私もこれ読みました。まだ日本語版が出る前に原書で。なので、隅々まで理解できてるか怪しいですけど。洋書仲間と一緒に数人で一斉に読んだんですが、最後の終わり方に賛否がありました。私は良かったですが💦おたまさんはどう読むでしょうか。感想を楽しみにしています。
ジュンさん、コメントありがとうございます。原書で読まれる方は、本当に尊敬します。ミン・ジン・リーさんは韓国出身のようですが、英語でアメリカでの出版のようですね。その辺りの事情も知りたいところではあります。何故、彼女がこれを書くことになったのか?まだ読んだのは上巻だけですので、何とも言えませんが、これまでのところは、とても興味深く(という言い方が適切か分かりませんが)読みました。最後の部分も、ジュンさんのコメントで非常に気になります。下巻もまた心して読みたいと思います。
その生と死の不分明を正すべく、ゲドはアレンとともに黄泉の国に旅立っていく。生は生として、十分に生きられなければならない。と同時に、死は死として死なれなくてはならない。死んだように生きることも、また死んだ死者を呼びだすことも慎まなくてならない。そのような自然のバランスを正すことによって、真の王による統治もまた成立するのではないか、とル=グウィンは描いているように思う。非常に奥の深い本であり、何度も読んで味わわなくてはならない。
あるきっかけから、爪角の「仕事」を邪魔し始めるトゥという若者、そして爪角の指導者であったリュウのこと等、様々な人間模様も絡まって厚みを増している。特にリュウと爪角とは、テレビドラマ『精霊の守り人』の女性用心棒バルサとその師ジグロの関係によく似ているように思う。センテンスの長い文章で、読みにくいが、それもあえて作者はそのようにしているという。少しずつ読み進めると、その行間から爪角の哀感や、業や、それにも増して颯爽とした姿勢が感じ取れる。
小学生の時に読んでワクワクしたのが『西遊記』。そこから読書が始まりました。
中学生の時にSFマガジンと出会い、その頃連載されていた小松左京『継ぐのは誰か』にのめり込み、さらに既に刊行されていた『果しなき流れの果に』を読んで人生観が変わるほどの衝撃を受けました。
高校、大学の頃にはSFも読みつつ、当時の時代の流れにのって、サルトル、カミュ、ドストエフスキー、安部公房、大江健三郎、柴田翔、高橋和巳(小松左京と京大での大親友であったことを後に知りさらにのめり込み)、登場したばかりの村上龍等を読んでました。
最近、その頃読んでいたものを読み返すことが多いのですが、「こんなこと書いてたんだ」ということばかり。再読しつつ、やはり時代を超えて残っていく作家の作品は凄いと再認識しています。
と言いつつ、今でもSFやミステリーも大好きですし、人文系や社会科学系の本も関心のある分野(文学評論、心理学、哲学、社会学、現代社会論等)では広く浅く若干乱読気味に読んでます。ただし遅読です。
今現在の若い方がどんな本に興味をもっているのかにも興味津々。いろいろ教えてほしいな、と思っています。
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あるきっかけから、爪角の「仕事」を邪魔し始めるトゥという若者、そして爪角の指導者であったリュウのこと等、様々な人間模様も絡まって厚みを増している。特にリュウと爪角とは、テレビドラマ『精霊の守り人』の女性用心棒バルサとその師ジグロの関係によく似ているように思う。センテンスの長い文章で、読みにくいが、それもあえて作者はそのようにしているという。少しずつ読み進めると、その行間から爪角の哀感や、業や、それにも増して颯爽とした姿勢が感じ取れる。