形式:単行本(ソフトカバー)
出版社:ミシマ社
形式:Kindle版
なんでしょうか』。ここは自分に当てはまるなー、今後は小出しに言うていきたいなー。227頁『宗教的成熟の第一歩目は「この世には人知の及ばぬ境位が存在する」という事実の前に戦慄することなんですけれど、その次に必要とされるのは、メンターを「信じる心」なんですね。完全に無防備になって、「この人についていこう」と決めて、自分を全部預けてしまう。これが難しい関門ですね。…宗教的に成熟するためには、一度今までの自分の知的な枠組みや、価値観や、善悪正邪についての判断基準を「無効」にして、フラットな状態になる必要がある。
自分を「タブラササ(白紙)」にして、そこにメンターがかき込む言葉をとのまま受け入れるということをしないと次の段階には進めないんですね、でもこれがすごく危険なことなんです。/そこの危うさは宗教領域における課題です。宗教という名の剣ヶ峰を歩くような事態です。一歩間違えるとすべて台無しになってしまう危うさを持っている。でも、そうやって、身を委ねない限り見えない光景がある。…大事なのは「メンターを見極める力」。…僕自身について言うと、メンターとの出会いは全部「ご縁」なんですよね』。でその際は、身体性に従うとよき。
いるわけじゃない。稽古を通じて、生きる知恵と力を高めるというのが目標なんです。だから、学者には学者の合気道があり、芸術家には芸術家の合気道がある。道場で稽古して会得したことを自分の現実生活で活かしていく。それが合気道だ、と。これは開祖植芝盛平先生のときからずっと言われてきたことだそうです。道場は楽屋であり、実験室であるわけですから、そこではどんな実験をしてもかまわない。自分で好きなことをやっていい。ひとりひとりが自分で仮説を立てて、それを道場で実験して、仮設の適否を検証して、仮説を書き換える…ということを
毎日繰り返す。その点では自然科学と同じなんです。そして、道場を出たら、道場で会得した生きる知恵と力を用いて、それぞれの社会的な活動、市民生活、家庭生活を豊かに生きる。合気道はそういう教え方をします。僕は合気道を四十七年間稽古してますけれど、この考え方が本当に好きなんです。でも、今お話を聞いてたら、これって日本人の宗教性そのままなんですね(笑)』。これ、私が学んで6年目のヨガも同じこと言ってる。どんな学びも同じだなあと感じることよ。
(2)結婚式、葬式等、そして日常生活においても、クリスマス、初詣、節分、お盆等、ある意味での宗教儀礼に親しみながら、宗派的な一貫性が無く、また、宗教儀礼独特の厳かさに欠ける態度が宗教を蔑ろにしたものとされているのが実態でもあるだろう。しかしそれは、ある特定の宗教から見れば、ということであり、必ずしもそのことをもって無宗教的とは言えないだろう。ある意味そのような慣習が究極の習合的宗教と言えるかもしれない。確かに、日常の中で宗教について考えたり、議論することを極端に避ける国民性があることは確かであり、→(3)
(3)それが特定のカルト教団などに付け込まれやすい体質になっている、と言えるかもしれない。これまでは、それを日本人の欠点と考える向きが強かったが、必ずしもそうで無いかもしれない。強い信仰に裏付けられた宗教とは、ある意味、日常をコントロールする術とも言えるが、まったくそれが無く、宗教自体が日常に溶け込んである状態は否定的に捉えるべきものでもない。現に、両者の対談も思想と宗教の習合とも言え、それがさらに進んで日常の糧になれば、素晴らしいことではないか、と感じられた。
政治と宗教の話も興味深い。自民党の統一教会問題のみでなく、移民政策にも宗教的な面での対応が色々必要なのに日本では全く考えられていないという指摘にもあーっと思った。学校の現場ではもう現実問題になっているのだろうか。今年もウチダ本をいろいろ読んでみようと思う。
【神仏習合の理論的脆さ】内田:<「明治政府の方針がそうであったとしても、できたばかりの新政府の宗教政策が、1300年続いてきた宗教的伝統を一片の政令で廃絶することがどうして可能だったんですか? どうして抵抗運動がなかったんですか?」と問われたときに答えられなかった。/どうしてそんなことになったのか、それが知りたくて『日本習合論』を書いたんです。本を書くうちに、「習合」というのが理論的に誠に脆いものなんだということがよくわかりました。経験と感受性と生活習慣と、それだけなんですよね。体系性がない>。その通り!
【日本は、「行」の種類が多く難易度もピンからキリまである】内田:<日本の場合、聖地巡礼は必ず観光とセットになっていますよね。宗教的な行が娯楽を兼ねている。宗教的緊張がどこかで世俗的な弛緩の仕組みで緩解されるようになっている。かなり厳しい行の場合でも、終わった後は必ず「直会」があって、緊張をほぐす。/キリスト教の場合、信仰心が嵩じるとファナティックになってしまう。神の意志を地上にただちに実現するという原理主義的な方向に向かう。「悪魔を探し出して殺せ」という攻撃的なマインドになった人は「行ったきり」になる>。
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