「深海の生物ってね」
深夜0時過ぎ。
青白い寒色系でまとめられたBarの一室。
いつものお店でいつもの人と。
「深海の生物って不思議なのよ。深海ってグロテスクな生き物が有名だけど深度が浅いところにいる生き物と同じ見た目の生物もいるの。でも中の構造が違うのよ」
昇進とは名ばかりの雑用係の中間管理職。
恋人との不仲。
ストレスの逃げ道を求め入った夜のお店で出会った彼女。
年齢は自分よりはるかに若く、容姿も控えめであるにも関わらず、時折見せる大人びた言動に惹かれた。
夜の商売で培った知識と教養、ユーモアのセンスは、ひと時日々の疲れを忘れさせてくれる。
「浅瀬の生物より脂肪が多いんだって。深海のメスはその事実をどう思ってるのかしら。私が深海で生活していたら年中ダイエット!怖いわ」
そういいながらそっとグラスに唇を寄せる彼女を覗き見る。
適当に相槌を打ちながら茶々を入れ、ふたりで小さく笑い合う。
「でもね、私思うの。夜のお仕事って深海みたいだなって。人の成りをした歪な生き物。少なくとも日の当たる時間に生活をしている人たちから見たら。」
付き合っている彼女に別れを告げ、それを横で微笑む彼女に伝えたのが数日前。
店を離れ外で会うようになってからひと月が経とうとしていた。
「私はこのお仕事好きよ。ううん、この世界にしかもう生きられなくなっているのかな。さっきまで深海では生きられないとか言ってたのにね」
笑いながらもどこかぎこちなく髪をかきあげる。
深海の話をしていたせいなのだろうか、いつの間にか店内がさっきよりも薄暗い。
「お日様の当たるところから私たちを見て、珍しがってくれるのはいいの。そして時たま遊んでくれると嬉しいわ。でも私たちは相いれない。一緒には暮らせない。いつか日の光が恋しくなるもの」
どんなに鈍くても話の流れがよくないことはわかる。
喉の渇きに手に取ったグラスにはもう丸く成形された氷の塊しかない。
空気を含まない氷はいつまでも溶けず一滴の水さえも喉に流れてこない。
「あなたはいい人よ。優しくてお話しすると楽しい人。でもそれだけ。私たちはそもそも体の作りが違うの。いい悪いじゃなく、どうしようもない話として。」
どうしてこんな話になってしまったのだろう。
必死に頭を回転させるけれど言葉が浮かんでこない。
「アンダーグラウンドに日は射さないの。ごめんね。外で会うのは今日で最後。楽しかったわ」
きっとずっと考えていたであろうことを言い終えた彼女はどこかすっきりした表情をしている。
対して今の自分はどんな顔をしているのだろうか。
椅子が引かれる音がした。彼女の白く細い腕が視界に移る。数枚の紙幣とヒールの音。
いつまでも氷は溶けず、夜はまだ明けない。
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