(3)機構の側からは、単なる強権的支配というだけでなく、飢饉の救済といった庶民に対する慈しみや、森林保護のために庶民の欲望を抑える施策を打つなど、大局的見地からの責任感が感じられ、庶民の側にもそれに応えようとする信頼感情があったようにも感じられた。それに対し現在は、欲望の制御を無効化し、それに反比例するかのように責任感を薄れさせ大衆化した庶民が、政治への関心を益々失って行く。そしてそれに連動するかのように、政治家の倫理観や責任感も失われていく。まさに、本来分断されようもないはずの国民感情と政治の分→(4)
(4)断が生じている。そのような悪循環に陥っている現在が、かの時代以上に深刻な環境問題を抱えている、ということを思えば、それを乗り越えることが相当に悲観的な状況であるということも本書を通して感じさせられた。
(2)えば、敢えて難解なものに挑まなくても良いことになり、またもや堂々巡りに陥り、本書を読む意味も失われてしまう。実はこのような迷いは、意識のレベルは相当に違うが、道元が仏道の修業を求める際に抱いた疑問にも通じるものかもしれない。まずはその堂々巡りを突破することで視界が開ける。それこそが、自己を中心あるいは絶対的存在(実体)との考えからの脱却であり、その手段として、本書の言葉、「見るものなくして見る、主客未分の見方」に大いなるヒントがあるように感じた。自分というものが無いというのではなく縁起という→(3)
(3)関係性の中でのみ成り立つ存在。このような世界観は、最近、仏教界のみならず日本史におけるもう一人の天才として注目している空海の即身成仏につながる世界観に似てはいないだろうか。自然体というのは、自分を主体と認識して、その主体が無理をしないというのではなく、主体であることこそを無化し得る境地ということでもあるだろうか。まだまだ険しいが、向き合うことに喜びを感じられる思想への対し方に、また新たなヒントが得られたという気がした。
(2)象徴される華やかさがあるが、飛鳥には、歴史の重みという通好みの魅力があると感じられた。また、個人的にも地理的により身近な飛鳥には、訪れてこそ感じられる魅力があると言うのも、嬉しい情報であった。
(3)非常に納得のいく形で示されていた。振り返れば、1960~70年代の公害問題、70年代以降の交通戦争とまで言われた車社会の問題、そして現在に至るまで続く、原発問題等々を、放置して来たとは言わないまでも、経済発展優先の体制の犠牲としてきたことは明白であるように思える。そして、その犠牲とされてきたのが、経済発展に乗り遅れる、または水俣病の犠牲となった漁民たちのように、敢えてそれを拒否し、別の意味での豊かな生活を送ってきた人たちであった、ということを深く受け止めるべきと思われる。→(4)
(4)総力戦体制といった幻想下では、その経済発展もいよいよ限界が見え始めたと言ってもよいこの時代にこそ、人間の新たな幸福、豊かさの新たな基準を考え、科学技術も本当にそれらに相応しいものにして行く必要があると感じた。
(2)それは、自然環境の美しさや、その裏返しの厳しさによるものだけではなかった。生活の糧や安全保障といった面で、必然であったと言える海洋交易によって身についた国際性、多様な文化といったものも、日本国としても宝とすべきものではないかと感じた。
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(3)非常に納得のいく形で示されていた。振り返れば、1960~70年代の公害問題、70年代以降の交通戦争とまで言われた車社会の問題、そして現在に至るまで続く、原発問題等々を、放置して来たとは言わないまでも、経済発展優先の体制の犠牲としてきたことは明白であるように思える。そして、その犠牲とされてきたのが、経済発展に乗り遅れる、または水俣病の犠牲となった漁民たちのように、敢えてそれを拒否し、別の意味での豊かな生活を送ってきた人たちであった、ということを深く受け止めるべきと思われる。→(4)
(4)総力戦体制といった幻想下では、その経済発展もいよいよ限界が見え始めたと言ってもよいこの時代にこそ、人間の新たな幸福、豊かさの新たな基準を考え、科学技術も本当にそれらに相応しいものにして行く必要があると感じた。