時を経るに従い、イスラムの教えに支配され、フランス人の妻とはとことん気持ちが解離していく。シリアの親戚や家族から厳しく批判されて仕方なくというのではない。むしろ年をとればとるほど自分の中に西洋文化に対する反発心が溢れて来るのだろう。フセインによるクウェート侵攻も全力で声援を送る姿が痛々しい。家族とは遠距離での電話が増え、話すフランス語が少しずつ訛っていくところなどホント芸が細かい。ただちょっとよくわからないのが、"チック"と呼ばれる身体上の癖。
自分の頬の皮膚を手で引っ張ってるように見えるのだが、その後が具体的にどういう動作なのかまったく伝わってこない。著者は日本の漫画家からも影響を受けたというが、主にはアニメだったのか知らん。ほかにも蜂の来襲のシーンなど、ほとんど動きが感じられない。そういう意味で日本の漫画は、コマ割りだけでなく、一枚の絵をどう動かして躍動感を見せるか、工夫が凝らされた表現手法だったよなぁとあらためて思い知る。
経験上わかったことは、雑草とは無理に戦わないこと。どうせ勝てっこないのだから、撲滅を目指すのではなく、はなから雑草が好む土地には作付けしないこと。いまはどんな畑でも借りやすくより取りみどりなのだから、土の質を見て、雑草の出やすい畑は借りないこと。目の敵の雑草だが、実は中に病気や虫に効果のある雑草もあって、そういう雑草はあえて畑に蒔いて、休眠中の畑のリカバリーに貢献させている。
ネギなどのお馴染みの野菜は、大量に出荷できるところが有利で、価格も高く買ってもらえる。普通ならバイヤーが大量に買い付ければその分リベートで安くなるはずだが、農産物の世界では逆になる。スーパーやレストランなどの大口顧客が最も恐れているのは欠品で、それを避けるためなら、多少高い値段を支払うことも躊躇しない。他にも、ホウレンソウは大きく育てた方が甘くなるというも知らなかった。事実、大きくすればするほど、エグみの原因となるシュウ酸や硝酸が減少するのだとか。
まるで法廷ドラマのような鬼気迫る弁舌の応酬。父親の出方がわからないエイブラルは予測のたてやすい母親の同席を求めるが、そこでロドニーが漏らした一言 - 「なるほど、怖いんだな」。ここから父の繰り出す論法が実に見事。若さゆえの短慮や一時の恋慕と詰られるなら跳ね返せたろうが、義務の不履行という自身が最も信をおく暗黙の契約を持ち出されたため、手も足も出ない。
相手の弱みを的確に攻めるというのは一流の弁護士の所作。ロドニーは心のなかで、自分は弁護士に向いてないし、農夫として生きたかったと思っているだろうが、ジョーン同様、そう頑なに信じ続けているだけで、いちばんこの仕事が自分の得意とするところだろうこともよくわかっている。人間は、好きなことより得意なことを天職とした方がいい。また、人間は強い部分で勝つのではなく、弱い部分で負けるのである。こうしてみると、これが真相だと何枚も剥がした先にもまだ、続きがあるような気がしてならない。
大事なのは食事量の維持であり、それで食べられるなら飲酒もOKだし、減塩も気にしなくていい。がんにならないための食事とがんになってからの食事は、当たり前だが違ってくる。吐き気や強い便秘で食事が喉を通らなくなることもある。また、「がんが消える」などと民間の食事療法を信じて低栄養状態に陥った患者もいる。独居の高齢患者が増えてきたため仕方がないのかもしれないが、治療に家族のサポートは欠かせない。
最初の告知の際には家族総出で面談に現れたのに、治療が始まるとだんだん付き添いが少なくなり、最後にはいなくなる患者も。患者本人への愛情の問題ではなく、がんに対するある種の慣れや侮りが起因している。しんどい抗がん剤治療で一番サポートのいるときに離れてしまうのは心細いし、医師も実はサポートする家族を当てにしている。「不思議なもので、治療がうまくいっている患者さんに限って、もう付き添いなしで通院しても大丈夫と判断される段階になっても、家族が一緒に病院にやってくる例が多いように私は感じています」
記憶だけを眺めていた。そのおかげで、師匠のたった一度の手本を何度も頭の中に再生できた。腕や手の動き、その速度まで何度も執拗に繰り返し反復することで、水墨画初心者の腕前はいつしかプロも舌を巻くほど上達していく。弟子の前で実演してみせる際、師匠はあらかじめ見るべきポイントなど伝えない。あとから弟子が見るべき場所に注意を払い、練習でそれを再現できているかを黙って観察する。「君はよく見ていた」という言葉は、最上の褒め言葉だろう。主人公は重度の引き蘢りで拒食症気味。少し話をするだけで疲れてしまうコミュ障の青年に、
たまたま出会った水墨画の大家から目を掛けられ弟子としてマンツーマンの指導を受けるわ、見目麗しいその孫娘がわざわざ自宅までレッスンの送り向かいをしてくれ、最後はその彼女と賞をかけて対決するという、何とも少年漫画のようなシナリオ。ただ、水墨画の面白さは十分に伝わってくる。穂先で一本の線を引くことで、真っさらな平面の紙上に、空間が生まれ、時間が生まれる。何かを始めることで、そこにあった可能性にはじめて気づくように、書き手の心は、線によって表われ絵になる。何もない場所に突然、描き出され映しとられる人生そのもの。
「知性は生物が置かれた環境に左右されており、外界のあらゆる問題を対象とし得るような汎用的なシステムではない。人間の場合も、視覚を偏重するあまり、出来事の時間的な厚みを感じにくいといった制約が指摘できる。人間が置かれたのは、栄養が不足気味で生物同士の捕食が激しい争いになっている環境である。こうした環境では、餌や捕食者の存在を素早く察知し、飛びついたり逃走したりといった反応を迅速に行うことが、生存に有利となる。このため、人間の祖先は、餌や捕食者のような物体的存在に関する認知能力を進化させた。
知性を持ったクラゲならば、流速や温度などの連続的なデータを重視するだろうが、人間は、物体に関する情報を視覚データから抜き出して分析することを優先する。こうした認知戦略は、物体中心に外界を理解しようとする傾向性を生む。現実の世界は時間的にも空間的にも連続的に変動するが、人間は往々にして、この状況を物と物との単純な関係に置き換えて理解する。人間の思考は、感覚器官を通じて流れ込んでくる膨大な連続的データの中から、特定部分を物象化(モノとして対象化)して抜き出し、その一般的な性質を学習記憶に基づいて理解する」
輪島塗の工房を訪ねるシーンがあったり、テーマも奥深い漆工の世界だったので、時期も時期なのでてっきり能登半島地震も小説に出てくるのかと期待して読んだが、出てこなかった。小説家といっても都内にいくつもマンションを所有し親の遺産で生活している光岡は、どこか『脊梁山脈』の主人公を連想させ、どうしてこの作家さんは高等遊民的人物を描くのが巧いんだろうとあらためて感心させられた。「共感できることを期待して読み、共感できないことに失望する。そんな読書はなんの役にも立たない」という文中の言葉にひとりドキリとさせられた。
ともかくプレート説では地震過程のエネルギー収支をきちんと説明できないが、熱移送説であれば「エネルギー保存則」にも反しない。1回の地震の発生に必要な熱量が移送されると、温度上昇→岩盤中に含まれる水の液体圧上昇→岩盤全体の体積膨張→高温体が大きく膨らむことで岩石が変形・破壊という過程が進行し、それぞれの過程でエネルギーの収支は計算可能なのだ。
学会では極めて突飛な説を唱えて浮いた存在なのか、周囲の学者からその後のデータ提供を止められているようだし、このあたり門外漢は静かに見守るしかなさそう。本書の後半はあまり目新しい話ではなかったが、特に前半のプレート説否定論は、詳しく知る機会がなかっただけに新鮮ではあった。著者らは南海トラフ地震のような超巨大地震はそう簡単には起きないだろうと言っているのであって、地震そのものを否定しているわけではない。
明確な対比の中から彼らの心模様を浮かび上がらせようとしている。とにかくこの双子が自らの意志で人に危害を加えようとしたのは、この女中に対してだけだったような気がする。その他は依頼殺人というか、頼まれてやったという形が多い。この子らの中で他者との契約というか、"約束は絶対だ"という固い信念のようなものがあって、そこには恩義や情などといったウェットなものは一切見られない。ただ、脳味噌の詰まった心臓があるだけだ。牧師の双子に対する態度の変化も最初、奇妙に感じられた。
兎っ子家族への施しを目的として脅しとられていた金はいつかからか、この双子への援助基金に切り替わっている。聖書を諳んじられるほど教養高いのに、信仰心はまったく双子に対して不憫だと思ったのか、隠された疾しい性的な目的のためなのか。実際はそのどちらでもなく、彼ら双子に神聖なものを感じたからかもしれない。不条理で非情な世界に神に遣わされたかのような、どこにも染まらない岐立した何かを見出したのかもしれない。
そもそも「権利」と言った時点で社会を前提としているため、著者の「生きる権利」や「死ぬ権利」などのワードがとことん頭に入ってこない。その次の「自殺がもつ他殺性」についての議論も、現在の延長線上にあるとされる未来の自分の側からの自殺への同意を問題としていて、まだ過去や未来についての議論が深まってもいないのに、単純に現在の自分が死ぬことが未来の自分を消すことに繋がるから殺人だと規定されていて、ずいぶん浅薄な印象を受けた。
イーガンの塵理論やモラベックの仮説などから、意識や心といったものはパターンの寄せ集めに過ぎず、無数の組み合わせや解釈が可能であるとともに、本質的に不死であること、人間の身体というものが因果関係の結節点に過ぎないと考えれば、空間的な「私」という定義も曖昧で、目が京都、脳がパリ、手がニューヨークにあったとしても「私」を構成できる云々など、人工的に意識を生み出せるなどと考えているロボット学者たちと発想が同じだなぁと感じた。
おそらく著者の信念である「いまを生きること」「必然に従って生きる」ことを強調する意味合いもあるのだろう。いたずらに過去に拘泥し、意味もなく未来に希望を寄せたり、反対に恐れたりする愚を犯さず、「現在という一瞬一瞬」を「食らい尽くす」。そうやって「現在しかない人生を送るというのが、必然を生きるということでもある」と書いてあるから、抜くべき矢をそうした「時間や歴史の呪縛」という意味で表現しているんだろう。それでも相当に変だ。一方では「僕たちの幸福は自由と同じくらい束縛の中にも存在する」としながら、
一方では「言葉だけが時間の魔術から僕たちを解き放ってくれる」ともしている。どこからこの違和感が生じているかというと、やっぱりこの「必然性」にあるのだろうと思う。行き当たりばったりや偶然に左右されるのではなく、「すでに決まっていることを自分で決めるんだ」と主人公は語る。納得づくの確認作業のようでもあるし、何もしないことが「いまの自分の必然」ならそれでも構わないのだ、とも。結局のところどこか運命論にも似た、どうとでも解釈づけ可能な自己肯定論のようでもある。
その理不尽さを前に、我々にできるのはやってきた死の受容だけだと事実。穏やかで納得のいく甘美な死などあり得ないのと同じように、「幸福になりたい」とか「誰かを愛したい」といった普段我々が行動の源泉として現実だと受け止めている意識自体もまやかしに過ぎない。我々の意識は一瞬一瞬「幸福になりたい」と念じてなどいないし、「長く生きたい」とも「誰かに愛されたい」とも切望しつづけてはない。集合体としての僕という意識は、時々刻々様々に変化し、相互に絡み合いつつ時に相反しながら、大ざっぱな形で自己意識を紡いでいるに過ぎない。
幸福や愛といった単純平明なお題目は、「グロテスクな自己意識の正体から目を逸らすために『大雑把な意味』が半ばでっち上げた自己慰安のためのトリック」である。こうして辿り着いた人生の「真実」から主人公が導いた答えが「必然の中で生きる」というもので、自分自身の瞬間瞬間の意識を必然性の有無によって厳しく査定し、無駄を削ぎ落とすことで、偶然性や無駄と恐怖に支配された世界に抗おうと決意する。見直しの対象は、現在の仕事や生活、妻や娘との関係、その他諸々にわたっていて、それを「引き算の人生」だと説明しているが、下巻に続く。
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明確な対比の中から彼らの心模様を浮かび上がらせようとしている。とにかくこの双子が自らの意志で人に危害を加えようとしたのは、この女中に対してだけだったような気がする。その他は依頼殺人というか、頼まれてやったという形が多い。この子らの中で他者との契約というか、"約束は絶対だ"という固い信念のようなものがあって、そこには恩義や情などといったウェットなものは一切見られない。ただ、脳味噌の詰まった心臓があるだけだ。牧師の双子に対する態度の変化も最初、奇妙に感じられた。
兎っ子家族への施しを目的として脅しとられていた金はいつかからか、この双子への援助基金に切り替わっている。聖書を諳んじられるほど教養高いのに、信仰心はまったく双子に対して不憫だと思ったのか、隠された疾しい性的な目的のためなのか。実際はそのどちらでもなく、彼ら双子に神聖なものを感じたからかもしれない。不条理で非情な世界に神に遣わされたかのような、どこにも染まらない岐立した何かを見出したのかもしれない。