

    その中の一つに、僕は指を向けた。

    研究室の光の中で立っている僕。

    数式に囲まれた、あの人生。

    「……この僕だ。」

    その瞬間だった。

    世界が、急激に収縮した。

    無数の光が、一斉に震える。

    可能性の海が激しく波打ち、
    すべての未来が崩れ始める。

    星のように浮かんでいた“僕”たちが、次々に消えていく。

    会社員の僕。

    別の街で暮らす僕。

    愛する人と出会った僕。

    すでに死んでいた僕。

    すべてが、静かにほどけていく。

    残るのは、ただ一つ。

    僕が選んだ人生だけ。

    強烈な引力が、僕の意識を引き寄せる。

    空間が折りたたまれる。

    時間が一本の線に戻る。

    可能性は閉じ、世界は一つになる。

    波動関数が——

    崩壊する。

    次の瞬間。

    視界が真っ白になった。

    音も、光も、感覚も。

    すべてが消える。

    ただ一つ、最後に聞こえたのは。

    アマリリスの、かすかな囁きだった。

    「いい選択よ。」

    そして僕は、

    再び“存在”へと落ちていった。

    第五章 観測者の眼

    ゆっくりと、意識が浮かび上がってくる。

    深い水の底から、静かに水面へ戻るような感覚だった。

    まぶたの裏に、ぼんやりと光が広がる。

    そして——

    僕は目を開けた。

    見慣れた天井があった。

    白い天井。
    細いひびの入った壁。
    机の上のスタンドライト。

    僕は、ベッドの上に座っていた。

    「……」

    しばらく、何も言えなかった。

    呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。

    ここは——

    僕の部屋だ。

    ゆっくりと周囲を見渡す。

    机の上には、開いたままの本がある。

    量子力学の専門書。
    数式で埋め尽くされたページ。

    デジタル時計の赤い数字が、暗い部屋の中で光っている。

    03:42

    僕は、無意識に腕をつねった。

    鋭い痛みが走る。

    「……痛い」

    その感覚に、妙な安心感があった。

    僕は、ここにいる。

    ちゃんと存在している。

    僕は僕だ。

    それがはっきりと分かる。

    それこそが——

    観測。

    僕は、確定したのだ。

    「……戻ってきたのか」

    小さくつぶやいた。

    だが、そのときだった。

    部屋の空気の中に、わずかな違和感があることに気づいた。

    僕はゆっくりと顔を上げる。

    部屋の隅。

    窓のそばに——

    彼女が立っていた。

    「おかえりなさい。」

    アマリリスは、静かに微笑んだ。

    僕は、息をのんだ。

    「……どうして、君がここにいる?」

    彼女は、まるで最初からそこにいたかのように自然に立っている。

    白いワンピース。
    静かな瞳。

    まるで夜そのものが人の形をしているみたいだった。

    「あなたが“この僕”を選んだからよ。」

    彼女は、穏やかな声で言った。

    僕の胸が、強く鳴る。

    「……まさか」

    言葉が途中で止まる。

    だが、彼女は頷いた。

    「そう。」

    「あなたが戻る世界を選んだということは——」

    「この世界もまた、同時に決まったということ。」

    僕はゆっくりと理解した。

    波動関数の崩壊。

    それは、僕の存在だけじゃない。

    世界そのものが、一つに確定したということだ。

    無数に分岐していた可能性の中から、

    僕はこの世界を選んだ。

    そして——

    この世界の彼女もまた、選ばれた。

    「これが……観測者ってことか」

    僕は呟いた。

    アマリリスは、静かに頷いた。

    「あなたは存在を確定させた。」

    「でも——」

    彼女はそこで言葉を止めた。

    「これで終わりではないわ。」

    僕は眉をひそめる。

    「どういう意味だ?」

    彼女は答えなかった。

    ただ、ゆっくりと窓の方へ視線を向けた。

    「見て。」

    その一言だけだった。

    僕は立ち上がる。

    足が、少し震えている。

    部屋の床を踏む感覚が、妙に現実的だった。

    一歩。

    また一歩。

    僕は窓の前に立つ。

    カーテンに手を伸ばす。

    なぜか、胸の奥がざわついていた。

    何かがおかしい。

    そんな予感がする。

    僕は、ゆっくりとカーテンを開いた。

    その瞬間——

    世界が目に飛び込んできた。

    そして僕は、息を止めた。

    そこに広がっていたのは、

    僕の知っている世界ではなかった。

    第六章 特異点の向こう側

    窓の外に広がる街を、僕はしばらく黙って見つめていた。

    見慣れているはずの景色だった。

    夜の街。
    高層ビルの影。
    遠くまで続く道路。

    どれも、確かに見覚えがある。

    けれど——

    何かが違う。

    違和感は小さかった。
    だが、その小ささが、かえって不気味だった。

    静かすぎるのだ。

    耳を澄ましてみる。

    夜の街なら、本来はさまざまな音があるはずだ。
    遠くを走る車のエンジン音。
    信号待ちのブレーキの軋み。
    どこかの窓から漏れてくるテレビの音。
    深夜のコンビニに出入りする人の足音。

    だが——

    何も聞こえない。

    街は確かに存在しているのに、
    まるで音だけが切り取られてしまったかのようだった。

    さらに奇妙なのは、光だった。

    ビルの窓から漏れる光が、わずかに歪んでいる。

    揺れている。

    風が吹いているわけでもないのに、
    光が水面の反射のように波打っているのだ。

    まるで、現実そのものが安定していないみたいだった。

    その瞬間、僕の頭の中に、いくつかの奇妙な可能性がよぎった。

    空に月が二つある。
    時計が逆に進んでいる。
    街の人間が全員同じ顔。
    看板の文字が、存在しない言語で書かれている。

    そんな、あり得ないはずの世界。

    僕は小さく首を振った。

    あり得るはずがない。

    もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。

    そんな状況で、幻覚なんて見ている場合じゃない。

    「……ここは本当に」

    僕は、かすれた声で言った。

    「僕の世界なのか?」

    振り返る。

    アマリリスは、部屋の中で静かに立っていた。

    相変わらず、落ち着いた表情だった。

    まるで、この状況が少しも不思議ではないみたいに。

    「そうね。」

    彼女は穏やかに答える。

    「あなたが選んだ世界ではあるわ。」

    そこで少しだけ言葉を区切った。

    「でも、完全に元の世界と一致しているとは限らない。」

    僕は眉をひそめる。

    「どういう意味だ?」

    彼女は机の方へ歩いた。

    そこに置かれているのは、さっきまで僕が読んでいた量子力学の本だった。

    ページの上には、数式が並んでいる。

    彼女は、その本を指先で軽く叩いた。

    「あなたは今、“観測者”として世界を再構築している。」

    僕は黙って彼女の言葉を待った。

    「観測によって現実は確定する。」

    「でも、その結果が“以前とまったく同じ世界”になる保証はない。」

    彼女の声は静かだった。

    だが、その意味は重かった。

    「観測前の可能性は、無数にある。」

    「そして、どの可能性が選ばれるかは——」

    「完全には制御できない。」

    僕の喉が、かすかに鳴った。

    頭の中で、理論がつながる。

    シュレディンガーの猫。

    箱を開けるまでは、生きてもいるし死んでもいる。

    観測した瞬間に、状態は一つに決まる。

    だが——

    どちらになるかは、観測するまで確定しない。

    つまり。

    僕が戻ってきたこの世界は。

    元の世界に、限りなく近い。

    だが、完全に同じとは限らない。

    僕はゆっくりと言った。

    「……それじゃあ」

    「ここはパラレルワールドなのか?」

    アマリリスは、すぐには答えなかった。

    窓の外の街を見つめる。

    そして、静かに首を横に振った。

    「いいえ。」

    「これは“あなたにとって唯一の世界”。」

    彼女は言った。

    「ただし——」

    「それが“以前と同じ世界”であるとは限らない。」

    僕の背中を、冷たい感覚が走った。

    「じゃあ……」

    僕は窓の外の街を見た。

    揺らぐ光。
    静まり返った道路。

    「どこが変わったんだ?」

    その問いに、彼女はゆっくりと視線を戻した。

    そして、ほんのわずかに微笑んだ。

    「それを確かめるのは——」

    「観測者である、あなたの役目よ。」

    僕は部屋を出て、研究棟の外へ向かった。

    駅前の広場に出る。

    ふと、時計を見る。

    駅前の時計だった。

    針が、逆に回っている。

    その瞬間、背筋が凍った。

    街を見渡す。

    街灯の光。
    歩道。
    建物。

    すべてがそこにある。

    だが——

    何かが足りない。

    そして僕は気づいた。

    この街には、影が存在していない。

    そしてそのとき、気づいた。

    僕にも、影がなかった。

    窓の外で、街の光がもう一度揺れた。

    その揺らぎは、さっきよりもはっきりしていた。

    まるで世界そのものが、

    何かを患っているかのように。

  • te_R9
    • 技術系
    • 東京都

    新書・ノンフィクションが中心ですが文学・小説も貪りたい今日この頃.
    読後に感想を書いておくと後で見たときにその本の内容を思い出すトリガーになるので,何かコメントを残すようにしています.

    タグにて評価★導入.
    ★★★★★☆:突き抜けた傑作.自分のオ

    ールタイムベスト.ずっと手元に置いておく.
    ★★★★★:傑作.再読しそうなものは手元に.
    ★★★ :佳作.
    ★ :手放しても困らない.

    マンガはコミックダッシュにて
    http://ckworks.jp/comicdash/profile/terusknow

  • からんころん
    • AB型
    • 役員・管理職

    2025年1月から読書メーターをはじめました📖

    本の世界は魅力的で
    次から次に読みたい本が溜まっていきます
    新たな出会いや新たな発見がある度にわくわくしたり、疲れた心を休めたい時は極上の揺りかごになってくれる
    読書メーターで皆さんの感想を参考にさせても

    らったり、新しい本を発掘させてもらっています

    読書メーターに感謝!繋がってくださった方ありがとうございます( ´˘` )

    感想やレビューはできるだけ率直な感想を書きたいと思っているので、拙く偏った感想ですがご了承ください

    ☆好きな作家さん
    梨木香歩 三浦しをん 大山淳子 浅葉なつ 上橋菜穂子 住野よる ダン・ブラウン 福岡伸一 アーシュラ・K・ル・グウィン 凪良ゆう 原田マハ 他

  • 瑞子

      書店や図書館に行くといくらでも時間がつぶせます。
      つい買いすぎてしまい、積ん読本の山。
      マンガ、中学生まではすごく読んでたけど、高校から読めなくなった。
      映画とドラマ大好きです。

      性質からか、物作りが好きで
      仕事は好きなことの延長をしています。

      もう、

      今から読める本も多くないと思うので、
      読みたい本だけを読んでいます。

      考えながら読むので、ペースが遅いです。
      最近特に、
      そして、以前からなんですが、作者の描く世界や文体が合ったとき、入り込みすぎて引きずられそうになる時があります。

      何処に行っても人間関係で苦労するのが悩みで
      そんな時でも、本の中の違う世界に行ければいいのかな。
      読書の楽しみを教えてくれた母親に感謝しています。

    • Nobuhiro
      • O型
    • ぶつぶつ屋

      子供の頃から作文が苦手。本を読む事は好きでかなり読んで来たつもりだけど読書感想文はあらすじで埋め尽くすのが精一杯。なのであらすじを書かずに、読書感想文を書いていこうと思っている。

    • ぼん

        文庫本派です。
        理由はあのサイズが好きだから。
        ここでは頭の中の本棚を整理したいと思います。
        読んだ本は一言感想文を書きたいです。
        新しい本に出会えたら嬉しいです。

      • aina
        • 1998年
        • A型
        • 事務系

        読書家さんたちのレビューめちゃくちゃ参考にさせてもらってます(•ᵕᴗᵕ•)✩‎꙳

      • ゴリ人

          落語と日本ワインと登山が趣味です。美術関係の仕事をしていますが、60過ぎて時間に余裕ができて最近また読書始めました。新しい作家の方達の感性にビビっています。

        • ビール飲みたい
          • 蒼い猛牛
            • 1971年

            携帯故障のために再登録

          • ぴなもん

            お酒を辞めて、代わりの物が欲しかったとき、本に出逢いました。その本に合ったBGMを聴きながら、コーヒーを飲んで、カフェで、ときには川を観ながら、ときには飛行機を観ながら、世界観に浸っているときがとても幸せです。本のことについて、色々
            な人と語り合いたいです


            最近、東野圭吾さんにどハマり中‥!同じくハマっている人と語り合いたい!
            好きな作家さんは
            東野圭吾さん、辻村深月さん、湊かなえさん、原田マハさん、道尾秀介さん、青山美智子さん、
            などです。

          • coffee
            • 1994年
            • 東京都

            転職を機に久しぶりに本を読んでいます。
            読んだ時の気持ちを言語化しておきたかったのと、
            同じ本を読んだ方がどう感じたのかを知りたいと思い
            読書メーターも始めてみました。
            よろしくお願いします。

          • Milch-Kaffee

              少しずつ、少しづつ、自分が気になってしまった本を、好きなように、読めたらいいなあと思っています。だから、不定期更新ですが、ゆっくり見守っていただければ幸いです。

            • 佐倉
              • 1995年

              人文・民俗学・ホラー小説などを中心に読んでますが時々全然違うところに飛んだりもします。早い話が乱読屋さんです。

            • ドッケン
              • 1970年
              • O型
              • 役員・管理職
              • 愛知県

              青森県生まれ岐阜市育ち。大阪、東京へ何度か転勤しつつ現在は名古屋市在住。ジム、バイク、城巡り、ゴルフが趣味です。隔週で名東図書館に行き、借りた本をひたすら読んでます。サスペンスやノワール系、警察ものが好きですが、借りる本ベースなのでオールジャンルを読みます

            • 荒川叶
              • A型

              本が大好きです。
              最近は料理系統がでてくる本を好んで読んでます。オススメあれば教えてください。

            • タロさ

                ミステリー・サスペンス・サスペンスホラー系…特に社会派サスペンスが好き。
                ーーーーーだったけれども、読書自体をしなかった時期もあり、引き籠り推奨期間にマンガにはまってからは、読書の方向性が変わってしまった。
                今はもう頭を使わなくてもいい本しか読めない。

                ので、読んでも記憶に残っていないことも多く、再読するということはなかったのに、再読することもあって、そこも変わったなぁーと思ってる。

              • misalyn
                • AB型
                • 神奈川県

                自由時間が持てる身分(?)になったので、気の向いた時間にたっぷり読書を楽しんでいます

                本はもっぱらリサイクル本屋さんで!欲しい本を手に入れるまで根気強く足しげくB・Oに通っています(笑)
                最近は人気の本を図書館でじ〜っと待って借りたりもしています

                読み

                友さんの読書記録を参考にさせていただいて、好きな作家さんも増加中(笑)
                沢山の本と読み友さんに巡り会って、豊かに生きて行くのが目標です

              • 全448件中 41 - 60 件を表示

              ユーザーデータ

              読書データ

              プロフィール

              登録日
              2017/04/21(3244日経過)
              記録初日
              2017/05/06(3229日経過)
              読んだ本
              1392冊(1日平均0.43冊)
              読んだページ
              443852ページ(1日平均137ページ)
              感想・レビュー
              1380件(投稿率99.1%)
              本棚
              13棚
              性別
              血液型
              B型
              現住所
              大阪府
              URL/ブログ
              https://yonayonacinema.xyz/
              自己紹介

              映画と本が大好きです。映画は劇場で350本、DVDや配信で50本、年間計400本。本は年間150冊前後といったところ。何でも観て何でも読みます。

              何でも読みますが、基本的には小説が好きです。特にお気に入りの作家は(敬称略)、森見登美彦、荻原浩、奥田英朗、重松清、伊坂幸太郎、浅田次郎、東野圭吾、池井戸潤、吉田修一、米澤穂信、小川洋子、角田光代、桜木紫乃、遠田潤子、乃南アサ、西加奈子、宮下奈都、瀬尾まいこ、大崎梢。京極夏彦の“百鬼夜行”シリーズと“巷説百物語”シリーズ、金城一紀の“ゾンビーズ”シリーズも大好き。好きとは言いがたいのに必ず読んでしまう作家は、道尾秀介、湊かなえ、辻村深月。ずっと時代小説が苦手でしたが、『みをつくし料理帖』に感激。高田郁、葉室麟、朝井まかての時代小説、そして田中啓文の“お奉行様”シリーズであれば読みます。2015年来のマイブームの作家は、高野秀行、山本幸久、三羽省吾。2020年現在、内藤了と中山七里にもハマっています。

              泣きのハードルは低いですが、主人公の「がんばってるアピール」が強いのと、「(あの若い子、ワタシのこと好きなんだわ、みたいな)ジジババの妄想系」は苦手です。笑いのハードルは大阪人ゆえそれなりに。

              最初に利用した読書管理ツール“ソーシャル・ライブラリー”の外部連携サービスが煩雑化したため、2015年9月、やむをえず“ブクレコ”に移行。今度は“ブクレコ”のサービス終了で、2017年5月、レビューのあるものだけはぶらさげて“読書メーター”に引っ越してきました。

              ほぼ映画のブログ“夜な夜なシネマ”、やってます。
              https://yonayonacinema.xyz/

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