形式:単行本
出版社:明石書店
ゼノンの一連のパラドックス(例えば、「もし多が存在するなら、それは有限であると共に無限でなければならないことになる」)は、そうした否定性に基づくものとなる。 一方で、存在と主観性の狭間で揺れ動く哲学者達も存在した。そのなかでデモクリトスの哲学を通して、「理念化の方向と深層への方向は同一の超越的構造内の両極」と指摘する。 その他の論考で興味深いのは、言語と構造にはその対応関係に差異があり、その差異を否定性とする表現。
そのため言語で実在を捉えようとする限り、必ず失敗するが、それでも永遠に走り続けなければならないとの指摘(p32)。さらに言えば、掴むものなき否定性や不安定さに耐え通す、本来はハデスの神々の仕事であること(p285)。 「魂の輪廻説は自我の自責意識と永生を希求する自我個体の欲求が裏で手を結んだ主観性の論路の極限形式」(p296)。 対象化できないもの(存在)と、あらゆるものを対象化しかつ操作まで持ち込もうとするもの(主観性)、それぞれとも思い当たるものは無数に散見される。下巻へ続く。
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ゼノンの一連のパラドックス(例えば、「もし多が存在するなら、それは有限であると共に無限でなければならないことになる」)は、そうした否定性に基づくものとなる。 一方で、存在と主観性の狭間で揺れ動く哲学者達も存在した。そのなかでデモクリトスの哲学を通して、「理念化の方向と深層への方向は同一の超越的構造内の両極」と指摘する。 その他の論考で興味深いのは、言語と構造にはその対応関係に差異があり、その差異を否定性とする表現。
そのため言語で実在を捉えようとする限り、必ず失敗するが、それでも永遠に走り続けなければならないとの指摘(p32)。さらに言えば、掴むものなき否定性や不安定さに耐え通す、本来はハデスの神々の仕事であること(p285)。 「魂の輪廻説は自我の自責意識と永生を希求する自我個体の欲求が裏で手を結んだ主観性の論路の極限形式」(p296)。 対象化できないもの(存在)と、あらゆるものを対象化しかつ操作まで持ち込もうとするもの(主観性)、それぞれとも思い当たるものは無数に散見される。下巻へ続く。