『封印再度』は面白いと思ったのだが、それに続く『幻惑の死と使途』とこの『夏のレプリカ』は、あまり面白いと思えなかった。特に『夏のレプリカ』は、私が禁じ手だと思う「語り手が自分の行動を伏せている」ところが気に入らない。通常それは、記憶喪失とか、心神喪失によって正当化?されるのだか、杜萌の場合はどうなのだろう?物語の中の謎よりも、森博嗣さんが、このような手法を使ったことの方が私にとっては謎である。その謎を解くために次回作にも手を伸ばしてしまうのだ…最後に偶然に萌絵と素生が遭遇するのは次回以降の作品への布石か?
『幻惑の死と使途』と『夏のレプリカ』が、面白く感じられなかったのは、私のアタマが幻惑されていたから?それとも、レプリカだから?
イリュージョンを舞台に据えた『幻想の死と使途』に対し、『夏のレプリカ』は、舞台ではなく、杜萌という人物を中心に据えた物語なのだろうが、読者が杜萌というキャラクターの表向きと本質の違いや変化を上手く捉えられたか否かが、この作品の評価を左右するポイントだと思う。杜萌にチェスで敗れた時、萌絵は杜萌の本質あるいは変化を知るわけだが、物語の語り手を杜萌の叙述にしたことで、彼女の本質あるいは変化を行動の描写という形で描けなくなってしまったのではないだろうか? S&Mシリーズの中で私が最も無理を感じた作品。
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