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ビストロ・パ・マルで近藤史恵さんを語る

はぶらし
トピック

KAKAPO
2016/04/17 07:57

 深夜12時過ぎ、鈴音の携帯に表示された見知らぬ番号の主は、高校の合唱部で3年一緒に過ごした水絵だった。水絵は子連れで、離婚してリストラに遭ったことを打ち明け、1週間だけ泊めて欲しいと泣きつく。鈴音は戸惑いながらも受け入れたのだが…

 物語は、鈴音の生活圏という狭い範囲で進み、主な登場人物は、鈴音と水絵、7歳の耕太に過ぎないのだが、その展開は『サクリファイス・シリーズ』のようなスピード感があり、ついつい文字を読み飛ばしてしまう程、先を急いでしまう。鈴音の応対がまるで自分のことのようにもどかしく心が揺さぶられる。

 物語自体は静かに進むのだが、鈴音の気持ちは、合理的な考えと善意の間で激しく揺れ動いていたのではないだろうか、小川仁志さんの『自分のアタマで「深く考える」技術』に≪決して自分と一致することのない他者の「顔」が、常に私を見つめていることではじめて、私は私になるのだ。≫と書いているが、鈴音は、決して自分と一致することのない他者の価値観に行動を翻弄されていたではないかと思うのである。

 改めて思うこと…もし、小説のカテゴリーに、「問いの小説」と「答え」の小説があるとしたら、近藤史恵さんの小説は、明らかに「問い」の小説だ。つまり、小説の中に近藤さんの「答え」はなく、読者への「問い」しかないのだ。殆どの小説は「問い」と「答え」の両方を持っているのかもしれないが、私は「問い」しかない小説に著者の優秀さを感じる。何が言いたいかというと、その「問い」の質こそが、著者の力量を示す指針だということだ。

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