「やったの?」
「あぁ」
夕刻、いつもの飲み屋に入ってビールと付け出しが出てきたころ、店のママがそう尋ねた。
今日やるつもりだとは話してはいたが、もう少し話しこんだ後でもよかっただろうに。
常連客の中にも、「ついにやったか」、「おめでとう」と言ってくれる者もいたが、自分では自分のやったことが正しいことなのかどうかわからなかった。
見知った顔の連中はどいつも血色がよく、幸せそうな顔で笑っている。
どいつもこいつも。
有名な政治家、スポーツ選手、著名人がこの店には多く集まっていた。
その中のひとりは、顔見知りの中でももっと古い付き合い、幼少期から悪友として時を過ごしてきた。
最後に会った時は、顔色は悪く、目は落ちくぼんでいたのに。
この店で再開した時、そんなことが嘘のように顔は晴れ渡り、活き活きとしていた。
なんという皮肉なのだろう。
自分の顔は自分では見られない。
もちろん、鏡に映せば見ることは出来ようが、人と対面しているときの顔というのは自分でも知らないものだ。
それが意識がなく、目をつぶっている時ならばなおさら。
自分でも自分があんな顔をするなんて知らなかった。
目を見開き、“そんなわけがない”と驚いた、あんな顔。
響くブレーキの音、時間が止まったかのような空白の間。
自分は“自分”に近づき、背中を押した。
今、きっと家族も友人も、本人でさえ見たこともない顔を見ているに違いない。
顔色の悪い、目の落ちくぼんだ顔。
願わくば、その者達が同じ目にあわんことを。
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