形式:単行本
出版社:太田出版
形式:文庫
出版社:河出書房新社
形式:Kindle版
冒頭に「とても本など書ける精神状態ではない」ということが書かれている。調べてみると、著者は現在も著作を発表している。占いは回復の一助になったという理解でいいのだろうか。
かつて、占いをチェーンビジネスにしている人と話したことがある。日本には話を聞いてくれる場が少ない。海外はカウンセリングがあるけど。と彼は言った。確かにそうだ。私的なことや、それこそ「贅沢な悩み」に関して「言葉にする」機会がない。言葉にする機会がまず重要ならば、手相やらタロットやら解説理論はどうでも良いことになる。共同体が崩壊して、人はどんどん孤独に分断されるようになった。占い師でなくても、恥ずかしい事を話せる人、というのを持ち、また自分もそういう存在になることが大事だなと感じる。
本論とは少し離れるが、気になったのでメモ:臨床の場で著者が見た人間の狂気の分類。統合失調症・躁うつ病・神経症・器質性精神病・パーソナリティ障害・依存症。改めて眺め思う。多かれ少なかれ傾向を人は持っており、環境に応じて顕在度が変化するのではないか。自分の中にもそれぞれ種があるけど、現実生活で問題にならない限りはまぁ、意識も向かない。現実に問題が起きると意識が向き、病名診断される。おお、こわ。「一つ一つの事が明るみに出るたびにそれは、光でなく、影を投げかけた」という巻末のエピグラムが印象に残る。
<妻に愚痴をこぼすことは多い。彼女はベテランのナースだし、色々な人から相談を持ち掛けられがちなタイプだ。ましてや彼女はわたしの「取り扱い」に慣れている。だからこそ癒される部分もあるが、やはりそれは応急処置のレベルでしかない。自分の心の闇を配偶者にすべて開陳するのは賢明でないと考えているので、妻さえいれば大丈夫とはならない。友人についても同様である。いささか病的な自分なのだから、カウンセラーのところへ行くのもひとつの方法かもしれない。が、わたしは彼らの手の内を知っている>。身近に何でも相談できる人は大切だ。
<さまざまな感情は、それぞれが明確に区別し得るものではない。だから多少とんちんかんな感情が生じても、よほどでない限り「おかしい」とはならない。自分の周囲の人たちや、患者にも配線が間違っている人物は少なくない。それも度合いによりけりだし、配線のもつれ具合は千差万別だろう。しかしわたしは羞恥心の周辺にコードが集中しすぎる。そのように解釈してみると、かなり納得のいく事象がいろいろあったことが分かる。けれども今さらコードを適切につなぎ変えることなど無理だ>。だから、「気にするな」と自分に言い聞かせるしかない、と。
告白体であるために真情を吐露しているように見え、この悩むは私と同じだ、世間に容れられない悩みは私にもある…と思わされそうだが、僕はだいぶ怪しいと見ている。ただ、自分史として概ね事実を書いてはいるらしい。この事実部分で僕と共通する点が多いのは苦笑。四輪免許を持っていない。財布を持たない。既婚だが結婚式をしていない。この三つだけでも共有する確率は1/100を下回るだろう。つまり確実に当たる占いで人間を100のタイプに分けたら、僕は著者と同じカテゴリに入るかもしれない。イヤだなあ。
飼い馴らしているか見て見ぬふりをしているかもう仕方がないとあきらめているかのどちらかだろうと思うのですが。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます