1920年代の中国(ただし統一政権は不在)にとって、関税自主権と治外法権がなく大きな問題でした。明治維新後の日本にとっても双方がなく、条約改正が大きな課題となっていたのと同様です。1922年のワシントン会議で、近い将来中国の条約改正問題に関する会議を開催することが決定され、1925年12月北京関税会議が始まりました。
日本の外相は幣原喜重郎で、ワシントン体制をさらに強固にする絶好のチャンスだったにも拘わらず、日本はそうした努力をしませんでした。同書のp73には「ところが事実はこれに反して、ワシントン体制の最終的崩壊をもたらし、各国が共同して外交上のフレームワークをつくっていくことには完全な失敗に帰してしまった」との文言があります。
北京関税会議が声明を出せなかった最大の原因は、中国の内紛が拡大したことですから、これでワシントン体制が崩壊したという結論には疑問を感じますが、幣原が米英協調派という従来の考えには、疑問符がつけられます。
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