虚空に向かって猫が啼く
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Xでとある自殺者の話題に触れ、それが呼び水のようになって気になっていた春日武彦『自殺帳』を読む決心をした。おれは「生きていればいいこともある」という言葉を嫌うが(「好きではない」ではない。「嫌う」のだ)、それでもおれの人生を振り返ってみればたしかに他人との出会いもあり、発達障害者だということもわかり、ロスジェネながらグループホームにもたどり着いて「いいこと」はあった。おれの人生はその意味では数々の僥倖・まぐれの産物だ。そこから引き出せる教訓はなんだろうかと考えさせられる。結局は「生きていれば」となるのか?
Discordでぼくの日記への率直な異論を読み、「発達障害」について考える。ぼくは発達障害者だが、それはぼくの脳の特性を指し示す言葉としてあらわれる。でもこの特性があるからといって「だからこう生きなくてはならない」とはならない(女性だからといって「だからピンク色のものをまとわないといけない」とはならないのと同じだ)。でも、Xなどでしばしば「発達障害なのだから」と「発達障害」が堅牢・頑迷なイデオロギーになってしまっている人を目にすると実に不幸な誤解が生じているとも思う(いや、ぼくだって同じ穴のムジナだけど)
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