ことで、救出作業を撮る新聞社のカメラマンや旅行者の写真のサルベージに不自然さはなくなり、かつ島を密室状態にもするという周到さ。もちろん意図して映した写真ではないから鮮明さに欠け、決定的な新証拠が発見されるわけではないが、過去の事件を蘇らせる手法として斬新だなと感心した。その後の展開では、「えっ、もう犯人と対決しゃちゃうの」っていう早過ぎるクライマックスにもやっぱり驚かされた。あと残りこんなにもページあるのに、どう物語の結末をつけるのか、と。
くるのだという告白によって一転する。俄然現代性を帯び、いまなお進行中の事件であると読者にわからせる、巧い仕掛けだなぁと感心した。だけど主人公はそれでもなかなか首を縦に振らない。報酬も申し分ないのに、「悪いけど暇じゃないんだ」、別の実業家の不正を告発した裁判で負けたばかりで、刑務所にも行かなきゃならない、と。そこで老実業家が出した最後の奥の手が、裁判で負けたこの男の新情報を事件が解決したら教えてやろうと提案する。この交換条件を巡る駆け引きが、上巻の白眉で、評判に違わぬ傑作を予感させる。
唯一、気がかりな点は、この老実業家の一族がやたら大きくて、容疑者もそれだけ多いこと。別に登場人物の多さは気にならないのだが、2巻、3巻と続いていく中で、これは覚えとかないといけないのか?、続けて読まないと忘れてしまいそうだなぁと。それと少しジャーナリスティックな視点が鼻に付きはじめていて、物語の興趣が削がれないか不安。
言うは易く行なうは難し。実際、回復後の著者は、父親の看病の時にはほとほと手を焼いている。世話する娘への感謝の言葉もなくガミガミと小言を言い続けるため、著者もついつい言い返すことに。キャラ2同士の言い争いだ。そこで著者は父親の好きな絵画教室に連れ出すなどして、なんとか関係を保っていく道を見つける。それは、左脳から右脳へ意識を向けることで泥沼から脱出できたと振り返っている。著者ジル・ボルト・テイラーは、脳の2つの部分を意識と無意識、思考と感情に分けて、ユニークかつもっともらしい見解を示している。
しかし、専門の脳神経科学者は本書をどう読むのだろうと感じたのも事実。「相手にどのキャラが宿っているのか識別して」「どのキャラがステージに躍り出てマイクを奪って主役となっている?」「舵を取っているのは?」「意識の前面に出ているのは?」。そして時にスピリチュアルな方向に話が展開し、「宇宙の流れとつながり」「境界に溶け込むことができる」「脳は意図的に外部のエネルギー場に影響与えることができる」など、専門家はどう読むだろう。一般読者に向けて科学者が、非科学的で主観的な書き方で論じても問題はないが、果たして...。
ジョブズのスピーチも必ず「なぜこの製品を買うべきか」という問いに答えていた。著者が言う「疑惑のウイルス」を、ジョブズは聴衆のアタマに入り込み、ばら撒いていく。日々抱いていた不満を思い出させ、改めてもううんざりだという気持ちにさせるのだ。プロダクトがどんなものか説明する前に、なぜそれが必要かを必ず説明していた。こうしたテクニックは、ジョブズはとても自然に、当たり前のようにやっていた。原稿なんてない。その場のアドリブでもない。
製品開発のあいだ、社内で繰り返し同じストーリーを社員に語り続けていたから、あらためて文案を練る必要もなかったのだ。最高のアイデアには、必ず「なぜ」への答えがある。プロダクトに「何を」させるか決めるずっと前に、なぜ顧客がそれを求めるかを理解しなければならない。「なぜ」が「何を」を決めるのだ。
「こと自らに関する限り、まったく欲のない兄弟。だからこそ、世俗の欲に塗れた者どもは、水が低きに流れていくように、この兄弟の無欲さに惹きつけられ、集まってくる。無欲さという水穴に、次々と呑み込まれていく。違うのは、その範囲だけだ。高氏は接した世間の者すべてから、高国の場合は一族のすべてから信任を勝ち得ることが出来るのだ — 」
難関校の入試問題からあらゆる資格試験で満点がとれるだろう。そりゃそうで、言ってみれば試験の問題と答えを丸暗記しているんだからから、当然と言えば当然か。日本の株価が先日最高値を付けた要因となったのは、エヌビディアの好調な業績によるものだが、生成系AIはGPUの高性能化・大容量化とともに発展してきた。従来の構文解析と形態素解析では、品詞ごとに意味や文法をもとに生成していたが、時間かかるし、柔軟性に欠けていた。そこで言葉をベクトル化することを思いつく。
文章に出てくる単語を好きな次元数のベクトルに変換し、近い者同士をまとまりとして配置していくと、意味の近い単語は近くに集めることができる。ベクトル化することにより、GPUで高速に処理でき、言葉と言葉、画像と画像、言葉と画像の間の距離が測れるようになる。AIにとってこの「距離が測れる」ことはとても重要だった。なぜなら「距離が測れる」ものは学習可能だからだ。単なる間違いで片付けるより、距離がどれくらい離れている、このように変化させたら近づけるなどと、覚えさせる事ができるようになった。
村一番の祭りは稲の収穫を感謝する秋に行われるが、みかんは12月から3月、梅なら6月に収穫される。つまり、収穫祭と連動していた祭りの意義が、収穫時期のズレによって薄れてしまうと、村の生活サイクルが崩れ、神への感謝の気持ちにも影響したのだ。また、南方熊楠は現在「エコロジーの先駆者」と語られることが多いが、彼の神社合祀反対運動は非常に新しかった。信仰の拠り所を失う危機感からではなく、鎮守の森という生態系の機能が失われることへの恐れに端を発していたからだ。希少なモノだけの保護を訴えたのではない。
ありふれたモノも含めて全体を保護すべしと考えたのだ。何かが欠けたら、たちまち全体が崩れ、けっして復元しえないのだから、と。「世界にまるで不要なものなし」なのだ。エコロジーだ、社会運動だといっても シュプレヒコールを挙げたり横断幕を掲げて練り歩くのではなかった。出不精なので、現地にも出向かない。ただ助けてくれという村人の訴えを聞いて、伐採承認の印を求めてきた役人を接待し酒を飲ませて、期限切れまで粘れとアドバイスを送るのだ。
自身に向けられた殺意に対して身を捩らんばかり歓喜するのは、殺したいと思われるほど自分が求められているから、欲望されている事に他ならないから。倒錯した心理を見誤り、清宮の頭の中でせっせと埋め続けたスズキという人物像のパズルは、最後の最後に瓦解してしまう。それもそのはず、頭脳優秀で冷静沈着、精緻に筋道だった推理を重ねる刑事には、全身全霊で濃度の濃い欲望を咆哮する犯人の心模様は、とっくに理解の範疇を超えていたのだ。常に次の爆発を匂わせ続け、時限爆弾の恐怖に巻き込む男の頭には十円禿ができていて、自嘲を繰り返す。
るが、錯覚にすぎない。最新の音声合成技術によって、AIによる驚くほど自然な読み上げを、まるで声優が実際に喋っているように感じてしまう感覚に違い。あたかも分かっているんじゃないかと、AIの脳の中を調べてみれば、そこにあるのは皺一つないツルツルの計算機に過ぎない。データが増え過ぎても困らないが、パラメータ数つまりモデルの数を増やし過ぎたら、混乱しないか?最適な組み合わせを見つけるのに苦労し、学習効率が落ちそうではないか?当初は、専門家も疑っていたが、モデルサイズを大きくすればするほど学習効率も上がることがわか
った。なぜなのかは不明。一応、もっともらしい仮説として提起されているのが、宝くじ仮説だ。簡単に言ってしまうと、問題を解くのに、学習前に公式を詰め込めるだけ詰め込んでおくと、どれか正解できる公式に行き当たるから、あとはそれを掘り出していくだけということ。ある意味当たり前と言えば当たり前のような話だが、だけどこの法則を信じた企業は前のめりになって、いまやスケールを大きくし続け、ディープラーニングは飛ぶ鳥を落とす勢いになっている。札束で殴り合う世界だが、内部で行なわれているのは、寒々しい道化の所行に他ならない。
とにかく、眼圧を下げただけでは駄目だということ。「緑内障は、眼圧だけでなく視神経への血流悪化が原因の大きなものです。この血流を何とか改善できれば、網膜神経節細胞や軸索も守れますし、改善も期待できるだろうと考えました。また、緑内障手術を行い、眼圧を完全に低くコントロールできているにもかかわらず、緑内障の進行が収まらない症例もあります。眼圧を下げただけではだめだということです。このような症例でも、血流を増加させることで、緑内障の視野欠損進行を抑制できることも分かってきました」
車の運転時に求められる日本の視機能要件が、他国に比べて異常に厳しいという指摘も、日本文化を考える上で面白いと思った。日本文化の特徴とは、「基準は高く設定し、運用は緩く」である、と。他国のように、ゆるい視機能に合わせて基準を設定し、厳密な適用する世界の常識とは、真逆の発想だ。高速道路における法定速度と、実際の速度の違いのように、日本ではこの「基準は高く、運用は緩く」が至るところでまかり通っている。ただ不思議とこれを正そうという気にならないのはなぜだろう。特定の誰かが、上から命令して変えても無駄だろうと思う。
「自分なんてあってもなくてもいい」と思っている明生。資産家の出で、夫婦や家庭を信用せず、「生きるなんてバカみたいなこと」「楽に生きるのが基本」と語るみはる。「自分を大事だと思えないから、他人も大事に思えない」明生が、上司である東海さんには「人間はたとえ人のために死んでも、自分のために死んではいけないんです。だから、自分の方が死ねばよかったなんて絶対に言っちゃいけない。赤ちゃんは死んで本望だったんですよ」と熱弁する様は違和感しかなかった。
ただ、みはるの言行も合わせて考えると、作品の中で両者の行動がいかに自身の信条を反映していないかもよくわかるので、その辺りは著者が慎重に描き込んだ部分のような気もする。「結婚なんてのは、とりあえずいまの自分で○と思ってるときにするもんだ。何かを変えようとか、違う人間になろうとか思ってしちまうとろくなことはない」という黒木の言葉も、著者独特のシニカルな視点が透けて見える。
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自身に向けられた殺意に対して身を捩らんばかり歓喜するのは、殺したいと思われるほど自分が求められているから、欲望されている事に他ならないから。倒錯した心理を見誤り、清宮の頭の中でせっせと埋め続けたスズキという人物像のパズルは、最後の最後に瓦解してしまう。それもそのはず、頭脳優秀で冷静沈着、精緻に筋道だった推理を重ねる刑事には、全身全霊で濃度の濃い欲望を咆哮する犯人の心模様は、とっくに理解の範疇を超えていたのだ。常に次の爆発を匂わせ続け、時限爆弾の恐怖に巻き込む男の頭には十円禿ができていて、自嘲を繰り返す。