また、叙述トリックは「読者が勝手に誤解しているもの」なわけだが、やはりそれは登場人物らとオーバーラップしていてほしい。『あの子の殺人計画』でも感じたが、「作者が、凝った構成によって読者を欺いている(登場人物らは何も騙されておらずただ真っ直ぐ進んであっさり真相に辿り着いている)」というのは、作家が自らのために苦し紛れに施している盤外の虚飾だ。「強烈にこっち(読者自身)を意識している」と感じるので。各どんでん返しもただの逆張り級で、納得感はない。主人公を狙う犯人の動機も、契機も経過も納得感はまったくない。
二周目なので余談中心。トップバッターであり表題作でもある「落下する緑」は本作より十年以上後に出たペルソナ5の…まあ、ゲーム制作者も使いたくなるだろう。駄洒落に憑かれた作者だが、その駄洒落然とした言葉がストーリーに落とし込まれてる「虚言するピンク」も良い。各創作界隈の闇をスカッと暴くような短編集だが、「実は本作がデビュー作となるはずだった(が、東京創元から何故か放っておかれ、SFの道に進んだ)」という来歴遍歴もあわせて、こうもなるだろう。十数年を経てのシリーズ化となるが、罪深い回り道を強いたとしか感じない。
若年時に『ピアノの森』『のだめカンタービレ』などを得てきた者として、ぼざろを除いて音楽ものの一本調子を感じる。野性系であれ悩み深き系であれ、感性キャラが強すぎる。本作の永見も感性系だが、推理解決役を担うことで「こいつはアホだが、常にハッとするような物事の本質を掴んでいる」説得力が生まれており、ただの作者贔屓な天稟付与を抜けている。また、本作の臨場感たっぷりな「『すごい』以上に『伝わってくる』」演奏シーンは、音楽人の言葉だからこその臨場感だ。音楽モノが話題になるたびに、これも読んでくれと言いたくなる作品。
前作『化石少女』は、ある意味、麻耶先生らしい諧謔に終始した一冊だった。貴族探偵の一作目、神様ゲームの一作目、ちょくちょく出るメルカトルのような、ミステリ文化に対する諧謔の軽い読み物シリーズ。ところがこの2作目では、そのエッセンスを持ちながら、伸ばしながら、大人気ジャンル「青春学園ミステリ」に正面から挑み、圧殺を計り、成功させている。このジャンルは新人賞でもよく見るが、本作と比べられればデビューを辞去するほどだろう。麻耶雄嵩先生は前進し続ける作家だが、ここまで研ぎ澄まされていたとは予想を遙かに超えていた。
あと1冊出ないかな。出るでしょう。徳間書店という出版社も編集者も、これを前に「次」の話を持ちかけなければただの遺体であり、勝負をかけるはず。3冊でカタストロフまでやりきれば、もう時代に棹差し語り継がれる伝説的な作品になるのは間違いない。前作と合わせて、30分アニメとして1クール12話でいけないかな。で気をもたせて3冊目を劇場アニメでフィニッシュは普通に勝ち筋あって通る。正直、7月からアニメが始まる小市民シリーズよりもこちらの方が圧倒的に勝算は高い。とはいえ、心の底から広く知られたくない作品の一つ。
ややネタバレあり注意。 出だしは見事なのだが、冒頭過ぎてからの主人公のウジウジ具合に「好きになれない主人公」をまず感じておや?となる。そこから路悪趣味的にほとんどのキャラがろくでもないのがわかってくるのだが、その内容や明かし方がどれも効果的ではない。実はヤバイやつなんですが並ぶものの「その思考では物語時点まで真人間風に生きていられないだろう」「~の時点で~しているだろう」と感じる者がほとんどで、リアリティがない。呉先生や荻原先生の、カスとして社会に生き残れる説得力を持つ迫真のカスたちとそこが違う。
また、叙述トリックは「読者が勝手に誤解しているもの」なわけだが、やはりそれは登場人物らとオーバーラップしていてほしい。『あの子の殺人計画』でも感じたが、「作者が、凝った構成によって読者を欺いている(登場人物らは何も騙されておらずただ真っ直ぐ進んであっさり真相に辿り着いている)」というのは、作家が自らのために苦し紛れに施している盤外の虚飾だ。「強烈にこっち(読者自身)を意識している」と感じるので。各どんでん返しもただの逆張り級で、納得感はない。主人公を狙う犯人の動機も、契機も経過も納得感はまったくない。
デビュー作は野心もヘイト創作も大いに結構だが、本作は逆張りというよりも可能性を捨てて低質な内輪ノリへと向かう本格ミステリへのヘイト創作である。いわゆる「お約束を、全部真逆にしたって成立する」を皮肉たっぷりに書いたのであるが、あくまで既存の(低質に向かう)ミステリの枠内でそれをしようとしたために読み物としてのつまらなさもトレスしてしまっている愚がある。今の氏がまったく同じ筋と舞台で書けば、この450頁もの小説は100頁に満たない短篇で「より面白く・切れ味よく・さらに痛烈に」仕上がるだろう。
オタク語り。1993年刊行の作だが、翌年には京極夏彦『姑獲鳥の夏』が出ており、デビュー時点での筆力の差は赤面級である。だが、2023年で比べれば完全真逆のことが言える。この才能と努力、もてはやされたあぐらと評価されぬ不倶戴天の逆転劇は並の純文学どころではない。また、本作文庫版巻末には作者への「新本格としての各項目の採点」などという抱腹絶倒なものが残っているが、新本格なんてブランドこそクソくらえだと進み続けた氏だけが、その新本格作家たちの中で実質ただ一人生き残り、特A級の現役にあるという生き様が美しい。
アイデア型に多くいる長編の論理が組めない作家は、連作短編集を書くといい。人間が書けない作家は、常識が異なるからという言い訳がたつ海外舞台の作品を書くといい。女子高生をいじめることだけが執筆の目的ならば、監獄実験を模した社会派を書けばいい…などなど、編集者のアドバイス一つで作家が飛翔することはままある。それは弱点克服を目指した時の成功率の低さ、投入する時間の膨大さを受けての転用だ。本作はまさにそれで、作者の少なくない問題点を一つの工夫でちゃんとエンタメにしている。持ち上げられすぎに思うが、進歩は確かである。
趣味と仕事の区別がついていない甘い創作家に、区別をつけろと言うのではなく甘い趣味浸りのまま商品となる可能性の枠へ導くのが、値千金の編集者なのだろうな。ただ自分の好みを押し付け、何も書けもしないのに先生したがる哀しき凡俗たちとは、プロデュースにおける視座が違う。正直この作者が「ちゃんと書けている風に見える道」は思いついておらず、業界が何度も不自然に御輿に担ぐ今までの謎の力学からも変化無くあぐらをかくものだと思っていた。本作の方向性を示した仕掛け人たちの腕前は尊敬に値する。
こんなメモ書きどころか付箋のようなもので不動産ミステリだの家ミスだの言うのなら、すべてにおいて10倍以上の力を持ってひたすら家ミス家ホラ家サスをやってきた三津田信三先生から黒い焔が立ち登るだろう。あっちは表紙怖すぎるのがマジでよくないのだが。本作は出来損ないを売りにするMMRの、もっと都合がいいしかも出来損ないであり、MMRって案外ちゃんとやってくれてたんだなと思わされる発見がある。頭良さそうに見せたいキャラが出てくるが、全員が事実と推測の区別がつかないで「推理」し、なぜか全部事実なのでとにかくキツイ。
・「ここからは僕の推測です。」そう言う直前までも全部推測しかない ・敷地面積いっぱいに増築は無理 ・単品の「え!?」「あ…」での改行が多すぎ。さすがに会話が下手 ・登場人物全員の論理が滅茶苦茶。そんな大層な計画をしていて「東京に転勤になったから」とか ・推しの子みたいに軸ブレして興味ない方面へ本筋が寄り道るツギハギ ・マイホームヒーローの宗教村編が本作より数年早く出ており、ちょっとこれは… と、非常に残念な出来。企画職が自信満々に自作して経営層からストップ食らう脚本に、質や構造が酷似していると感じた。
いわゆる社会や人間性から切り離されたロジックパズルの「本格」、そのカウンターパートとして現れた「社会派」の切り口だが、黎明期の社会派は、現代の社会派とは異なっておりあまりに乾いている。初期の清張が社会派と信じたものは「社会の中で事件が起きる」「社会に対し批判的な目線がある」だけであり、本格が擁立していた「キャラクター性」までオミットしてしまっている。本作の主人公となる刑事二人は社会派小説でありながら社会に生きる人間とは見えないほどの無味乾燥具合で、はっきり言って読んでいて面白くない。
振り返れば、1960年代に社会派を大きく引き継ぐ山崎豊子の『白い巨塔』も、清張晩年の作となる『黒革の手帖』も、強烈な主人公のキャラクターがある悪漢小説である。結局の所、本格も社会派も「キャラクターは捨てられない」という、後のキャラクター小説の核心へと迫る。
小説に絞って投稿。
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ややネタバレあり注意。 出だしは見事なのだが、冒頭過ぎてからの主人公のウジウジ具合に「好きになれない主人公」をまず感じておや?となる。そこから路悪趣味的にほとんどのキャラがろくでもないのがわかってくるのだが、その内容や明かし方がどれも効果的ではない。実はヤバイやつなんですが並ぶものの「その思考では物語時点まで真人間風に生きていられないだろう」「~の時点で~しているだろう」と感じる者がほとんどで、リアリティがない。呉先生や荻原先生の、カスとして社会に生き残れる説得力を持つ迫真のカスたちとそこが違う。