育った境遇も場所も違うはずなのに、なぜか、おこがましいが、似たような経験を自分もしたと錯覚するくらい、共感できてしまう。同学年同世代という理由によるのか。高校生主人公が語るタイプとしての吉永小百合の場面なんか思わず笑ってしまう。町にひとつあった三番館のゴザが敷いてあるだけの二階席で、見た吉永小百合の「シミーズ」姿に喜んでともとふざけ合った中学時代の記憶が蘇った。あれはたしか『キューポラのある街』。あの頃からすでに半世紀以上の時が過ぎた。今回の再文庫化(二〇二四年一〇月)にあたって「自著解説」で著者は書く。
<昭和人は中老以上の大群と化しつつあり、間もなく無用の存在となるのだろう><私は自分を含む「団塊の世代」を、乾いた砂のような大衆だと思うことがある。団結とか連帯とか、熱く湿った言葉が大好きだったくせに、本人たちにはまとまる意思がない。みなばらばらである。自分は独特だと思って個性を主張するのに、みな似ている>。泥のようにではなく、乾いた砂のように、ただ眠りつづけてきて<最後にはほんとうに眠る>。もうすぐだ。すでにの友も多くいる。
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