読書メーター KADOKAWA Group

梅崎幸吉☆詩とエッセイ、絵画等

コミュニティの詳細

梅崎幸吉の詩とエッセイ、絵画が主です。

トピック一覧

トピック(掲示板)はまだありません

自由にトピック(掲示板)をたててみよう!

コメント
28

データの取得中にエラーが発生しました

このコミュニティに関するコメントはありません

梅崎 幸吉
新着

「パッション」―秘儀― 



激しい轟音と共に俺の意識は上昇し、発光に包まれ、失神した。

俺の全細胞は零光に焼かれた。名状し難い至福と苦痛によって俺の意識は容した―――。狂おしい覚醒が灼熱した……。

 心身はのたうち、俺は苦痛の極限状態の甘美に痺れた。

 地上を超えた絆が俺を捕らえては引きずり、粉々にした……。  

俺の眼前に殉教者の亡霊共が嵐の如く容赦無くまとわりついた。

俺は両極の拷問を熾烈に味わった。避けがたい運命に俺は呪縛されたのだ。

俺は全てを飲み込んだ。避けられぬ運命と観念せざるを得なかった。俺の魂は灼熱した。マグマの奔流が裡から肉を裂き、迸る――。世を絶した光源が闇を照らし、魂を灼く。

 俺はあらゆる他者に光の矢を放ち続けた・・残忍非情、仮借ない過酷な活動は狂人と等しい。殉教者と同化した俺にはただ火を投げつけるしか出来なかった。

 やがて、業火の渦はそちこちに火の手を上げた。消化する隙を与えず浄化の炎を片っ端に点け回った。地上のいかなる弁明も弁解も釈明も焼きつくす衝動が突き上げ、引きずる。

ああ、この狂おしいパッションを何としよう・・・・・・。

ゴルゴダの秘儀、名状し難い苦悩と無力――。

そうだ、ひとは極限状態の持続の中で真の自我に目覚める。だが、つぶさに検証すると眼の眩む多様さであった。自らの視点が全てに通用する訳ではない。

更なる緻密な検証が要求された。

 俺は言葉を原初に辿った。心魂から霊へ――。

 ああ、あまたの魂は霊界の入口の門前でのたうっていた。彼らは地上の同胞への同情ゆえに倒れたのである。

 自称神秘家共は所詮現実逃避から自己の幻想に呪縛されている。世の思想家共は知的錯乱を受け入れては生存を憎んでいる。矜持もなければ探求する度胸も無い。惰眠の真理をほざいている。

ああ、誰も彼もが尤もだ。だが、これはしたたかな伝道の手段だ世間知を逆手に取ることだ。過去の殉教者の先に行くために・・。今日、悪魔と呼ばれる、ルチファー、アーリマンの双方のうち後者の力は猛威を奪っている。物神思想がそれである。だが、この事情は誰もが耳を塞ぐ。地上の習慣は細胞の隅々まで染み込んでいる。

ああ、俺は埒もないことを言っている。外道の言葉とは言うまい。

だが、語るべき言葉は同じ言葉なのだ。パンはパンである。飯は飯である。金は金である。

 ああ、言葉、言葉、言葉、……。

俺の情熱は奥に、中心に潜む、マグマの如く。

俺は今如何ともし難い光景を前に佇んでいる。自己の無力を痛感しつつ、灼熱する忍耐の鎧を着て、……風景と化している。




二〇〇〇年一月六日

梅崎 幸吉
新着

「話し言葉」と「書き言葉」



 この表題も良く考えると大変難しい問題を孕んでいる。

 最も、簡単な言葉・概念というものはひとつもないといってもいい。

 我々が普段に何気なく使用する言葉ですら深く考察すれば根本的問い、根源的なる地点へと至るからだ。

 まず、我々が言葉・言語を用いるということには最前提として「他者への交流伝達」がある。

 仮に(この仮にというのもあまり意味をなさないが)、我々が世界にただ独りしか存在していない場合は言葉など不用であろう。

 ゆえに、話し言葉であれ、書き言葉であれ、ここには常に他者が存在する。自明のことだが「私」以外は全て「他者」である。逆に「他者」から見れば「私」は常に「他者」でもある。

 伝達手段としての「言語表現」である、話すことと書くこと。この基本となるものは前提としての「共通基盤」であろう。われわれの生存・存在の基盤でもある一切の環境、状況が「共通基盤」となる。これらの全てをわれわれが思考を用いて「言葉」にする。無論、あらゆる諸行為も思考を通して考察判断された言葉が前提としてある。自明だが、行為と意志は不可分である。

 話し言葉にせよ、書き言葉にせよ、何をおいてもこの一点を踏まえねば他者との交流は遮断される。ゆえに日々のなかでの、常に絶えざる自己考察は欠かせることは出来ない。

 話すことと書くことに優劣などない。あるとすれば個々人の「表現」の練磨があるくらいのものである。

 自分自身が知覚し感受したものを常に言葉に翻訳する。これは自己保存本能と即興的精神が連動している。個々人の自覚に準じて表現は多様に変化する。

 よく「立て板に水」の如く喋る者がいる。だが、内容はといえば他者の文献学的引用であったとしたら、直に書物を読んだほうが良い、ということになる。

 無論、的確に簡潔に語れるにこしたことはない。だが、語るべき内容によっては「沈黙」していた方が良い場合もあり得る。これは書くことにおいてもそうである。だからといって「言語表現」に対する努力の放棄では困るのである。

 自己を語るとは「他者」を語ることでもある。他人は自己を映す、といわれる所以でもある。誤解や無理解を恐れていては「自己練磨」は不可能である。どれほど苦しくとも常に自己との戦い・内的戦いの一言に尽きる。

 この「表題」である問いは「自己認識」の問いでもある。結局は各自の精進しかない。

                                    自己認識というものが如何に大変であるか、は考察すればするほど痛感するであろう。

 だが、この自己認識という「核・マグマ」こそが原点でもあり生きる「熱」でもあり、大いなる「私」へと至るわれわれの人生なのである。

梅崎 幸吉
新着

「言葉」というもの


彼のパスカルが 言ったように「大人物にとっても、小人にとっても、起こる事件は同じ、不快さも同じ、 情念も同じである。だが、一方は車輪のふちにおり、他方は中心近くにいる。だから、 同じように動かされても、動き方が少ない。」

「虚栄心というものは人間の心の中に深く錨をおろしているので、兵士、従卒、料理人、人足にいたるまで、それぞれにうぬぼれも持ち、人からもてはやされたいと願うほどで ある。哲学者までが、自分を礼賛してくれる者を得たいと願う。虚栄心に反対の論を立 てる者も、論じ方がすぐれているという名誉を得たいと思っている。またそれを読む者 の方は、読んだという名誉を得たいと思っている。今、こんなことを書いているわたし も、たぶん同じ願いを抱いているのだろう。そして、おそらく、これを読んでくださっ ているかたがたも…:。」(パンセ、一八○、田辺保訳)


芸術表現に限らず表現された「対象」は他者に見られる時は常に一対一の関係となる。

特に「言葉、言語表現」の場合はその度合いが強い。

ある事柄、価値観や世界観に至っては読者は自分自身に言われている様に感じてしまう。言語表現、此処に厄介な問題が潜んでいる。

直に相対して話す場合は左程問題は無い。相手に分かるような言い直しが可能だからである。

しかし、活字になった場合は読み手の解釈によって如何様にも解釈される。

私はよく「断定」した書き方、物言いをすると言われる。

所謂「です、ます調」的に表現した方が相手も聴く耳を持つであろうと。

確かに一見柔和で人当たりの良い言い方、書き方をした方が読み手、相手も受け容れやすいと思う。

人物と直に対面して話す場合であれば当然の事であろう。

然し、物言いがどのようなものであれ内容が変わらぬとすれば言い切る事に問題など無いと思う。

自分がはっきりと言いきる事は、その根拠も説明可能だからである。

通常の言葉による表現は殆どと言ってよい程、何かから得た情報的知識にすぎない。

自分自身が血肉化した言葉であれば威力があるというにすぎない。

誰彼はこう言った、或いは書いてあった等の借り物の情報知の継ぎ接ぎでしかない。

日常生活においては難しく考えなくとも肉体を維持する生活は出来る。

しかし、人生における意味や生存の問いは当人自身でしかと考える必要がある。

自分と似たような考え方、或いは共感出来るような著作に書かれたものを引用し、部分的に用いていたら決して自分自身の養分とはならない。 
と、このように書けば又、読み手は「お前は全てを分かったかのように断定するのか」と。

このように言葉が活字化されると頗る厄介な問題が生じる。

人の数だけ物事に対して価値観、見方、考え方があって何故悪いのか? といった類の異論である。

個々人の考え方や解釈、方法はそれこそ個々人の能力や意識状態によって違うのは当然である。

誰でも自分自身の体験、経験は大事である。他者につべこべ言われる筋合いはない、と。

日常生活で用いられる便利な言葉「仰る通り、様々な考えがありますから、人はそれなりに、ご説ごもっとも等々」

要は自分自身の信じるものを徹底的に考え、信じ続けて生きれば何も問題は無い。

他者の意見や考えに囚われる事なく自分自身の考え、信念に即して確実に噛み砕き、自分の足で歩めばいい事である。

何事も時至れば自ずと分かるであろうから。

梅崎 幸吉
新着

「自己認識のために」2010-06-21



此処に掲載した文章は「日常の聖性」(未完)の序文である。

すでにこの序文に答えは含まれている。無論、これだけでは分かるものしか分からぬ、ということになろう。

だが、このような内容は日常の基本中の基本と思われる。

さらには今後、精神世界等の混濁混乱錯綜した情報が氾濫、猛威を奮うであろうから敢えて掲載する。

ーーーーーーー

 我々人間にとって、この「私」という個体存在は私にとって最も近く最も遠い存在でもあり、「私自身」の真の自己認識こそが古今より困難な認識対象として今日に於いても依然として深遠な謎の如き存在対象として存在している。

「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉があるが、この言葉は今日でも我々にとって未だ、謎のまま思考停止され難破状態である。「私自身とは何か?」という最も基本的、根源的問い自体が真摯に探求されぬまま看過され続けられているのは我々人間存在にとって誠に由々しき深刻な問題である。
 特に近代以降の自然科学的世界観を基点とした唯物論的考察は「私」を単なる考える動物や精巧に出来ている生きた機械のように看做すか、精神と肉体とを異なるものとして分けて考える二元論的考察が殆どである。さらには超越的存在としての神や仏を創り出して全てを統合する世界観もある。
  本来、私の中には聖なるものが種子として宿っている。ただ此の感覚界・物質界という世界で肉体・個体として生存している為にその聖性を見出す事が困難になっている。古来よりこの真の「私」に至る道はあらゆる手段を用いて表現、語られてきた。
 だが、今日のような自然科学に依拠し、基点とした思考による考察では「聖なる私」へと至ることは不可能に近いのである。ましてや心魂的問題に関してはさらに困難である。かといって聖なる私に至る事が不可能ということではない。

 「私」の中には誰でも健全で正しい思考もあれば健全な感情というものもある。
 その方法は地道なものであり、不屈の意志を必要とする。誰でも直ぐに実現出来るというものではない。しかし、一歩一歩確実に歩むことによって「聖なる私」に誰でも至ることは可能なのである。
 
「聖なる私」とは様々な言い方がある。要するに普遍性にまで高まり至った自己意識の「私・自我」である。真我、真人、高次の自我、神的自我、霊我、等々。無論、この意識状態においても様々な諸段階がある。

 私の魂の中にある「聖なる種子」をこの感覚界の生活において如何に育成するか、これが我々人間の生存の問いでもあり目的でもある。さらに言えば我々人間存在が地球に生存する課題としての「魂の進化」とも言える。

 このような物言いに対する反論異論は特に哲学を学んでいる人物や哲学者、自称霊能者等と称する人物から激しい怒りに満ちた攻撃を受ける事は百も二百も承知している。

 誰でも自分自身が依拠する土台が消失するのは不快である。あらゆる視点観点、世界観自体も観念的に相対化し得るからである。

梅崎 幸吉
新着

拙著「小林秀雄論」より抜粋

(前略) 
人は誰でも生ある限り自衛本能を有している。生身の個的肉体から理念や観念、教義、次元を問わず、自己にとって最も大事であるものを守ろうとする。だが、それが単なる個人性と結びつき現われる限りにおいては、何ぴとといえども「善悪」という価値基準の尺度を乱用、用いることは許されぬ。――本来人が人を裁くことは出来ぬ。

「何々の名において」人は人を裁く。形無き所に人々は不安を感じる。何かの「権威」に依存したがる。だが、この世でまるきり尺度を持たぬ人は現実的には「白痴的存在」となる。尺度が無ければ何も判断出来ぬからだ。ゴッホの様に「地上の絆以上のものと結びついている者」、ハムレットのように父の「亡霊」を見た者、心眼をもって日常が「地獄絵」に観える者、等々。この地上的悟性で証明出来ぬものを体験、所有した存在は「狂気」に至るか、「白痴」しか生存の道はない。実生活と交流、絆を、方法を見い出し得ぬ限りは。
「尺度」とは自明の事だが何人といえども所有している。何も理性だけで判断するわけではない、感情でも判断する。むろん、理性は存在する。最終的な判断は理性が決定する。問題はその「理性」の核となっている「世界観」である。ふつうは「理性」と個人の「自我」との区別は判然としてはいない。あらゆる視点や観点がごっちゃに共存し、もつれ、その場その時の状況によって変化している。
ゆえに人は自己保存の為の「土台」を必要として、自己の肯丈に応じたものの反応、見方、考え方、視点を所有する。当然といえば当然である。だが「悟性と心性」が結びつかぬ限り、常に尺度は不安定であり、外的状況に常にゆさぶられ、依存する。キリストのごとく「人はパンのみに生きるにあらず」と言えば「パンのみに生きている人々」によって十字架にかけられるであろう。「死んで花実が咲くものか」に代表される視点である。だがこのたとえは人間に当てはめると正確さを欠く。花は死なねば「種子」を宿すことは出来ぬ。言語表現のやっかいさである。いくらでも論理は擦り替えられるのである。自明の事だがパンはパンである。肉体を維持するために欠かせぬ養分である。キリストは「パンのみにあらず」、と「のみに」と言ったのである。
では、いわゆる魂のパンは何か?「魂なんぞ人間には無い、いわゆるその意識は大古の未開人の無知の意識、すなわち幻想である。――夢である、君は神が死んだ!というあの言葉を知らぬのか!」と。ドロ試合のくり返しである。――「死して成る」という言葉もあるのだ。

本当の尺度とは「悟性と心性が結びつく事」しかない。どこまで深く緻密に感じるか、汲みとる」ことが出来るか、しかない。その意味では「尺度」など在って無きがごとしである。感じるとは全身全霊で知覚することであり、何も五感だけが知覚ではない。心の動きも、想念も、思考すらも知覚の一部にすぎない。ただ、それを現実に万人に証明することが難しいというだけにすぎぬ。(後略)



拙著「小林秀雄論」
https://www.amazon.co.jp/小林秀雄論――批評精神から創造精神へ――-カクレイウ-梅崎幸吉-ebook/dp/B0CNP5JW38/ref=sr_1_2?dib=eyJ2IjoiMSJ9.ja1c70fOj-kpuRopjof9btQ-6StOyZX9lTm2EqeIm4BePwpQyQHnteRCPoc6Uz3C.dRfTiSaQnOgR6sdY3Howo8elEfPattm2n45Ttc-iLpQ&dib_tag=se&qid=1725985415&s=books&sr=1-2&text=梅崎+幸吉

梅崎 幸吉
新着

自叙伝「孤高の歩み」本文より抜粋



(前略)二十六歳の時に私の精神、全意識を震撼させ一変させるような事件が生じた
 接客業にはつきものの常連がいる。大妻女子大に通っている女性が私を気に入って毎日来店するようになった。一度社会に出て演劇をやっていた女性である。
 私がY子にその事を話すと表情が一変した。Y子は大学を卒業して会社に勤めていた。卒業と同時期に下宿から親族所有のマンションへ移っていた。その部屋は八階であった。その窓からふいに「死ぬから」と、飛び降りようとしたのである。無論、私に対しての抗議で本当に飛び降りるとは思わなかった。
例外なく、孤独という意識状態を所有している魂は独占欲の異名でもある。その事は私自身がよく分かっている。孤独の深さに準じてその強度は増す。真の孤独に至れば孤独という概念は消失する。
 私は女性二人に一切の感情を出すな、と厳しく命じた。その代わり私は死ぬまで食を断つ、と。
 自分の中途半端な情が女性を通して顕れたのである。この状況を処するには死を覚悟するしかなかった。ただ、店のカウンターに入っている私にとって、私の行為は客には奇異に感じられたであろう。四日も過ぎたころは睡眠は二時間ほどで眼光は鋭く、異様な殺気を放っていた。それでも大半の客には私の放つ雰囲気は涼しげに見えたらしい。
 私は食を断ち、七日も経てば自分が無感情になるのは知っていた。ただ、包丁で玉ねぎなどを刻んでいると不意に自分の手首を落としたくなるという衝動が何度も湧いた。私は自身のバランスを取るために全ての行為に反対の概念を念仏のように繰り返していた。私が食を断っている時にも客には様々な反応が生じた。私はそれらを全て無視した。

 *

 私は当初、自分自身に何が起きているかが分からなかった。強烈な魂の内的神秘体験であった。実生活で判断する根拠であった足場自体が一挙に消滅した。
 私の生い立ちや環境、あらゆる経験、体験の意味が内側から瞬時に照らされた。私の頭の内側は眩しい光に満ちていた。さらには、脳味噌がショートして破裂寸前の危機的状況でもあった。日常生活が心身ともに耐え難く名状しがたい苦痛は止む事は無かった。私は自分自身を保持するために強度の緊張と強固な意志が必至であった。
 私は自宅に帰ってもほとんど眠らず、常に正座して一点を凝視していた。その様子を見ていた父は「幸吉も狂った」といって嘆いていた。

 私は自分自身の心身を保つためには厳密な言葉が不可欠であると痛感した。私は、私と同じような体験をしている人物を歴史上に探した。私が体験した状態を理解できるものは身近には存在しなかった。
私は最も不快というのも不快な人間界に自ら踏み込む羽目になったのである。
 言葉の世界に踏み込むのに若干の不安はあったが、覚悟して踏み込んだ。まず、骨格として哲学、肉付けとして心理学、対人間に対する処し方は文学と。店の仕事をしながらである。私は近所の書店を片っ端に見て回った。私の直感力と高速で活動する思考は書物の背表紙に書かれているタイトルと著作の頭と最後の数ページを読むだけで瞬時に理解した。  私は哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳、中央公論社1973)が自分の極度に緊張した日々の意識状態のバランスを保持するのに適していた。ニーチェの翻訳された著作はほとんど読破した。哲学者はプラトンやアリストテレス、ヘーゲル等々、山頂にいる存在を主に読む。他はその亜流に過ぎない。
 近代のニーチェやアルチュウル・ランボオ以降に影響を受けた一般に実存主義と称される哲学、文学は自然科学に依拠する相対的世界観に呪縛され、無方向が方向、或いは無意味が意味という実体無き虚無的世界観でしかなかった。
 絵画ではキュビスムから抽象表現へという運動が連動していた。相対的意識とは一切の事物を公正に偏見なく観る、という一視点に過ぎない。この相対的意識状態が世界観と化せば虚無的世界観となる。ただ、単なる動物ではない人間が目的や方向を喪失したらどうなるかは言わずもがなである。(後略)


☆自叙伝「孤高の歩み」 —虚無から創造精神へ— (幻冬舎)
「孤高の歩み」梅崎幸吉著 アマゾンにて紙の本と電子書籍版

https://www.amazon.co.jp/dp/4344690834

ころも。
新着

ただいまです!お話しましょう😁

ころも。
新着

コメント、失礼します。
いらっしゃいますか?今晩は外食ですので・・・😁

梅崎 幸吉
新着

孤高の歩み —虚無から創造精神へ— 梅崎幸吉著
アマゾンより購入可能です。

ーーーー

あとがきより抜粋

 人生の中で誰でも自分はなぜ人間存在として存在しているか? その存在理由や意味、意義、或いは何をすべきか? などの疑問が個々人の差こそあれ生じる。私自身がそうであったようにこの根源的問いは程度の差こそあれ、過酷な魂の試練が襲ってきた時に強く生じる。
 我々には如何なる状況や環境にあれどもその環境状況を変え得るものが具わっている。時空を超えて個人の魂を普遍的高みへと至らしめる神性、仏性の萌芽が誰にでも宿っている。その萌芽を育成するのは我々人間、個々人の課題である。
 我々人類に託された普遍的自我へと至る道筋は各自に応じて違うとはいえ確実に各個人に委ねられている。
 今日の時代は相対的世界観が個々人の魂に猛威を振るい浸透し始めている。相対的世界観は同時に生きる方向性・意志を喪失した虚無的世界観と化す。この虚無的世界観に呪縛された魂は動物的低次の刹那的衝動の言動になりやすい。
 これは世界の各国家、民族、種族にも当て嵌まる。現状ではこの状況を打破するのは容易ではない。

 時期が来れば、この自叙伝の意図を理解把握し受け継ぐ人物が出現するであろう。これは人類進化のために魂から魂へと時空を超えて受け継がれるものだからである。そのような歩みをする人物の一助、参考、里程標となるべく私自身が実生活で体験してきた魂の変容と活動のプロセスを残すことにした。

孤高の歩み —虚無から創造精神へ—
https://www.amazon.co.jp/dp/4344690834

https://www.amazon.co.jp/s?i=stripbooks&rh=p_27%3A梅崎+幸吉&s=relevancerank&text=梅崎+幸吉&ref=dp_byline_sr_book_1

梅崎 幸吉
新着

拙著「小林秀雄論」より抜粋

 人は誰でも生ある限り自衛本能を有している。生身の個的肉体から理念や観念、教義、次元を問わず、自己にとって最も大事であるものを守ろうとする。だが、それが単なる個人性と結びつき現われる限りにおいては、何ぴとといえども「善悪」という価値基準の尺度を乱用、用いることは許されぬ。――本来人が人を裁くことは出来ぬ。

「何々の名において」人は人を裁く。形無き所に人々は不安を感じる。何かの「権威」に依存したがる。だが、この世でまるきり尺度を持たぬ人は現実的には「白痴的存在」となる。尺度が無ければ何も判断出来ぬからだ。ゴッホの様に「地上の絆以上のものと結びついている者」、ハムレットのように父の「亡霊」を見た者、心眼をもって日常が「地獄絵」に観える者、等々。この地上的悟性で証明出来ぬものを体験、所有した存在は「狂気」に至るか、「白痴」しか生存の道はない。実生活と交流、絆を、方法を見い出し得ぬ限りは。
「尺度」とは自明の事だが何人といえども所有している。何も理性だけで判断するわけではない、感情でも判断する。むろん、理性は存在する。最終的な判断は理性が決定する。問題はその「理性」の核となっている「世界観」である。ふつうは「理性」と個人の「自我」との区別は判然としてはいない。あらゆる視点や観点がごっちゃに共存し、もつれ、その場その時の状況によって変化している。
ゆえに人は自己保存の為の「土台」を必要として、自己の肯丈に応じたものの反応、見方、考え方、視点を所有する。当然といえば当然である。だが「悟性と心性」が結びつかぬ限り、常に尺度は不安定であり、外的状況に常にゆさぶられ、依存する。キリストのごとく「人はパンのみに生きるにあらず」と言えば「パンのみに生きている人々」によって十字架にかけられるであろう。「死んで花実が咲くものか」に代表される視点である。だがこのたとえは人間に当てはめると正確さを欠く。花は死なねば「種子」を宿すことは出来ぬ。言語表現のやっかいさである。いくらでも論理は擦り替えられるのである。自明の事だがパンはパンである。肉体を維持するために欠かせぬ養分である。キリストは「パンのみにあらず」、と「のみに」と言ったのである。
では、いわゆる魂のパンは何か?「魂なんぞ人間には無い、いわゆるその意識は大古の未開人の無知の意識、すなわち幻想である。――夢である、君は神が死んだ!というあの言葉を知らぬのか!」と。ドロ試合のくり返しである。――「死して成る」という言葉もあるのだ。

本当の尺度とは「悟性と心性が結びつく事」しかない。どこまで深く緻密に感じるか、汲みとる」ことが出来るか、しかない。その意味では「尺度」など在って無きがごとしである。感じるとは全身全霊で知覚することであり、何も五感だけが知覚ではない。心の動きも、想念も、思考すらも知覚の一部にすぎない。ただ、それを現実に万人に証明することが難しいというだけにすぎぬ。




拙著「小林秀雄論」より抜粋
https://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84%E8%AB%96%E2%80%95%E2%80%95%E6%89%B9%E8%A9%95%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E3%81%B8%E2%80%95%E2%80%95-%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%A6-%E6%A2%85%E5%B4%8E%E5%B9%B8%E5%90%89-ebook/dp/B0CNP5JW38/ref=sr_1_2?dib=eyJ2IjoiMSJ9.ja1c70fOj-kpuRopjof9btQ-6StOyZX9lTm2EqeIm4BePwpQyQHnteRCPoc6Uz3C.dRfTiSaQnOgR6sdY3Howo8elEfPattm2n45Ttc-iLpQ&dib_tag=se&qid=1725985415&s=books&sr=1-2&text=%E6%A2%85%E5%B4%8E+%E5%B9%B8%E5%90%89