あれど、それによって自分が取るべき行動が変わることは断固としてないわけです。俗にいう感情と行動を切り離すことができる人間ということですが、ここまで倫理と道徳が文字通り人間離れしている人間を書いているのに勧善懲悪作品の悪役が感じさせるような病的なものとか、歪みとかを感じさせないのは、、、うーん。彼のパーソナリティが形成されたのはいうまでもなく無人島で施された父親からの教育であることは間違いないのですが、ここまで人間に対して通常の倫理観を持たないことはありうるのか?極端に同族意識、帰属意識が欠けている
思うのですが、自分が印象になったのはやはり100年生きた人間の付喪神、斧乃木余弦の怪異としての性質ですね。本書で触れられている彼女の特徴を引用しますと、『それは彼女が人間であろうと、人間になろうとしているということだろうか?そう思って問うてみると、しかし忍に言わせればそれも違うらしい。模しているということは。なろうとしているわけではない証明なのだと。あくまでもそれは、人間社会に紛れるための手段でありー相容れるための手段でありーつまりは同化するための手段ではないのだと。
「外国語をいくら覚えようと、学習しようと、流暢に話そうと、だからと言ってそれは、他国の人間とコミュニケーションを取るためであって、イコールで国籍を変えるためというわけではあるまいーそれと同じじゃ。あやつが人の形を真似て作られたのは、人であるためでも人になるためでもない。人といるためじゃ。」』一緒にいる人に影響を受けて性格が七変化する斧乃木余弦の性質は、少なからず怪異の本質を言い当てているのかもしれません。そういう意味では鏡みたいなもので、怪異現象に直面する人間の心を、存在を反射しているだけなのかもしれせん
確かに西尾さんらしい毒っぽさは控えめかもしれませんが、その分アニメ化に適した作品になっているのかなと思います。漫画やアニメの方が、バトルシーンの迫力が伝わりやすいでしょう。アニメ版も見てみたいと思いました
交渉相手各々の利害や損得を踏まえ、うまくことを進めるのは利害関係や損得構造を組み替える必要性に迫られることがあるがそれだけで交渉がうまくいくことはない。なかには利益を望んでもいないし、損害も辞さない、体現したい理想だけを持った無私の精神を持った人(惑星)もいて、また、どれくらい身に迫っているかという当事者意識というのが各々違う。さらには交渉相手同士の力関係とか対立構造、人間関係までも解きほぐして読み解かなければならない。例えば戦闘だとゴールは明確だがこと話し合いになってくると話は別というか考える量が膨大
くんが縁結びを行うために四方八方を駆けずり回るという構成であり、彼が直面する縁は、「友人との縁、絆」「運命の人との縁、赤い糸的な」「家族との縁、血縁」「腐れ縁」など、思いつく限りの縁を網羅していてなおかつそれを軽い文体とハートウォーミングな結末で包んだような塩梅になっている。穏やかな展開とささやかなユーモアが散りばめられたこの本を読んでいると、なんというか早朝に人気のない森林を散歩している時に感じるようなセラピー効果にも似た効用が得られた、ような気がする。精神的ダメージを食らった時に読みたい本。
な小説の部類には入るくらいには気に入った。ただ、一つ難点をいうと、というか私個人のただの望みなのだが、願わくばもう少し小説談義と小説の作り方に紙面を割いて欲しかった。小説内で小説を語るとか、映画内で映画のことを語るとか、そういう入れ子構造?というかメタ的視点は作者の心奥が垣間見れるというかどこか見てはならない秘境を除いているという背徳感があってわくわくするし、講釈を受けていると自分もなにか書ける気がするできもしない万能感に囚われるからなのだが、まあそれは置いといて。いつかもう一度読み返したい一作になった。
天才と凡人の違いはともかく、考えてみれば私たちの日常生活でも本書と同じような状況は起こり得るのかもしれない、というか実際に起きているんだろう。「類は友を呼ぶ」とか類似性のの法則というのは、自分と共通点を持った人間に親しみを覚え、つるむようになるというもので、逆に言えば共通点がない、まったく違う背景や考え方を持つ人とはなかなか相容れないということもある。ということで私たちは一緒にいて心地よい、どこか親近感を覚える相手の過ごす時間がながいのだが、これは共通点がない相手とは常に一緒にいるほど仲睦まじくなりにくい
ことでもある。なぜ共通点がない相手とは懇意な間柄になることが比較的少ないのか。その答えの一つがおそらく、相手に対して自分が理解できる範囲が少ないと恐怖や畏怖を感じるからであろう。私たちは無意識のうちに対等で均等の関係を望んでいて、釣り合いやパワーバランスが取れた結びつきを望んでいる節がある。それはやはり、
働くと考えられており、これを自己スキーマという。ただ、莫大な量の情報が蓄えているにせよ、そのどれもが同程度に活性するわけではなく、利用されやすいわけではない。一般的な知識と同様に、最近使用された言葉や頻繁に使用される言葉は取り出されやすい。このような、接近可能性が高まり、活性化した自己の知識を作業自己概念と呼ぶ。そのときにどのような作業自己概念が活性化しているかということによって、私自身がとらえる自己像は変動すると言えるだろう。
自己概念に大きな影響を与える要因の一つが私たちにとって大切な人の存在、つまひは重要他者である。私たちの自己概念のある部分は他者との関係によって規定されており、特に重要他社の影響を強く受ける。例えば、友人と一緒にいるときは友人に見られている自分が活性化する。また他者との関係によって私たちの自己評価も変化することがある。ということは他者に見られる自分を意識して、他者に好かれる自分になろうとしている、ということなのだろうか。好かれたい人は好かれたいキャラを演じてしまう、そしてそうしているうちに見失うものもある。
備考録、かつ読書好きの方との交流のために始めました。
村上春樹、森見登美彦、西尾維新なんかが好きです。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 人生のバイブル、至高の領域にある本
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 胸にガツンときた、強迫観念的に読み返す
⭐︎⭐︎⭐︎ それなりの充実感をもって読み終えた、普通に好き
⭐︎⭐︎ 胸を張って好きとは言えないが、一応読んでよかったと思える本
⭐︎ ちょいと首を傾げたくなる本、自分の琴線には触れなかった
★難解すぎるため、もしくは自分の感性とはあまりに違うため評価できない、数年後に読み返すかも
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な小説の部類には入るくらいには気に入った。ただ、一つ難点をいうと、というか私個人のただの望みなのだが、願わくばもう少し小説談義と小説の作り方に紙面を割いて欲しかった。小説内で小説を語るとか、映画内で映画のことを語るとか、そういう入れ子構造?というかメタ的視点は作者の心奥が垣間見れるというかどこか見てはならない秘境を除いているという背徳感があってわくわくするし、講釈を受けていると自分もなにか書ける気がするできもしない万能感に囚われるからなのだが、まあそれは置いといて。いつかもう一度読み返したい一作になった。