3月は岡真理と、そのつながりで読んだカナファーニーが素晴らしかったほか、アルニムとブレンターノや『メアリ・ジキル~』も楽しかったです。今月もよろしくお願いします。2024年3月の読書メーター 読んだ本の数:9冊 読んだページ数:3041ページ ナイス数:1654ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/596110/summary/monthly/2024/3
「「そもそも……」という説明(本質主義的説明と呼ばれる)は、原因を一問一答のかたちで特定するので、わかりやすく、また、魅力的に見える。しかし、その「わかりやすさ」や「魅力」の裏には一種の思考停止が含まれるだけではなく、物事の本質を見誤る、さらには、紛争の発生や継続に加担してしまう危険性が含まれているのである。」「内戦は、民族や宗教・宗派をめぐる根源的な対立ではなく、あくまでも政治問題の一つとして分析される必要がある。」
「あらためて強調すべきは、政治対立が「宗派対立」を惹起するのであって、その逆ではない、ということである。宗派の違いが宿命的・不可避的に対立を生むという「宗派対立」論は、こうした現実を的確に表していないだけでなく、後で詳しく述べるように、宗派の違いを争点にして残虐な行為を繰り返す過激なイスラーム主義者に利用されることで、結果的に政治対立の「宗派化」を助長する危険性がある。」
「学生たちの誤読を、こうした歴史的文脈に置くとき、それは、歴史的、今日的植民地主義の暴力を行使する社会に帰属する者たちによって反復される特権的な態度であることが見えてくる。第三世界の女たちが被る抑圧は、彼女たちが属する社会や文化に本質的な原因が求められる傾向がある。ムスリムの女の場合で言えば、イスラームという宗教が本来的に女性差別的であり、それが、彼女たちの被る抑圧の原因とされる。」「だが、彼女たちの被る差別や抑圧とは決して、自社会の女性差別的な文化や宗教に起因するものだけではない。→
→帝国主義や植民地主義による民族的抑圧もそのひとつである。」「日本人読者が、テクストに書き込まれている伝統文化の積極的意義を読みとりそこない、主人公の主体形成における非植民者としての歴史経験を捉えそこなうのは、ひとつには非西洋世界の女を、彼女たちの文化や宗教の犠牲者と見なすオリエンタリズム的な価値観を内面化しているためであり、そのこと自体、日本が歴史的に植民地主義国家であったことと無縁ではない。」
「「男には女が理解できず、女にも男が理解できない。それはみんな小さい女の子がハンマームで小さい男の子と別々にされた時始まるのさ。すると、宇宙の境界線がこの星を二つに分けるんだ。それは強い者の世界と弱者の世界、だって、境界線とはそもそも力のある者の場所と力のない者の居場所を分けるためにあるんだからね。」この私はいったいどちら側に立っているのかミナに訊ねた。彼女のすばやい答えは短くかつ明瞭だった。「もし、そこから出られなければ、弱い者の側にいるしかないさ。」」
「私はその時自分が女性革命のリーダーとなっても絶対恋愛を忘れずにいようと考えた。ハビーバおばさんが言ったことは正解だ。「自分が欲しいと思っているものを手に入れるためでなければ、誰がわざわざ反抗したり、世界を変えようなんて思ったりするもんですか。私たちの人生に一番必要なもの、それは愛と恋じゃなくて?」」/どうでもいいのですが、主人公ちゃんが長じるにしたがってハーレムのお姉様方の本を覗き見たりするほどおまじないにはまっていって、女の子はどの時代でもどの世界でもおまじない大好きだなと思いました。
追伸 仰るとおり、エミール・ガレ&ドーム兄弟!、、、インプットされて仕舞ってますよね!💫 此方こそ、感動した展覧会でしたので、今日の呟きに添えて掲載して仕舞い、紛らわしくて失礼しました!🙇💦 私は単細胞の典型的なO型らしいのね!、、、美しい物を観て、美味しい物を食すと、、、途端に幸せに成り、悩み事😞🌀も暫し忘れるの!🤭 何時も、優しくお付き合い下さり、有り難うございます!🙋 宵待草
「全員が集まるとどんなにいらいらするものか忘れていたーまるでパーク・テラス11番地の家に戻ったようだ! それでも、キャサリンとベアトリーチェがブダペストにきてくれてよかった。一緒にいるほうがみんな強くなる。いざこざは増えても、強くなるのだ。」/カーミラとローラが自分の記憶のイメージと違う……と思ったのですが、男仕立ての身体に沿ったスーツを着た女伯爵様と少し年上の「~ですわ」とかしゃべる女の子がいちゃいちゃするのは最高だなと思いました。最高でした。『カーミラ』のイメージではなかったけれども。
どうでもいいのですが、ルスヴン卿の名前が出てきたあたりで、何か幻想文学の教養を試されている感じに……(笑)。それからお嬢様方がジェルボーでお茶をしていて、昔東京にもお店があってのを懐かしく思い出しました。ラーンゴッシュ(揚げパンのようなもの)をとても罪深い気持ち(カロリー的に)でむさぼり食べていました。
「もしかしたら、人間の命を引き延ばし、治癒力を強化する物質を発見したのかもしれないわ。ヴィクター・フランケンシュタインが生物的変成突然変異という概念を発表して以来、それが錬金術師協会の、あるいはその中の一派の夢だったの。そして、知識はあまりにもたやすく力を得る手段として悪用されてしまうものよ。わたしの父は善人ではなかった。→
→わたしをかわいがっていたことは例外かもしれないけれど、父の長所はいいものではなかった。そのことがわたしの人生にどんな影響を与えたか、わかるでしょうーわたしは自分の大切な相手に危害を加えて殺すモンスターよ。でも、父は悪人でもなかった。他人を支配する力は求めなかったわ。自分の研究は、いつか人類がより高い水準に進化する助けになる、と信じていたの。」/ベアトリーチェ嬢がウォルトのドレスを着た姿は私もおがみたい……。
「かつて、といってもずいぶん昔のことだが、彼女は自分の赤ん坊を殺して地中に埋めた。ところが裁判のときには、手をくだして殺したのではなく、生きたまま埋めたのだと申し立てたーそう言えばかえって罪でなくなると思ったのだ。裁判で彼女は20年の刑を宣告された。その話をわたしにしながら、ウリヤ―ナは激しく泣いたが、やがて涙をぬぐって、こうたずねるのだったー「酢漬けキャベツを買いなさらんかね」」
「われわれもサブラとシャティーラの虐殺に関してイスラエルを非難しよう。現地雇いの補充兵にすぎないカターイブの肩にだけこの罪を負わせるわけにはいかない。カターイブの二中隊をキャンプに入れ、奴らに命令を下し、三日三晩激励し続け飲食物を与えたイスラエル、夜のキャンプを証明したイスラエルは有罪なのだ」「夜、いくらイスラエルの照明弾が上からキャンプを照らしていたとはいえ、15人、20人の射撃手では、たとえ装備が万全だったとしてもとてもこのような屠殺はなし得なかっただろう。殺戮者は行動した、だが多人数で、→
→おそらくはいくつもの拷問班に分かれて動いた。頭蓋を開き、太股を切り刻み、腕を、手を、指を切り落とし、死にかけの人間を縄で縛って引きずり回したのだ。引きずり回された男女は、その後も体から血が長い間流れていたからにはまだ生きていたはずだ」/そのほか、オーストリアラジオの記者と、シャティーラでジュネに同行していたライラ・シャヒードを交えてシャティーラ事件を巡って行われた鼎談「ジャン・ジュネとの対話」、訳者のこの作品を巡る論文「<ユートピア>としてのパレスチナ―ジャン・ジュネとアラブ世界の革命」等を収録。
「シモーヌ・ヴェーユとアドルノは(異なった観点からだが)、絶対的な、無関係の実体として、芸術作品に近づく必要性を説いた。ロンギは、彼よりも前にヴァザーリがそうであったように、芸術作品は歴史的、関係的、「それによる」眺望を必要とする、と主張した。」「この二つの切り口は両者とも不可欠に思えるが、互いに両立し難い。これらを同時に試すことはできない。それは有名なアヒルーウサギの像のようである。アヒルも兎もそこにいるのだが、同時に見るのは不可能なのだ。しかし二つの眺望は均整を欠いた関係で結ばれている。歴史の言語で→
→「単純で」、直接的で、絶対的な見方を表すのは可能だ。だが逆は真実ではない。」/「マタイの福音書」の受胎告知の場面で、ヘブライ語の「娘」が「70人訳」(ギリシア語訳)では「処女」になっていたというところから始まって新約が旧約の予示となっていった過程もたどれる4章、オリゲネスの「出エジプト記」注釈を起点とする5章、7章と「災難は見の近くに現れる時に憐れなものであり、そして一万年前に生じたものを人は憶えてもいない」というアリストテレスの「弁論術」から始まる距離と道徳的感情についての第8章が特に面白かったです。
読む本を選ぶときに、こちらの感想を参考にすることが多かったので、私の感想もだれかの本選びの一助になればと登録しました。多分外国文学が多いです。
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「かつて、といってもずいぶん昔のことだが、彼女は自分の赤ん坊を殺して地中に埋めた。ところが裁判のときには、手をくだして殺したのではなく、生きたまま埋めたのだと申し立てたーそう言えばかえって罪でなくなると思ったのだ。裁判で彼女は20年の刑を宣告された。その話をわたしにしながら、ウリヤ―ナは激しく泣いたが、やがて涙をぬぐって、こうたずねるのだったー「酢漬けキャベツを買いなさらんかね」」