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2024年4月の読書メーターまとめ

てれまこし
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感想・レビュー
14
ナイス
273ナイス

2024年4月に読んだ本
14

2024年4月にナイスが最も多かった感想・レビュー

てれまこし
日本でいちばん宗教革命に近いものとして一向一揆が考えられる。鎌倉仏教にヴェーバーが新教に見いだしたような生活の合理化を契機を見出すような説もあるから余計に興味深いのだが、やはり歴史はそう単純なものではないらしくて、真宗が民衆に広まったのは、かえって加持祈祷という呪術の需要に応える山伏などの遊行の徒が大きな役割を果たしたらしい。一向宗の門徒の多くは本願寺の僧たちの教義というよりは親鸞の子孫という宗主のカリスマ性に期待するところが大きかった。本願寺は本願寺で封建社会の枠内において教団を維持する方針だった模様。
てれまこし
2024/04/10 16:06

ただキリスト教圏でも民衆への布教は教義上の妥協を伴っているし、民間信仰の呪術的要素が根強く残ってるのは同じ。教会は世俗の権力でもあったから、権力闘争もするけど封建制度の枠内での共存も画策する。違いは程度の問題なのか、なにか質的に異なるものがあるのかどうかよくわからない。自分の古文の素養だと史料がほとんど読めないから、そのニュアンスがよくわからないところがたくさんあった。もう少し調べてみないとわからんな。

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2024年4月にナイスが最も多かったつぶやき

てれまこし

自分は子どもの頃からずっと本を読み続けてる。だけども読み方が変わってるし、それにともなって読まれるものも変わってる。たとえ同じ本を読んだとしても。 14歳までの読書と41歳からの読書 https://note.com/telemachus/n/ned3547464062

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2024年4月の感想・レビュー一覧
14

てれまこし
「百姓」の中には商工業に携わる者が多くいて、その人たちはもとは神奴として神仏や天皇に直属していて、人の抗えない力としての「悪」に関係してて、鎌倉仏教はこの「悪」に取り組むことで革新的な宗教家を生み出し、だけどもこれがまた現代まで続く差別の問題にもつながる。なんだか自分が興味を抱いていたようなことが目白押しで、すぐには整理がつかない。他国と比較するにも、自分の日本史知識がかなり怪しくて、ちょっとアップデートが必要だな。だが少なくとも西洋とはちがう宗教革命みたいなものが起こり得たし起ころうとしたかもしれない。
てれまこし
2024/04/29 11:54

私事に近いが、一つ気になったのは東国には被差別部落が少なかったこと。自分の母方の曽祖父の実家の言い伝えが本当であれば、たぶん京都から東北に移住した職能民(神楽を舞う)の一族。でも、西国とちがって移動する芸能民にならずに地主になった。そうやって、ずっとそこに住んでる農民のような顔をしてる(だが代替わりのたびに京に上った)。網野はケガレの考え方と対処法が西と東では違ったんではないかと推測してるけど、植民のタイミングでの人口密度や未開地の有無で大部分説明できるかも。

てれまこし
2024/04/29 12:19

比較上いちばん興味深いのは、西洋近代では(で、現在のわれわれも)公共空間というのは神が不在の領域ととらえるけど、日本の中世は逆で、神仏に属する空間が公けという理解。だから市場も神仏に属するところに立てられる。商工業にも(交換経済が不可欠)も宗教家たちが切りひらいていく。しかも、この宗教かたちは呪術的なものを持ち伝えてる、むしろ前近代的な信仰の担い手でもあるんだよ。ヴェーバー的な宗教理解だと、どうにも解釈しようがない。

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てれまこし
『ビヒモス』と同じく晩年に書かれ死後公刊された。やはり対話形式をとって、法学者エドワード・クックの『提要』を批判的に検討してる。違いは、神学者、聖職者ではなく、慣習法を重視する議会派の法学者たちが標的になってる点。法とは主権者の命令以外の何ものでもなく、慣習法は主権者が黙認するかぎりにおいて法である(だから後のバーク的保守主義の立場を否定してる)。議会の法律家たちが何を言っても、この立法権は主権者の不可分な一部であって、これを侵害することは許されない。王の主権擁護なんだが、理論的には議会も主権者たりうる。
てれまこし
2024/04/29 11:33

自分にはよくわからんのだが、たぶんイギリスにはさまざまな法体系が競合しながら共存していた。ひとつは制定法と慣習法の対立で、議会派は慣習法の自律性を王に対して主張したから、ホッブズの理論はこれを否定しようとした。法律は理性的でなければならないけど、法律家の法的理性とやらが長年かけて培ってきたものじゃない。自然理性を使って誰でも推論できるものでなければならない。そうやって伝統も法律家の特権も否定する。では自然理性は何を教えるかというと、主権者の絶対性を認めないかぎり平和と安全は享受できないということ。

てれまこし
2024/04/29 11:36

だから、ホッブズ的な観点からは、イギリスの法体系は合理化されないとならない。その合理化は、主権者が王国の平和と繁栄を維持するという観点からなされる。慣習法がこの目的に反する場合は、それがいくら古いものであっても無効にされるべき。多様性や相互チェックなんかを重視するバークの保守主義とは真向からぶつかる立場。

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てれまこし
ハンスカ夫人の希望によって書かれたが、バルザックを長いこと苦しめ未完に終わった作らしい。現在出版されてるのは、死後に夫人によって加筆・編集されてる。未完だからか話の筋よりは登場人物の描写で終わってしまったところがあるが、この描写が貴重。タルチュフがたくさん出てくる。題名は『農民』で貧者と地主の対立を描くはずだったが、書いてるうちに田舎の支配階級として台頭したブルジョワとその配下のプチブルたちが主題になったらしい。彼らが貴族を追い出し美しい農園を分割して終わるが、そこに民主化された国の暗い未来が暗示されてる
てれまこし
2024/04/25 10:57

バルザックはマッチョな力な信奉者であるだけに、悪人に対する態度もちょっと両義的なところがある。「悪の凡庸」と評されるようなケチな悪人も描くが、悪魔的な悪人に対しては両義的な態度を示す。リグーという元ベネディクト修道士の還俗層がでてくるんだが、名士面しながら酒色にふけるどうしようもないタルチュフなのに、何事にも動ぜず修道僧の忍耐をもって悪の道を貫徹するその姿に感嘆してるようなところもある。タルチュフが文学史上に残る人物になったのも、それが僧ではなくてブルジョワの姿と重ねられたからかも。

てれまこし
2024/04/25 11:01

だからモリエールの『タルチュフ』を読んでも、どこが普遍的な人物なのかぼくらにはピンとこなくなった。特定の個人というより中産階級そのものがタルチュフ的存在で、口では荘厳なものや崇高なものをたたえつつ、やってることは私益を優先して美しいものを破壊すること。階級としてそうだから、個人は自分の偽善には気がついてない。むしろ自分たちの属する階級の外に立ってるような気になって批判したりするから、余計にタルチュフになる。そういうことなんかな。

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てれまこし
マキァヴェッリと同時代人である新大陸の「征服者」コルテスも運命の女神という比喩(?)を介して世界を見ていたらしいので、ちょっと調べてみたが、やはりサラマンカ大学でイタリアに留学した先生について学んだことがあって、不遇だった晩年は自宅のサロンを人文主義者に開放している。コルテスもピサロもイダルゴと呼ばれる下級貴族の子(ドン・キホーテと同じ階級だ)で、国家が統一されたスペインではイタリアか新大陸に行くしか出世の機会がない。で、やはり、新大陸でチェーザレ・ボルジアばりの陰謀と裏切りで新君主を目ざしたものらしい。
てれまこし
2024/04/24 11:51

数百人で大帝国を征服するという事業は軍事力や技術的優位だけではおぼつかない。権謀術数というものが必要になる。先住民のみならずスペイン人同士の権力闘争にも勝利しないとならない。まさに運命の女神をかしずかせるマキァヴェリのヴィルトゥが要求される事業だった。庶子であったピサロと比べて、父に可愛がられたコルテスは人文主義的教育を受けていて、優れた統治能力があった。マキァヴェッリを知っていたかはわからんが、ひとりの傭兵隊長でもあり新君主でもあったらしい。国民国家の形成がそうした人々を外の征服事業に押し出していった。

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てれまこし
中沢新一が推してたから読み始めた。「農民」というフランス語は狭い意味での農民ではなく貴族でも都市市民でもない者たちの総称としても使われたらしい。この話でも土地を耕す者というより農村を捨てて商売に走った周辺的な人物が多い。革命で自由の味を占めたこの層が、街のブルジョワたちに煽られて貴族に反乱を起こすんだけど、たぶん最後にはブルジョワたちに裏切られる。バルザックの意図はこういう階層の危険を説くことらしいけど、受動的被害者ではなく狡賢く悪意をもった人々として描かれることで、かえって政治的主体性が賦与されてる。
てれまこし
2024/04/21 10:16

農民の反感は単に階級対立からだけではなくて、パリから来る新貴族に対するブルゴーニュ地方の反乱という一面がある。パリで制定された法律が必ずしも適用されない、地方政治の中央からの自律性が的確に描かれてる。たぶん、革命の一遺産たるボナパルティズムの支持層にも二種類あって、ひとつは生まれや門閥にかかわらず偉大な資質を有する個人を崇拝する英雄主義(バルザックはこちらに属する)と土地分配の恩恵を受けた地方の農民たち。土地の分配を求める農民たちはバルザックにとっては富の集中が可能にする人類の偉大さを破壊する危険分子。

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てれまこし
中南米特産品であった独裁者の孤独。外国勢力によって権力の座に据えられた山だしの田舎者たちが、外国人支配者が去ると仲間内で殺し合う。それに勝ち残ったものが「大統領」となり「大統領府」に住まうが、それは体裁だけで、国民は大統領を神さまか呪術王のように思ってる。衛兵ははだしであるし、大統領府には牛や鶏がうろついてる。当初は権力を振るい時間でさえ自分の思い通りにしていたが、老いに蝕まれた彼に代わって国家機構が発達し彼が命令する前に勝手にやるようになる。なお、愛に飢えたマッチョというラ米的家父長がここに見られる。
てれまこし
2024/04/17 14:26

1968年に構想して1975年に書きあげてるから、8年がかり。いろいろ独裁者の資料を読みあさったらしくて、全篇ブラック・ユーモアにみちた幻想世界に、植民地支配の遺産やスターリンの伝記なんかを思い出させられる妙に現実的な記述が混じってる。笑いながらもなんとなく憂鬱な気分にさせられるのは、独裁者がただ悪として描かれるんではなくて、マザコンのマッチョであるからかな。中南米ではどこにでもいそうな普通の人なんだけど、下手に権力の座についたがゆえにいろんな悪事を平然とやるようになる。でもマザコンの子どものままなんだ。

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てれまこし
ルネサンス期のフィレンツェで絶大な影響力を振るいながらも政変によって失脚、処刑された修道士。カネも権力ない人がなぜそれだけの力をもてたか。彼は自分が神のことばを託された預言者だと信じ、腐敗したイタリアに神の鞭が振り下ろされると予言した。これが仏王シャルル八世のイタリア侵入として的中した。宗教改革の先駆とされるけど、終末論や神の直接の介入を信じてるから、教義的にはルターやカルヴァンのもつ革新性はない。彼の他の数多の預言者たちと分けるカリスマの源泉は、弁舌の才だけでなく高潔で誠実な生き方に対する尊敬みたい。
てれまこし
2024/04/17 11:44

商人の共和国フィレンツェもやっぱり神の罰を恐れてた。ロレンツォ・デ・メディチみたいなあまり敬虔でなさそうな独裁者でさえ、死に際してはサヴォナローラとの和解を求めた。ミケランジェロはフィレンツェが破滅に瀕してるという彼の説教を聴いて、怖くなって街から逃げ出した。この恐れがあったから、サヴォナローラのような「武器を持たない預言者」が政治的影響力をもてた。「遅くなるまえに悔い改めよ」ということばが無視しきれないだけの力をもった。

てれまこし
2024/04/17 11:50

だけど、神の鞭としてフランス王を据えてしまったから、彼の政治はフィレンツェの国内政治と外交と直接的に利害をを交えることになった。書かれてなかったけど、フィレンツェ商人は教皇庁とフランス王の銀行として台頭したから、国内の派閥抗争と外交が連動してた。教皇とフランス王が対立するようになったときに、サヴォナローラはフランスとの同盟を「キリストとの同盟」と同視してしまった。教会改革のための公会議の提唱という念願も、世俗権力としての教皇にの利害とぶつかる。彼が意図せずとも宗教と政治が絡まってくこざるをえない。

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てれまこし
清教徒革命の原因や経緯で晩年に書かれた。リヴァイアサンと異なるのは、対話形式で書かれていることと明白に君主制を支持していること。これが書かれた背景として復古した王政の危機がある。THの意図は内戦の再発を避けるには王への絶対服従しかないと警告することらしい。おそらく、リヴァイアサンがTHのような学者が読者に想定されているのに対して、この書は学者以外の人間にアピールするように対話方式が選ばれてる。確かにリヴァイアサンは共和国政府を正当化しうる理論的根拠を提供したが、THにとっては革命自体が起こるべきではない。
てれまこし
2024/04/17 11:17

彼は王党派なんだけども、世俗権力を守るために危険を省みずリヴァイアサンを書いたにも拘らず、その守ろうとした世俗権力(王党派)そのものから睨まれているという被害者意識がある。だからそういう人を相手に自分の立場をわかりやすく弁明する必要を感じたんではないかと思う。自分は学者であるけども、王に対する反乱を煽った大学の学者や長老派の聖職者たちとはちがって、道理をわきまえた学者であると強調したかった。ただ、世俗権力を純粋に世俗的な理由で正当化するにおいて神学とは独立した政治学の領域を創りだした。

てれまこし
2024/04/17 11:21

TH自身大学出の知識人だけど、王党派の貴族の家庭教師として比較的恵まれた一生を送ったから、政治体制を変革する意欲には乏しかったと思われる。彼の政治理論における革命は、革命的な政治(とくに宗教的熱狂に駆られたそれ)を退ける理論だった。だけど、彼の意図にもかかわらず、今日まで続く近代的主権国家という革新を正当化することになったものらしい。歴史ってのは本当に狡猾だよ。

が「ナイス!」と言っています。
てれまこし
日本でいちばん宗教革命に近いものとして一向一揆が考えられる。鎌倉仏教にヴェーバーが新教に見いだしたような生活の合理化を契機を見出すような説もあるから余計に興味深いのだが、やはり歴史はそう単純なものではないらしくて、真宗が民衆に広まったのは、かえって加持祈祷という呪術の需要に応える山伏などの遊行の徒が大きな役割を果たしたらしい。一向宗の門徒の多くは本願寺の僧たちの教義というよりは親鸞の子孫という宗主のカリスマ性に期待するところが大きかった。本願寺は本願寺で封建社会の枠内において教団を維持する方針だった模様。
てれまこし
2024/04/10 16:06

ただキリスト教圏でも民衆への布教は教義上の妥協を伴っているし、民間信仰の呪術的要素が根強く残ってるのは同じ。教会は世俗の権力でもあったから、権力闘争もするけど封建制度の枠内での共存も画策する。違いは程度の問題なのか、なにか質的に異なるものがあるのかどうかよくわからない。自分の古文の素養だと史料がほとんど読めないから、そのニュアンスがよくわからないところがたくさんあった。もう少し調べてみないとわからんな。

が「ナイス!」と言っています。
てれまこし
バーリンのNM論の独創性は、政治と(宗教)道徳ではなく、異教とキリスト教という異なる二つの道徳体系の対立を暴き、それが両立しないと見抜いたことに最大の功績を見るところにある。だから英米式実証科学ではなく、なんとヴィーコ、モンテスキュー、ヘルダー、ドイツ歴史学派に連なっていく精神科学の系譜の先頭にNMを置いてる。でも道徳的相対主義の前で踏みとどまり、寛容を説く自由主義の祖にNMを祀り上げちゃう。この読みは彼の多元主義と関係があって、人間には唯一の究極目的があるというプラトン以来の西洋思想の伝統に対する批判。
てれまこし
2024/04/10 13:16

むろん、この多元主義の背景には、ナチス・ドイツとソ連による全体主義体制の恐怖がある。価値の一元性(人間には究極的目的は一つしかない)を突きつめると全体主義的な「最終的解決」に行きつく。トルストイの一元論であろうがヒトラーのそれであろうが同じ。真理を歴史の中で捉えようとしたヘーゲルやマルクスでさえ「歴史の終わり」という形の西洋中心主義から逃れられなかった。バーリンの学問は、そうした西洋の知的伝統の中から多元主義を指し示すような歴史を掘り出してくることに捧げられたとも言えるな。

てれまこし
2024/04/10 13:19

皮肉なのは、その多元主義が今度は普遍的な真理を装った西洋中心主義的な価値であるということにされてしまったことだな。和解可能ではない価値体系を信ずる人々が共存できるような社会というのが西洋的なもので、必ずしも普遍的なものではないじゃないかという批判で、多元主義の武器が多元主義自体に向けられたかたち。

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てれまこし
ホッブズの自然状態とか社会契約論にはエピクロスからの影響がある。イタリアに旅行したときにガッサンディを介してエピクロスのテクストを入手したらしい。そういう話なんで調べてみた。以前に読んだような記憶があるけど、そのときは大して気に留めなかったらしい。でも、そうなると、人間を盲目的な自働機械として扱うところも、経験論も個人主義や原子論的な社会観も、ガリレオやデカルトのような近代科学ではなくて、人文主義を介して古代哲学から受けつがれた部分がある。つまり近代に古代が持ち込まれてる。ルネサンスと直接につながってる。
てれまこし
2024/04/08 10:37

私事で恐縮だけど、自分はエピキュリアンを気取ってたところがある。快楽主義と訳されるけど、苦痛をもたらす欲望を抑えて精神的な快(心の平静)を求めるから、かえって禁欲的なところがある。娘が学校でエピキュリアニズムの話を聞いたときも「お父さんだ!」と思ったらしいから、他人から見てもそういうところがあったみたい。でも、最近気づいたんだが、なんにでも満足せずに苛立ってる自分を隠すための仮面としてのエピキュリアンを気取ってたところもあって、今読み直すとちょっと複雑な気分だな。

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てれまこし
タルチュフ的人物というものがいろんなところでよく言及されるから読んでみた。喜劇と政治の関係といえば諷刺だと思っていたが、ラブレーの場合のように、教権との闘争において王権が笑いを利用することもあったらしい。笑いを憎み何かと道徳にやかましい坊主どもに、興隆する市民も世俗権力も嫌気がさしていたから、敵の敵ということで共闘が可能になった。ホッブズの理論もそういうところがあるけど、絶対主義にはそういう解放・寛容が伴ったらしい。だが、タルチュフが文学史上に残る普遍的人物になったのは、それが坊主ではなかったかららしい。
てれまこし
2024/04/08 10:22

タルチュフもオリジナルでは僧服を着てたみたいだが、演劇を敵視する神学者たちの検閲を受けて上演禁止になった。そこで譲歩として零落した貴族に変えたらしいと解説にあった。マキァヴェッリの『マンドラーゴラ』みたいに坊主の偽善は以前から知られていて諷刺の対象になってきたけど、そうした坊主から権力をとりあげたところ、「人の崇めるものを楯にとって、抜け目なくそのうしろに身を隠す手を知ってる」俗人が増えたものか。シェイクスピア劇での清教徒に似てるけど、マルヴォリオみたいな真面目なやかまし屋じゃなくて確信犯的ぺてん師。

てれまこし
2024/04/08 10:40

モリエールはこれしか読んでないからわからんけど、シェイクスピアの喜劇と比べると、民衆劇的な要素は少ない。タルチュフはフォールスタッフというよりはヴェニスの商人のシャイロックだな。舞台と観客席を往ったり来たりする道化じゃなくて、観客席から憎み、その破滅を期待する対象。でも、そう見てるかぎりは、ぼくらの内なるタルチュフが見えないから、あまり普遍的な人物ではなくっちゃう。この場合の「普遍的」とは「ああ、そういう人っているよね」と誰でも心づくってことだと思うけど、自分には小説やマンガくらいでしか出会ったことない。

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てれまこし
てっきりこのシリーズは経済小説を集めたものかと思ったが、この巻はなんと秘密結社の話だった。力を崇拝し法の目をかいくぐって生きる13人の謎の男たち。だけども、なぜか彼らの企みはすべて失敗に終わってる。彼らの神秘的な力はエロスの振るう力の前に敗北を喫している。あとには抜け殻の死体だけが転がる。この時代においては恋愛は愛情のみならず財産や名誉を賭けたゲーム。そこでは真摯な恋愛感情は危険なもので、用心深く囲っておくべきもの。なのに炎上しちゃう。同性同士だけじゃない。男と女とのあいだで食うか食われるかの闘争になる。
てれまこし
2024/04/02 20:59

バルザックにこんなエロティックな小説があったんだな。黄金と快楽の追求に上から下までの階層が取り憑かれたパリにおいて、恋愛が快楽の際たるものの一つ。だが、それは名誉と財産とのバランスを保ちながらなされることになっている。だけども、恋愛はその背後に暗い深淵をもっている。度が過ぎるとエロティックな炎が心身を焼き尽くす。死をもたらし、ほとんど宗教的な崇高さにまで達してしまう。恋愛遊戯がこのレベルに達すると、人的喜劇が神的喜劇に肉薄する。

てれまこし
2024/04/02 21:09

日常的な恋愛ゲームから非日常的な恋愛闘争を分けるのは背徳的なエロティシズムで、SMやら近親相姦や同性愛の匂いがプンプンする。秘密結社の儀式のような秘儀的なものが感じられる。解説によると、世界を動かす「力」の神秘的な源泉みたいなものに、バルザックは魅せられていたらしい。

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てれまこし
著者はフィレンツェ名門一族の出身でメディチ家の教皇庁に仕え教皇軍司令官や教皇領代官を勤めた。マキァヴェッリと同時代人(14歳年下)でよく比較される。NMにあってFGにないのは祖国愛の情熱で、NM以上にマキァヴェリアンなところがある。本書が公刊された19世紀のイタリア統一運動においては、それゆえに悪魔的思想家とされていたNMが愛国者になり、歴史家として高く評価されてきたFGは二枚舌の卑怯者にされたらしい。抗いがたい運命への抵抗を諦めて、シニカルに何とか一族の利益だけを守るだけに堕落した世代とされちゃった。
てれまこし
2024/04/02 12:50

たしかにNMは高貴な感情(祖国のための自己犠牲、私益より公益)を刺激するけど、FG は人をシニカルにさせる。勝った馬に乗れるように注意しろ。誰も信用するな、本心は誰にも明かすな。長いものにまかれろ、でもまかれすぎるな。NMも同じような助言をするんだけど、イタリアを野蛮な侵略者の手から救うという大義が後ろに控えてた。FG にも祖国愛や信仰がないわけじゃないし、友情も重んじる。だけども腐敗し切った世の中で生き残るためだけ(祖国を救うためじゃない)にも、マキァヴェリアンにならないとならなかった?

てれまこし
2024/04/02 12:57

NMとちがって幸運なキャリアを歩んだFGだけど、最後は政変でやはり失脚して、晩年は寂しかった。NMと同じく忘恩について書いてる。NMにとっては祖国愛は自分の再仕官とつながっていて他にもう失うものがなかった。メディチ家に雇われるか、田舎の小領主で終わるか。名家の家長であるFGはちがう。NMが望んだものを手に入れてそれでも足りない。滅亡は間近だと騒いで性急に変革をもたらそうと焦るのではなく、時間稼ぎをして好機をまつ。そのために力を温存しておかなければならない。好意的に解釈すればそのための知恵だともいえる。

が「ナイス!」と言っています。

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2017/09/03(2453日経過)
記録初日
2015/10/02(3155日経過)
読んだ本
1153冊(1日平均0.37冊)
読んだページ
418597ページ(1日平均132ページ)
感想・レビュー
909件(投稿率78.8%)
本棚
1棚
自己紹介

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