「この前、あまりにも暇だったから本棚にあった英和辞典をパラパラと捲ってみたんだ」と僕は話を切り出した。
それはとても埃を被っていて、まるで何者からも忘れられた醜い老人のようなオーラを漂わせていた。僕は家に英和辞典があるということでさえ忘れてしまっていた。でも、それはさしておかしなことではないだろう。僕ももうそろそろ三十路を超える。普通に暮らしていれば、そうそう英和辞典を必要とする場面に出くわすことなどないのだ。
「いくら暇でも、専門の学者さんか受験生かよっぽどの物好きじゃない限り、英和辞典なんて読まないと思うわよ?」
そう言って彼女はコーヒーに口をつけた。コーヒーは彼女の身体の一部となった。
「専門の学者さんでも受験生でもない僕はたぶんよっぽどの物好きなんだろうな。それはともかく、そこには『There be動詞 ~』の文法の注意が書かれていたんだ」
「英和辞典だもの、それくらい書かれていないと私だって怒るわよ」
「もちろん」と僕は言った。それは中学生で習う範囲のようだっだ。それさえも載っていない英和辞典など、それはとても英和辞典とは言えないだろう。じゃあ、それのことを何というのか、僕は五秒程度考えてみた。が、何も思い浮かばなかった。もしも子供をつくる機会があったところで、僕は満足のいく名前をつけることができないだろう。困ったものだ。
「で、それがどうしたの?」
「『There be動詞 ~』は、不特定のものの存在を表すときにしか使えないらしいんだ。つまり、太郎とかスタバとかそういうものを表すことができないんだ」
「そうだったかしら。あまりにも昔に習ったことだもの、覚えてないわ」
「僕も忘れていた。本当に習ったのかも怪しい。あの英語教師なら教えてなくてもおかしくない」
僕は大変面倒くさそうに授業をする英語教師を海馬から呼び起こした。だが、顔までは思い出せなかった。それどころか性別も思い出せない。覚えているのは、黒板に記す独特な文字の羅列だけだった。
「そのあなたの言う先生のことは知らないけれど、あんまり無根拠に責めちゃ駄目よ。それに、もう随分昔の話じゃない」
「反論のハの字もないよ」
「で、あなたは結局何が言いたかったの?」
「不特定のものの存在、ってなんだか響きが素敵じゃないか?」
まるで北極海に住むずんぐりとしたシロクマみたいな。
まるで全人類の脳味噌をうまい具合にかき混ぜた結果みたいな。
まるで僕がよく行くあのバーのウォッカの香りみたいな。
まるで君が別れ際に言うさよならみたいな。
「ふうん。私にはよくわからないわ。やっぱりあなた、ちょっと変わってるわよ」
そう言って彼女は席を立った。
僕は後で爪を切ろうと思った。
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