後れ毛のほつれを直そうともせず無心に米をとぐ姿。大身たるご身分であったお内儀は、その凋落を静かに受け入れて、市井を生きている。玄人も素人も女という女を知り尽くしている退助でも、高嶺の花の、このお人には手の出しようもなかった。こみあげる慕情やそれ以上にあふれる劣情をどうにか体の奥に押し込んで、退助は「奥さま」と声をかけた。「あら、退助さん。」「切り身が売れ残ったんでお持ちしました。」「・・ただでは頂けないわ」「そうおっしゃると思ったんでお代はしっかりちょうだいしやす」と退助が告げた値は、仕入れ値にもならなかった。「では、育ちざかりの鈴の介にありがたく購います。」と笑った顔は、黄昏時だというのに朝日のような輝きを放ち、退助は目をそむけずにはいられなかった。
-なぜだ。なぜあんな業火で焼かれるようなお苦しみにあいなさりながら、この人は少女の頃から変わらねえんだ。ー 退助の父親はこの人の家の足軽であった。身分差から、常に平伏し、ろくに姿を見ることはできなかったが、この姫君は、主従の隔てなくだれに対してもその声色を変えたことがなかった。
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