日本人は自分の家は清潔できれいにしているが、一歩外に出ると人目を気にせず、平気でゴミを捨てる。シーモノフ(終戦直後)もエレンブルク(1957年)も同様の記録を残しており、ある時期まで日本は外国人(少なくともソ連人)の目にそう見えていたのだろう。それが今や、試合後のスタジアムでゴミ拾いに勤しむのが日本人だ!ということになってしまった。所謂「国民性」がいかに移ろいやすく、当てにならないものか痛感。
日本文化についてはかなり博識で、『万葉集』『古今集』『女大学』から『陰翳礼讃』『真空地帯』まで言及される。信長・秀吉・家康のホトトギスの句も出てくる。ホトトギスを殺さず、苦しめなければいずれ鳴き出すだろうから家康が正しかった、とエレンブルクの論評はなかなか気が利いている。当時は文学者の権威が今よりずっと高かったから、これくらい調べていかなければ恥をかく、という気負いがあったのかもしれない。
インド紀行の方は日本編よりも政治向きの話題が多く、イギリス帝国主義が槍玉に上がっている。とは言え、やはりメインは文化論で、インドの古典文学や美術などに対する造詣の深さも変わらない。ろくにインドを知ろうともせず神秘的と決めつけ面白がってんじゃねえよ、というヨーロッパ人に対する批判は正当なものと思う。同じように、勝手に「謎の国」としてネタ扱いされがちなロシア人ならではの怒りだろうか。
著者は年の離れた末っ子で(「猫のしっぽ」という仇名はここから)家族に甘やかされ、神経過敏なところもある。だから、職場の資料で死体写真を見てノイローゼになり、外国人の接吻の写真に衝撃を受けるほど純真だった。諜報機関に出入りする怪しげな面々。俘虜との関わり。こっそり見せてもらった映画『風と共に去りぬ』。空襲の激化と困窮する家族。疎開、そして終戦。この激動が、著者の濃縮された青春そのものだった。
とにかく文章がいい。自他を客観視する能力に恵まれ、鋭敏な感受性をユーモラスなテキストに包み込み、しかも合間に強烈な死生観を挟んでくる。空襲で地下壕に逃げ込んだらトイレが我慢できず、鉄カブトをかぶり決死の覚悟で外に出た話など、他ではあまり見られぬ正直な体験談。かと思えば、灯火管制下の東京は真っ暗で「夜空の星が凄まじいまでに美しく輝いている」といった描写も。数点だがイラストも味わい深い。『この世界の片隅に』のように漫画化・アニメ化したら、実はとんでもない作品ができるんじゃないか。
もっとも、本書のメインは日本ではなく他国のプロパガンダの評論。英米独仏ソの宣伝が俎上に載せられている。面白いことは面白いが、「国民性」を過剰に評価している感あり。ドイツ人は他国民の心理を絶対に理解できない、とか言い切ってるし。あと、最も長く戦っていた中国の対日プロパガンダを一顧だにしていないのもどうなんだろう。戦前期日本人のアジア蔑視が、こういうところにまで表れているのでは。
個人的に興味を持ったのが著者のソ連プロパガンダ評(122〜125頁)。ロシア人は日本人と同じく西欧先進国へのコンプレックスがあり、それ故に優れたイギリスのプロパガンダを学ぶことができた(独仏はプライドが邪魔をした)。また、平等を訴える共産主義も民衆へのアピールに寄与した。従って上手いことは上手いが、所詮は英国の二番煎じで、本家の謀略性には遠く及ばない。一つ覚えで同じ宣伝を繰り返すにすぎず、共産主義の理想と現実の乖離が進んでもそれに対処できなかった。等々、思い当たる指摘が多数。
大日本帝国のプロパガンダは、近代化に成功した文化的で健康的な先進国家という自画像に立脚していた。日本の素晴らしさは見てもらえれば分かる、と観光に力を入れていた側面も。「クールジャパン」(「日本スゴイ」)の種はこの頃からまかれていたのだなあ。戦後日本が戦前とは打って変わって欧米にひれ伏したことも、逆にアジアへの高圧的な態度を保ち続けたことも、これで説明がつけられそうだ。
序文と謝辞で、アメリカ人である著者がなぜ日本のプロパガンダに関心を持つに至ったか、その研究上の遍歴が述べられている。日本留学で粟屋憲太郎の薫陶を受け、大学院仲間のひとりが『フィリピンBC級戦犯裁判』の永井均。最近の優れた研究者としては、一ノ瀬俊也や佐藤卓己などなじみ深い名が挙げられている。日本の歴史学界が国外の研究者と有機的に繋がり、評価を受けているのは心強い。日本初滞在時にお世話になった岩手の禅寺の和尚さんまで謝辞の対象となっていて、著者の人柄がうかがえる。
ただし、戒厳よりステータスの低い「治安出兵」という措置もあり、米騒動や三・一運動、足尾銅山の労働争議などではこれが導入された。警察と並ぶ軍隊の暴力装置としての側面がよく表れており、こっちの方ももうちょっと詳しく突っ込んでほしかった。同様に、海軍は領海内での治安行為を法で認められており、『蟹工船』の描写は(現実にそういうことが起きたかどうかはともかく)リアルな裏付けを持つものであったようだ。
著者の仕事は、まさしく「軍法務の第一人者」と呼ばれるにふさわしい。日本では軍事史の研究が蔑ろにされていると言いたがる人々は、大概こういう蓄積には目を向けないからなあ。指揮官の個性だの兵器の性能だのだけが軍事史じゃないですよ。
軍律法廷は弁護なし・非公開・判決即処刑という無茶苦茶なものだったが、決して日本軍独自の存在ではなく、近代軍には普遍的に見られる機構。結果はミエミエでも、とにかく手続きに従う体裁だけは守られるわけだ。これも人間の業と言うべきか。今ウクライナで起きている事態を考えると、恐ろしくアクチュアルな問題ではないかと思う。現在進行系で同様の「軍律法廷」が開かれていることは容易に想像できるし、戦争が終わった後も解決困難な戦犯問題が待ち構えている。出口はあるのか…
ただ、安易な日本特殊論(こんなことは日本人しかやらない)にも、それとは正反対の戦争犯罪普遍論(連合国だって同じようなことをしていた)にも陥らず、日本軍の構造的な問題と戦争/軍隊それ自体の本来的な性格に目を配りながら批判を行っている点に本書の最大の値打ちがある。日本軍の「慰安婦」を取り上げつつ、連合国側の強姦問題にも厳しい目を向けた第三章はその典型。1993年出版でジェンダーという言葉はまだ使われていないが、この問題については先駆的な著作と思う。
「サンダカン死の行進」はウィキペディアでも立項されているが、その日本語版では「捕虜の扱いが日本軍将兵と変わらなかった」だの「戦犯裁判がいい加減だった」だのと、事件の印象をできるだけ中和するような記述が含まれていて何とも言えない気分になる。捕虜2500人のうち6人(!)しか生き残らなかったというのに…こんなものを中立公正な百科事典として読まされるんじゃ先が思いやられる。
戦後独立を果たしたフィリピンにとって、戦犯を裁くという行為は建国後初めての大プロジェクトに他ならなかった。復讐を求める国民感情に配慮しつつも、国際的に通用する公正な裁判を行い、受刑者に対し人道的に振る舞わなければならないとの気負い。冷戦が激化する中、反共の砦として日本との和解を要求するアメリカの圧力。そして、家族を日本軍に惨殺されながら恩赦という政治的決断に踏み切ったキリノ大統領の心情。この出来事を「知られざる」歴史にしておくことは許されない。
戦後フィリピンを訪れた日本人は戦争被害の大きさに衝撃を受け、恩赦で帰国した横山静雄元中将(振武集団長)も加害の苦い思い出を「墓場まで持っていくつもりです」(218頁)と語っている。当時、日本がフィリピンに対し大きな罪を犯したというコンセンサスがあったことは間違いなく、恩赦を与えたキリノ大統領にも心からの感謝が述べられていた。だが、現代の日本人がそれを受け継いでいるかどうか。罪の意識どころか、フィリピンに裁かれ・許された事実さえ忘れられているのではないか。
帰国後の苦闘を描いた後半にも惹き込まれる。厳しいが恵みにあふれた信州の大自然、辛く厳しい開墾生活。凄絶な戦争体験は著者の心身に癒えない傷を残し、貧しい引き揚げ者に対する世間の風も冷たかった。「乞食の子」と蔑まれ、文字通り石を投げつけられたという。誰もが貧困に苦しんだ戦後の日本は、きれいごとですまされる世界ではなかった。「神仏は私たちを救ってくれなかった」という母の嘆きが重い。
日本軍のいわゆる「絶対国防圏」策定は、グアム島民から見れば占領体制の強化と新たな暴力、略奪、強制労働の始まりを意味した。この目線も今まで意識したことがなかった。解説(伊藤成彦)によれば、防衛庁の戦史には「軍は現地住民の食糧増産を奨励したが、元来怠惰な習性で労働を嫌う様子であった」などと書かれているという。戦後になってまでこんな放言ができる無神経さは何なのだろう。また、日本軍の将兵は現地女性に性接待を要求し、これがマリキータの死の一因となった。
一方で、本書は単純な米軍解放史観を採ってはいない。米国による支配も(日本ほど苛烈でなかったとはいえ)人種差別を伴っていたこと、同じ仕事をしても島民の給与はアメリカ人の半分にすぎなかったこと、グアム奪還時の猛烈な砲爆撃で多大な損害が生じたことをきちんと取り上げ、批判している。著者はアメリカ人ではなくチャモロ人としてこの物語を書いたのだ。
キーワードは表題にも含まれている「記念」という行為。元々アメリカ領だったグアムは米軍による「解放」をすんなり記念することができたが、他の島々における戦争の記念はまるで異なる経緯をたどった。そのグアムでも、日本人観光客の受け入れが喫緊の課題となると、記念のあり方に変化が生じた。他方、通訳や警官として日本軍に協力した現地住民や慰安婦(著者ははっきり「性奴隷」という言葉を使っている)にさせられた女性たちの記憶は忘却の対象となった。
解放者としての自画像にこだわり現地住民へ感謝を強要する一方、テニアン島からの原爆搭載機発進という歴史には触れられたくないアメリカ。自国民しか慰霊の対象とせず、日本人・沖縄人・朝鮮人の区別なく遺骨を持ち去ることで旧帝国の枠組みを無意識に保持してしまっている日本。両宗主国に対する著者の眼差しはまことに鋭く厳しく、肺腑をえぐられる思い。ただ、その著者がアメリカで学術的活動の舞台を与えられ、本書が日本語に訳されたという事実になにがしかの希望を感じる。
南洋「開拓」の主な参加者となったのは、東北や沖縄など貧困に苦しむマージナルな地方に住む人々だった。そして移住先のサイパンでも、出身地により内地>沖縄>朝鮮の間で待遇に差がつけられた。さらに、現地住民のチャモロ人やカナカ人は彼らの下に位置づけられ、面と向かって「土人」「三等国民」と呼ばれる日々を送った。大日本帝国の素顔は植民地でこそあらわになった、と言っていいのかもしれない。
初期の苦難を乗り越え、島での生活は軌道に乗っていたことがうかがえるが、それがどんなに悲惨な結末を迎えるかが分かっているだけに、島民の日常を描いたくだりを読んでいても心が重かった。米軍上陸後の惨状は言語に絶する。南雲中将の最後の訓示には住民に対する配慮が全く読み取れないが、それは当時の日本軍の発想に通底するもので、誰が指揮官でも変わらなかっただろうという著者の指摘は重い。サイパンの悲劇は、未完に終わった本土決戦の雛形でもあった。
お勧めは木村智哉「アニメーション映画『海の神兵』が描いたもの―戦時期国策映画の文脈から」。戦時アニメの中では著名な作品で、意外な叙情性や戦死の描写などから「反戦的」と評価する向きもあるが、それはとんでもない誤解。「国策映画は軍国プロパガンダ丸出しの粗暴な作品」という思い込みに惑わされているからで、仔細に見るなら『海の神兵』は当時の戦争映画の文法をきっちりなぞっている。この基本的な部分を押さえない限り、同様の誤解はいつまでも再生産されてしまうのだろう。
ただ、カラーに慣れた我々にとって白黒写真は「凍りついた」ものでしかなく、戦争を自分ごととして考えるきっかけを奪っているという編者の主張には違和感を覚える。それは、現代人の想像力と理解力の退化を物語るものではないか。派手で目になじむものだけにリアリティを認める感覚を養ってしまうと、行く末ろくなことにならないと思う。例えば、あの屑みたいな(個人の感想です)映画「ミッドウェイ」が美麗なCGのおかげでリアルと評価される情けない現実。
シンプルだが味わい深い文体。本職の軍人とは一味違う、些細で日常的な描写に読みどころが多い。重巡「足柄」分隊士時代に部下から夫婦生活の悩みを相談された話。私的制裁を取り締まるため兵たちの尻に殴打の跡がないか調べよと言われ、困っていたところ機転の利く下士官が「尻ヲー、出セ」と即興の号令をかけると皆これに従い、臨機応変とはこのことかと感心した。潜水訓練の際、ついでにウニだの帆立貝だのを獲ってきたエピソード等々。
著者の出身地(新潟県内)はインパール作戦に参加した連隊の管区で戦死者が多く、生還者は却って肩身が狭く感じられた。以下は戦後長岡に天皇の巡幸があった時の話。「〔同じ村に住む〕跡取りをなくした父親は、「天皇陛下見に行かんかえ」と誘われると、「行かねえ。行ったら天皇陛下に石ぶつける」と、一言ぽつりと言ったという。これが、若者のほとんどを亡くして静まりかえっているこの村の、ただ一つの「音」であった」(274頁)。あまり表には出ないが、同じように感じていた人は多かったのではないか。
「戦時徴用船の最期」と名付けられたこの連作は、長らく商船三井の倉庫にしまい込まれ、1982年になるまで存在すら知られていなかった。こうした貴重な歴史の遺物は、今も日本のあちこちに眠っているのかもしれない。著者は1928年生まれ、戦争の記憶を我が身に残す世代。児童書が専門であるらしく、文章は平易で読みやすいが重たい内容。ちなみに、第二次大戦で犠牲となった日本の船員は6万331人にも達するという。
小熊英二『生きて帰ってきた男』を彷彿させる朴訥な語り口。自分のしてきたことを特に後悔も正当化もせず淡々と振り返り、不気味なまでのリアリティを感じる。憲兵に志願したのも、どうせ兵隊暮らしをするなら楽をして威張っていられる職場がよかった、とのこと。召集前の貧しい生活、戦後の闇商売を回顧しているのも貴重。戦前の小作人はとにかく辛く、残酷な新兵いじめを受けてもなお軍隊の方が楽だとさえ感じられた。
戦争につきものの怪異譚としては、玉砕部隊の帰営や特攻隊員が蛍になって帰ってきた話など、専ら心を打つものばかりが流布される傾向にある。一方、同じく本書に収録された怪談の中でも、飯盒など官給品を紛失し制裁を恐れて自殺した新兵の幽霊が出るとか、殺した中国兵に祟られたとかいった話などは、今日ほとんど埋没してしまっている。フォークロアのつまみ食い、いいとこ取りが行われているのではないか。
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