ポチさん、こんばんは♪返信が遅くなってしまい申し訳ありません_(._.)_コメントありがとうございます♪ポチさんの章ごとに感想を書くの、いいなぁと思いました(*^^*)この本は、一章一章じっくり読みたくなりますね。次回はポチさん方式で感想を書きたいと思います(^-^)/
2018/07/05表面的な読み方をしてしまったため、読み直しました(笑)。生きることのかなしみや不安といのちの営みの奥深さを、生きる慈味として受け止める14名の先人の思想を紹介しています。深いかなしみや苦しみに沈む人のための本のように少し感じました。死者の訪れと魂の交流といった体験は、非科学的なだけに万人に説得力をもって語ることは難しいと思います。しかし、そうしたことを自分の感覚が確かに捉えたのであれば、↓
あくまでも他者の存在の大きさと現実の死との折り合いをつけるため、亡き他者と共同体との関係性の再構築のために必要な「喪」の期間だったのだろうと、これまた勝手に思っています。個人が生きている間は組織のコマとして、死んだら組織から外され代替用員があてがわれ、故人の存在が程なく忘れ去られるような現代の企業という共同体の在り方と比べると、やはり違いが見えてくるかな、と思いました。どちらが良いということは共同体に何を求めるかによって違うでしょうが、少なくとも血の通った人間と仕事をしていることを忘れないでいたい、と…。
ざっくり読みです。孔子の服喪に対する考え方と、堀辰雄やリルケの死者に対する考え方に、色々と考えさせられました。孔子の時代は、共同体の単位が人々の生活に非常に重要な時代。対して、堀辰雄の時代は個人主義を謳歌する時代で、他者の死を悼む行為も共同体単位というより個人に託され、個人の内面の問題となっていったのかと勝手に思いました。後者の方が高い精神性があるように一見思われてしまうかも知れないが、多分それは一面的な見方なのでしょう。共同体が人の生活に深く根付いている状況を(少なくとも私は)想像するしかないですが、↓
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