形式:文庫
出版社:講談社
形式:Kindle版
奈良朝や平安期に日本でもよく見られる「蠱毒」が、南方の少数民族に淵源をもつとは知らなかった。やはりこの時代、我が国のルーツを知る上でも重要。
353頁。北鎮の乱。北魏末の内乱。六鎮の乱ともいう。北魏はモンゴル高原に依る勅勒を討伐したあと、陰山山脈南嶺一帯に軍鎮を置いて北方防衛に当たらせた。その主な六つの鎮(沃野・懐朔・武川・撫冥・柔玄・懐荒)を六鎮といい、鮮卑旧族長層出身者などを定住させて鎮の中核としたが、北魏の門閥化が深まると時代から取り残されて冷遇を受け、鎮内には不満が高まった。523年、沃野鎮民の暴動を契機に六鎮全体に反乱がひろがった。北魏の国威を地に落とした反乱であり、これに続く軍閥抗争によって北魏王朝は瓦解した。
267頁。北周とのちの隋・唐の建国者の全てが武川鎮と関わりがある。すなわち、隋の建国者である楊堅は、武川鎮に移住したその五世祖である楊元寿の子孫であるとされ、その父の楊忠は宇文泰に従って活躍した人物である。唐の建国者である李淵は武川鎮に移住したその四世祖李きの子孫であるとされ、その父の李虎もまた宇文泰に従って活躍した人物である。すなわち、北鎮の乱は北魏の次の時代の到来を告げる戦乱であり、その諸鎮からは懐朔鎮出身の高歓をも含めて多くの英雄が出現するが、のちの隋唐の王家がいずれも宇文泰の勢力から生まれている。
“このようにこの時代の民族問題を考えるとき、現代の漢民族が出現するに至る前段階としての、広範な融合過程にある蛮漢の実態に注目することが必要なのである”(p234)
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奈良朝や平安期に日本でもよく見られる「蠱毒」が、南方の少数民族に淵源をもつとは知らなかった。やはりこの時代、我が国のルーツを知る上でも重要。