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京都祇園もも吉庵のあまから帖

志賀内 泰弘

第一話 桜舞う 都をどりのせつなくて

京都駅、新幹線八条口。

タクシードライバーのは、「山口様ご一行」と書かれたボードを手にして、とびきりの笑顔でお迎えした。

「おこしやす~!」

「すぐ、見つかって良かったぁ」

「お世話になります~」

「よろしくお願いします」

なんでも「ずぅ~っと、ずぅ~っと大昔」に東京白金しろがねの私立の女子高を卒業した仲良し三人組だという。

事前の電話予約の際に、

清水寺きよみずでらとか条城じようじようとかは、みんな行ったことがあるみたい。どこか京都らしいところをガイド付きで案内していただけないかしら」

と頼まれた。それならと提案したのが、「都をどり」だ。

四月一日から約一か月間、まいげいが一堂に会して「まい」を披露ひろうする、京の春の風物ふうぶつである。

美都子は、早速、お客様を乗せて出発した。

春爛漫はるらんまん

おのおののお店の前には、赤く丸い提灯ちようちんが、

みやこをどり」

と染め抜かれ、春風にかすかに揺れていた。

一瞬、誰もが、いにしえにタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。

ここは、おんこう

先斗ぽんとちよう宮川町みやがわちようなど五つある花街かがいのうち、もっとも大きい規模を誇っている。

さか神社じんじやから四条通を西へ。

花見小はなみこうと交わる角には、弁柄色べんがらいろの壁がえる「一力亭いちりきてい」が構えている。忠臣蔵のおおいし内蔵助くらのすけが遊んだことで知られるお茶屋だ。

そこから南へと下がる通りの両側には、京のおもむきを伝えるいくつものお茶屋が立ち並ぶ。


美都子は、もうすぐ三十八になる。

まさかこの歳で、自分がタクシーのハンドルを握っているとは思いもしなかった。

「この期間、駐車場が満杯なので少しだけ歩いていただきます。かんにんしてください」

と言い、離れたところの駐車場にタクシーを停めて三人を先導。花見小路をゆっくりと下がってゆく。

写真を撮り合う観光客が立ち止まるせいで、真っ直ぐに歩くのも難儀なほどだ。

どこからとなく、ハラリと桜の花びらが数片運ばれてきて、三人の襟元えりもとや髪に付く。

「え? ……どこから?」

あちらこちらを見回して、桜の木のを探している。美都子の髪にも、花弁が留まった。

そんな中、すれ違う観光客が、何人も振り返る。

口々に、

「キレイな人やなぁ」

「おおっ、美人」

などという声が聞こえてくる。中には外国人観光客も。

「ビューティフル!」

「メイリー‼」

それは、すべて美都子に溜息とともにささやかれた言葉だった。

男性だけではない、行きう女性たちからも。

そのときだった。すれ違う人が引くキャリーバックに触れ、幼い男の子が転んでしまった。

「あっ! 大丈夫?」

美都子は、思わず駆け寄る。幼稚園の年長さんくらいだろうか。抱き上げて起こした。ケガをしていないか確かめる。

「痛いよ~」

「男の子は泣いたらあきまへん」

今にも泣き出しそうだったが、その一言でこらえた様子。先へ行ってしまっていた両親が、気付いてあわてて戻ってきた。

「ありがとうございます。さっきまで手をつないでいたのに……」

「膝小僧ちびっとだけりむいとるけど、どないもなさそうです」

美都子は、スーツのポケットから絆創膏ばんそうこうを取り出してってやった。親子は「ありがとうございました」と、何度も頭を下げて立ち去った。

お客様のうち、予約の電話をくれた「山口様」が美都子にささやく。

「ねえねえー、運転手さん。みんなあなたのこと見てるわよ」

同性ゆえに、口調にちょっぴりしつが感じられた。あとの二人、佐藤様と佐々木様にも言われた。

「そりゃそうよ~こんなに美人なんだもの。そして優しくって」

「駅で最初に会った時、びっくりしちゃった! 女優さんみたいなんだもの。テレビのドッキリかと思ってカメラ探しちゃったわ」

「みなさん、おおきに」

と美都子は笑顔で答えた。人に振り返られるのは慣れている。それこそ、もう中学生のころからのことだ。だからといって、おごるわけでも、ツンツンするわけでもない。「華やか」で「品」と「知性」があり、かつほがらかな「陽気さ」。そう、美都子はまるで、京言葉の「はんなり」を絵に描いたような美人なのだ。

佐々木様が、続けてたずねてきた。

「駅からずっと聞こうと思ってたんですけど……」

「へえ、なんどすか」

「運転手さん、その制服、オシャレですねぇ」

「ああ、これどすか」

「私、以前、デパートの婦人服売り場で働いてたことがあるの。見たことのないデザインよね。ステキ! 失礼だけど、個人タクシーさんの制服には見えないわ」

「ええ、服が好きなので、独立する時に特別にあつらえたんどす」

三人の前で、くるりと一周回ってポーズを決めた。広い襟のついたシルバーグレーのベストに紺のスーツ。上着の両袖とスラックスの脇には、縦に二本、山吹やまぶき色のストライプが走っている。首筋には、有名なミラノブランドのスカーフが、ネクタイのようにキュッと巻かれていた。そして、前髪をクルッと小さくカールさせたショートボブに、天使の輪が光っている。

「センスいいわぁ」

「おおきに、ニースのネグレスコホテルのベルボーイさんの制服をしてこしらえてもらったんどす」

「え!? ホント?」

「冗談どす」

「なんだ~」

三人は、まるで修学旅行生のようにはしゃいで笑った。

「でもさ、運転手さんの言葉っていいわよね、品があって」

もう一人が言う。

「そうそう、私も思ってた。京言葉っていうの? それに背筋をピーンと伸ばして歩く姿はモデルさんみたい。ううん……そうそう舞妓さんみたい」

「おおきに。実はうち、夜は祇園で芸妓させてもろうとるんどす」

「え! ホント?」

美都子は、上着の内ポケットからせんを取り出し、パッと開いて優雅にしなを作ってあおいで見せた。

「祇園の美都子どす。よろしゅうおたのもうします」

「え! 私、芸妓さん見るの初めて!」

と一人が言う。

「やあねえ~サッちゃん、冗談よ、冗談で言ってらっしゃるのよ」

美都子は微笑ほほえんで、

「はい、冗談どす」

と答えた。

「あ、あ、そうよね~嫌だ、私」

「あはは」

「楽しい運転手さん~。冗談がいんだもの!」

三人はお互いの肩を軽くたたき合いながら大笑い。ちょっとわざとらしい京言葉も扇のパフォーマンスも、美都子のお客様サービスの一つである。


「着きました。ここが祇園甲部練場れんじようどす」

と、美都子は高く手を挙げて指し示した。

「わあ~雰囲気あるわぁ」

「ここで都をどりが見られるのね」

「楽しみ~」

祇園甲部歌舞練場は、まるでお寺のような外観だ。それもそのはず、もともとは明治六年に建仁けんにん塔頭たつちゆうを改造したものが始まりだという。その後、新築移転、修理を重ねたものの百年以上の歴史があり、有形文化財にも登録されている。

入口には、桜が満開。

さきほどの花弁は、ここから風に舞ってきたものだろうか。

美都子は、三人をまず広間へと案内した。

「舞台が始まる前に、お茶を召し上がっていただきます」

すでに大勢の人がに腰かけて並んでいる。

「わあ~舞妓さんだ」

「ねぇねぇ、運転手さん、あの人は本物よね」

「はい、もちろん。芸妓がお茶を立てて、舞妓がお客様のところまで運んでもてなしてくれはります」

佐藤様が溜息をもらす。

「キレイ~。でも、お茶のほう知らないし」

「そんなにしゃちほこばらんでもかましまへん。ご覧のように、りゆうれいしきいうて、芸妓さんも椅子に座ったままお茶を立ててくれはります。なんでも外国の方々にも気軽に日本文化を体験していただきたいということから考案されたそうどす」

目が合った係の人が、サッと四人を一番前の席へと案内してくれる。お茶を立てる芸妓がもっともよく見える真ん前の席だった。

そうこうするうち、ハッとするほどあでやかな振袖姿の舞妓さんが、目の前にやってきた。茶器を手にしたまま美都子の前に立った。

「美都子さんお姉さん、こんにちは」

「東京からのお客様をご案内しました、よろしゅうお頼もうします」

美都子が立ち上がっておをすると、

「そ、そんな……こちらこそよろしゅうお頼もうします」

戸惑とまどった様子で答える。そんなやり取りを見た三人は、眼をパチクリさせている。なぜ、舞妓さんがタクシードライバーに丁寧ていねい挨拶あいさつを……と思っているに違いない。

その後、次から次へと、美都子のところへ様々な人たちが挨拶に訪れた。

「こんにちは」

「ごどす」

その中の一人、白髪の着物姿の男性が言った。

「あんたが来たら、芸妓舞妓が見劣りして困るやないか。少しは遠慮しとき」

「ご冗談を」

「あはは……お母さんによろしゅうな」


実は……つい先ほど、美都子がお客様に、

「うち、夜は祇園で芸妓させてもろうとるんどす」

と答えたのは、あながち冗談ではなかった。


美都子は、十年余り前、祇園の芸妓だった。その後、大手のきようタクシーに勤め、つい先日、個人タクシーの資格を得て、独立したばかりなのである。

美都子は母親が女将おかみをつとめるお茶屋に生まれた。

十五で祇園甲部の舞妓になった。

芸名は「もも」。

誰が決めたわけでもない。

無理やりそうなるように母に吹き込まれて育ったわけでも、強制されたわけでもない。ものごころがついた時には、周りには舞妓さん、芸妓さんがいた。しや味線みせんの音がいつもどこからか聞こえていた。花街という特別な場所で、自然に芸の道に誘われていたのだ。

母ひとり子ひとりだが、さびしいと思ったことは一度もない。とにかく、周りがにぎやかで華やいでいたせいかもしれない。

やや目じりが下がり、いつもほほ笑んでいるように見える瞳。

スーッとしんの通った小高い鼻。

占いでは「恋多き性格」と言われるぽってりとしたくちびる

生まれながらに人の心をきつけるもくに、多くのだんしゆう贔屓ひいきにしてくれた。そして、二十歳はたちで芸妓になる。

舞妓から芸妓になると大きく変わることがある。舞妓のうちは、生活のすべてを屋形やかたの女将さんが面倒をみてくれる。お金の心配は一切ない。ところが、芸妓は一人立ちしなくてはならない。世間で言う個人事業主だ。一人でマンションを借り、着物もお飾りも自前になる。よほどの覚悟と技量がないと、生きていけない。そのため、やむなく廃業する者もいる。

美都子は芸妓になっても人気を博した。何より「負けん気」が強く、努力家でもあった。人一倍、おけい研鑽けんさんを積んだ。お茶屋のお母さんへの挨拶をマメに行い、誰よりも可愛がられた。

名実ともにNo.1になったが、その期間はそれほど長くはない。美都子が二十七の春。きっかけは、ささいな言葉だった。

ある日のこと、母親であり、お茶屋の女将でもある「ももきち」に言われた。

「あんた最近、お稽古サボッてんと違うか」

「そんなことあらしまへん。いつも井上いのうえせんせーにはめられてます」

井上先生とは、祇園甲部の踊りのしよう・井上家元いえもとのことだ。つい反発してうそをついた。「褒められた」ことは一度もない。誰よりもひいでているはずなのに ……。

「ちょっと人気があるからって、鼻がたこうなってるんやないの」

「なんやて、お母はん」

実は、そんなやりとりは、この道に入ってからひんぱんに交わされたことだった。だが、たまたまそのとき、よほど腹の虫の居所が悪かったのだろう。それまでの長い月日に、薄紙を積み重ねるようにつのっていた「思い」があふれ出したのだ。

「鼻が高いのは遺伝や」

「そうやない、うちは踊りの心構えのこと言うてるんや」

「なんやそれ」

「あんたの踊りは、高慢こうまんなんや。『きれいでしょ、うまいでしょ』いうにおいがして鼻につくんや。もうちびっと謙虚けんきよにならんとあきまへん」

「もうええ」

「なんや」

「そんならうち、もう芸妓やめるわ」

「そうか、やめたらええがな」

美都子は、プイッと飛び出した。まるで家出少女のように。まさしく売り言葉に買い言葉。勢いで、井上先生を始めとして、芸事の先生方を次々と訪問し、廃業するむねを報告する。誰もが驚きつつも、

「なんや、ええ男はん見つかったんか」

しゆうげんはいつやの?」などと尋ねられた。

「そんなんやあらしまへん」

と答えるが、No.1の芸妓が辞めるとなると大騒ぎだ。当然のこと、もも吉に「うそやろ」と問合せが殺到する。実は……それも想定し、母親を困らせてやりたかったのだ。そして、引き止められるだろうと期待していた。

ところが……。うんともすんとも言ってこない。同じ屋根の下に住んでいるというのに、顔を合わせても何も言わない。目覚めれば、「おはようさんどす」。ただ、それだけ。いよいよ、美都子は引くに引けず、「さて、どないしよう」と考えることになったのだった。


芸妓からクラブやバーなどの接客の仕事へ転身する者は少なくない。当然のことだ。ずっと花街だけで生きてきたので、浮世のことはさっぱりわからない。ちょっと前の話にはなるが、こんな「笑い話」がある。

舞妓・芸妓は、デパートやホテルのイベントで、引っ張りだこ。ひんぱんに全国への出張がある。どこの仕事に出掛けるにも、すべて屋形のお母さんか広告代理店などの人がマネージャーとして付き添ってくれる。

ところが、ある日のこと。年配の芸妓がお休みの日に、若い芸妓たちと一緒に宝塚へ観劇に出掛けることになった。駅でまず戸惑った。切符の買い方がわからないのだ。若い芸妓が買う様子を観察し、とりあえず切符を買うことはできた。

そしてまた、見よう見まねで自動改札を通った。シューッと切符が吸いこまれる瞬間、「あっ! られる」と、びっくりして息が止まりそうになったという。目的の駅に着いて、若い芸妓たちが振り返ると、「お姉さん」の芸妓の姿が見えない。

振り返ると、改札の手前で、お姉さんがじっと自動改札機をにらんでいる。

「どないしはったんどす?」

と尋ねると、こう言ったという。

「ちっとも切符が出てきまへん。うちの切符だけ、届いてまへんのや」

みんなぜんとした。そのお姉さんは、改札を通した切符が、目的地の改札まで自動的に届くのだと思い込んでいたらしい。そんなことがあっても、お姉さんを誰も笑うことができなかった。自分たちも、多かれ少なかれ、世間知らずであることを知っていたからだ。


美都子もご多分に漏れず、外の世界にはとんとうとかった。だが、花街とはできるだけ距離を置いた仕事がしたかった。母親へのあてつけもある。

(なんかうちに合った仕事はないやろうか……おもてなしの心を大切にできて、人に喜んでもらえるような。でも、大好きな京都らしいものがええなあ)

そこで、飛び込んだのがタクシーの世界だった。これには花街どころか、世間の人たちも驚いた。研修を終えて一人でハンドルを握った日には、「異色の芸妓ドライバー誕生!」「運転手は祇園の『もも也』さん」などと、マスコミでも騒がれたものだ。

だがまもなく、美都子は母親のもも吉の行動に驚かされることになる。代々続いていたお茶屋をたたんでしまったのだ。

「なんやの! うちが芸妓やめたあてつけどすか?」

あてつけ……。これは意地と意地のぶつかりあいだと思った。

「そんなことあらしまへん」

「うちが跡継いで女将にならへんからか?」

「あんたの人生を縛るつもりはあらしまへん。前から思うてたことや。人は好きに生きるのが一番ええ」

その後、店内を改装して、かんどころ「もも吉あん」を開いた。

母娘ゲンカの意外な顛末てんまつに、花街の誰もが唖然とした。


内緒の話。

美都子はひそかに幼い頃から、母親にわだかまりを抱いていた。一度も口にはしたことがないが、それが突拍とつぴようもない行動へと走り出した原因であることに、自らも気付いていた。しかし、母親の方も心の奥深くに、何やら娘に秘め事を抱いているのではないか。そう感じている美都子だった。

かといって美都子は、母親のもも吉と絶縁ぜつえんしたわけではない。相も変わらず、同じ家に二人暮らし。「あの日」以来、一度もケンカをしたことはない。会話の数は、昔よりも多いほどだ。

毎朝、「いってきます」と言うと、「おきばりやす」と言い、送り出してくれる。勝手に芸妓を廃業したという後ろめたさもあり、「付かず離れず」という微妙になかむつまじい母娘関係を保っている。それはあたかも、お互いが女優として演じているかのようでもあった。


さてさて、話を歌舞練場へと戻そう。

次々と美都子のところへ顔なじみの人たちが挨拶にやってくる。

(これはかなわんなー。お客様にもご迷惑かけてしまう)

「さあ、客席へ参りましょう。もうすぐ始まります」

ちょっとわずらわしくもなり、三人をうながした。


「都をどりは~」

「ヨーイヤサー」

の掛け声で幕が上がった。

舞台のしもには、笛や太鼓などをかなでる舞妓さんたち。かみには、三味線のかた芸妓がズラリと並ぶ。

そんな中、花道はなみちから、舞台へと艶やかに進みでる舞妓の列。

溜息にも似た「あー」という観客の声が上がった。

鮮やかな青色に、しだれ桜の文様もんようの着物。三十名近くの祇園甲部の舞妓たちが、うたいとおはやに合わせて舞台へと進んでゆく。

総踊りだ。

お客様は三人とも、夢の世界に引き込まれているかのような様子だった。

うっとりと酔いしれて。


歌舞練場から表に出ると、口々におしゃべりが始まる。

「キレイだったわねぇ」

「ホントあっと言うだった」

山口様が、美都子に尋ねる。

「ねえねえ、運転手さん。結婚はされているんでしょ」

「いいえ、独身どす」

「ええ~」

三人が声を合わせたように驚く。

「そんなにおキレイなのに」

「うちの息子の嫁にしたいわ。三十なんだけど、嫁と離婚調停中なのよ」

佐々木様がそれを聞き、からかう。

「あなたが嫁いびりするからでしょ」

「とんでもない。こんな優しいしゆうとめがどこにいるのよ」

「どこがよ」

「うちの息子の方が二枚目よ。まだ一度も結婚してないし。どうかしら、息子と付き合わない?」

「それはモテない証拠じゃないの」

「なによ!」

言い合いは尽きない。どうやら、三人とも息子さんの相手を探しているらしい。美都子は、あい笑いをしつつ提案した。

「そうそう、このすぐ近くに、縁結びの神様がいらっしゃるんです。歌舞練場のすぐ裏手やさかい、ご案内しましょうか」

「それはいいわ!」

意見が一致し、美都子はやすこんぐうへと案内した。

山口様が、由緒書きを見て声を上げた。

「悪縁を切り、良縁を結ぶだって! ほんと、今のうちの息子のためにあるみたいな神社じゃないの」

境内けいだいは、若いカップルや、女の子たちのグループでいっぱいだ。「縁切り縁結びいし」という大きな石の下部に、人が一人ぎりぎり通れるほどの穴がいている。かたしろと呼ぶ身代わりのおふだに願い事を書き、その穴の表から裏へとくぐり抜ける。そののち、形代を碑に貼りつける。それで悪縁が切れるという。さらに今度は、裏から表へと抜ける。それで良縁が結ばれる。

悪縁切りに限らず、「恋人がほしい」とか「好きな人に気持ちが伝わりますように」など、「良縁結び」の祈願きがんに訪れる人も少なくない。


三人が、祈願のための長い列を待っている間のことだった。

本殿ほんでん参拝を待つ長い列の中、見覚えのある女の子に美都子の目がいった。な普段着の着物に、おだん頭。舞妓になるために修業中の「みさん」ではないか。まだ十六歳。その歳で、「悪縁切り良縁結び」の神様にお参りなどとはどういうりようけんだろう。ひょっとして、故郷に恋人がいて、恋しくてたまらず神頼みしに来たのか。どこかの出入りの料亭の若い板前いたまえに言い寄られて困っているのか。それとも……。

いずれにしても、今は「都をどり」の真っ最中だ。先輩の舞妓たちのお世話やら雑用やらで眠る間さえないはず。

(あの、どないしたんやろ。ちょっとしかってやらんと……)

美都子はそう思い、一歩踏み出したが、思いとどまる。

自分はもう現役の芸妓ではない。廃業して十年以上も経つ。そんな自分が、出過ぎたをすることは「いき」からはずれる。「粋」か否か……それが、花街で育ったものが筋を通す「生き方」のものさしだ。

ためらい……そして言葉を飲み込んだ。

だが、飲み込みはしたものの、再び迷う。

(見て見ぬフリをするのは、かえってあの娘のためにならんのと違うやろか。うちは、お母さんにもおしよはんにもきびしゅう教えてもろうた。そのおかげで、芸もみがけた。花街に暮らすもんはみんな家族や。血は繋がらんでも、肉親のように「思いやる」気持ちが大切や……)

そう思い直し、奈々江に声を掛けた。

「あんた、こんなところで何サボッてはるの!?」

とげとげしくならないようにと抑えたつもりだったが、つい言葉尻にけんが出てしまった。

奈々江が、身体をこわらせて、キョロキョロとあたりを見回す。ようやく声の主がわかったようだった。

「あっ……美都子さんお姉さん、かんにんしておくれやす」

そう言い、ペコリとお団子にった頭を下げる。眼もうつろ。美都子におびえているからか、まったく生気が感じられない。

「はよ行き!」

「へえ、すんまへん」

奈々江は列を抜け、もう一度、美都子にお辞儀をして、裏のとりを抜けて祇園へと小走りに駆けて行った。


美都子は、言ってしまってから心が重くなった。

(もっと優しい言い方があったんと違うやろか。普段、他の若い娘には、こないなキツイ叱り方はせえへん。せやのに、あの娘にはなんや、もやもやイライラしてしまう)

目上にも目下にも、けっして嫌われるような物言いはしない。仮に後輩に注意を促すにしても、「嫌われず」「感謝される」言いようもある。美都子も、それを心掛けて来た。

(でも、今日だけのことと違う。何べんもやからなぁ、あの娘は)

人づてに聞く話では、奈々江は踊りの「才」があるという。それを伸ばせるか、それとももれるかは精進しようじんしだい。美都子は心の中に、なにかしら母親か姉のような感情が芽生え始めていることに気付いていた。

(最近の子は辛抱しんぼうが足りひん。うちが嫌われてもええ。厳しゅう教えてやらなあかん。それがうちの役目や)

美都子は、「後悔の念」と、「自分への言い訳」を何度も行きつ戻りつして、奈々江の後ろ姿がこうへと消えるのを見送った。


このあと、美都子は三人組のお客様を東福とうふくなどへ案内し、鴨川かもがわ沿いのホテルまで送り届けた。

「たのしかった!」

「運転手さん、ありがとう」

「みなさん、この後も京都を楽しんでおくれやす」

いつまでも手を振ってくれる。こちらも手を振り返す。タクシーの仕事をしていて、もっともうれしいひとときだ。

手を振りつつも、美都子の心はまだ晴れない。誰かに話したくなった。かといって、誰もがこの気持ちを理解できるわけではない。となると、同じ道を歩んできた人しかない。を聞いてくれる相手と言うと、かぎられてくるのだ。

(今日はもうがりや)

そこが、個人タクシーのいいところ。

再び、ハンドルを切って返す。駐車場に車を停め、花見小路から細い路地を左へ右へ幾度か曲がると、いつしか人影も途絶えた。

ここは甘味処「もも吉庵」。

表には看板はない。

いわゆる「一見いちげんさんお断り」だ。

表は趣のあるお茶屋の造り。

こうの引き戸を開けると、転々と連なる飛び石が「こちらへ」と言うように人を招く。

石の一つひとつは、雨も降っていないのに、しっとりとれて光っている。

がりかまちを上がり、奥へと進む。ふすまを開けると、店内は、L字のカウンターに背もたれのない椅子が六つだけ。カウンターの内側はたたみきだ。女将であるもも吉が、畳に正座して出迎えた時、お客様と同じ高さの目線になるようにと設計したらしい。四条通のカフェが満席の週末ですら、ほとんど訪れる者はいない。美都子が、

「これではあきないにならへんやろ」

と言っても、

「ええのや」

と笑って答える。もも吉のことを「お母さん」としたってくれる花街の人たちだけが、唯一のメニューである「もちぜんざい」を食べに来る。それも、こっそりと ……。人に言えぬ「悩みごと」や「相談ごと」をもも吉に聞いてもらいに。

玄関の襖を開けるなり、

「お母さん、聞いてえなー」

と、美都子は甘えたような甲高かんだかい声を上げた。奥の間からもも吉が現れる。

「なんやの、いつもいつもうるさいなぁ」

着物は、薄い水色地に桜の花びらの小紋こもん。これに合わせて赤味がかったえんそめおび、そして薄い桃色の帯締めが目にえる。今も踊りやお茶を続けているからか、背筋がシャンと伸びている。細面ほそおもてびたい。黒髪のせいもあり、とても七十を超えているようには見えない。

「ええやないの、それがなー」

美都子がそう言いかけたところに、後ろからスーッと襖が開く音がした。

「ばあさん、おるか」

「ばあさんはおらしまへん」

「そこにおるやないか」

「なんやのじいさん、こんなべっぴん捕まえて」

入ってくるなり、もも吉を「ばあさん」と言ったのは、隠源いんげんだ。祇園に隣接する建仁寺塔頭の一つ、満福院まんぷくいんの住職である。

「どこにべっぴんやて、どこやどこや」

と、わざとらしく手でひさしを作ってキョロキョロ見回す。

「なんどす」

もも吉がにらむ。

隠源はほうの裾が乱れぬように、立褄たてづまをひょいっとまんでカウンターに腰かけた。たしか、もも吉よりも五つ、六つ年下のはず。女優と浮名を流した文豪に似てニヒル。花街の芸舞妓の間では、「二枚目の和尚おしようさん」と呼ばれて親しまれている。偉いお坊さんにもかかわらず、ざっくばらん。すれ違うたびに「踊りうまなったそうやな」「またキレイになって」などと声を掛ける。その口上手くちじようずが人気の元らしい。

だが、もも吉には口が悪い。

「おお、こわっ怖い。たしかに、天皇さんが東京行かはる頃までは、美都子ちゃんよりべっぴんはんやったって伝説聞いとるわ」

「なんやて!」

もも吉と隠源。いつものこととはいえ、このやりとりに美都子はあきれるばかりだ。

「そいで今日はなんやの」

「決まってるやないかぁ、いつもの麩もちぜんざい食べさせてえな」

「お断りや」

「そんな殺生せつしようなぁ~。あの、鼻の奥をくすぐるような小豆あずきの香りと、ふわぁ~と口ん中広がるなんとも言えへん上品な甘味思い出したら、がまんでけんようになったんや」

「ばあさんなんて言われて、誰が作ってあげますかいな」

「かんにん、かんにん」

隠源は少しわざとらしく、カウンターに両の手をついて深々と頭を下げる。

「この前一緒に出してくれた汐吹昆しおふきこん、うまかったわぁ。まだあるか?」

「ああ、千本通せんぼんどおりの『五辻いつつじ』さんのやね。細う切ってあって、ぜんざいと相性ええでっしゃろ。仕方ない、作ってあげますわ」

襖を閉めようとした隠源の足元を、スルスルッと抜けるようにして一匹の猫が入ってきた。

「あっ! おジャコちゃん、こんにちは」

隠源が眼を細めて声をかける。

勝手知ったる顔で、L字の角の丸椅子にちょこんと座る。

「ミャウ~」

と甘えるように一鳴きする。銀色の地に薄い黒のマーブル模様。瞳はまるでアーモンドのようにくりんとして可愛い。気品あふれるメスのアメリカンショートヘアーだ。

ある日、「もも吉庵」にふらりと迷い込んで来た。残り物のご飯をやったが、食べようとしない。たまたまいただき物の「ちりめんじゃこ」をお皿に盛るとペロリとたいらげた。どこか大きな料亭か高級マンションで飼われていたのだろうか。京都名物の「ちりめんじゃこ」が大好物とは、なんというグルメ。ぐるりとご近所に聞き込んだが、飼い主はいまだにわからない。とりあえず、「預かる」ということにして、以来、もも吉が世話をしている。きっと、元の名前があるのだろうが、誰ともなく「おジャコちゃん」と呼ぶようになった。

「ほら、お食べ」

もも吉がちりめんじゃこを、小皿に載せて差し出す。

晩ご飯の残り物などとんでもない。よほどの高級品でないと、ペットフードですら見向きもしない。それこそ「猫またぎ」。ここは日本一の花街・祇園だ。猫もグルメに育ってしまったらしい。

「今月は、ほんま猫の手も借りたいくらい忙しいんや。年度始まりは、灌仏かんぶつにお寺の総会やら行事やら多くてかなわん。そうや、おジャコちゃん、ちょっと背中いてーな」

そう言い、隠源が冗談まじりにおジャコの手を触ろうとしたその時だった。

フギャー!

ててて! なにするんや」

「なにするんやは、じいさんやろ。おジャコちゃん怒らせて」

「おー痛て」

「ちりめんじゃこ、横取りされると思うたんやな。ごうとくや」

「そんなことするかいな。ばあさん、救急箱、救急箱や。いとうてかなわんわ~」

「どれ見せてみぃ。……なんやたいしたことあらしまへん。そんなんめといたらよろし」

差し出した手をビシッとたたいた。

「な、なにするんや、殺生な」

隠源は、まるで猫のように手の甲の傷を舐めた。


「ところでなんやったん? 美都子」

急に思い出したかのように、もも吉が顔を向ける。

「そうそう、隠源さんのせいですっかり忘れてたわ」

「忘れるくらいなら大したことないんや」

「そんなことあらしまへん。花街に関わることやから、お母さんに聞いてもらわなあかん」

おおなこと言うて、なんやの」

「仕込みの奈々江のことや」

面倒くさそうにしていたもも吉の顔つきが、一瞬、ピリッとしたような気がした。

「ついさっきのことや。サボッてフラフラしてたから叱りつけてやったんや」

美都子は、安井金比羅さんでの、ことの次第を話した。

奈々江を見るたび、じれったくて叱りつけてしまう。

そのたびに、後悔と言い訳の繰り返し。

でも、いくら叱っても、暖簾のれんに腕押し、反応がにぶい。またイライラする。この半年あまり、そんなイライラがつのり、言葉にならない灰色の雲が胸の内にふくらんでゆく。

美都子は「努力の足りひん」人が嫌いだった。そういう「足りひん」のにかぎってさらになまけようとする。つらいことから逃げる。稽古もろくにせず、泣いてばかりの舞妓がどれほど多いことか。ましてや、奈々江は舞妓にすらなれていない。

美都子は自分の十代の頃をよく思い出す。何をしても「名人」と言われた母親と比べられた。

「あの、もも吉さんの娘やのに」

「お母さんはでけたのに」

「お母さんとは大違いや」……。

幾度となくくじけそうになったものだ。

「奈々江いうと『はまふく』さんとこの娘のことやな」

「そうや。この『都をどり』の猫の手も借りたい忙しい時期やいうのに」

「どこぞのお姉さんのお使いの帰りやったんと違うか」

「違う、違う」

と美都子は首を振る。


舞妓や芸妓を抱えるおきのことを、祇園では「屋形」と呼ぶ。

舞妓を目指す女の子は、多くの場合、中学を卒業した十五の春に両親にともなわれて屋形にやってくる。その日から屋形に住み込み、先輩の舞妓たちと寝食を共にする。

しばらくは身内にも友達にも会うことは許されない。

今は、家事をこなすお手伝いさんを雇っている屋形もあるが、炊事、掃除、洗濯など家事の手伝いをさせられ、眠るのは真夜中の三時という生活だ。

屋形の女将から一年間、徹底的に祇園のしきたりやお座敷のマナーを仕込まれる。

もちろん、昼間はよう長唄ながうた・三味線・とき・華道などを習得するため祇園女子技芸学校に通うのが一番の仕事だ。それが、「仕込みさん」と呼ばれる所以ゆえんだ。

舞妓としてデビューする日まで、ほとんど自由な時間はない。

こんな話をすると、世間の人にはよく、誤解される。

「ひどい職場環境ですね」と。

だが、それは思い違い。仕込みさん、舞妓さんは、「会社勤め」をしているのではない。「修業」に来ているのだ。

そして僧侶や落語・講談などの世界と同じで「無給」である。強制されてるわけではない。自らすすんで花街に身を置いている。辛くて耐えられなくなったら、辞めて故郷に帰ることもできる。

だから、週に一度のお休みの日にでさえも、多くの者がお稽古のおさらいに励むほどなのだ。


美都子は、自分の若い頃のことを思い出していた。

母親のもも吉の三味線を手にしたのは、小学一年生の時だった。三味線などお囃子を専門にする地方の芸妓さんが、手取り足取り教えてくれた。

そのうち、踊りも好きになる。無理を言って、舞妓さんたちのお稽古に付いていき、見よう見まねで踊ったりした。お茶もお華も、謡いもだ。中学に上がった時には、すでに何をしても舞妓さん顔負けになっていた。

中三の春のことだ。

「うちも舞妓さんになる」

と母親に言った。すると、一つだけ条件があるという。母親の親友がいとなむ屋形「浜ふく」に入って「仕込みさん」の修業をするなら……と。もちろん、喜んで受け入れた。「浜ふく」のことお母さんは、ものごころついた時から可愛がってくれている。とても優しくて、自分の母親よりも好きなくらいだった。

ところがである。

「仕込みさん」として「浜ふく」に寝泊まりするようになった一日目から、琴子お母さんの態度がひようへんした。

美都子は戸惑った。

あれほど優しかった琴子お母さんが、別人のようになったのだ。

それこそ鬼のように。

明らかに、他の仕込みさんや舞妓さんたちに対する態度とは違っていた。

今ならわかる。

もも吉と琴子は、美都子の行く末をおもんぱかり、一流の芸妓になれるように厳しく厳しく愛情を持って「仕込む」ようにと相談したのだと。でも、まだ少女だった美都子は、「厳しさ」だけを受け止めるのが精一杯。厳しさに耐え、口答え一つせず、お稽古や屋形の下働きに打ち込んだ。

それゆえに、美都子は、「今の若いもん」のこうが我慢ならないのだ。

舞妓志望の、大半の女の子が京都以外の土地からやって来る。

インターネットで「あなたも舞妓さんになりませんか」というサイトを見て応募して来る者も多い。志望動機が甘いのだ。

「きれいな着物が着られるから」とか「写真を撮られたい」などと、まるでアイドルみたいなことを恥ずかしげもなく口にする。舞妓・芸妓にとってもっとも大切なことは「踊り」だ。その踊りの精進に「ここまで」ということはない。どれほど、お稽古で泣いたことか。

「私の頃は……」

と考えるだけで腹が立ってくる。

「あの娘には、覚悟いうもんがないんと違うやろか」

もも吉が聞き返す。

「覚悟やて?」

「そうや、覚悟がないんで、素行が伴ってないんや。奈々江いう『仕込みさん』は、悪いところばかりが目につく。どうせ愛情いっぱいに包まれた家庭で、何不自由なく育ったに違いないんよ」

「厳しおすなあ」

美都子は、父親のいない自分の生い立ちをうらんだことはない。

だが、家族連れの幸せそうな観光客を見るたび、どこかしら心の扉を閉ざして見ぬフリをしようとしている自分に気付くのだった。

さらに、仕込みさんの修業時代には、実の母親のもも吉と屋形の琴子お母さんという二人から厳しく叱られ通し。気の休まるところ、愚痴の一つを吐ける場所もなく、深夜に布団にくるまって涙していたことを思い出していた。

「欲しいもんは何でも与えられて育ってきたんや、きっと。『お婆ちゃん、服うて~』とか『お父さんゲームほしい』とかなぁ。そのあげく、テレビかなんかで見て『舞妓さんになりたい』言い出して、わがままを通したんやろう」

「あんた、歳とってますます性格悪うなったなぁ」

「甘えとるんや」

美都子は、厳しく育てられた。

自分に厳しく、を課して生きてきた。

美都子はとうに気付いている。

自分に厳しいがゆえに、ついつい他人にも厳しくしてしまうのだ。

「いけない、いけない……人には優しく」と、二十歳で芸妓になって以来、そんな葛藤かつとうの繰り返しなのだ。

腕組みして二人の会話を聞いていた隠源が、口をはさんだ。

「まあ、奈々江ちゃんのことはさておいても、最近の子が辛抱が足らへんのは事実やな」

「そうでっしゃろ」

思わぬ援軍が現れ、美都子は声がはずむ。

「うちで修行する雲水うんすいもそうや。昔は、真冬に托鉢たくはつで歩く時も裸足はだし草鞋わらじやった。今は、こっそりスニーカーにき替える若いもんがおるくらいで参るわ」

「あかん、あかん、若いもんはあかんわ。隠源さんも、厳しゅう言うてやってな」

「わてはあかん。根が優しいからな」

「そんな~」

「これも時代の流れいうもんやなぁ」


その時だった。

「なにしてるんや、またサボッてからに」

勢いよく襖が開き、ヌッと入口のかもをくぐって背の高い男が入ってきた。副住職で、隠源の息子の隠善いんぜんだ。

「外まで聞こえてたで、何が『最近の子は辛抱が足らへん』や。今日は忙しいんや。明日の法要ほうようの支度もせんと、自分はこんなところで油売ってるくせに……あっ美都子姉ちゃんいたんか」

「隠善さん、こんにちは」

美都子がほほ笑むと、隠善のほおがポッと赤らんだ。

「忙しいんや、さあ行くで」

「あかん、こりゃが悪い」

「辛抱足りんのは、じいさんも同じどすな」

「ほな帰るわ」

そそくさと立ち去る二人を見送ったあとも、美都子は奈々江のことが頭から離れず、悶々もんもんとしたままでいるのだった。

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京都祇園もも吉庵のあまから帖
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