⇒酔びとよかなしき聲に何うたふ酔ふべき身をば歎けとうたふ/しめやかに降りつもりたる雪となりて君が心は一夜(ひとよ)のこりぬ/かにかくに祇園は恋し寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる/島原の角屋(すみや)の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵/はかな言(ごと)云ふ舞姫の手にありて蛍の光いよよ青しも/つつましく障子に貼れば月魄(つきしろ)のほのけさを持つ紙あかりかな
⇒情熱の歌人とうたわれた人だが、意外にも遊びに行った先の家にも上がれぬほど内気だったとか。そのせいで級友たちにからかわれ、ゆすりを受けもし、かと思えば、みんなに嘘の生い立ちを話す大胆な面もある(この話、あちこち嘘の皮がはがれていて吹き出してしまう)。後半は思い出の中の少女たちについてと、故郷を思う歌百首。彼女が好印象を持った少女たちは、平塚らいてうのように旧弊な社会と戦うタイプではなく慎ましい野の花の風情だが、荒き風にも折れない強さを秘めていると思われる。
⇒誰もいなくなった野原の寂寞は、マザーグース『誰がコマドリ殺したの?』のラスト、空に消えてゆく鳥たちのため息まじりのすすり泣きに通じるものがある。ドイツというお国柄か口承に特有の猥雑さ、ナンセンス、毒気は少なく、ちょっとひねったり理屈っぽかったりのオチがつくのはショートストーリーを読むようで楽しい。しかし、やはり民間から採集された初版グリム童話の残酷な描写から考えて、編纂時点での取捨選択とブラッシュアップもありえそうだ。
⇒なんて美しく、喜びの予感に満ちた物語の始まりだろう。もとより透明である風を清め、さらに透き通らせたのは正徧知(すべてを正しく知る者の意)の存在だと思う。おきなぐさも、土神も、雁の童子も、虔十も、おのずから善きものへと歩む──仏となる種があり、歩む道はそれぞれ違っても究極には同じところに至ると彼ら自身が身をもって語っている。ただそれは、無心に眠る幼子を見守る両親が語るように、愛する者への「何だかちょっとかなしいやう」な思いの果てにある光なのだ。
⇒あまりに深い真理なので常人には受け入れきれず、かえって悟りの妨げになるからだそう。真理は言葉で説明して、頭で理解するのものではないということだろうか。女人往生を説く『提婆達多品』は、八歳の少女が悟りに達したのが信じられない智積菩薩とシャーリプトラに、少女がはきはきと答えるのがかわいらしい。法華経は女性でも救われると説くが、このやりとりのように菩薩であっても女性への偏見(蔑み)を見せる。自らの煩悩以外にも女性が戦う対象は多そうだ。
⇒人形の服をミシンで縫おうとして糸がくちゃくちゃになっちゃった(あるある)『失敗』に笑い、夜に赤い電燈が照らす病院へ入ってゆく女性と体が半分透けた狐を男の子が目撃する『赤い電燈』は、子供の心に潜む薄闇の部分を感じてヒヤリとした。画家が描く子供の世界が美しく無邪気なだけだったら、きっと絵の中まで入ってはゆけなかった。明るい昼、暗い夜、そのふたつのあわいの世界も描かれてはじめて鑑賞者はそこに「あの日の私」を見つけることができるのだ。
⇒カステーラのような明るさは、こうしたささやかなものから生まれてくるのだろう。最後の我が子への文章は、ずしんと胸に響く。血縁のしがらみに縛られず、親の犠牲にならず、一人で人生を歩めと。男が女に、女が男に性別が変えられるなら変えてもよい、それが可能な世になったら私は嬉しい、と。現代でも親の立場でなかなか言えないことを戦前に言っている人がいたなんて!
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⇒カステーラのような明るさは、こうしたささやかなものから生まれてくるのだろう。最後の我が子への文章は、ずしんと胸に響く。血縁のしがらみに縛られず、親の犠牲にならず、一人で人生を歩めと。男が女に、女が男に性別が変えられるなら変えてもよい、それが可能な世になったら私は嬉しい、と。現代でも親の立場でなかなか言えないことを戦前に言っている人がいたなんて!