この時良心と対立する他者(客観)と弁証法的な止揚を行うことで、良心は絶対知(主観と客観の合一化)へと近づく。この時に、弁証を図るために、言葉が必要となる。(自分の気持ちを正直に語る。)ここで個人的に思ったのが、対立する他者がある程度分別ないとこれは不可能ではないかということ。弁証には対話が不可欠だが、例えば行動する良心に不満を持った他者が、対話を放棄し、怒鳴ったり武力行使されたら成立しなくなる。社会には対話できない人が沢山いるので、絶対知に向かう道のりは遠そうだなと思った。文体が合わないのか読みづらさあり
自分の感想文がいかに稚拙であるかをメタ認知し、またその質を向上させるために始めました。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます