佐藤優さん好きな人集まってください
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シリーズ 神学への船出 『神学部とは何か 非キリスト教徒にとっての神学入門』2009年 裏表紙に掲載された画像は牧者(教会の扉を叩いて自らの悩み、不安を相談する者とはとりあえず語りあい、内容は絶対に他人には漏らさない聖職)の雰囲気があるような気がします(09年に有罪確定、懲役2年6ヶ月、執行猶予4年)。同志社大学神学部の入試面接で、「ぼくは絶対にキリスト教に入信しません」というと、「見どころがある。他所で受かっても是非こちらに来てくれ」と言われた、とか、神学部に入学を決めたあと、母親がキリスト者であることを知った、とか、「512日間の拘留に屈しなかった(鈴木宗男に不利な証言を拒んだ)のは、神学議論の訓練があったから」とか。
恐ろしいのは、佐藤優の読書能力があっても「同志社大学神学部蔵書を読破するには三百年はかかる」「現代(実存的)神学のメルクマール、カール=バルトの主著『教会教義学』は日本語訳があり「マルクスの『資本論』と同じように、読み解くことがなかなか難しい。しかし読んでも絶対に損はしないと保証する。この本を全巻通読したかどうかで一生が変わってくると言っても過言ではないと私は思う。たとえば人間の生命に対する考え方、あるいは人生…人間の死後の命…自分のパートナーに対する考え方などが、この本と真剣に取り組んだかどうかで根源的に変わってくると思う。…全巻そろえると27万円ちょっと…たしかに高い。しかし、それくらい出しても惜しくないくらいバルトという神学者は面白いし、「役に立つ」。
他の本によると、バルトは世間的には不倫をしてそうです、カール=マルクスと同じく。
大下英治『田中角栄になりそこねた男』講談社2002
という鈴木宗男疑惑を追求した本に佐藤優も出てきます。(以下抜粋引用)
佐藤優は、ノンキャリアながら、産経新聞モスクワ支局長の斎藤勉にも評価されていた。
斎藤が佐藤と初めて会ったのは、昭和62年秋、佐藤が三等理事官としてモスクワの日本大使館に赴任して数ヶ月のことである。…
「十時五十分から十五分だけなら、OK。夜討ち先から次の夜討ち先までの移動時間なので、要件はすばやく」
斎藤は佐藤にいわれるままに、アルコールが入ったままで車を運転し、指定された場所に向かっ た。そこで、佐藤の車に同乗し、佐藤が次の夜討ち先に着くまでのきっかり十五分だけ取材した。だ が、そのような短い時間でも、佐藤は密度のある情報をくれた。
「たったいま、この人に会っていたんだけど、こういうことをいっていました」 斎藤がそれをそのまま記事にすることはなかったが、バックグラウンドを知るという意味では、参 考にすべき情報がかなりあった。
佐藤は、ほとんど家にも帰らず、モスクワに連れてきた夫人を置き去りにして、情報収集のために 動きまわっていた。 佐藤の話では、早朝、出勤前に、平均二人、夜もウオッカを手土産に夜更けまで 昼間仕込んだ住所を探し当てて、二人から四人と会っているという。ノンキャリアの佐藤には、接待費は出ず、ウオッカ代やカフェでの食事代はすべて自腹であった。当初は日本車を使っていたが、夜は日本車では目立ちすぎる。KGB(国家保安委員会)に怪しまないようにソ連車に替えていた。
「深夜、どんなに寒くても、車のなかで相手を待ってはいけません。ウオッカをそれとわかるように 手に持ち、家の前に立ちつづけるのです。その熱心さにほだされて、相手は『まあ、寒いから家に入 りなさいな』といってくれる。早朝は、車で相手を職場まで送っていきながら、車のなかで話を聞くんですよ」
佐藤は、新聞記者顔負けの「夜討ち・朝駆け」で、ソ連人脈を広げた。ロシア語で「ペンシオニェ ール・ソユーズナパ・ズナーチェーニヤ」と呼ばれる人たちがいる。直訳すると「連邦的意義をもつ年金生活者」という意味で、佐藤は政治犯扱いされ、不本意ながら失脚同然に追い込まれたその人たちに食い込むことを信条とし、得意ともしていた。…やがてその人物が表舞台に返り咲いたとき、友情と相互信頼は二倍にも三倍にもふれあがり、情報交換は格段とスムーズになる。そのことを、佐藤は知り尽くしていた。
佐藤の人脈は、表の世界、裏の世界にも広がっていた。ソ連の政界、経済界、学界、マスメディア、ロシア正教会だけでなく、KGB、そしてさらに、KGBを凌ぐ諜報機関であるGRU(ソ連軍=現ロシア軍参謀本部情報総局)の要員、ロシアマフィアの親分までいた。 斎藤が見たモスクワ大使館員で、このように情報を集める外交官はいなかった。
…
佐藤は、斎藤と親しくなっても、くだらない話一つしなかった。使命感のようなものを持っていて、何かに憑りつかれたような雰囲気があった。しかし、ときには、悔しそうに斎藤に洩らすこともあった。
「あいつに、おれの手条理さゆえの鬱憤が溜まっていた。
柄をとられてしまった」
せっかく集めた情報も、日本の外務省に公電を出す場合には、上司に上げて上司の判断で送る。その際に、その上司の手柄にされてしまうこともある。ノンキャリアの身である佐藤は、そのような不条理ゆえの鬱憤が溜まっていた。
…
佐藤の、組織に逆らっても、国益のために動く気骨、行動力は、並の外交官の比ではない。結果的に、のちに政治権力に目がくらんでしまったところはある。だが、斎藤には、だれも、佐藤をそう変えるまでの過程を追求していないように思える。
「鈴木宗男事件でさんざんマスコミに追われたから」とテレビに出なかった佐藤優が本年1月23日のNHK『クローズアップ現代』に出て、外交官時代のことなどを語りました。
https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic050.html
ロシアは1054年の〈教会分裂〉で権威主義的儀式重視の東側になって、思想的背景が西側ヨーロッパと違う、とか
ロシア共産党最高幹部には隠れた格闘技ファンが多くいて、アントニオ猪木の訪露を実現し彼の会見で通訳を務めたことが、ゴルバチョフ失脚クーデターの際、貴重な情報を得る人脈となったとか
なかなか興味深い。
外交官時代には陰の役割に徹して「写真を撮られないようにしていた」そうですが、右側手前の東郷和彦大使の所持していたという一枚。1994年から1995年頃のモスクワのレストランだと。佐藤優は「覚えがない」と。
1960年生まれの佐藤優が、2012年に(東日本大震災もあってか)「人生の残り時間が気になりはじめた…若い世代への伝言となる作品を優先して出すことにした。その第一作が本書…」という『同志社大学神学部』、2015年の新書版のAmazonの画像の腰巻きの写真は老けすぎているように思うのですが、頭のいい人はハゲるのも早いのか?
文春文庫から2011年6月刊行。写真掲載は腰巻きだが顔のインパクトが売行きにつながることが意識されはじめた頃か。とはいえ、この頃の顔はまだ(今と比べると)カワイイ気がする。
冷戦下の1975年、高校一年生の夏休みのほぼ全期間、ポーランド〜ハンガリー(ペンフレンドがいた)からルーマニアを通過してソ連(日ソ友好協会の紹介)を周遊。現地に日本語話者もいたが、それ以外は片言の英語でさまざまなトラブルにも対処。「ロシア語を学んで、大学生になったらアルバイトでもして自分のお金でこようと思った」何考えていたか覚えていない私の高一時代と、スケールが違い過ぎる。
最近「知の教室」(文春文庫)を読みました。蔵書の数がすごいですねえ。一ヶ月300冊の読書量、また今まで購入した本は概算で6千万円ですか?また数学の勉強もされていて受験のためのインターネット講座もやられていると聞いてビックリです。睡眠時間も1時間増やして4時間、見習わなければと思いますがまだまだですね。私もテレビは基本的には見ませんが。この本を読むとまだまだがんばらなければ、という気持を持たせてくれます。
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